まったく……。
 鷹宮は、何度かめの嘆息を漏らして顔を上げた。
 自分でも、なにがこんなに腹立たしいのか判らない。
―――椎名さんは、鈍すぎる。あれじゃ、あの子が可哀相だ。
 読みかけの本にも集中できず、鷹宮は文庫本をテーブルに伏せて立ちあがった。
 夕食の味付けが濃かったせいだろうか。喉の渇きを覚え、立ったついでに寮の階下にある喫茶スペースまで足を伸ばすことにした。
 時計は九時を回っている。こんな時間だから、当然喫茶室は閉まっている。この寮内では、自動販売機の缶コーヒーくらいしか買えないだろう。
―――獅堂さんか、可愛い子だな。
 薄暗い階段を降りながら、鷹宮は口元に微笑を浮かべていた。
 まぁ、自分の好みとは程遠いが。
 椎名と見た空を宝物だと言った。その感じ方がなんだか愛しい。
 いかにも気が強そうなのに、どこか頼りなさげな表情で――とにかく目が印象的だ。闇よりも黒く、なのに太陽のように輝いている。
「…………」
 そして――鷹宮は思い出していた。
 昨日、機体から降りた獅堂と眼があった瞬間――何故か目が離せず、その場に立ちすくんでしまっていたことを。
(―――天使……?)
 駆け足でラダーを降りてくる女。風に踊る髪に、その背中に。
 まるで、透明な翼が見えたような気がした。
 すぐにそれは、機体の翼がみせた錯覚だと気づいたものの、それでも、まだあの刹那のイメージが、脳裏に強く焼きついている。
―――参ったな、私としたことが………。
 昨日から、ふと気がつけば、あの時見た天使のことばかり考えてしまっている。
 苦笑して、そのイメージを振り払った。
 そもそも女性は好きじゃない、既婚者ならともかく――独身で、しかも男を知らない女は鷹宮の対象外だ。
「すいません、あなた、こちらに泊まっておられる教官の方………?」
 自動販売機の前に立ち止まった時、ふいに背後から声をかけられた。
「そうですが」
 聞きなれない声に振り返ると、白い前掛けをつけた中年の女性が、少し表情を硬くして立っている。
「ここは、飲酒禁止なんですよ。学生さんたちも若いから、多少は大目にみてましたけど。今夜みたいに騒がれちゃ…」
「ああ……はい」
 意味はよくわからなかったが、とりあえず相槌を打っておいた。訓練生が、この喫茶スペースで宴会でもやっていたのかもしれない。
 今夜は教官の殆どが非番で――こういう日は、そんなこともある。かつてここで訓練生時代を過ごした鷹宮にも経験がある。
「若いきれいな学生さんが一人、酔いつぶれてらしたけど……、大丈夫でしたかねぇ。ここで、救急車なんて呼ばれちゃ、私にも責任ってもんがありますから」
「はいはい、気をつけます」
「……あなた、本当に教官の方?」
 鷹宮の適当な受け答えに疑念を抱いたのか、前掛け姿の女が、けげん気な顔になる。
「ご心配なく、ちゃんと言い聞かせておきますから」
 そこまで言って、そして気がついた。
「…………」
 若い、きれいな学生。
 鷹宮の眼から見て(すでに全員にチェックを入れていた)、今年の学生で、きれい――と表現できるのは、獅堂と名波くらいしかいない。
「すいません、その――酔いつぶれていたという学生は、どんな」
「この寮の方じゃないようでしたよ。でも、学生さんと同じ服を着てらしたし、何だか女の子みたいな顔した……あれは未成年さんじゃなかったですかねぇ、一人で無理に飲まされてたようでしたけど」
「で、その学生たちは、今どこに」
「さっき外に出て行かれましたよ。酔い覚ましだって」
「……………」
 嫌な予感がした。昼間聞いたばかりの椎名の言葉。
―――しまったな。
 鷹宮は駆け出していた。
 急がないと――手遅れになるかもしれない。


