幾重にも木々の影が重なる深い森。
朝霧が立ちこめ、淡い乳白色がけぶるように視界を遮っている。
ふと迷い込んだら、二度と出てこられないような迷宮――。
シュヴァルツヴァルト―――黒の森。
この田舎町では、有名な観光地のひとつだが、この時間、さすがに出入りしている観光客はいないようだった。
早朝六時。
季節のせいもあってか、身体の芯が冷えるほど薄寒い。
―――上着、忘れたな。
真宮楓は、少し身震いして、そそけだった腕をこすった。
カールスルーエの市電に乗り、市街地からシュヴァルツヴァルトのはずれまで、ようやくたどり着いたのが昨日だった。
すぐに安ホテルに宿を取り、何故か寝付かれなくて――明け方、陽が差すのを待って宿を出た。
ぶらぶらと川沿いを歩き、何の気もなしに森の中に足を踏み入れていた。
一度は訪れてみたい場所だったが、観光客まじりに歩くのでは興ざめだ。
静かな――まるで世界から遮断されたような、生と死が同居している場所。
森の中には萌え出る命と、そして犯し難い静謐がある。
ふと、弟のことを思い出していた。
もう二年近く音信不通のままの、誰よりも大切な男のことを思い出していた。
―――嵐……。
嵐、どこにいる……。
天を仰ぐ。黒の森という形容にふさわしく、木々に覆われた空は、その蒼を見せてはくれない。
俺たちは、いつもすれ違ってばかりいるな。
楓は思わず苦笑していた。――――なぁ、嵐、俺はずっと、ここにいるのに……。
その時だった。鬱蒼と茂る樹木の壁から、まるで、滲み出てくるように人影が現れた。
「…………」
嵐?
ジーンズと、上着代わりの長袖シャツ、肩に引っ掛けたナップサック、無造作に伸びた黒髪を煩げに掻き上げている男。
―――いや、
楓は、息を詰めていた。その姿は、一瞬確かに嵐に見えた。
―――いや、嵐じゃない。
というより、男ですらない。
楓の視線に気づいたのか、<女>は、ふと脚を止めて視線を上げた。
人がいたのに驚いたのか、ぎょっとした顔になる。そして、一瞬間を置いて、その表情が柔らかく緩んでいく。
それから。
「……真宮……楓?」
一見して男にしか見えない長身痩躯。けれど楓は、そのシルエットが、その低い声が、紛れもなく女性のものだと知っていた。
「獅堂……さん?」
呟いて立ちすくむ。
ありえない場所で、ありえない人の姿を見て、真宮楓は、単純に驚いていた。
・
・
一
・
・
台湾有事を発端とした世界危機が去ってから、三年が過ぎていた。
真宮楓は、新たなライフワークとして選んだ海洋学を研究するという名目で、ドイツ・ミュンヘンの国立大学に留学していた。
日本を出てから、もう二年近く経とうとしている――そんなある日。
珍しくまとまった休暇をもらった楓は、ふとした気まぐれからウィーンまで足を伸ばしてみることにした。
どれだけ長い休みがあっても、いつもならアパートメントに閉じこもって過ごすのが常なのに――観光なんてガキくさい真似は、死んでもしないと決めていたのに――である。
この気まぐれの理由は楓自身にも分からない。ただ、異国に来て二年。人々の自分への関心はとうに薄れ、好奇の目にさらされることもなくなったし、少しだけ開放的な気分になっていたのは確かだった。
だから、一時でいいから、拘束にも似た監視の目から解放されて、一留学生として町を自由に歩いてみたい――そんな、らしからぬ誘惑に駆られたのかもしれない。
そんな事情で、本当に気の向くまま、偶然足を踏み入れたこの黒の森で、まさか――。
「驚いたな、ドイツにいるとは聞いてたけど……こんなとこで会えるなんて」
嬉しそうにそう言うこの女、獅堂藍と再会することになるとは、夢にも思っていなかった。
立ち止まったままの獅堂藍は、少しぎこちない笑顔を浮かべている。
二年前より、一回り痩せた感のある身体。なのに以前より、雰囲気が柔らかく見えるのは何故だろう。
友人でもなく、恋人でもない。かといってただの知り合いともいえず、どういうスタンスで声をかけていいのか判らないまま、楓は黙ってその場に立ち竦んでいた。
けれど女は、すぐに白い歯を見せて屈託のない笑顔になる。
「何ぼんやり突っ立ってんだよ、元気だったか、お前」
「まぁ、……なんとか」
「あー、びっくりした、人影が見えた時は、熊かと思ったよ。まさか、お前が出てくるとは思わなかったから」
