※


 シャツを着て、ネクタイを締め――準備は出来た。
 時計を見る――八時、少し前。そろそろ名波がやってくる頃だろう。
 椎名はベットに腰を下ろした。
―――悪いが、部屋にあげるわけにはいかない。
 名波が来ると同時に、急用ができたと言って、部屋を出て行くつもりだった。ありがたいことに明日は休暇だ。久しぶりに映画を見るのもいいかもしれない。
―――鷹宮の奴、完全に面白がってるな………。
 思い出す度にむかむかする。あの後、鷹宮も自分も忙しく、結局顔をあわせられないまま夜になり、寮に戻った。
 航空学生のための学生寮。教官として滞在する間だけ、椎名も一室を借りて寝泊りしている。
 鷹宮も今夜はここに泊まると聞いているが、もう会いにいくつもりはなかった。
 何が作戦なのだろう。そもそも話してしまったのが失敗だった―――。
 その時、ドアを外からノックする音がした。
―――よし。
 一呼吸置いて立ち上がると、思いきってドアを開けた。
「悪いな、名波、急に用事ができてしまって」
「え………?」
 少し驚いた目をして、そこに立っていたのは名波ではない。
 隊服ではなく、私服姿の獅堂藍だった。
「し、獅堂…??」
―――どうして。
 思わず言葉を失って立ちすくむ。
 獅堂藍。彼女だけは、この寮の離れにある別棟で、職員と一緒に寝泊りしている。
 今年の学生で女性は獅堂だけだから――ある意味当然の措置だった。
 が、今、この男性ひしめく学生寮で、華奢な女は、どこか頼りなげに椎名の目の前に立っている。
「用事って……、あの、自分に用があるんじゃ、なかったんですか」
 獅堂は戸惑ったように首をかしげた。
 白い半袖シャツ。その襟元から、清潔な石鹸の香りがした。髪は洗ったばかりなのか、すこし湿り気を帯びている。
 その首に掛けられた銀色のペンダントは、彼女と初めて会った時、つい――あげてしまったものだった。初飛行を目前にしたこの少女が、あまりに、頼りなげに見えたので。
「………俺が?お前に…?」
 戸惑いながら、椎名は聞き返す。まだ、状況が上手く飲み込めない。
「はい、鷹宮さんにそう聞きましたけど」
―――鷹宮!
 椎名は額を押さえて、後ずさった。
 な、何を考えているんだ、あいつは。
「なんなんですか。一体………、こっちは、椎名さんのことが、心配だったのに」
 そのリアクションをどう解釈したのか、獅堂は、少し不満そうな声を上げた。
「心配?」
「名波さんですよ」
 そう言って、部屋の中に躊躇なく入って来る獅堂。椎名は少し逡巡したものの、とりあえずドアを閉めた。
 この状況を、人に見られるのは、あまり芳しいことではない。
「あいつ、…防大時代から手癖が悪くて有名だったんです。色々噂は聞いてるし、みんなの前で――今回は椎名曹長を落とすって、公言してたから」
 獅堂は、部屋の中央に立ち、少しうつむいたままで続ける。
「はっっ???」
 やはり、扉は開けておこうか、そう思い直してノブに手を掛けていた椎名は、その言葉で凍りついてしまっていた。
「男同士なのに……自分には理解できません、名波さんは少し、おかしなところがあるから……」
―――そ、そうか…。
 汗が出る。
 こんな話題に自分が登ること自体、恥ずかしくて、情けない。正直、眼のやり場がない。どんな顔で、なんと――この少女に言い訳していいものなのか。
「椎名曹長……」
 しばらくの沈黙の後、獅堂が呟く様に言った。
「ん……?」
 椎名は顔を上げた。そこで初めて――狭い部屋に、獅堂と二人きりだということを意識した。
 細い身体。男のようでも、腰つきや肩に、どこか女性らしい丸みがある。
 うなじが綺麗だと思い、そう思う自分に驚いていた。
 ちょっと待て――この状況で、こんなことを考える、俺は。
「…………」
「…………」
 獅堂の横顔は俯いたまま、床の一点を見つめている。
 なんだろう。
 居心地が悪い。ドアを開けて、外で話をしなければいけない。
 なのに、言葉が何も出てこない。
