「椎名曹長」
 記憶のどこかにある耳障りの良い声に、椎名恭介は少し驚いて振り返った。
 航空自衛隊松島基地。
 ぬけるように青い空の下。椎名は整備士に混じって駐機場に立ち、午後の演習を終え、帰投する練習機を待っていた。
 朝から暑い一日だった。半袖シャツを着た椎名の腕に、首筋に、ちりちりとした夏の陽射しが容赦なく照りつけている。
―――誰だ……?
 振り返った椎名の視界に、長身で、長い脚を持った人影が歩み寄ってくるのが映る。
 コンクリートのエプロンが、炎天下のせいか陽炎のようにゆらゆらと揺れて見えた。
 人影は、そのゆらめく影の中、格納庫のある方角からこちらに歩み寄ってきているようだった。
―――誰だ?どこかで聞いた声だが。
 椎名はもう一度そう思って、目をすがめた。
 この盛夏、紫紺の士官服をきっちり着こみ、帽子を目深に被っている男。
 少し緊張して背筋を正したものの、すぐに椎名の相貌は崩れた。こいつの声は独特だ、どうして第一声で気づかなかったんだろう。
「鷹宮……?お前、鷹宮か、どうしたんだ、こんなところへ来るなんて」
「お久しぶりです、椎名曹長」
 鷹宮篤志はそう言うと、柔らかな所作で被っていた帽子を脱いだ。
 怜悧な口元に綺麗な笑みを浮かべている。
 直接会うのはかれこれ三年ぶりになる。椎名は懐かしさで眼を細めた。
 航空自衛隊千歳基地、救難隊所属の鷹宮篤志に――まさかここ、宮城の松島基地で再会できるとは思ってもみなかったからだ。
 スマートな長身に士官服が似合いすぎるほど似合っている。鷹宮は、空自一の美貌を誇るクールな男だった。日本人離れした長い脚に、広い肩幅。
 体格には自信のある椎名も、鷹宮と並び立つと、多少圧倒されてしまう。
 しかし、この優雅な男の性格が――そのクールな外見を大きく裏切ることを、椎名はよく知っていた。
「芦屋の訓練過程以来ですね」
 鷹宮は懐かしそうに言い、椎名は頷く。
「お前の評判は俺のところにまで入ってくる。救難部隊では随分と活躍しているそうじゃないか」
 航空学生からストレートに航空自衛隊のパイロットを目指した椎名と、高校卒業後単独でボスニアに渡り人命救助活動に従事し――その後航空学生として入隊した鷹宮は、同じ時期に福岡県芦屋基地で飛行訓練過程――フェーズ2を受けていた。
 出会ったのはその時だけ――けれど、お互い、その出会いが強烈な印象となって焼きついている。
「で、今日は何の用だ?」
 二人が立っているその頭上を、T―2高等練習機が、爆音を立てて飛び去って行った。
 鷹宮は、微かに視線だけ上げて空を見ると――少し楽しそうに笑った。
「すごい新人が入隊したと聞きまして」
「獅堂二士のことか」
 椎名は苦笑して空を見上げた。
「今の無茶なのが――そいつだ」


                   ※


 吐き出される莫大なエネルギーを含んだ熱い風。オイルの匂い。
 駐機場に立つ度、椎名はいつもこの仕事を選んだ充足感に満たされる。
 空が好きで、空に少しでも近づきたくて、航空自衛隊を選んだ。当然のようにパイロットを目指し、戦闘機乗りを夢見た。
 多かれ少なかれ、空自の入隊希望者は、椎名と似たような夢と希望を持っている。けれど実際にパイロットとして空へ飛び立てるのは、その中の選ばれた一部でしかない。
 飛行訓練過程の学生が最初、一様に目指すのが戦闘機のパイロットだ。しかし、中には鷹宮のように頭から救難部隊を希望し――獅堂藍のように、ブルーインパルスでアクロ飛行をしたい、と言うような変わり者もいる。
「帰って来ましたね」
 その変わり者の一人――駐機場に並び立つ鷹宮篤志が、空を見上げたまま呟いた。
 青すぎて…むしろ黒味がかって見える空に、針の点が浮き上がり、どんどんその形を大きく変えていく。やがて、すぐに肉眼でも、翼、胴体と見分けられるようになっていく。
―――さすがだな。
 椎名は思わず感嘆の息を吐いた。
 美しいラインを描いてアプローチしてくるT―2高等練習機。この進入角度の確かさ。ファイナルアプローチの正確さは、すでに訓練生のレベルを軽く超えている。 
 耳を刺し、脳髄に響くような音を立てながら、T―2機が滑走路から停止ラインに侵入して来た。
