エピローグ
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「真宮……」
冷たい横顔からは、なんの返事も返ってこない。
獅堂は諦め、溜息をついて立ち上がった。
多分、一生忘れられない莫迦騒ぎの生贄になった翌日。
脳波も何も異常がなく、そのまま帰途についた獅堂は、楓のマンションに直行した。
退院したら来い――と言われたから、そのまま素直に来てみたものの、さて、どうしよう、という感じだ。
楓は、疲れきっているのか、今日一日、カーテンも開けずに寝ていたらしい。
そして、獅堂を見ても、ああ、と言ったきり、ぐったりとソファに背を預けてしまった。
まぁ、楓が怒るのも無理はない。
病室には、元オデッセイのメンバーが殆んど勢ぞろいしてて、挙句、トシちゃんや後藤田さんや、吉村さん。そんな人たちまでもいたのだから。
桐谷の司会というのが、これまたすごいものだった。無残――その一言がぴったりくる。
あのー、自分、一応、飛行機から落ちて死にかけたんすけど。
何度、その現実を告げようとしたか判らない。
結局、怒りのトップモードに入った看護士のストップが入って助かったものの、その看護士たちにさえ、「えーっ、男の人ですか、うわーっ綺麗ですねぇ、写真、いいですか」
と、言われてしまった楓の気持ちはいかばかりのものだったろう。
いや、実のところ、楓は本当に綺麗だった。獅堂は、真面目に感激してしまったのだ。
きっと、ウェディングドレスを着た恋人を見た男って、こんな感動を味わうのに違いない。
「そ、それにしても、びっくりしたなー、ほら、北條、うちの隊員だけどさ」
窓を開けながら獅堂は言った。
今日は平日だが――楓は、わざわざ仕事を休んでくれたのかな、とその時になって気がついた。
「まさか、宇多田さんの弟だったとは、夢にも思ってなかったよ。どうりで最初のころ、自分にみょーに絡んでくると思ったんだ」
そう、昨夜初めて聞かされたのだが、北條累は、宇多田の異父弟だったのだ。
「吃驚したでしょ、このでかいのが私の弟。まさか、獅堂さんと同じところに配属されてたなんて、つい最近まで知らなかったけどね」
宇多田はぺろっと舌を出してそう言った。
事情があって、住所も名前も違うようだが、姉弟仲はいいらしく――というより、北條は、……シスコン?と疑いたくなるほど、宇多田の尻に敷かれっぱなしのようなのだ。
「きっとあれだな、宇多田さんのことで……自分を、恨んでいたのかもしれないな」
獅堂が続けてそう言うと。
「ふぅん……それにしては、俺のこと、ずっと睨んでたけどな、あのガキ」
楓がようやく、うんとか、ああとか以外の言葉を発してくれた。
「それは……お前が、きれ」
「それ以上言うな」
じろっと睨んで、楓はすっくと立ち上がった。よかった、意外に元気そうだ。獅堂はようやくほっとする。
夕方の陽射しが、部屋の中に差し込んでいる。薄赤く染まった楓の横顔は綺麗だった。
「睨まれても、どうしようもない。あんな格好で、ただ座ってた俺の気持ちが判ってたまるか」
「……まぁ、災難、だったとしか」
「もういいよ」
そのまま隣室へ――寝室に使っている部屋に消えていく。
戻ってきた楓は、大きな紙袋を抱えていた。
「天音がくれた、慰謝料代わりだってさ」
テーブルの上にばさっと置く。その中に、白いレースが溢れかえっている。
「見るだけで吐き気がするけど、……お前にっていうから」
「…………」
宇多田さんが……。
自分に。
獅堂は、レースの断片を手にとってみた。どうせ着ても似合わないし、……式だってあげないだろうけど。
なんだか……嬉しくなってくる。
一応最大のライバル(女では)だった宇多田に、認めてもらえたんだな、という気持ちで、心が温かくなってくる。
「……着る?」
それを見ていた楓が、ふいに言った。
「え……着るって」
「今、着てみろよ、見てやるからさ」
「…………えっ」
「なんで、真面目に動揺してんだよ。男の俺が着たっていうのに」
あきれたような声が返ってくる。
でも―――。
だって―――。
レースを掴み、獅堂はおそるおそる顔を上げた。
「あんな……綺麗なのを見た後じゃ」
「それ以上言うな、とっとと着替えて来い!莫迦!」