                  ※
 

 倉庫からもれる微かな光――鷹宮は走りながら、安堵の息をつく。
 正直、この勘が外れたらお手上げだった。
 あがった息を押さえながら、鉄扉に手をかけ、思いきり引いた。鍵は掛かっていないのか、扉はすぐに軋んだ音をたてて開いた。
「あっ」
 そんな声と共に、何人かの、息を飲む気配がする。
 ほの暗い倉庫内。幾種類かの展示用の戦闘機の影に――五、六人の蠢く人影。
 その中央で、仰向けに倒れている人の姿、白い半身。
 鷹宮は眼がくらむような思いがした。
「何をやってるんだ、貴様ら!」
 厳しい声で一喝しておいて、立ちすくむ影を押しのける。
 そして最後に――倒れている女、獅堂の傍から、蒼ざめた表情で立ち上がる長身の男――名波暁を一瞥した。
「べ、別に、これは……ふざけてただけで」
 へどもどと言い訳する名波の傍を素通りし、鷹宮は獅堂の傍に膝をついた。
 シャツをはだけられ、痩せた上半身が露になっている。顔色は悪くない。というよりは健康そのもの。ほんのりと頬を上気させ、すやすやと寝入っているらしい。
…………色気も何もあったもんじゃないな、この体型。
 と、とりあえず、くだらないことを考えながら、鷹宮はほっとしていた。
 シャツのボタンが外されているだけで、――見たところ、それ以上何かされたような形跡はない。
 まぁ、この胸じゃ、みんながっかりしただろうな。
 と、そんなことまで思いながら、シャツのボタンを元通りにつけてやった。
 気をつけても、指先が柔らかな膨らみに触れる。いくら幼児体型相手とはいえ、さすがに目のやり場をなくしたが、獅堂は完全に泥酔しているのか、ぴくりとも動かなかった。
 多分、何も記憶してはいないだろう。それが鷹宮を安堵させた。
 未遂とはいえ、こんな状況に自分が陥ったと知ったら――今後、精神的なダメージが残るかもしれないからだ。
―――鈍い人だなぁ……。
 そのすこやかな寝顔が微笑ましい。
 鷹宮は、そのままの姿勢で顔を上げ、その場に立ち尽くす人影を眺めた。どの顔も、おそらく蒼白になっている。
 それはそうだ、この段階で不適正として学生免除――エリミネートされてしまえば、何十倍もの難関をくぐってここまで生延びてきた努力が、全て水泡に帰してしまう。
「心配しなくても、私にあなた方をどうこうできる権限はありませんよ」
 鷹宮は冷たく言った。
 やった手段は許せないが、かつて同じ方法で同輩をものにした経験がある鷹宮には、そういう意味でも何も言えない(だから、この場所がすぐに特定できた)。
「もういい、行きなさい。名乗らなくてもいい、君たちの顔と名前は全て記憶していますから」
 これも、鷹宮の得意技だ。まぁ、こんな状況で役立てるつもりはなかったのだが。
 うなだれたまま、ばらばらと人が去っていく。
―――獅堂さん………。
 鷹宮は、抱いた女の顔を見おろした。
 そっと、乱れた髪を指ですいてやる。
 閉じられた瞼――長い睫。
 ふいに愛しさがこみ上げてきて――ゆっくりと肩の下に腕を差し入れ、大切なものを扱うように抱き上げて、立ち上がった。
 白い、滑らかな喉の隆起。若いな…と、眩しくなる。でも、眩しいのはきっと若さのせいだけではない。
「………あ、れ……?」
 その長い睫が、ようやく何度かまたたきを繰り返した。
「鷹宮…さん……?」
 かすれ声が、その淡い唇から漏れる。
「飲酒は禁止ですよ、それを忘れましたか」
 鷹宮は優しい声で言った。
 実際、不思議なくらい優しい気持ちになれていた。
「……すいません…………名波さんに、」
「無理に飲まされましたか」
 女は、少し頼りなく首を左右に振る。
「……違います、……飲みくらべで、自分に勝てたら……もう、椎名さんのことは……諦めるっていうから、」
「…………………は?」
「勝負しました。缶ビールの一気飲み」
「………………」
 さすがに呆れて、一時言葉をなくしていた。
 大学上がりの遊びなれた男に、未成年の獅堂が――本気で勝てると思ったのだろうか。無防備にもほどがある。なんて考えなしの莫迦なことを。
「自分は、…………勝ったんでしょうか」
「…………」
 叱るべきか、本当のことを話して忠告してやるべきか。
 けれど、鷹宮の口をついてでたのは、自分でも予想できないほど優しいものになっていた。
「勝ちましたよ」
「そうですか」
 うれしそうに、再び目を閉じてしまう女。
「………すいません、規則、違反のこと……でした……迷惑……」
 そして、まだ意識が朦朧としているのか、意味の通らないことを言う。
「もう大丈夫ですよ」
 鷹宮は笑って囁いた。
「お休みなさい、部屋まで連れていってあげますから」
 安堵したように額を預け、うっすらと笑う口元。
 唐突に湧き上がる、情欲にもにた感情。
 鷹宮は少し意外な気がして、その寝顔から眼を逸らした。
 今感じた――この感情は、なんだろう。
 その時、ようやく騒ぎを聞いたのか、椎名が青い顔で飛び込んできた。


