三


 車の中の空気が妙に重い。
―――何があったんだろう……。
 蓮見は所在無く、シートに自分の背を預けた。
 運転席でステアリングを握っているのは、要撃戦闘機パイロットの椎名恭介だ。
 助手席に座っている遥泉。そして自分の隣に座っている右京。
 一様に暗い三人の横顔も、そして車に乗ってから今まで、誰一人口を開こうとしないことも、妙に気がかりで息苦しかった。
 掛かってきた電話に呼び出されたのか、右京は急遽、霞ヶ関の防衛庁に出頭することになったらしい。
 遥泉の口利きで、基地をぶらぶらしていた蓮見も、彼らの車に同乗することになったのはいいが――。
 隊服ではなく、黒に近いダークスーツを身にまとっている右京は、蓮見を振り返りもしなかった。ただ、きつく眉根を寄せ、車に乗る前も乗ってからも、一言も口を開こうとしない。
 比較的すいていた高速を抜け、そして車は都内の渋滞に巻き込まれた。
 その時点で、もう時刻は四時を回っていた。
「蓮見さん、ここで降りられますか、マンションはこの近くでしたよね」
 遥泉がそう言ってくれたので、蓮見は礼を言って車を降りた。
 右京に一言――せめて、次に会える時を聞きたかったが、この面子の前でそんなことを聞けないのは明らかだったし、右京もまた、顔を上げようともしなかった。
 溜息をついて夕闇の中を歩きだすのと――ポケットに入れていた携帯電話が鳴ったのが同時だった。


                  四


 電話の主は、これまた久しぶりに声を聞く桐谷徹だった。
(――――よう、お前、今日奏ちゃんの所に行ったんだって?俺も連絡取れねぇから苛々してたんだ、ちょいと会って様子でも聞かせてくれや)
 そして――今。
 その電話の誘いにやけになって応じたせいで、とんでもないことになってしまっている。
「蓮見さぁん、ホラ、しっかりして」
 鼻先に、濃い香水の匂いが立ち込めている。
「いや、本当にいいっすから」
 腕を振り解こうとしても、柔らかな女の手は、執拗に絡んで離れない。
 『お持ち帰りジャンケン大会?』に勝利を収めたまだ若そうな女は、ほとんど金色に近い髪とスレンダーなボディ、そしてそれを裏切るような豊満な胸の持ち主だった。
 どこまで冗談か本気かわからないまま、タクシーに一緒に乗り込んできて、そして、蓮見の肩に頬を預けたまま、ずっと腿のあたりに手を置いている。
―――まいったなぁ……。
 桐谷に拷問のように飲まされて、相当酔いが回っていた。
 加えて、まだ―― 一時溺れた右京との口づけの余韻が、痺れるように身体の奥に残っている。
 相手は、一年前の蓮見なら、迷うことなく手をつけていたであろう、割と好みのタイプの女。
 顔も身体も適当によくて、軽そうで、後腐れなさそうで。
「マジでいいから、あんたはこの金で帰ってくれ」
 大目にタクシー代を渡したものの、蓮見が自宅前で降りると、当然のようにタクシーを下車してついてくる。
「あのなぁ……」
「なによぅ、結構反応してたくせに」
 腕を絡め、女は鼻先に息を吹きかけてきた。
「警察の人でしょ、なんとなく判っちゃった」
「…………」
 これは蓮見も知っていることだが、水商売の女というのは、若く見えても意外なくらい頭がよくてカンが鋭い女が多い。
「足元ふらふらしてるわよぉ〜、部屋まで送ってあげるから、ね。それともここで大声だしちゃおっか、きゃー、助けて、へんな男に襲われました〜って」
「おいおい、」
「大変だよね〜、公務員の、しかも警察の不祥事なんて、三面記事のトップかも」
 くすくす笑って、女はさらに身体をすりよせてくる。
「まだ、ポケットに入ってるよ、アレ」
「…………」
「ママからのプレゼント、3個あるから3回できるねぇ」
「無理だっつーの、寝ちまうぜ、俺」
「いいよ、アタシが勝手に楽しむから」
「……はぁ……」
 蓮見は溜息をついた。腕を掴まれながらマンションのロックを解除して――まぁ、いいか、と思っていた。なんだか律儀に我慢していることが――バカバカしくなりかけていた。
