十六


 朝から晴天の一日だった。
 深く、濃く、南国の空を思わせる青空。
 先週まで、関東全域を覆っていた台風は過ぎ去り、鮮やかな秋晴れの一日になりそうだった。
 獅堂は格納庫の壁に背を預け、ぼんやりと空を見上げながら、自分の出番を待っていた。
 他のパイロットに交じって、行進のセレモニーに出たばかりだった。基地内は全国から押し寄せた航空ファンで膨れ上がり、その他、マスコミや、警備担当者がひしめいている。
 隊列を組み、敬礼をする獅堂たちの前で、ほんの二ヶ月前に防衛庁長官に就任したばかりの、青桐要が訓示を述べた。
 あまり言葉の意味は判らなかったが、大和が言っていたとおり、軍人には似つかわしくない、インテリ風の――優しげな男だった。すらりとした長身に、紳士的な語り口。若い頃はさぞかしハンサムだったのだろう。
 最後に、獅堂の横を通り過ぎたとき、多分―――女性であるということと、ある程度有名だということもあってだろう。青桐は、獅堂を横目で見て、かすかに笑みを浮かべてくれた。
 まぁ、だから何だ、ということもないのだが。このスマイルに、主婦なんかはきゃーってなるのかな、などと、くだらないことを考えてしまっていた。
 その青桐の背後に付き添うように、黒服を着た蓮見の姿が見えた。
 彼が向かった貴賓席には、その他にも防衛庁のお偉方が控えていて、おそらくその中には、鷹宮も――そして、獅堂が会いたくないと思う男もいるに違いない。
 その後は、広場で、押し寄せた観衆たちに取り囲まれ、握手やサイン攻めにあった。
 それもドルフィンライダー。ブルーインパルスで、アクロバット飛行をするライダーたちの仕事のひとつである。
 子どもに夢を与え、そして、空自の仕事を、ひとつでも国民に理解してもらわなければならない。
 まぁ――獅堂の場合、子どもよりは若い女性や成人男性に握手を求められる方が多かったのだが。
「アイちゃん、頑張るのよ」
 遠くで、トシちゃんが手を振っているのが見えた。あ、あのおっさん、こんなとこまで……と、思わず赤くなったが、正直嬉しかった。
「獅堂さーん」
 大和と、―――多分、彼が念仏のように唱えている妻と子の姿もあった。基地内では考えられないようなオヤジくさい服を着て、マイホームパパ、といった感じで手を振っている。
「頑張ってくださいね」
 挨拶にきてくれたのは、百里で別れた吉村三佐だった。今は退官して、嘱託で航空学校の教官をしているはずだ。
「さっき、後藤田さんに会いました。百里の飛行隊の奴らも、休みが取れる者は全員来ているそうですよ、みんな、なんだかんだ言っても、あなたのことを尊敬してるんですから」
 みんな、いい奴らだよな。
 獅堂は、今の仕事を選んだ自分を、初めて誇りに思っていた。
 どうせ大学に行くことはできないし――駄目元で受けた試験に通って、椎名に出会ったのが全ての始まりだったような気がする。
 鷹宮に出会って、オデッセイのみんなに出会えて、色んな人に、色んなことを教えてもらいながら、ここまで来た。
 右京さん、蓮見さん、遥泉さん、桐谷さん、相原に小日向、嵐、――みんな、出会えた人たちは、みんないい人たちばかりだった。
 それから、
 真宮に会えた。
 獅堂は、胸につけたペンダントを握り締めた。
 佐々木に返してもらってから、初めて身につけるペンダント。
 なんとなく、これをつけるのが楓に悪いと――ずっと思っていた。でも、もうそんなことはどうでもいい。楓と別れたからそう思うのではない。
―――悪いと思う必要は、最初からないんだ。
 自分が――好きなのは、楓一人だけだから。
 嫌われても、疎まれても、この気持ちは、変わらないと誓えるから。
 離れてみて、初めてそれが判った気がした。
 自分が危機に陥っても――楓は助けてくれないかもしれない。助けて欲しいとも思わないのかもしれない。
 それが、最初はショックだった。楓に言われたことではなく、自分が――鷹宮の顔を思い浮かべたことが、である。
 でも、気づいた。
 自分は――究極的には、誰にも助けられたいとは思わない、誰の手にもすがりたいとは思わない。そんな弱い自分は嫌だ。空を飛ぶ限り、常に孤独でありたいし、より強くありといと思う。
 嵐と自分が共に溺れるようなことがあったとしても、そもそも、自分を先に助けて欲しいとは思えない。逆に、先に助けられることだけは、絶対に拒否するだろう。
 そして―――楓に何かあれば、自分は、それが地の果てであっても、駆けつける。
 自分がそう思える相手は、この世界に一人だけだ。命に代えても守りたいと思う相手は、楓一人だ。それだけで――それ以外に、何がいるというのだろう。
 呼び出しのブザーが鳴る。
 獅堂ははっとして我に返った。
 様々な思いが交錯して、胸がいっぱいになっている。
「…………」
 用意された機体に向かって歩き出しながら、獅堂はわずかに眉をひそめていた。
 センチメンタルな思いは、地上を出たら振り切らなければいけない。
 今日の自分は、いつもとどこか違う。―――こんな精神状況で空に出る自分に、初めて獅堂は、一抹の不安を感じていた。