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二
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絶対に見劣りするに決まってる。
溢れかえる白のふわふわと格闘しながら、獅堂は隣室の楓に声をかけた。
「おい、これ――どうやって着るんだよ」
「知るか、俺に聞くな」
一回、着たくせに――。
「結構きついんだけど……」
「ふぅん、俺より太ってたのか、お前」
「…………」
袋の中を探ると、なんだか他にもいろいろ出てくる。
「わっ、こ、こんなものまでつけてたのか、真宮」
「なんだよ……こんなものって」
「ガーターベルトって書いてあるけど」
「つけるかっ、そんなもん!!」
なんだかんだ、壁越しに言い合いながら、かろうじてドレスを身につけた。
うわっ。
鏡に映る自分を見て、獅堂はさすがに赤面した。
―――似合ってない、というより、完璧に真宮に負けてる。
それに、こんなに胸元の開いた服を初めて着た。まぁ、胸だけは勝った。―――当たり前の話だが。
背中が寒い。なんだか、肩がむずむずする。
「ふぅん、サイズは同じなんだな」
気がつくと、楓が背後に立っていた。
鏡越しにその姿を見て、獅堂は驚いて……言葉を失っていた。
きちんと、黒のスーツを身につけている。白いシャツに、淡い色味のタイ。正装した楓は、昨日の楓より綺麗だった。惚れ惚れするほど、かっこよかった。
「……真宮、お前」
茫然としてそう言うと、楓は軽く咳払いして、顔を背けた。
「昨日の夜を、一生の思い出になんかして欲しくないからな」
「…………」
「おいで」
横顔は不機嫌そうなのに、声だけはすごく優しい。
かがみこんだ楓が、つけ方が判らないままに投げてあるベールを拾い上げてくれる。
それを頭に被せられて、額に軽くキスされた。
うわ、
なんだろう。この感じ。
すごい……ドキドキする。
「昨日、それを着なくて正解だったな」
見下ろした楓の眼が笑っている。
「……どうせ、似合ってないんだろ」
ちょっと膨れてそういい返すと、男は失笑を誤魔化すように横を向いた。
「あんな写真を色んな奴らに見られたからな」
「え……?」
そのまま、すっと抱き上げられる。
楓は、痩せているのに、こういうことが軽々と出来る奴なのだ。
いつもそうだが、抱き上げられると、すごく――心もとないというか、自分が女なんだな、と実感してしまう。
抱き上げられて、合わさった目線。楓は少し笑って、頬に唇を寄せてから言った。
「今日の獅堂さんは、俺だけのものにしたいんだよ」
「…………」
頬に、額に、唇に、何度も優しく唇が触れる。
「……ホントに、結婚……するのか」
「もうしたんだよ、昨日言ったろ」
「本当に……自分で、いいのか」
こん、と額が合わせられた。
「愛してるよ、奥さん」
「…………」
あれ――?
なんだろう。
眼がおかしい。
楓の顔が――よく見えない。
「へ、へんだな、自分……こんな」
眼をこする。涙は――ぽろぽろぽろぽろ、後から後から零れて落ちる。
「こんな、ことで、」
簡単に、泣くような――。
ふわりと、ベッドに下ろされて、包まれるように抱き締められる。
「藍……」
声が愛しい。
抱いてくれる腕が――優しい。
悔しいけど、もう涙がとまってくれない。
「真宮……」
「もう、真宮なんて、呼ぶな」
「……うん…………」
一人じゃないんだな。
今まで、自分が一人だと――そんな風に思っていたわけじゃないけれど、こんな腕を、こんな暖かさを知った後では、今まで一人でいられたことが信じられない。
「これ……」
獅堂は涙を拭い、自分の首にかけていたペンダントを外した。
「……これは、自分の……魂みたいなものだ……何もあげられないけど、お前に、持ってて欲しい」
「そんな因縁つきのものをもらってもな」
憎まれ口を言いながらも、楓は素直にそれを首にかけてくれた。
「俺は、何もあげるものないよ」
「知ってるよ」
獅堂は笑った。
今まで、楓が何かをくれたことは一度もない。そんな真似をする人じゃないと、知っている。
「でも、俺の全部は、もうお前のものだから」
「…………」