 結局は、半年前と何も変わってはいなかったのだ。天国から地獄への突き落とし。これからまた、何ヶ月も電話を待つだけの関係が続くと思うとたまらない。
 この俺が、何て様だよ。たった一人の女にここまで振り回されて――冗談じゃない。
 腹立ちまぎれに、並び立つ女の肩を乱暴に抱き寄せた。
「一回だけ相手してやるから、さっさと帰れ、俺は女は部屋に泊めない主義なんだ」
「へぇ、ラッキ、でもなんで泊めないの?」
「寝起きに他人がいるって感覚が嫌なんだよ」
「ふぅん、へんなの」
 乗り込んだエレベータ―が、四階でガタン、と停まる。
 家賃十二万の2DKの賃貸マンション、築二十年以上だから、あちこちが黒ずんでがたがきている。蓮見の給料でぎりぎり借りられる都心近くの便利な場所。
「結構幸せ感じるけどねぇ、眼が覚めて、誰かが隣にいるってさ」
「悪いが俺は死んでもごめんだ。泊まりたいなら他当たってくれ」
「一人じゃないって、ほっとしない?」
「知るか、一人が好きな奴もいるんだ」
 鍵を差し込んで――気がついた。開いている?鍵がかかってない。
 蓮見は眉をひそめていた。
 おかしいな、確か家を出る前に、施錠だけは確認したはずなのに――。
 その時、唐突に扉が開いた。あり得ない事に内側から。
「ああ、遅かったな、桐谷さんと一緒だったのか」
――――…………。
 蓮見は凍りついていた。
 自分の周辺以外の時が、その瞬間止まったのかと思っていた。―――真面目な話。
 こいつは誰だ?俺の部屋で、俺のシャツを着て――冷静な顔で立っている女は。
 混乱して――現実が上手く受け入れられない。
「あなたが送ってくれたのか、すまなかった、礼は後からこの男にさせるから」
「あっ、は、はい、いえ、こ、これも仕事のうちですから」
 蓮見の腕から離れた女は――多分、右京の上背と美貌に圧倒されているのだろう。愛想のような曖昧な笑みを浮かべ、慌てて手を振っている。
「ちょっと、奥さんいるなんてルール違反よ」
 最後にそんな囁きが聞こえ、がつん、と脇腹を小突かれた。
 小気味よいヒールの音が、廊下に響きながら遠ざかっていく。
 蓮見は――まだ動けなかった。信じられなかった。
 何故、この女が、先ほどまで深刻な顔をして車に収まっていた女が――今、ここにいるのだろう。
 それに、この決定的にまずい状況を、どう言い訳していいか判らない。
 動かない蓮見を見て、右京はかすかに眉をしかめた。
「何をしている、ここはお前の部屋だろう」
「は、はぁ」
―――いや、その俺の部屋でそもそもあんたは、一体……。
 眩暈をこらえながら、玄関に入って扉を閉める。
「あ、あの……鍵、開いてたんすか」
 靴を脱ぎながら、おそるおそる聞いてみた。
 右京は、先に立って歩き、すでにリビングの扉を開けている。まるで自分の部屋のような手馴れた所作で。
「いや、閉まっていた」
「え?……じゃあ」
「遥泉が警察手帳を出したら、管理人が開けてくれた、少し無用心なマンションだな、気をつけた方がいい」
「………………」
 ちょっとまて。
 蓮見は、額を手で押さえた。
 それは、思い切り犯罪行為ではないだろうか。
 信じられない。警察庁の元エリート二人が、な、なんつーことを……。
 ふらふらとリビングに入り、そしてさらに目を丸くした。
―――おい、ここって、俺の部屋……のはず、じゃ……。
 どこもかしこも一部のすきなく片付けられている。
 適当に積み上げていた台所の皿も、ゴミの山も、週末にコインランドリーに行こうと思っていた衣服の山も。
「…………」
 嘘だろ……。
 右京を見る。女は蓮見の表情の変化が理解できないのか、すこしいぶかしげな目をして立っている。
 まさに悪夢だと思った。
 寝るためだけに借りたような部屋だから、むろん、たいしたものは置いてない。
 が、やはり触れて欲しくないものもある。特に、好きな女には。絶対に見られたくないものだってある。
「う、う、右京、さん……」
 なんと抗議していいか判らず、そのまま背後のソファに腰を落としていた。
 最低だ、こんなに何もかも、一時に、全ての弱味を見せてしまった。というか、見られてしまった――。この形勢をどうやって逆転したらいいものか、もはや見当さえつかない。