 熱気を帯びた白煙が高速度で回転するタイヤから立ち昇る。焼けたゴムの猛烈な匂いが、灼熱の暑さに溶け込んでいく。
 すぐに機体に駆け寄った整備士が、コックピットにラダーを掛けた。
 コックピットが開いて――ヘルメットと酸素マスクを煩げに外し、ふうっと息を吐くまだ線の細い訓練課程のパイロット。
 その――少女らしいおもだちを残した横顔に、一時椎名は見惚れていた。
 獅堂 藍。
 二年前高校を卒業したばかりの、今期訓練生の中で唯一生き残った女性パイロット候補生。
「……椎名曹長?」
 椎名の姿を認め、――コックピットから立ち上がったばかりの獅堂藍は少し不思議そうな顔をした。
 けれどそれも一瞬で、すぐににこり、と気安げに笑う。
 そして、駆け足でラダーを降りると、椎名と…そして鷹宮の前に駆けつけ、きれいな所作で敬礼した。
「獅堂、ただいま、帰投しました」
 椎名も敬礼でそれに応えた。
「見事な訓練飛行だった。獅堂」
「はい!」
 獅堂はわずかに白い歯を見せる。
 長めの髪が汗でうねり、それが頬に張り付いている。
 色白の肌。黒目がちのくっきりとした瞳。ふっくらした形良い頬と紅い唇。
 椎名が、最初に獅堂藍という航空学生を見た時感じたのは、こんな華奢な女の子に、厳しすぎる空自の訓練が耐えられるのか――という不安だった。その心配はすぐに杞憂に変わったが、けれど、外見の印象はいまも変わってはいない。
「そちらの方は…?」
 その獅堂は、きれいな眼をかすかにしかめ、視線を椎名の背後に向けた。ああ、と椎名は気がついた。この二人は、当然だが初対面だ。
「ええと――」
 逡巡しながら振り返る。
 たいがいがおしゃべりな鷹宮は、こういう時、たいていぺらぺらと聞かれもしない自己PRを始めるのだが――。
 が、振り返ってみた鷹宮は、椎名が初めて見るような、どこか茫洋とした目をしていた。
 まるで、白昼夢でも観ているかのような。
―――鷹宮……?
「千歳基地、救難部隊の鷹宮一曹だ」
 その表情を不審に思いつつも、椎名は簡単に紹介した。
「鷹宮です」
 けれど、すぐに背後からいつもの鷹宮の声がした。
 そしてゆっくりと、椎名と肩を並べる位置まで歩み出てくる。
 獅堂は――その鷹宮の顔を見つめたまま、不思議そうに瞬きしている。何故千歳基地の人が?二人はどういう関係なんだろう――?その目は、そう言っているように見えた。
「いい目をしていますね」
 どこか優し気な鷹宮の声がした。
「目……ですか、視力は、まぁ、いいほうですが」
 獅堂の受け答えは相変わらずで、鷹宮がわずかに苦笑するのがわかる。
「あなたは、いいパイロットになる、そういう意味です」
 そして、ぽん、と椎名は肩を叩かれた。
 へぇ、と思った。
 いつも優雅な笑みを浮かべている鷹宮だが、本当の意味で――こんなに楽しそうな笑顔を見たのは初めてだ。
「では、私はこれで。椎名曹長、後でお会いしましょう」
「……あ、鷹宮」
 咄嗟に――呼び止めていた。
 鷹宮の姿を見た瞬間、実は、これはいい機会かもしれない――と椎名は内心思っていた。
「なにか」
 振り返る怜悧すぎる横顔――椎名は少し戸惑って視線を逸らし、そして、言った。
「久しぶりに会ってあれなんだが、じ、……実は、相談にのってもらいたいことがある。後で、時間をとってもらえるか」
「相談、ですか。椎名さんが私に」 
 鷹宮は切れ長の眼を、不思議そうにしばたかせる。けれどすぐに、くっきりと微笑した。
「いいでしょう。楽しみにしていますよ」
 言い残し、去って行く形良い背中。
「きれいな人ですね。あの人もパイロットですか」
 獅堂が呟くのを耳にしながら、椎名は、―――鷹宮のことをどう説明しようか、少しの間逡巡していた。
 この純真で汚れを知らない、まだ、子どもらしさを残した女に、「鷹宮には、注意した方がいい」と、果たして言っていいものか、どうか。
「椎名曹長?」
 沈黙の意味を測り兼ねる、無邪気な瞳が見上げている。
――――こいつが……可愛すぎるんだよな。
 椎名は苦笑し、結局鷹宮のことは言わないことに決めた。
 鷹宮が相手にするには、獅堂はまだ幼すぎるだろう(と、信じたい)。余計な心配ならしない方がマシだ。