                 十七


「冗談じゃない」
 楓は、怒りと困惑の余り、運転中の嵐が握るステアリングに手をかけた。
「ばっ、死にたいのか、楓」
 嵐は慌てて、車を道路脇に止め、エンジンをストップさせる。
 山道を抜ける旧国道。一本道に、他に車の影はない。
「卒論のお礼に、ドライブに行こうっていうから何かと思えば……」
 楓は、助手席のドアを開けて、外に出た。
「お前、松島に向かってるだろ、ふざけんな、どうして俺が行かなきゃいけないんだ」
「楓、いいじゃないか、遠眼から見るだけだよ、別に獅堂さんに会うわけじゃない」
「遠目も何も、こっからどんだけ離れてると思ってんだ、間に合うわけないだろ、莫迦」
「楓、だから――さ」
 その嵐の声を無視して、楓は、逆方向に向かって歩き始めた。
 今日が――ブルーインパルスの引退式だということは、さすがに記憶している。
 ドライブ?とけげんに思いながら、うかうかと出かけたのが莫迦だった。
 まさか嵐が――誰よりも自分を理解しているはずの男が、こんな小細工をするとは夢にも思っていなかったからだ。
「楓、おい、意地を張るのもいい加減にしろ」
 背中から困惑した声がかかる。それを完全無視して、楓は、歩き続けた。とにかくタクシーが拾えるところまで歩いて、そこから自宅まで帰るつもりだった。いくらかかろうと、知ったことではない。後で全部嵐に請求してやる。
「いいか、君はな、ただ逃げてるだけなんだよ、獅堂さんから逃げてるだけなんだ」
「……うるさい、」
 そんなことは判っている。
「何が獅堂さんのためだよ。君が考えてるのは、自分の保身のことだけだ、自分が楽になりたいから、獅堂さんに惚れた自分に眼を逸らしてるだけだ」
「……うるさいな、もう、いい加減にしてくれ」
 振り払っても振り切っても、声だけがしつこく追いすがってくる。
「あの人が、自分の失うものと引き換えにしても――君を選んだことを、その覚悟を、君は全部無駄にするつもりなのか、そんなに辛いのか、苦しいのか」
「…………」
「君はな、初めての恋に戸惑ってる子どもだよ。初めて自分より大切なものができて――その感情が恐くて恐くて仕方ないんだ。そうだよ、君は、獅堂さんを失うのが怖いんだ、恐くなったんだ」
「……嵐、」
「怖いから、自分からあの人の手を切ったんだ。そうだろう?それはな、ただのガキの発想だ。かっこつけて、自分のみっともないところから目を逸らしているだけなんだよ」
「―――嵐!!」
 足を止めていた。
 振り返り、追いかけてきた嵐の襟首を掴み上げていた。
「怒るのは図星だからか」
 ひるまない目が見下ろしている。
 楓もまた、燃える目で弟を睨みつけた。
「……俺の気持ちが、お前に判ってたまるか」
「―――判ってるよ、判らないはずがないだろう!」
 一転して激しい口調になった嵐。
 腕を振り解かれ、肩を強く抱かれ、圧倒的な体格差に、楓は抵抗する術を失った。
「楓、君の思いは僕の思いで、僕の思いは君の思いだ」
「…………」
「君の考えてることくらい、知りたくもないのに、全部僕にはわかるんだよ、君だってわかるだろう、今――僕が、どんな思いで、松島に向かっているのか!」
「…………」
 判る――それは、判りすぎるほどに、判る。
