二十
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「……久々に、心臓が止まるかと思いました」
「いやぁ、心配かけちゃって」
獅堂は、運び込まれた市内の総合病院―――その五階にある病室のベッドで、半身を起こしていた。
式典と、事故の処理、そしてマスコミ対応で忙しいはずだろうに、すぐに駆けつけてくれた鷹宮は、傍らの椅子に腰を下ろし、安堵の笑みを浮かべている。
よほど急いで来てくれたのか、男は、空自の制服のまま、手袋さえ外してはいなかった。
「それにしても」
ふいに笑みを消して、腕を組み、鷹宮は呆れたように呟いた。
「普通なら死んでます。信じられませんよ、かすり傷程度ですむなんて」
「それ、もう、先生にも散々言われましたから」
「前から思っていましたが、あなたには、強い生き運がある。……それもペンダントの効果かもしれませんね」
そう言われ、思わず胸元に手を当てていた。検査のため、もうペンダントは外している。でも――鷹宮なら、今日、自分がそれをつけていたことを、知っていても不思議はない。
「……椎名さんに……感謝しなきゃな」
獅堂は、自嘲気味に笑い、そして、自らの身に起きた幸運を振り返った。
風向きがおかしくなったため、高度を予定より上げていたのが、まず第一のラッキーだった。
さらに、急激に失速した機体を、目標の河川まで持たせようとしたのだが――それが間に合わなかった事が、結果として、生死のターニングポイントとなった。
方向転換し、目標を山の傾斜面に向けた。無人の山で、そこには電圧塔が建てられているだけだ。それだけを認識し、後は駄目元でベイルアウトを試みた。
パラシュートが開ききる高度ではなかった。多分――目標どおり河川に不時着をしていれば、確実に死んでいただろう。
パラシュートが半分開いた状態で――何かに身体が引っかかった。柔らかくバウンドし、あれ、と思った時には、頭上に青空が開けていた。
木の枝に――パラシュートが引っかかったのだ。
墜落した機体からは流されて、距離が開いていたから、爆発に巻き込まれることもなかった。本当に――奇跡のような生還劇だった。
「自分でも吃驚しましたけど……空では、ああいうこともあるんですね」
「あなたは、空の天使に守られているんですよ」
「なんすか、それ」
笑いながら顔を上げると、鷹宮が、じっとこちらを見つめている。
その――場違いに静かな眼差しに、少しどきまぎして目を逸らしていた。
「な、なんすか、やだな、顔に瑕でもついてますか」
男は、やはり静かな眼のまま、微かに笑う。
「いいえ、……なんだか、すっきりした顔になられたな、と思いまして」
「…………」
「迷いが晴れた、そんな眼をしていますよ。死にかけて、何か気づいたことでもありましたか」
「…………」
本当に、この人は鋭いな、と思う。
多分、誰よりも自分のことを理解してくれている人――なのだろう。いい意味でも、悪い意味でも。
ひどく素直な気持ちのまま、獅堂はわずかに口元を引き締めた。
「……木の上で、青空を見ながら思いました。どうせここで死んだ命だ、だったら、もう、あれこれ悩むのはやめにしようって」
「……それで?」
「それで」
少し躊躇い、顔を上げて、はっきりと言った。
「真宮に、もう一度プロポーズします。一度ふられたくらいで諦めるなんて、自分らしくない。そうですよね、鷹宮さん」
「……ですね」
組んだ腕を解き、鷹宮は再度静かに笑んだ。
「では――私は、本格的に失恋したということかな」
「し、失恋??」
動揺して、獅堂は咳き込む。
「ご、誤解するようなことを言わないで下さい、別に、……鷹宮さんは、自分を好きとか、そういうわけじゃ、」
あの夜の前後も――鷹宮はそんなことは一言も言わなかった。怒っているのか、からかっているのか――最後まで判らなくて、掴み所がないままで――。
「…………」
自分も――判ろうとさえしなかったけれど。
わずかに苦笑し、鷹宮は上着を掴んで立ち上がった。
「ま、冗談です、私は、結婚という責任の取り方はできない男ですから」
「…………え?」
「いえ、独り言です。確かに私は、あなたに特別な恋愛感情を持っていたわけではありません。博愛主義者なのでね」