「自分が……初めてフライトした時のことを、覚えていますか」
「あ、……ああ、もちろんだ」
 椎名は、それを思い出し、ようやくわずかに口元を緩めた。
――――覚えている。忘れられるわけがない。
 天才――その言葉の意味を持つものと、初めて接した瞬間。
 航空自衛隊三次試験――「飛行適正検査」。
 山口の防府北基地で、初めて初等練習機T―3に乗った獅堂――その時教官として同乗したのが、たまたま防府北基地に演習に出向いていた椎名だった。
 見学の子どもと見まがうほど、あどけない可愛らしさを持った少女。これは…と、思わず眉をひそめていた。この体格でよく身体試験をパスしたものだと。
 だから、つい――テキサス留学時代、なんとなしに買って、常に持ち歩いていたお護り代わりのペンダントをあげてしまったのかもしれない。
けれどその少女が、いったんコックピットに座ると顔つきが一変した。
 生まれてはじめて戦闘機に乗ったとは思えない、その度胸、判断、テクニック。
―――こいつ、まるで飛行機に乗るために生まれてきたみたいだな。
 同乗していた椎名はそう思い、沸きあがる驚嘆を隠せなかった。
 しかし、今、自分の目の前で――細い首をかしげ、うつむいている獅堂の横顔は、初対面の時に感じた時のまま―――華奢で、頼りなく、可憐にしか見えない。
 椎名は目を逸らした。理由の分からない動悸がする。
 ドアを開けなければ。
 そう思うのに。
 獅堂はきれぎれの、細い声で話し始めた。
「初めての空で………、自分はとても緊張していたし、あがっていました。椎名、曹長がいてくれたから……」
 少し驚いて、椎名は獅堂の横顔を見た。
―――あれで……緊張していたのか。
「自分は田舎者で、……それまで、飛行機にも乗ったことがなかったから」
 綺麗な横顔。若さなのか、透き通る様に白い肌。
「あの時、一緒に見た青空が、自分の、一番の宝物です」
―――獅堂………?
 細い身体が一瞬揺れて、その刹那倒れるのではないかとさえ思えた。思わず駆け寄り、抱き支えてやりたくなる。
 獅堂は初めて顔を上げ、椎名を見た。――その、真直ぐに何かを問い掛けてくる瞳。
「……椎名さん、自分は」
 その時、ドアが唐突に開いた。外からなんの躊躇もなく開け放たれた。
 椎名は我に返り、弾かれたように振り返る。
 立っているのは、長身の男――薄紅い唇に、きれあがったまなじり――名波暁だ。
 眩暈がした。
 なんという――パッド・タイミングなのだろう。
「獅堂……?」
 名波は獅堂の姿をすぐに見咎め、細く切れた眼をしかめた。
「なんでお前がここにいるんだ――出て行けよ、獅堂」
 横柄な口調。椎名は少しむっとした。
 防大出のエリートである名波は、訓練中でもことあるごとに獅堂にきつく当っていた。
 獅堂のテクニックは群を抜いている。今すぐにも要撃戦闘機のパイロットとして実戦に参加できる程の腕を持っている。――その技術だけをとってみれば、名波など獅堂に遠く及ばない。 
 そういう意味で、今の獅堂は、まるでサイズの合わない小さなシャツを着ているようなものだ――と、椎名は思う。規定どおりの訓練過程は、もう、この女には必要ないのだ。
 しかし、最年少でウィングマークを取得した獅堂に、実のところ同胞のやっかみの声は非常に大きい。
 特に名波を筆頭とした防大上がりの訓練生などは、空学あがりの獅堂を頭から馬鹿にしている節がある。
「自分は……」
 獅堂は顔を上げ、珍しく勝気な目で名波を睨んだ。
 空では常にアグレッシブで、怖いほど強気の獅堂だが、実のところ、普段は寡黙で割りにお人よしなところがある。というか、どこか鈍くて危なかしいほど無防備だ。
 自分が女で――しかも、その気になれば相当可愛いのに――そのことを、ほとんど無自覚なのが信じられない。
「自分は出て行かない」
 獅堂はきっぱりとした口調で言った。きっぱり――というか、けんか腰だ。
「今夜は、俺が椎名曹長と約束してるんだよ」
「それは名波さんの勘違いだ」
「お、おい、二人とも」