「残りの人生をくれてやる。大したことは出来そうもないけどな」
「楓……」
獅堂は、楓の首に手をまわして、抱き締めた。
ありがとう……。
ありがとう。
それだけしか言えなかった。
胸が一杯になって、もう――言葉が何もでてこない。
額を合わせ、キスを交わす。離れては角度を変えて、何度もキスを繰り返す。
「藍、」
その度に、楓は名前を呼んでくれる。
「……そんなに、呼ばれるのって、恥ずかしい」
「今日だけだよ」
窓辺に立つ。楓が好きな場所、輝く夕陽の薄紅色。
言葉はなくても――無言で手を取り合う二人は、すでに、共に生きていくことを誓っていた。
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三
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「なんだよ、俺に相談って」
蓮見黎人は、けげん気な顔を上げた。
退庁時刻ぎりぎりになって、いきなり警視庁警護課にやってきたジーンズ姿の大学生は、昨日、松島で別れたばかりの男だ。
そのまま、近くの喫茶店に場所を変えたものの、真宮嵐は、彼らしからぬ難しい顔をしたまま、黙りこくっていた。
「……昨日は、楽しかったですね」
ようやく口を開いたと思ったら、出てきた言葉はそれだった。
「は、……まぁな、お前の兄貴は、死にそうな面してたけど」
所在無く、蓮見は取り出した煙草に火をつけた。
「楓には、あれくらいのジョークが理解できた方がいいんです。根暗な男だから」
「で、なんの話だよ」
そんなことを言うために、わざわざ――嵐が、自分を訪ねて来てくれるはずがない。
「結婚されるんですね、……僕は、婚約されてたなんて知らなかったから、吃驚したんですけど」
嵐は、逡巡した風を見せながら言葉を繋ぐ。
まだ本題に入らねぇのか――と思いつつ、蓮見は、煙草の煙を吸い込んだ。
「ああ……まぁな、これも成り行きってやつだよ」
「成り行きですか」
ばっと嵐が顔を上げる。
「……?」
「あ、……いえ、……すいま、せん」
なんだ?こいつのリアクションは。
「あ……あのう……失礼なことを、聞くようですけど」
「……なんだよ、苛々する奴だな、俺だって暇じゃないんだ、さっさと言えよ」
自分の口調が冷たくなっているのを感じながら、蓮見は言った。
いつからだろう。オデッセイの面々と、一線を引くようになったのは。
右京と別れてからだろう。もう――あの女の思い出に繋がるものとは、一切縁を切ってしまいたかったのだ。
昨日も、出席するつもりなど全くなかった。
鷹宮に――会って、話をしたのがいけなかったのかな、とふと思う。
あの穏やかな話口につられるままに、なんとはなしに、右京と別れたいきさつを漏らしてしまった。昨日もそうだ。気が乗らなかった自分の代わりに、小雪を通じて、来るように誘ってくれたのも鷹宮だ。
「……も、もうですね。その……婚姻届は書かれたんですか?」
「…………はぁ?」
思い切ったように口を開いた嵐から出てきたのは、予想もしていなかった言葉だった。
「……それ、なんの意向調査だよ」
「か、書かれましたよね。結婚されるんなら」
おどおどと、嵐は言葉を繋いでいく。
「書くわけないだろ、あのなー、結婚は来年なんだ、普通は式の前後くらいに書くもんだろ」
「そ……そうですよね、やっぱ」
「…………?」
意味不明だ。
「嵐、お前、兄貴が結婚して、頭がぶっとんだんじゃないのか」
蓮見は立ち上がろうとした。
「じゃあな、悪いが、もうすぐ会議が入ってるんだよ」
「今まで、書かれたことはないですか」
伝票を掴む手を、思わず止めかけていた。
座ったままの嵐を見下ろす。真剣な目が――じっと蓮見を見上げている。
ああ、そうか。と思った。鷹宮に何か聞いたのだ。
「それがなんだよ、お前に何か関係あるのか」
素っ気無く言って伝票を掴んだ。
「書いたんですね、それは、……誰に渡したんですか」
「あのなぁ……」
ぶん殴ってやろうか。
人の――忘れようとしていた古傷に。
「もしかして、右京さんに渡したんじゃないですか」
限界に近い怒りを噛み殺し、蓮見は振り返らないままで、言った。