 ただでさえ今、訓練生との間のトラブルに頭を痛めている椎名なのである。
――――よりによって、そんな時に。
 何故、鷹宮篤志のような危険な男が来るのだろう。
 まぁ、相談相手としては、適任というやつかな。
 椎名は嘆息して空を見上げた。


                  ※


 何も鷹宮篤志は、獅堂藍の噂に引かれてわざわざ千歳から足を運んだわけではなかった。
 椎名と同様、訓練生の実技訓練の教官、及び座学の講師として、臨時的に召集されたのである。そのことを、椎名は基地に戻ってから初めて上官に説明された。
 椎名の知る限り、鷹宮は、救援部隊のエリートであると共に、秀逸な技術を持つパイロットの一人だ。
 三年前、芦屋で受けた訓練で、唯一椎名が一目置かざるを得なかったのが鷹宮篤志だった。精密機械のような正確な技術と、判断力。総合評価では椎名が上回っていたが、技術面に関しては鷹宮の方が上だったように思う。
 その後、椎名は米国留学組に編成されテキサスに渡った。鷹宮は救難パイロット過程で美保基地へ移り――それきりだった。
――――あの時は、大変だったよな。
 鷹宮と共に過ごした芦屋時代のことを思い出す度に、椎名の胸に、訓練の苦労とは別の意味で、苦いものがこみあげてくる。
 パイロットになるための訓練過程は真剣そのものだ。実戦訓練の他に筆記試験もクリアしなければならない学生達は、寝る間も惜しんで勉強する。訓練過程で「不適応判定」――エリミネートされる訓練生は、決して少なくないからだ。
 筆記試験、厳しすぎる身体試験、適正試験――それまで幾度も難関を突破してきた学生達だからこそ、ここまで来て落とされてたまるかと、誰の胸にもそんな意地がある。
 その一方で、割とよく起るトラブルがあった。
 それが訓練生――そして、教官を巻き込んでの、痴情ざたなのである。
 矛盾しているようだが、死に物狂いで過酷な毎日を過ごす訓練生だけに…そういう迷いに陥りやすいのかもしれない。
 そして鷹宮は、歩くトラブルメーカーと言われ、彼の行く場所行く場所常に、
「椎名曹長」
 その声に回想を遮られ、椎名ははっとして顔を上げた。
 基地内の食堂。食事の後に注文していたコーヒーが、すでに手元で冷たくなっている。
「お待たせしました。少し学生達の相手をしていたものですから」
 オフホワイトの半袖シャツに、制服のズボン。先ほどとは打って変わって涼しげな服装になった鷹宮が目の前に立っていた。
――――何の相手をしていたことやら。
 と、内心疑惑を感じた椎名だったが、それは口にせず、鷹宮の分のコーヒーをオーダーした。丁度学生達は座学の時間で、基地内の喫茶室は人気もなく、ひっそりと静まり返っていた。
「で、相談ってなんでしょう?」
「うん……」
 コーヒーが運ばれてきた。鷹宮は優雅な手つきでカップを持ち上げ、口に運ぶ。
 椎名はそんな鷹宮を横目で見て…逸らして、また見た。
「まさかと思いますが」
 その鷹宮が、コーヒーカップに唇を寄せながら言う。
「…………ん?」
「椎名さんまで、私に恋をしてるわけじゃありませんよね」
 椎名はひと口飲んだコーヒーにむせてげほげほ咳き込んだ。
 いや、判っていた。鷹宮とはそういうヤツだ。あえて挑発には乗らず、椎名は喉が納まるのを待った。
「あのな…………実は、…非常に困っている」
「誰がです?」
「………自分が、だ」
 言いにくい――椎名は冷えた黒い液体を飲み干した。
「なあ、お前から見て、俺って……そういう対象なのか?」
「は?」
「いや、その、別に」
 言いかけた言葉を口の中で誤魔化し、やはりやめておけばよかったか、と今更ながら後悔する。
「ふぅん」
 何故か、鷹宮は楽しげに微笑した。そして、
「椎名さんの体格や顔立ち……、そうですね。そういう筋の人から見たら、けっこうそそるんじゃないんですか、いかにも兄貴タイプって感じで」
 椎名は、手にしたコーヒーカップを落としそうになっていた。
「そ、そそるって、オイ」
「ふーん、そうですか。お相手は今回の訓練生?まさかさっきの可愛い訓練生じゃないですよね。そうだったら私的には面白くないな」
「ちっ、違う…………ていうか、獅堂は女だ」