                   ※


「獅堂二士に――最終試験を受けさせることになった」
 椎名が苦い声で言った。
「最終試験?」
 鷹宮はおうむ返しに聞き返した。まだ、訓練過程は中盤に入ったばかりだ。
 駐機場に立つ二人の頭上を、二機の訓練機が交差して飛び去って行く。この演習が、この日最後のフライトになる。空には宵の明星が輝いていた。
「今回の事件で、ついに幹部連中も結論を下した。獅堂は――もともと、訓練生の中でなじむようなレベルじゃない。それは、最初から判っていたことだが……」
「で、最終試験ですか」
 椎名は頷く。
 獅堂藍暴行未遂事件――とは、鷹宮が後になって面白がってつけた件名だが、それが公になって以来、ますます獅堂の存在は訓練生の中から浮いてしまったようだ。
 鷹宮や椎名がどれだけ緘口令を敷こうと、人の口に完全に蓋はできない。噂は、三日で基地中に広がってしまっていた。
 けれど獅堂自身は、やはりというか、何も記憶していなかったようで、そして――まだ、本当の意味で男の恐さを知らないせいか、それを聞いてもけろっとしているようだった。
 に……鈍い人だ。
 鷹宮はあらためて呆れたのだが。
 名波他共犯者五名は、結局謹慎処分だけで解放された。事件が未遂に終わったというのもあるし――名波の父親の力も働いていたのかもしれない。
「最終試験にパスすれば、獅堂は空自の正式な――要撃戦闘機パイロットとなり、どこかの航空基地に配属される。無論実戦で使えるようになるまでは、徹底的にしごかれるだろうがな。階級も一気に上がる。空自始まって以来の大抜擢だ」
 そう続ける椎名は、何故か眉根を寄せたままだ。
「で、試験は、どういう形で行われるんです……?」
 何故、椎名はこんなに浮かない顔をしているのだろう。鷹宮は用心深く聞いてみた。
「ドッグファイトで――俺に、勝つこと」
「………勝つこと、ですか」
 さすがに少し驚いていた。
 ドッグファイトとは、別名「空中格闘戦技」と言われる。
 戦闘機同士の空中戦で、いかにして相手の背後に回りこみ、ロックオン――相手機をレーダーミサイルの照準に納めるかを、互いに競い合う訓練である。
 要は、犬のように互いの背後を取ろうと旋回を続けることから――闘犬。ドッグファイトと命名されている。
 空中での、かけひきとともに――旋回、急上昇、急下降時に生じる強烈なGも跳ね返さねばならない。超高速で飛行する戦闘機で、実際に戦闘のためのフライトをするのは、想像を絶するテクニックと精神力が必要とされるのだ。
「それは……」
 鷹宮は言いよどんだ。
 椎名はまた若いが、空自では間違いなく五指以内に入る優秀なエースパイロットだ。
 その椎名相手に、いくらなんでも。
 しかし、椎名は、鷹宮の杞憂を苦く笑って否定した。
「出来ないことじゃない。これは俺の恥でもなんでもないからはっきり言うがな、ここまでの訓練過程で――三回に一回は、あいつに背後を奪われている」
「………」
「ロックオンまでは無理だがな、ただ、常識外れの結果には違いないだろ」
 確かにすごいことだ。
 鷹宮は内心微かに舌を巻いた。
 訓練生が、椎名レベルのエースパイロットから裏を取る。常識では有り得ない。
「気が乗らない――正直に言うと、断ってしまいたい」
 椎名はため息をついて額を押さえると、そう漏らした。
「それでも、あなたが間違いなく勝つでしょうに。一体何が不安なんです。獅堂さんにその実力がないなら、一気に上に行く事は、彼女にとって不幸なだけですよ」
 鷹宮がそう言うと、椎名はわずかに眉を寄せて呟いた。
「……それは、獅堂への適正な評価とは違う」
「…………」
 そして椎名は、再び憂鬱な面持ちで嘆息する。
 ああ、そうか。
 鷹宮はようやく理解した。
 そういうことか。
「そもそも俺自身、獅堂相手に本気になれるかどうか。かといって、手を抜くこともできないし」
「私がやりましょう」
 鷹宮は言った。
 ごく自然にその言葉が口から出ていた。
「鷹宮……?」
「私なら、手を抜く心配も、抜かれる心配もありませんから」
「………」
「あなたが心配なのは――むしろ獅堂さんの方が本気になりきれるかどうか、でしょう?あなた相手に」
 椎名は応えない。
 鷹宮は、眼をすがめた。
 無論、故意に手を抜いていたわけではないだろう。必死に闘わなければ、椎名相手に裏など取れるはずがない。
 それでも、獅堂の指は、最後の引き金を引くのをためらったのかもしれない。千分の一、万分の一の迷いが、空では決定的な差異となる。
―――そうか………。
 全ては推測だ。けれど、椎名がそれを杞憂しているということは。
 それは――、獅堂の気持ちの一端を――椎名が、無意識ながらも感じ取っている、そういうことなのだろう。
 鷹宮は苦く笑んだ。
―――獅堂さんにとっては、余り嬉しいことじゃないな。
 椎名という男は、自分の中のそういう部分を、絶対に見ようとはしない。あえて目を閉じ、素知らぬ振りを続けるだろう。
 この律儀な男が、鷹宮も知っている――あの男勝りで気のやさしい恋人を、裏切るとは思えないからだ。
 だとしたら獅堂の想いは。
 おそらく、壊れることも、浄化されることもなく続いて行く。