 弟の気持ちを思い、楓は力なく顔を逸らした。
 するとようやく――嵐が、肩から手を離してくれる。
「行こう、楓。とにかく、獅堂さんに会いに行こう」
「駄目だ、嵐」
「楓、」
 苛立った声、楓は視線でそれを制した。
「……例え、お前の、言う通りだとしても」
 ゆっくりと首を振り、苦渋の思いを噛み締めながら、低く呟く。
「……それが、獅堂さんのためだと思ったのは嘘じゃない。……俺はあの人を」
 ぐっと拳を握る。強く握る。
「俺は、これ以上、苦しめたくない、辛い思いをさせたくないんだ、判ってくれ、嵐」
「……楓……」
 うつむいた嵐が、かすかに息を吐く気配がする。
 わずかな沈黙の後、最初に口を開いたのは、その嵐だった。
「だったら、待っててあげればいいじゃないか」
「……待つ…?」
「君以外の誰が、空から帰るあの人を待つんだよ。なぁ、楓、獅堂さんが何か、それ以上のことを君に求めたのか?あの人が、君に、傍にいる以上のことを、……望んだりしてると思うのか」
「…………」
「獅堂さんを悲しませるのも、喜ばせるのも――それが出来るのは、君だけじゃないか、楓」
「…………」
 そんなことは――。
 判っている。
 楓は、言葉にならない思いを噛み締めながら、ただ、眉を寄せていた。
 判っていても、別れを選ぶしかなかったのは、確かに自分の弱さなのかもしれない。
 嵐の言う通り、逃げただけなのかもしれない――。
 それでも――。
 それでも、あの人にふさわしいのは、やはり自分ではないような気がする。
「……嵐、とにかく、今は戻ってくれ」
 楓は力なく呟いた。
「まだ、気持ちの整理がつかない。……まだ、駄目だ、……今は、会いたくないんだ、獅堂さんには」
「楓、」
 嵐が何か言いかけた時だった。
 場違いに軽快な明るいメロディが、その腰ポケットあたりから流れ出す。
 それは、嵐の携帯電話の着信音だった。
「……ちょっと、ごめん」
 自分に背を向けた嵐が、携帯を耳に当てる。
 その不自然な所作に、楓はわずかな疑問を感じた。
 こいつ――まだ何か、俺に隠してるんじゃないか……?
 けれど、嵐の背中が、ふいに緊張で強張った。
「それ、確かですか、間違いないんですか、」
 怖いくらい張り詰めた声。
「すぐに行きます、何か判ったら、すぐに連絡してもらえますか、はい、楓も連れて行きますから」
「嵐、」
 楓が声をかけるのと、嵐が振り向くのが一緒だった。
 その顔は、初めて見るような、激しい動揺を露わにしていた。
「君が運転……いや、僕が運転しなきゃな、とにかく急ごう、ぐずぐずしている暇はない」
 そう言いながら、嵐の脚は、車のある方とは逆方向に進んでいる。
「嵐、」
 楓は、嵐の腕を掴んだ。嵐は――めったなことでは、顔色を変えない男は、それでもぼうっとしたまま動こうとしない。
「なんだよ、……何があったんだよ」
「…………」
「嵐!」
「……獅堂さんの操縦する機体が、トラブったらしい」
 凍りついたような横顔が、沈鬱な声を出した。
「…………嘘だろ」
 喉の奥に石が詰まったようになって、それだけしか言えなかった。
「演技が終わって……いったん上げた高度を下げる途中に失速して、山間部に墜落したんだそうだ。……獅堂さんは……まだ、行方が判ってない」