「悪かったかな、今夜は三人とも、こっちで泊まることになったんだ、明日の朝一番で基地に戻らなければならないんだが」
 頭上から、右京の気遣わしげな声がする。
「いや……、もう、いいっすから」
 蓮見はうなだれたままで、そう答えた。
 惚れた弱味とはこんなものなのだろうか。他の女なら、怒って追い返して、二度と会わないくらいのことをされたのに、不思議と少しも腹が立たない。ただ――ひたすら情けないだけだ。
 はぁ――。
 溜息をつきつつ、立ち上がって上着を脱ぐと、それを右京が受け取ってくれた。
「あ、……ど、も」
 そのシチュエーションに、少しだけドキっとしている。
 なんだろう。まるで――結婚?でもしたみたいだ。そんなもの、一生縁がないと思っていたのに。
 視界に映る右京の髪が、少しだけ濡れている。
 それだけで、眼の眩むような欲望を感じていた。
 シャワーでも浴びたばかりなのだろうか。着ている服は蓮見が買ったTシャツとカーゴパンツで、それは右京の長身によく似合っていた。
―――い、いいのかな。
 自分の中に込み上げたものに戸惑って視線を逸らす。
 でも。
 これはもう、オッケーサインってことだよな。
 こんな風に、俺の――部屋で待っててくれたってことは、その。
「ふぅん……どうやら私は、お前の楽しみを奪ってしまったようだな」
 蓮見の上着をハンガーにかけていた右京が、ふいに冷めた声で呟いた。
―――えっ?
 目をすがめた女が手にしているもの。
 蓮見は驚愕して眉を上げた。
「わ、わーっ、ちょ、それは、ち、違うんです、その、勝手に入れられただけで」
 さすがに赤面して駆け寄っていた。
 手のひらから、その――忌わしいものを掴み取る。
「税関で掴まった薬の売人みたいな言い訳だな」
 右京の声は普段通りだった。それどころか、少し楽しそうな目をして見上げている。
 からかわれていると感じた蓮見は、初めてかっとくるものを覚えていた。
 この女―― 一体俺を、なんだと思ってんだ。
 人のテリトリーに勝手に踏み込んできて、ちょっと俺が――ちょっと、その……惚れてるからって、なめてんじゃないのか?
 あんな場面を見ても冷静で、あんなものを見ても、かすかに笑って気の利いた嫌味が言える女。
 多分、俺が思うほど――この女は俺のことが好きなわけじゃなくて。
 腕を引いて、そのままリビングの床に組み敷いていた。
 少し驚いたようだったが、右京は抵抗しなかった。
 唇を塞いで、シャツに手をかけたところまでは覚えていた。後は――自分でも何をしているかよく判らなくて――。
「お酒の匂いがするな……」
 耳元で呟くような声を聞いて、初めて蓮見は我に返っていた。
 酒――、そうだ、あれだけ飲まされたんだから、多分全身にアルコール臭が染み付いている。
 アルコールと、香水、薄汚い夜の匂いが。
「…………」
 蓮見は無言で身体を起こした。自己嫌悪と、多少のアルコール中毒で、頭の芯ががんがんしていた。
 目の前に仰臥したままの、右京の顔が直視できない。
 多分――本気で抵抗されたら、鼻骨くらいへし折られていただろう。
「……悪かったっす……その……、」
「いいよ」
 髪の乱れを直しながら、右京は何事もなかったように身体を起こした。
 怒っている風でもなく、悲しんでいる風でもない。でも、その横顔から感情を読み取るのは難しかった。
「明日は出勤だろう、風呂が沸いてるから、入って寝ろ、隣の部屋に布団を敷いておいてやるから」
「…………」
 少し驚いて顔を上げていた。
 何故か、右京のその口調に、もう長いこと会っていない、郷里の母親のことを思い出している自分がいた。
 ああ、そっか、そういやこんな女だった。口やかましくて、おせっかいで、人の話なんて、これっぽっちも聞いてくれなくて。
 リビングを出る間際、思い切って聞いてみた。
「あの……し、右京、さんは」
「悪いが泊めてもらってもいいか。私はもう少し起きていたい、仕事を持ち帰っているんでな」
 さっさとソファに腰掛けた右京は、そう言って(いつの間に出していたのか)ノートパソコンの電源を入れた。