「………………なんでそこで熊なんだよ」
変わらないな、この人は。
そう思ったら、ふいに気持ちの何かがほどけた気がした。
獅堂は安心したのか、楓の傍に歩を進めてきた。やはり寒いのか、両腕を自分の手で抱いている。
「それにしても、寒いなー、あっ、お前、そんな薄着で」
すぐに自分の上着を脱ごうとする女――逆だろう、それは。
と思いつつ、楓は自然に苦笑していた。
「ほっとけよ、どうせあんたの服なんて小さくて着られないから」
「でも、」
「俺は服にはうるさいんだ、そんな悪趣味な柄モノ、死んだってごめんだから」
服を脱ぎかけていた女は、むっとした顔を上げる。不満気に唇を尖らせている。
「相変わらず、おせっかいな、」
楓は言いさして口を閉ざした。
「…………」
女の唇を見た途端、桜庭基地で最後に別れた日のことを、思い出していた。
なんであんなことをしたのだろう――あれからしばらく、感情を抑制できなかったことへの自己嫌悪で苛々していた。そしていつしか忘れていた――はずだった。
その沈黙に戸惑ったのか、女がけげんそうに眉をしかめる。
「な、なんだよ、急に黙って、気味悪いな」
「……別に」
楓は、すっと、素っ気無く目を逸らした。
―――こいつが気にしてないなら、それでいっか。
そう思った。
自分らしからぬ抑制を欠いた行為。衝動の理由は、二年経った今でもよく判らない。
嫌いだという感情と、別の何かがごっちゃになって、当時はいつも苛ついていた。それだけは確かだ、その苛々が――あの刹那に頂点に達して。
「真宮………?」
「…………」
楓は改めて獅堂を見た。
木立を縫って射し込む朝の日差し。それが獅堂の姿を柔らかく包んでいた。姿勢の良すぎる背すじ、細身の腰、引き締まった口元、凛として真直ぐな瞳の光。
「……どうでもいいけど、なんであんたがこんなとこにいるんだよ、もう自衛隊は辞めたのか」
再び目を逸らしながら、楓は言った。
そう――そもそも何でここで、この女と出会ってしまったのだろう。
「いや、休暇中なんだ。たまには一人でぶらっとしようと思ってさ」
「一人で?ツアーとかじゃなくて、一人で来たのか」
「……まぁ、急に思い立ったから」
獅堂はそう言うと、少しうつむいて髪をかきあげる。
横顔が綺麗だった。
ああ、そうか。と楓は思った。全体的に、不思議なくらい女らしくなっている。
その肌も、唇も、すんなり伸びた首筋も――以前の獅堂と何かが違う。
だから、初見で、柔らかな印象を受けたのだ。
「――お前、」
ふいに獅堂は顔を上げた。思い詰めた瞳が、真直ぐに見上げてくる。
「……なんだよ」
思わず眉をしかめていた。
楓には、動揺すると無意識に眉をしかめる癖がある。多分、きつい表情をつくることで、他人に心を読まれないようにしているのだろう――と自分で思う。
けれど女は、そんなことには頓着なしに、こう言った。
「お前さ、良かったら、2、3日自分と付き合ってくれないか」
「―――は?」
楓は、今度は本当に吃驚した。
「観光案内ってやつだ。お前、この辺に住んでるんなら、そういうのって詳しいんだろ」
「いや、俺が住んでるのはミュンヘンで、こことは全然違うから」
「同じドイツじゃないか、細かいこと言うなよ」
「だから、それは東京住んでる奴に大阪案内しろっていうくらい違うんだけど」
「自分だったら、気にしない、どうせ行く当ても決まってないし、お前の行きたい所についていくから」
「それは……まぁいいけど、いや、ちょっとまて、そもそも何で俺が、あんたと付き合わなきゃならないんだ」
一瞬頷きそうになって、楓は慌てて否定した。
冗談じゃない。
「どこに泊まってんのか知らないが、ホテルでガイドでも探してもらえよ。じゃあな」
「あっ」
「…………」
シャツの裾を掴む女。楓はそれを、多少の驚きを持って見下ろした。
「そ、それが」
いいにくそうにそう言って、少し困ったように、周囲の木々を見渡す眼。
「よ、よく判らなくて」
「何が…?」
「まあ…なんだ、何かって言うとなんなんだが、つまり、あれだな」
「まさかと思うけど迷ってるのか」
「迷う?まさか」
眉を上げて、とんでもない、という顔をする。
「外国って初めてだし、なんか判りづらいじゃないか。…いや、決して迷ってるわけじゃなくてだな」
「……………迷ってるっていうんだよ。そういうの」