                      ※


 二機のT―2高等訓練機が並ぶ駐機場に――鷹宮は獅堂と向かい合って立っていた。
 二人とも同じ、訓練用のGスーツに、サバイバルベストを身に着け、ヘルメットを片手に抱えている。
 まだ空気の冷たい早朝…基地全体が目を覚ます前に、この異例の最終試験が行われようとしていた。
「よろしくお願いします」
 やや、硬い声で獅堂が挨拶し、敬礼した。
 鷹宮も敬礼でそれに応え、小さく頷いた。そして厳しい声で言った。
「口頭確認、獅堂二士」
「はいっ」
 獅堂の目が、見るものを射抜くように一瞬煌く。
「始動装置オン、トグルスイッチでウォーニングテストチェック、ターボエンジン稼動、ヘル装着、酸素マスク固定、ハーネス装着、RPM18パーセントでスロットルをアイドルへ移行、AMATファイアーウォーニングテスト、キャノピーロック、操縦指令増強装置リセット、レーダーコントロールボックス稼動、飛行姿勢指示機オン」
 綺麗な唇から、すらすらと発進手続きが正確に流れ出る。
「専守防衛の基本を述べよ」
「はいっ、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のため必要最小限にとどめることを言いますっ」
「対領空侵犯措置の定義は」
「領空侵犯機を着陸させ、又は退去させるために必要な措置をいいますっ」
「警告の方法は」
「警告音声を国際緊急周波数で送信します、その後、機体によるボディランゲージで着陸、退去指示を行います」
「私の名前は」
「―――?」
 一瞬戸惑った顔になる。けれど獅堂は、少し頬を赤らめて、はっきりと言った。
「鷹宮篤志一曹です!」
「……よく、言えました」
 鷹宮はにっこりと微笑した。
「自分が、先に出ます」
 表情を改めた獅堂が言った。
 戦闘訓練は、民間航空機の飛行空域から離れた場所で行われる。まずはその地点まで、タワーの指示に従って移動しなければならない。
 獅堂は背を向けかけて――そして、ふっと振りかえった。
「鷹宮一曹、……ありがとうございますと…この場を借りて言わせてください」
「あなたに、お礼を言われる覚えは、」
 鷹宮は苦笑した。
 さきほど――この少女に名前を呼ばれた時の不思議な動悸が、まだ少し残っている。からかうつもりが、動揺しているのは、どうやら自分のようだった。
「ありすぎて、なんのことだか判りかねます」
「椎名さんと…、あの日、二人にしてくれた」
 獅堂はそう言って、羞恥を隠すように視線を逸らした。
「あなたが、行けと言ってくれたから、自分は」
「…………」
 ああ、と思った。椎名が呼んでいる――そう、嘘をついて、獅堂を椎名の部屋へ行かせた夜。
 あのことを言っているのだ。
「鷹宮一曹は……、自分の気持ちに気付いていて下さったんですね」
 それだけ言って、じっと見つめる真摯な瞳。若すぎるせいか隠しきれない激情が浮かんでいる。
「私は、別に」
 先に眼を逸らしてしまったのは鷹宮だった。
「あの夜で、全てが報われたような気がしますから」
 獅堂は笑った。清々しい、きれいな笑顔だった。
「もう、ふっきれました。だから、鷹宮一曹も忘れてください!」
 そして、正確なラインを描いて――敬礼。
 鷹宮は微笑し、それに応える。
 獅堂は再度背を向けて、そしてもう一度同じように振り返った。
 真直ぐな瞳。愛しい瞳。鷹宮は、自分の胸に暖かなものが溢れてくるのを感じた。
「鷹宮一曹」
「なんでしょう」
「一曹は、空自でも屈指の優秀なパイロットだと聞きました。…何故、救難部隊に?」
「自分は、殺すより救いたい。それだけです」
「………」
「でも、戦うことでしか救えない命もある。私は臆病者ですから」
「自分は……」
「あなたは、あなたの道を行けばいい。戦闘機に乗る以上、いつか被らなければならない泥もある。それを恐れないことです」
「行きます」
 獅堂は白い歯を見せて頷いた。
 駆けて行く――形良い背中。
―――私は………。
 鷹宮は、ふと思った。
 私は、もしかしてこの先もずっと、
―――あの背中にある、見えない翼を追って行くのかもしれない。