                 五


 どうして、この女は帰らないんだろう。
 ここに――何をしに来たんだろう。
 で、俺はなんで、一人きりで莫迦みたいに寝ているんだろう。
 と、とりあえず、未遂みたいで、よかったな……。
 色んなことを悶々と考えている内に、何時の間にか、蓮見は熟睡してしまっていた。
 朦朧した意識の中で、やはり母親の夢を見ていた。山陰の漁村が、蓮見の生まれ故郷だった。漁村の朝は早い、いつも目覚めたら――暖かな朝食の匂いが、部屋の中に立ち込めていて。
 別にそんなもの、懐かしいともありがたいとも思ったことは一度もないのに。
「…………」
 隣室から漏れる明りと微かな音楽。
 蓮見はぼんやりと目を開けた。
―――あれ、隣に……誰かいるんだったっけ。まさかお袋じゃないよな。
 まだ、現実と夢の区別がつかない。
 聞こえてくる音楽。なんの曲だろう。曲だけじゃなくて、声も、―――ドラマか、映画か……。思い出せない。テレビ――つけっぱなしで寝てたんだっけ、俺。
「…………あれ?」
 そして……ようやく我に返って跳ね起きた。
 全ての記憶が鮮明になる。桜庭基地で右京と口づけて――それから、桐谷のおっさんに拷問のように飲まされて、それから――。
 それから?
 起き上がり、夢か?いや現実だよな、いや、やっぱ夢だったのか――?思考がぐるぐると、同じところで回転している。
 現実だとしたら、とびきりの悪夢だよな――そう思いながら、覚悟を決めて立ち上がった。
 薄いすりガラスの仕切り戸を、眼をつむるような気持ちで開ける。
「なんだ、起きたのか」
 静かな声が返ってくる。
 部屋の中は薄暗く、テレビだけが煌々と輝いていた。
 夢ではなく、現実にまだ、右京奏はそこにいた。
 最後に見たままの衣服を着て、ソファに背を預け、肘で頬を支えながら、所在無くテレビに見入っている。
 そのテレビの画面を見て、驚いた蓮見は思わず口を開いていた。
「あんた……まさかと思うけど、そんな、子供みたいなものを観てるんですか」
 映っているのは昔のアニメ映画だった。蓮見は目をすがめる。
 なんだったっけ、タイトルがここまで出てくるのに思い出せない。何度かリメイク版が放送されて、子供の頃好きだったアニメ。
「これしかやってないんだ、ケーブルくらい引いておけ」
 右京はそっけない声で言う。
「うるさいなぁ、滅多にテレビなんて観ないんすよ」
 言い返しながら、壁に掛けてある時計に眼をやった。午前四時。―――嘘だろ、オイ。
「……あんた、寝ないんですか」
 さすがに呆れて聞いていた。まさか、プライベートまで寝ない女だったのか、と思いながら。
「うん……まぁ、なんとなくな」
 右京らしからぬ曖昧な答え方。
 ようやく蓮見は、気がついた。一組しかない布団を自分が使っていたから――。二人掛けの小さなソファ、確かにこれでは、眠ろうにも窮屈だろう。
「あ……いや、すいません、気がつかなくて。俺はもういいっすから、あっちで寝てください」
「…………」
 右京は答えない。じっと怜悧な目が見上げている。蓮見は頬が熱くなった。
「あの、もう、本当に何もしませんから、ハイ、さっき俺、ちょっと酔ってて……反省してます、マジで」
「気にしてはいない」
 女は再び静かな眼差しを画面に戻した。
「続きが気になるんだ、最後まで観たい」
「はぁ……」
 真面目なのかふざけているのか判らない。右京と子供アニメ?なんだか狐に騙されたようだ。
 仕方なく隣室に戻り、蓮見は夏用の掛け布団を手にして再びリビングに戻った。秋のはじめとは言え、明け方は少し冷える。
「これ……、使います?」
「うん、ありがとう」
 素直に伸びた手が蓮見の渡した布団を掴み取る。
 着ている服のせいだろうか、子供みたいに癖のないまっすぐな髪のせいだろうか。ソファの上で膝を抱えて座る女が――まるで、別の人のように思えてしまう。
「お前、このラスト、知ってるか」
「はぁ、……多分、ええと、確かこの悪い男が時計の」
「いい、誰がオチを言えと言った」