 あいつ相手なら――いや、それはそれで困った事にはなるが、今ほど悩むこともない。鷹宮のような男に相談することもない。
「ほぅ、では相手は男ですか」
「……し、知ってて聞くな、ここにいる訓練生で、残っている女は獅堂しかいないだろうが」
「いやだなあ、椎名さん。私が誘った時は知らぬ存ぜぬだったくせに、いつのまにこういう道へ」
「待て待て待て。誤解するな。俺は、違う、俺にはちゃんと女の恋人がいるんだからな」
「知ってます」
「………………」
 はぁっと溜息をつき、椎名は苦い顔で座りなおした。
「訓練生の中に………空自の名波一佐のご子息がいる。――名波暁。防大を首席で卒業したエリートだ。腕も悪くない――獅堂という別格と比べなければだが」
「彼が、お相手ですか」
 というか―― 一方的に、慕われている。
 椎名は眉をしかめた。
 最初から、どうもおかしな眼で見る奴だとは思っていた。
 切れ長の眼と薄赤い唇をもった男で、玲瓏とした面立ちをしていた。まぁ、綺麗な男、と言っていいだろう。線が細く、どこか女性的な繊細さがある。実際には女でも、そういう意味での繊細さがまるでない獅堂とは好対照だ。
 父親が空自の幹部ということもあって、名波は今回の訓練生の中ではリーダー的な存在だった。取り巻き連中も多く、いつも何人かでまとまって行動している。
「告白……?めいたことを言われたのが、一週間くらい前だ。その時は聞き流して、そのまま忘れきっていた。正直相手にしていなかったし、まぁ、少し傲慢なきらいのある男だからな、性質の悪い冗談だと思っていたんだが、―――そしたら……」
 つい、昨日のことだ。
 夕食後の自由時間。寮内の図書館で航空関係の図書を探していた――その時、突然背後から抱きつかれた。
「もう、吃驚するやら、動転するやらで、ちょっと………凍りついてしまったよ」
 椎名は額の汗を拭ってため息をついた。
「で?」
 鷹宮は身を乗り出す。その眼がきらきらと輝いているのを不審に思いつつ、椎名は続けた。
「とりあえず……相手の気持ちが落ち着くまで、そのまま待とうと思った。そしたらだな、何を勘違いしたんだか」
――――相手の唇が、近づいてきて…。
「俺は、無我夢中で逃げ出したよ。後のことは覚えていない」
「あっはははは」
 鷹宮は堪りかねたように笑い出した。
「椎名さんってば、最高だな」
「笑い事じゃない、俺は心底困ってるんだ」
「いやいやいや。椎名さんの進歩のなさに乾杯」
 鷹宮は喉の奥に笑いを堪えながら、コーヒーカップを眼の位置まで持ちあげる。そしてからかうような口調で続けた。
「で、それで私に何を相談されたいんです?」
「それは………」
 椎名は唇を閉じ、言いよどんだ。
「お前なら…そういうことは、経験豊富じゃないかと思って」
「ほぅ、」
「う、うまく……だな、その、……あとくされないように、事を収める方法はないものだろうか」
 鷹宮は黙る。
 気を悪くしたかな――椎名は少し心配になった。
 しかし、すぐに思い直した。芦屋での訓練生時代、あれだけ学生、教官、はては先輩整備士と…見境無く相手を変え、散々触手を伸ばしていた鷹宮である。そもそも椎名が理解できる範疇を遥かに超えた男なのだ。
 彼にとって、セックスの対象は男女の性別ではないらしい。
 というより、あえて、まともな恋愛から自分を遠ざけているようにさえ見える。
 一見してどこまでも真面目で優秀、他人を寄せつけない怜悧さを持つ鷹宮に――そんな隠れた一面があることを、当時は誰も見抜けなかった。
 しかし何故か鷹宮は、椎名にだけは本当の自分を晒していたようだ。その理由までは分からないが。
「じゃ、いい方法を教えましょう。あなたには、好きな男がいる」
「はっ??男??――ちょっと待て、俺には恋人が」
「まぁまぁ、インパクトの問題ですよ」
「インパクトぉ?」
「それに、そんなことじゃ、その坊やは諦めてくれないんでしょ」
「…………」
 それはそうだ。椎名自身に恋人がいることは、座学の時に、雑談ついでに漏らしている。
 でも――いや、だからこそ、そんな噂は間違っても立ってほしくない。
「男になさい。そうすれば坊やも納得。―――そして、相手はわ、た、し」