「…………は、はぁ」
ここは、怒るところなのか、笑うところなのか。
相変わらず、わかりにくい、というか、掴み所のない笑顔。
「ただ、ひとつだけ、よろしいですか」
その顔が、ふいに真剣な色味を帯びた。
獅堂も、どきっとして、居住まいを正す。
「真宮君と一緒にいることで、……この先、あなたは、空自で……非常に居心地の悪い思いをすることになるかもしれない」
「…………」
「他人に全てを理解してもらうのは、想像以上に大変なことです。あなたは一人で、それに立ち向かって行けますか」
「――大丈夫です」
獅堂は笑った。
「……大丈夫ですか」
見下ろしている眼差しが優しい。少し――胸がいっぱいになる。
「大丈夫です。空自の連中は、みんな空にいる仲間です。何があっても最後には分かり合える、自分はそう信じていますから」
鷹宮の眼は優しい――その眼をしたまま、何も言わない。
「何があっても……真宮を失うことに比べたら、そんなものなんでもない、今回離れて、それがはっきりわかりましたから」
「……そうですか」
その言葉と共に、男の唇に浮かんだ微笑は、喜んでいるようにも、諦めているようにも取れた。
やはり獅堂には――最後まで、鷹宮という男の真意は、判らないままだった。
「あなたが決めたことだ……がんばってくださいと、それしか私には言えませんが」
獅堂は笑顔で、鷹宮を見上げた。
男の不安を払拭してあげたいための笑顔だった。
「でも、またふられるかもしれません。その時は、一杯つきあってください」
「つきあいますよ、何杯でも」
鷹宮も、ようやく彼らしい笑みを浮かべる。
「―――何をつきあうんだよ」
冷め切った声がしたのは、その時だった。
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二十一
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ぎょっとして顔を上げた獅堂の視界に――病室の入り口、壁に背を預け、腕を組んでいる長身の男の姿が飛び込んできた。
キャメルのカットソーに黒の上着。獅堂もよく知っている服を着て、超不機嫌そうな顔をして。
「ま、みや……」
驚きを通り越して、それ以上声が出てこなかった。
ばくばくと、莫迦みたいに、自分の唇だけが動いている。
「肘に擦過傷、それだけで入院か、思いっきり税金の無駄遣いだな」
楓はそう言って、組んでいた腕を解いた。薄い唇に、皮肉な笑みを浮かべている。
「いや……労災はおりるだろうが、これは、税金とかじゃ」
と、間がぬけた受け答えをしつつ、獅堂には、まだ信じられなかった。ちょっと待て、これは夢か?楓が――なんで、ここにいるんだ?
「私はお邪魔……みたいですね」
ベッドの傍に立っていた鷹宮は、しばらくの間、眼をしばたかせていたが、やがてそう言って、きびすを返した。
「た、鷹宮さん、すいません」
獅堂は慌てて声をかける。
「いえいえ、私の大切な獅堂さんの正念場ですから」
テーブルの上に置いていた帽子を取りながら、鷹宮はにこやかに微笑した。私の、という所で、声が一オクターブ上がり、大切な、という所で、多分、二オクターブくらい上がっている。
―――た、頼むよ、鷹宮さん……。
冷や汗が滲む気分だった。
ドアのところですれ違う、長身痩躯の美貌の男を、楓は、きつい眼差しで睨みつけている。
「あまり、獅堂さんをいじめないでくださいよ」
余裕の笑みでそれを流し、鷹宮はその傍をすり抜けて、あっさり退室してしまった。
静かに――ドアが、外部から閉まる音。
「……莫迦女……」
楓は呟き、疲れたように額を押さえた。その顔色が普通ではないのに、獅堂はようやく気がついた。
「真宮、お前」
顔色は、悪いというより、蒼白だ――まるで色素が抜けてしまったみたいだ。
「だ、大丈夫なのか、看護婦さん呼んでやろうか」
「いいよ」
「いいって、そんな」
ベッドから飛び降り、楓の傍に寄ろうとした――それを手で制し、楓は、歩み寄ってくる。
逆に足を止めてしまったのは獅堂の方だった。
「ここに来る途中、嵐の莫迦に散々脅された……あいつ、助かったって連絡あったくせに、ぎりぎりまで教えてくれなかったから」