「…………最初に聞いたの、あんたじゃないすか」
 いつのまにか蓮見も右京の隣に腰掛け、その古いアニメ映画に見入っていた。
「うわ、結構はらはらするな」
「昔のものって言ってもあなどれないっすよね」
 相当古い映画だった。すでにどの声優も亡くなっている。彼らの賑やかな声が静まり返った部屋に響く。
「あ、俺、この刑事に憧れて刑事になろうって思ったんですよ」
 はっきり蘇った記憶を手繰りながら、蓮見は登場人物の一人を指差した。
「こんなオヤジにか」
 呆れたような声が返る。
「いや、この人マジでかっこいいんすよ、ラストのセリフが泣かせるんです、それが」
「だから、誰がオチを言えと言った」
「…………ハイハイ」
―――結構、普通だよな。
 頬杖をつきながら、蓮見は、横目で女を伺い見た。
 こんな時間が自分と右京の間にあることが、まだ、どうしても信じられない。
 なんだかものすごく普通に、恋人みたいなことを、しているのではないだろうか。
「寒かったら、使え」
「え、はぁ」
 右京が膝にかけていた薄い掛け布団を半分ほど渡される。
 少しだけ距離を縮めると、隣に座る女のぬくもりが伝わってくるようだった。
「…………」
 手を、繋ぐ。
 乾いていて、冷たい指先。
 右京は何も言わなかった。
 エンディングロールが終わって、テレビ放送が終わる頃、自然に肩を抱いて、そのまま唇を重ねていた。
 抱き締めあう体が、少しだけ緊張しているのが、たまらなく愛しい。
「……後悔、しても知らないぞ」
「それ、男のセリフなんすけど」
 苦笑が漏れた。
 白い素肌に、唇を寄せる。
「私は、多分……」
「ん……?」
 可愛い。
 好きで、好きで愛しくてたまらない。
 抱いて、壊して、そのまま自分の中に入れてしまいたい。
「……この先、お前を相当苦しめると思う、絶対、いつか、後悔させる……」
「もうすでに後悔してるよ」
 額を寄せ合って、かすかに笑った。
 その余裕さえ、次第になくなって、互いのキスの温度が熱くなっていく。
 不思議だった。
 防衛庁の廊下で初めて会った時、蓮見にとってこの女は、異性人より遠い未知の存在だった。多分、女にとっての自分も、異世界の人程度の存在だったはずだ。
 それが今、素肌になって抱き合って、互いの呼吸と温度を同じ鼓動で感じあっている。
「っ……ん、」
「右京、」
「………蓮見…」
 肩に添えられた女の指に、かすかな力がこもっている。
 不安なのか、初めて見るような心もとない目が見上げている。
 その額に、頬に、口づける。
 苦しいのは、むしろ蓮見の方だった。
 初めて見せてくれる表情も、声も、吐息も、素肌も、何もかも愛しい。愛しすぎて。
「俺……」
「え……?」
 確かにもう、後悔している。
―――こんなに好きになって、やばいくらいのめりこんで。
 歯止めの利かなくなりそうな自分が怖い。
 こんな恋愛をしたのは、生まれて初めてだった。


                   六


 眼が覚めたら、もう八時を大きく回っていた。
―――遅刻だな、こりゃ……。
 仰向けに倒れたまま、蓮見は所在無く髪をかきあげた。
 右京が出て行ったのはなんとなく覚えている。
 目は覚めていたが、寝たふりをしていた。
 そうでもしなければ、未練でどうにかなってしまいそうだったから。
「…………」
 どうしたんだろう。
 一年以上ぶりに満たされた時間を過ごしたのに、何故こうも虚しいのだろう。
 どこかすっきりしない気分のまま、重い身体を無理に起こし、隣室のリビングに足を踏み入れた。
 そして、少し驚いていた。
 机の上には、茶碗と汁椀、そしてラップしてある胡瓜の漬物……?らしきものと、卵焼き。
「うそだろ、……おい」
 いつこんなものを作ったんだろう。今朝そんな時間はなかったはずだ。じゃあ――昨夜?明け方目覚めた時、部屋の中に妙に懐かしい空気が立ち込めていたのは――そのせいで。
「…………」
 伏せられた茶碗の横に、小さなメモ紙が添えられている。
 蓮見はそれを手にとってみた。
『昨夜は世話になった。盗まれそうなものは何もないので、鍵は開けておく。また連絡する。』