「……………悪い、冗談に付き合う気分じゃないんだ」
「いやだなあ。的確な相手ですよ。私相手じゃ、叶わないってすぐに諦めの境地に陥ります」
「冗談じゃない。お前とそんな噂が立ったら、俺は隊にいられなくなる」
 椎名は立ちあがった。
 やっぱり、鷹宮に相談しようとしたことが間違いだった。
「悪い、今の話は聞かなかったことに、」
「椎名曹長、ここでしたか」
 少し高い、東京訛りの強い声。椎名はぎょっとして振りかえった。
「探しました。ちょっと、お話したいことがあって」
 名波暁――華奢な体格だが、背は、軽く椎名を見下ろすほどある。
 細い眼は黒目がちで、まなじりがほんのりと紅い。――唇は、それだけみれば、女性と見がまうほどの色味がある。
「綺麗なひとじゃありませんか」
 鷹宮が小さく囁いた。椎名はそれには構わず、強張った笑みを浮かべて言った。
「悪いな、名波。今はこいつと大切な話の最中なんだ」
「終わるまで、待ちます」
「いや、長くなりそうだし」
「かまいません」
 凛として引かない眼――椎名は困り果てて、鷹宮を見る。
 名波とは、こういう男なのである。どういう育ち方をしたものなのか、自分の我が通るまでは、決して引かない。
「じゃ、こうしませんか。名波君。今夜椎名曹長の部屋でお話を聞いてもらう、ということで」
 傍からにこやかにそう言ったのは鷹宮で、仰天したのは椎名だった。
「……いいんですか」
 さすがに名波も驚いたのか、声のトーンが下がっている。
「いいですとも」
 と、さらに安請け合いするのも鷹宮である。
「たっ、たた、鷹宮、お前」
「いいじゃないですか。学生の悩みを聞くのも、教官の務めです」
――――じゃ、今夜…夕食後にうかがいます。
 そう言った名波の思いつめた瞳に、椎名は返事をすることができなかった。
―――こいつ……。
 名波が立ち去った後、思わず睨みつけてしまった――その鷹宮は、平然とコーヒーを口にしている。
「春ですねぇ……」
「夏だ、鷹宮」
 椎名は苛立ち紛れに毒づいた。


                   ※


 講義が終わったのだろうか。名波と入れ違うように、にぎやかな歓声と共に学生たちが食堂に入ってきたのはその時だった。
「名波君か……典型的な自己中心タイプ――相手の都合を考えずに押しまくるお坊ちゃまですね」
 その学生たちを横目で見ながら、鷹宮は呟いた。そしてほうっと息を吐く。
「困ったものだな」
「困ってるのはお前じゃなくて俺だろう。お前、適当なことを…」
「まあまあ、これも作戦ですよ。私を信じて」
「信じられるか――あ、」
 言いかけて椎名は眼を止めた。
 少し離れたテーブルについている学生たちの中に、獅堂藍の姿があった。
 珍しく神妙な顔をして、じっとこちらを伺い見ている。
 その獅堂は、椎名と眼が合うと――、軽く会釈してからグループのテーブルを立ち、早足でこちらに近づいて来た。
 椎名も、少し緊張して立ち上がる。
「獅堂、どうした」
「今の………名波さんじゃなかったですか」
 真剣な口調だった。まっすぐな眼差しと、わずかに紅潮した頬。
 講義の時間、学生は空自の記章が入った紫紺の上下の制服を着て、ネクタイを締めている。すらっとした獅堂の身体に、上下のスーツは似合いすぎる程似合っていた。
 名波の名前が出たことで、椎名は少し、どぎまぎする。
「そ、そうだが…」
「椎名曹長とお話されていたように見えましたけど」
「まぁ、そうだが」
「なんの、話だったんですか」
「なんのって…」
「あいつには、気をつけてください」
「は――?」
 それだけだった。獅堂は再び細い背中を見せて、グループのテーブルに戻って行った。
――――獅堂…?
 な、なんだろう。
 よく判らないが、あんな眼で、見つめられたのは初めてだ。
「いいですねぇ、椎名さんたら、もてもてで」
 鷹宮がからかうような口調で呟く。
 椎名は振りかえって――ただ、睨みつけた。

ext2 航空自衛隊松島基地
オデッセイ起動から
さかのぼること数年前――まだ、平和だった頃のお話。
 椎名恭介
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