 自分を無視して、勝手に口論している男女。悪いがどちらも勘違いだ。
 けれど椎名が口を挟む間もなく、怒りを露わにした名波は獅堂に近寄り、その細い腕をつかみあげた。
「出て行けよ。俺に逆うとどうなるか、わかってんのか、ガキ」
 腕をねじられた獅堂の、痛みにしかめられた眉を見た時――椎名の中で、何かが弾けた。
「やめろ、名波」
 獅堂の肩を抱いて引き寄せ、自分の胸で囲うように抱いていた。
 咄嗟だった。
 腕の中で、細い身体が、微かに震えるのが判る。
「悪く思うな。俺と獅堂はそういう仲なんだ。今夜はそれを打ち明けるつもりでお前を呼んだ」
 獅堂はどう思うだろう。一瞬そんな躊躇もあった。しかし、腕に抱かれたままの痩せた体はびくともしない。
 氷のような沈黙があった。
 やがて――
「失礼します…」重い声がした。
 背を向けた名波が、怖いほど素直に退出していく。
 椎名はようやく肩の力を抜き――長い息を吐いた。
「悪い、獅堂…、咄嗟とは言え…」
「…………」
 抱いていた獅堂の肩を離し、頭を下げる。とても顔までは見れなかった。
 確かに咄嗟だった。咄嗟の――芝居のつもりだった。でも、本当にそれしかなかったのだろうか。
 自分には恋人が――百里基地に恋人がいて。
 何も――ここで、獅堂とのことで、そんな嘘をつく必要などなかったのに。
―――俺……何を……。
 椎名は顔をあげられなかった。
 堂堂巡りする思考を、それ以上先に進めることができなかった。
 獅堂は少しの間黙っていたが、やがて静かに微笑する気配がした。
「いいです。椎名曹長の役にたてたのなら」
 落ちついた声だった。
「じゃ、自分は」
 うつむく横顔。その影に差す――何かの色を感じ、椎名は胸苦しさに胸が詰まるような気がした。
「失礼します」
 獅堂は背を向け、止める間もなく部屋を出ていった。
 椎名は、そのまましばらく動けなかった。
 

                    ※


「ま、大団円ってとこですね」
 翌日の食堂――結局どこへ行くこともなく休日を基地で過ごし、一人で昼食をとっていた椎名の所へ、ひょっこりトレーを持った鷹宮がやってきた。
 そして、夕べの話を聞いて、責める椎名の視線を軽く受け流し――平然とそう言った。
「お前、…それを大団円って言うか?」
「私の粋な計らいが、まさに図に当たったってとこですよ。まさか、獅堂さんがそこにいるとは、さすがの名波君も想像していなかったんじゃないかなー」
 楽しそうに、くっくっと笑う。
―――お前、なぁ…
 椎名は話す気力も萎えて、黙ってスプーンでカレーを口に運んだ。
「獅堂が…心配だな」
 そして、思い出したようにスプーンを止め、ぽつり、と呟いた。
 本当は、昨夜――あれからしばらくして、そのことばかり考えるようになっていた。
「……獅堂さんが?」
 鷹宮も食事の手を止めている。
「お前は知らないだろうがな。……名波は今回の訓練生の中じゃ、絶対の権力を持っている。獅堂には、ただでさえ風当たりが強かったところへ……」
 軽率だった。あの時は咄嗟で、そこまで頭が回らなかったとは言え――獅堂にはすまないことをした。折りを見て、名波にはきちんと話をしよう。あれは――自分の嘘だったと。
「あまり、訓練生どうしのことには…、首を突っ込まない方がいいんだが…」
「ふうん…」
 ま、私も注意しておきますよ。
 鷹宮はそう言って、優雅に――ラーメンを箸でたぐり、口に持っていった。
「なあ、鷹宮……」
「はい?」
「宝物って、どういう意味なんだろうな…」
「はい…?」
 椎名はぼんやりと、食堂の狭い窓に広がる景色を見つめる。
「獅堂がさ……俺と一緒に見た空が、宝物って言うんだ………それって、どういう意味なんだろうな」
「自分で考えてみたらどうです」
 その口調に、椎名は少し驚いて目の前に座っている男を見た。
 出会って以来初めて耳にした、怒っているような声だった。
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