「はっ……はは」
 苦笑がもれて、蓮見はそのままテーブルの上に並べられたものに目をやった。
―――重たい女。
 初めてさせた男にこんなに尽くして、莫迦だよな。恋愛の駆け引きさえ知らない女。
「…………」
 明け方見た映画のラスト。蓮見が好きだった中年刑事が吐いた最後のセリフ。
「……何が盗むものは何もないだよ」
 こんなに虚しくて辛い理由を、蓮見は初めて理解した。
「……返しやがれ、莫迦右京」
 元警察官僚のくせに、持っていかれた。もう会わないでは、抱き合わないでは取り戻せないものを――。


                   七


「なんだか、さっきから、溜息ばかりついているな」
「まぁ、色々と」
 気にしないで下さい。
 運転席の遥泉雅之はそう言って、ハンドルを右に切り込んだ。
 声は穏やかだったが、バックミラー越しに見える目は笑っていない。
「……?」
 今朝からの態度に一抹の不審を感じつつ、右京は腕時計に目をやった。
「やはり都心は込んでいるな、もう少し早く出ればよかった」
「いえもう、そんな無理をなさらないでも」
「…………?」
 さすがに眉を寄せて運転席の男を見たが、男は何気ない風に話題を変える。
「椎名さんは、色々手続きがあるので、今日も一泊するかもしれないと言っていました」
「急な話だったからな……」
 そう、色んな意味で全てが急に決まってしまった。
 覚悟はしていたものの、さすがに昨日は、気持ちを整理するのに時間がかかった。
 黙った右京の気持ちを察したのか、遥泉が、初めて苦い口調で言った。
「……あなたが決められたことだから、私がどうこういう事ではありませんが」
「……もう、その話は」
「私は知っています、真宮兄弟が、検査と称してどんな過酷な実験に耐えているのか、それを――あなたがさせられると思うと」
 心の底から搾り出すような、悔しげな声だった。
「判りません、どうして二人の身代わりになって、アメリカに行く事にされたんですか。あなたのことは――まだ、公にはなっていないのに」
「……あの二人と私は違う。私なら大丈夫だ」
「しかし、」
「私がどうして、警察庁や防衛庁の要職ばかり経験してきたと思う」
 右京は外を見ながら、わずかに笑った。
「それが私の実力だと思うか?そうではない、全ては父のごり押しがあったからだ」
「…………」
「だから私は、上の連中から蛇蠍のように嫌われていたんだ。でも父は、そうまでして私を上へ、国家の中枢へと押しあげようとした。わかるか、遥泉、それが私が、私自身を守る唯一の切り札になるからだ」
 右京は、昨日会ったばかりの父の顔を思い出していた。ひどく痩せて――白髪の増えた父は、初めて自分の病を告白し、今日が今生の別れになるな、と言って笑っていた。
 桜庭基地を出てすぐに中国に飛んだ父は、最期の命を世界平和のために役立てようとしている。
「私の頭には、日本が――同盟国アメリカにさえ漏らせない、あらゆる国家機密がインプットされている。防衛庁も警察庁も、決して私を切れないだろう。私の身柄は、最大限に保障されるはずだ」
 遥泉は、もう何も言おうとはしなかった。
 昨夜、強引に蓮見の部屋の鍵を開けてくれた男は、どこか沈鬱な目を、バックミラーに映していた。
 車が、混雑を抜けて高速の入り口に入ろうとしている。
「ああ……」
 右京は小さく呟いた。
「どうしました?」
「いや、……忘れ物をしたと思っていたんだが」
「え?」
「それが何か思い出せなかった、今思い出したよ」
「戻りましょうか、まだ時間は余裕がありますし」
「いや、いいよ」
 取り戻せないものなんだ。
 それは、心の中だけで呟いた。
 この遥泉さえ、知らないことが、この先――自分を待ち受けていることを、右京はよく知っていた。
 あの男には、なんと言って伝えたらいいのだろう。もう――二度と会えないということを。
 朝の陽射しが強くなりかけている。
 今日もいい天気になりそうだった。
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