さすがに、呆れた。
「あんたって、一応パイロットだったよな。――それが…海外が、初めて」
「いや、だから、地上は初めてなんだ」
溜息が出そうになった。
「じゃあ、ツアーでも何でも組んでくればいいじゃないか。何だって一人で出て来るんだよ」
「ひ、一人になりたかったんだよ」
獅堂の、声のトーンが少し下がる。うつむいて、何も言わなくなる。
楓は嘆息して、まだ自分のシャツを掴む女の手をふり解いた。
「何かあったのかよ」
「…………」
「言えよ、理由を聞かなきゃつきあえない」
「い、言えば、一緒にいてくれるのか」
「…………理由によるけど」
「…………傷心、旅行、……ってやつ、かな」
「傷心旅行??」
―――はぁ………。
楓は少し意外な気がした。
今の獅堂の近況は知る術もないが、二年前、誰の面影をその瞳に映していたのかは何となく知っている。
夜の基地内で、見詰め合う二人を見てしまったから。その時の会話を、聞くともなく耳にしてしまったから。
まさかニ年も立って、未だにけりがついていないわけではないだろうが……。
視線を向けると、今度は見られた獅堂が少し困った様に眼を逸らした。
その動作がなんだか急に可愛く見えて――楓は笑った。
「誰が誰に傷心してることやら。お盛んだからな。元オデッセイの皆さんは」
「な、何でオデッセイの中って決め付けるんだ」
「でも、そうなんだろ」
「ち……違う」
「どうかな。どっちにしても、俺の知ってる人なんだろ」
楓が思い描いたのは――はからずも見てしまった、この女とキスを交わしていた男の顔だった。
あの時の獅堂の――どこか硬直した横顔が、頼りなげな目が、今でもはっきりと思い出せる。
「べ、べべ、別に、知ってるっていうか」
何故か、獅堂は赤くなって口ごもった。
「いいよ、別に聞きたくもない」
意地悪な気持ちになりかけていた。何故だろう。
そして、ふと眉を寄せた。ああ、そうか――もしかして。
「……あの人……誰だったかな、元気にしてる?」
「……あの人?」
「あんたと仲良さそうにしてたじゃん、面倒見も良さそうだし、あいつと一緒にくればよかったのに、鷹宮さん」
途端に獅堂はげほげほと咳き込んだ。
―――莫迦じゃないのか。
楓は冷めた眼でその判りやすいリアクションを見守った。
「あ――ああ、た…鷹宮さんね、あれだな。そう、…自分も最近は会ってないから、まぁ……なんとも」
曖昧に逸らされた眼が泳いでいる。その耳朶に薄っすらと浮かんだ色。
何かあったのだ、とすぐに察しがついた。
それがこの傷心旅行とやらにどう関係しているのかは知らないが、こんな風に顔を赤らめるような何かが、二人の間に起きたのだろう。
自分が日本を出てから二年の間に――あの、鷹宮篤志という男と。
「ふぅん……なるほどね」
妙に女性らしくなった目元、口元、それから。
「な、なんだよ。何が言いたい?」
「ま、いいか。俺には関係ないし」
楓は肩をすくめた。――そう…俺には関係ない。
「な、なら、そんな眼で人を見るな」
「見てないって、相変わらず自意識過剰だな、獅堂さんは」
「お、お前なぁ……」
何か言いたげに唇を開き、そして、怒りを呑んだ表情で諦める。
変わらない獅堂の表情の癖に、少しだけ安心している自分が不思議だった。
獅堂は鼻白んで横を向いた。
「相変わらず口のへらない男だな。…で、案内は?するのか、しないのか?」
「してください、だろ」
・
・
「……ひとつ、お聞きしてよろしいですか」
長い沈黙を破った男の声は硬かった。
「彼女は、全て承知しているのですか」
「承知している」
背を向けたまま、静かな声がそれに答えた。
「全て理解した上で、獅堂三等空佐は日本を立った。その上で、私は君にこの
話をしている」
「…………」
「君がそれを断れば、元黒鷲の椎名リーダー、彼が君に代わって任務を遂行す
る。彼が断れば、また代りが、それだけのことだ」
「………」
直立不動の姿勢のまま、男はただ眉根を寄せて拳を握る。
再び訪れる重い沈黙。
「承知、しました」
そう答えること以外に、どんな選択があったのだろうか。
男は顔を上げることもできないまま、夕日が照り返すリノリウムの床を厳しい
眼で見つめ続ける。
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