              十八


「エンジン停止、飛行継続は無理のようです。このまま旋回し、滑走路に緊急着陸します」
『原因は判るか』
「デ・コンプレッション。すいません、そっちの声が聞き取れません」
『……獅堂、空中でエアスタートを試してみろ、聞こえるか、獅堂』
「……与圧計の故障かな、すいません、滑走路は無理です。コントロールが利きそうもない、このままだと、見物客を巻き込みかねない」
『獅堂!!』
「高度はぎりぎりですが、河川に不時着して、ベイルアウトを試みます」
『こっちの声が聞こえるか、獅堂』
「すいません、国家予算を一台無駄にします。命に代えても、民間人に巻き添えは出しません」
『その高度で、ベイルアウトは無理だ、―――獅堂!』

 これで、生還できたら奇跡だな。
 使い物にならなくなったリップマイクを外し、獅堂は大きく深呼吸した。
 今ごろになって、全身の血が激しく逆流し始めている。
 やってやる―――という、焔にも似た思いが、指の先まで張り詰めている。
 これだよ。
 白く濁ったキャノピーから、地上の緑が透けて見える。
 この感じだ、この昂揚感と緊張。この感覚を――自分はずっと、忘れていた。
 死ぬだろう。構わない、民間人に、民間家屋に、わずかな被害さえ出さなければ――死ぬ事などなんでもない。
 空自が発足してから百年足らず、戦争が出来ない空自に戦死者は一人もいないが、事故による殉職者は千人を越えている。
 ババを引く――とは、墜落した機に当たったパイロットたちの隠語だが、運悪くババを引いてしまった先輩パイロットたちの思いも、今の自分と同じだろう。
 命に代えても、人家や民間人に巻き添えは出さない。それだけである。
 高度は、ベイルアウトできる限界を超えていた。
 しかし、ここで機を棄てれば、コントロールする術を失った機体は、巨大な火の玉となって、見物客の真っ只中に突っ込んでいく可能性がある。
 冷静な眼で、高度計とコントロールパネルを交互にチェックし、獅堂は、操縦桿を握り締めた。


                 十九


「楓、道、判るのか」
「煩いな、黙ってろ」
 ステアリングを握ったのは、今度は楓の方だった。
「……楓、速度」
「黙ってろっつってんだろ!」
 呆けた嵐は、アクセルとブレーキを踏み間違えて、危うくセンターラインを超えてしまう寸前だった。こんな時でも、冷静にステアリングを握れる自分を不思議に思いつつ、楓はさらにアクセルを深く踏み込んだ。
「……嫌な事、思い出したよ」
 限界まで回されたエンジン音の中、殆んど聞き取れないような、静かな声が隣から聞こえた。
「父さんが言ってたことだ……人という種は強いようで儚い。今でも、僕は悔いている。どうしてあの時……無理にでも、父さんの言い残したかったことを聞かなかったんだろうって」
「何、縁起でもないこと言ってんだよ」
「なぁ、楓、後になって、どれだけ悔いても遅いんだ。本当に失ってから、亡くしたものを惜しんでも、なんの意味もないことなんだ」
「……黙れよ、頼むから」
 死ぬはずがない。
 楓は自分に言い聞かせていた。
 あの――悪運だけが強い女が、こんなことで死ぬはずがない。
「人の命なんて儚いよ。僕たちには今しかないんだ。いや、人間なら誰だって、今しかない。今の気持ちを……大事にしないで、どうするんだよ」
 轟音にまじり、再び、嵐の携帯電話が鳴る音が響く。
 思わず緊張し、楓は指を強張らせていた。
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