                    ※


「今度こそ、お前の言うところの大団円ってやつだな」
 缶コーヒーの差し入れを持ってきた椎名は、そう言って苦笑した。
 鷹宮はあらかた片付け終わった荷物をテーブルの上に置き、それを受け取る。
 明日は――千歳基地に戻ることになっていた。訓練過程は終盤であるが、鷹宮の役目は終わっていた。
「獅堂は、百里基地に正式配属が決まった。階級も一気に三曹に昇級だ。…すぐに、俺たちなんか追いぬかれるだろう」
「百里には、倖田さんもいる、あなたも来月から百里でしたね」
「ああ」
 鷹宮はわずかに安堵した。
 なら――大丈夫だ。あの無防備な少女が、我の強いパイロット連中の中でどうなるのか、それだけが唯一の気がかりだったのだが。
「……実際、一緒に飛んでみて、初めて恐ろしいと感じましたよ」
 鷹宮は呟いた。
 あれが獅堂なのか、と思った。地上にいた時感じた繊細さ、頼りなさはどこにもない。
 背筋が凍るような、危険と紙一重の、ぎりぎりの――正確なフライト・テクニック。
 どこまでもしつこく追い詰めて来て――追えば、影のように消えて行く。
「名波もな、あれから何か仕掛けてくると思ったが、なんでもお前の一括で目が醒めたと言っているし」
「教官冥利につきるというやつですね」
 鷹宮は、椎名から顔を背けて笑う。
 名波は――実際、とても相性のいい相手だった。これが、この短い臨時教官生活の唯一の報酬なのかもしれない。
 そんな鷹宮には気づかず、椎名は少し照れくさそうに笑った。
「――俺は……謝らなければいけないな。最初、てっきり、お前が…獅堂に手を出すかもしれないと警戒していた」
「人のものに……」
「え?」
「なんでもありません」
 人のものに、手を出す趣味はない、そう言おうとした。
 獅堂の密かな想いを――確かに感じとっていながら無意識下で黙殺しようとしている椎名。
 これがこの人の性格だ、そう思いながら、冷たい嫉妬を感じている自分がいる。
 互いに打ち明けられないままなら、その思いはこの先も浄化されることはないだろう。椎名が黙殺を続ける限り、壊される事もない。
 曖昧な――そして、多分双方にとっては幸せな関係。
 参ったな………。
 鷹宮は苦笑する。
 やはり、報酬より、こちらの代償の方が大きいかもしれない。
 心にぽっかりと開いた穴――それはもう、あの日背中を向けて駆けていった、たった一人の女によってでしか、埋められないような気がする。
 自分には――。
 誰かを幸せにする資格も、権利もないというのに。
―――獅堂さん、今日でひとまずお別れですが。
 鷹宮は、窓に切り取られた空を仰いだ。
―――またあなたに、お会いできますね。
・・

 どこまでも抜けるように青い空――訓練機が、今日もいつものように爆音を立てて過ぎ去って行った。
 鷹宮篤志
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end