「知ってんなら聞くなよ、鷹宮に何を聞いたか知らないけどな、もう昔のことだよ」
「鷹宮さん……?いえ、僕は……」
何か呟く嵐を無視して、蓮見はさっさと会計の方に歩み寄った。
背後から――嵐が慌ててついてくる気配がする。
「婚姻届まで用意したのに、どうして右京さんと別れたんですか」
「…………」
「あの……右京さん、今……どうされてるんですか、……ご病気って、一体」
「そんなこと、俺が知るか」
店を出た直後だった。
我慢も限界に達していた。蓮見は、自分よりやや上背のある男の襟首を掴み上げた。
「いいか、教えてやるよ、右京は結婚したんだ。あっちで知り合った科学者だとよ。わざわざ婚姻証明まで送りつけてきやがった。あれ以来、俺はあいつのことは何も知らないし、聞きたくもない」
「…………結婚、ですか、……でも」
嵐は、腑に落ちない、と言った顔をしている。
「あの人も……書いてるのに」
「なんの話だよ」
言い捨てて、蓮見は、嵐を突き放した。
「悪いが、右京の話なら、まっぴらごめんだ。俺は何も知らない。聞きたいなら他あたってくれ」
夕陽が眩しかった。
蓮見は目をすがめながら、警視庁のある方角に向かって歩き出した。
「は……蓮見さん、今さら、こんなこと言って、混乱させるだけかもしれないですけど」
嵐が、まだしつこく追ってくる。
「右京さんの……記憶がですね、あの……僕の記憶が……記憶というか、推測が正しければ」
わけがわからない。
蓮見はそれを無視して歩幅を大きくした。
「えーと、……どう言えばいいのかな、つまり僕は……見たんです。最初、それが何か判らなかった。用紙の隣に記された字が、誰の名前だか判らなかった」
「…………」
なんの話だ?
「でも、夕べ」
「…………」
「蓮見さんと再会して、声聞いて……全部、クリアになりました。あれは蓮見さんの声だった、名前は、蓮見黎人と書かれていた」
「嵐、いい加減にしないと」
振り返る。嵐の眼は、夕陽を受けて燃える様に輝いていた。
「あなたは、こう言ったんじゃないですか。ふざけるな、そんなことで、俺が納得できるとでも思ってるのか」
「…………」
「お前が戻れないなら、俺が行く、そんなこと、電話で話すようなことじゃないだろ」
「…………嵐、」
「記憶力がいいのって、へんな時に役に立ちますよね」
蓮見は動けなかった。意味が――分からない。一体、嵐は何を――。
「……僕の推測が正しければ、僕は時々、右京さんの意識と同調しているようなんです。……僕は知りたい、一体今……右京さんは、どうなっているんですか」
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・
四
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「私は、……すでに、任務不適格者だと思いますが」
鷹宮は静かな口調で言った。
対面のデスク、本革張りのソファに座る男は、そんな鷹宮を見上げ、苦い笑みを唇に浮かべた。
「確かにそうだな、獅堂をコントロールできなかった、それは君の失策だ」
数ヶ月前の防衛庁の内乱を影で演出し、実質防衛庁トップに踊り出た男は、そう言って立ち上がる。
「ただ、君が真に役に立つのはこれからだ。鷹宮君、このまま、今までの任務を続行して欲しい」
「…………獅堂一尉から」
鷹宮は眼をすがめながら言葉を繋いだ。
「拳銃の返却願いが出ています、どう致しましょうか」
「三回目か、あの女もしつこいな」
上着を羽織り、渋面を上げた男は、吐いて棄てるような口調で言った。
「却下だ、方面隊長を通じてそう知らせろ」
「了解しました」
「……今に、それが必要な時がくる」
「…………」
「それも近い将来だ、まぁ、せいぜい、短い間の新婚生活を楽しむ事だな」
扉が閉まる、遠ざかる足音を聞きながら、鷹宮は、嘆息して額を押さえた。
(―――大丈夫です)
そう言って笑顔になった獅堂の面影がはかなくよぎる。
―――何も……本当のことを何も知らないあの人の笑顔を、私は守ることが出来るのだろうか。
救いは――あるのか。
希望は――あるのか。
今はただ、信じていたい。獅堂の――強さを、その輝きが、この先なお増す事を。
絶望的な未来を、凌駕してしまえるほどに。