「真宮……」
こんなに――苦しそうな顔をしているのを見たのは初めてだった。
向かい合って立ったまま、獅堂は動くことができなかった。
楓もまた、動かない。
人一人の距離を置いたまま、しばらく二人は無言だった。
楓の脚――その形良い影を見ながら、獅堂は静かに呟いた。
「……自分は、お前を苦しめてばかりいるんだな」
「今ごろ気づくなよ」
「それでも、好きだって、言ってもいいか」
「…………言ってんじゃねぇか、聞く前に」
「真宮、」
「もういいよ、しゃべんないでくれ」
影が動いて、腕を引かれて、――そのまま抱き締められていた。
―――これ、夢かな。
そのぬくもりと、懐かしい香りに包まれながら、獅堂は思った。
本当は、あの時、自分は空で死んでて――こんな、夢を、最後に。
最後に、空の神様が見せてくれたのかもしれない。
「夢かもしれないから、遠慮せずに言うけど」
「―――は?」
「結婚しよう、真宮、いや、自分と結婚してくれ、自分をお前の奥さんにしてくれ」
「……………………」
「荷物をまとめて、お前のとこに引っ越してもいいか、いや、嫌だって言っても、そうする。絶対にする」
「……あのさ」
「で、仕事はやめない、……お前が辞めて欲しくても、それだけは聞けない。悪いが料理は作れない、努力はするが、……でも、サバイバルの時は任せてくれ」
「獅堂さん」
「掃除と洗濯は、その代わり自分がする。アイロンは苦手なんだが、一回火事を起こしかけて」
「もういいから、黙れ」
肩を掴んで、引き離される。
そのまま――唇が重なった。
有無を言わさない、強い口づけ。
甘くて、でも、どこか余裕がなくて――切なさで胸が苦しい。
「…………真宮……」
唇が離れる。
獅堂は男の身体を抱き締めた。そして、そのままの姿勢で小さく呟いた。
「嵐を先に、助けてやってくれ」
「……何言ってんだよ」
逆に、強く抱き締められる。頭を抱かれ、肩先に引き寄せられる。
その力強さにほっとしながら、獅堂は続けた。
「自分は、誰かに助けられようとは思ってない。自分と嵐が同時に溺れていたとしたら――自分は、例えそれが誰であっても、先に助けてもらいたいとは思わない」
「…………」
「自分はそういう女なんだ。だから、お前の出した例え話は、自分には通用しない」
楓が何か言いかける。それを制して、獅堂は続けた。
「それからだ……お前が猛獣狩りに行ったとして、」
「あのさ、もういいよ、その話は」
「聞いてくれ、その時、同時に領空侵犯機が日本上空に飛来したとする――自分は、間違いなく任務を優先させるだろう」
「…………」
「今日、空中でエンジン停止した時だ、……あの高度でフレームアウトすれば、普通は助からない。自分も九割死を覚悟した。でも――覚悟してから、ベイルアウトするまで、悪いがお前のことは、一ミリも思い出さなかった」
「…………」
動かない男の身体。
獅堂は、自分から身を離し、楓の顔を仰ぎ見た。
「自分はそういう女なんだ。だから、お前以上に、……自分の方が、お前と一緒にいる資格がないのかもしれない」
「……知ってるよ、それくらい」
楓が、かすかに嘆息する。もういいよ、もう疲れた。そんなことを言いそうに見えた。
「結婚しよう、獅堂さん」
だから。
「……もういい、腹括った。とことんお前の悪運に付き合うよ。これも何かの因縁だと思って流れに任せることにした。来いよ、俺のところに」
―――これは、何かの聞き間違いだろうか。
「退院したら、すぐに越して来い、メシは俺がつくるし、お前はいつもどおりにしてていいよ。最初から何も期待してないから」
「…………は……?」
やっぱりこれは、香りつきの、感触つきの夢なのだろうか。
「どうせ入籍なんて出来ないし、だからもう、これでいいだろ」
―――何が?
と、聞こうと上げた額に軽く唇が触れる。
「もう、結婚したってことだよ、今、ここで」
獅堂は、ぼうっとして、自分を見下ろす男の顔を仰ぎ見た。
まだ――言われた言葉の意味も理由も、いまひとつ理解できない。
「…………本当か」
「本当だよ」
「……本当に本当に、本当なのか」
言葉の代わりに腰を抱かれ、口づけが落ちてくる。
苦しいくらいのキスが、言葉の代わりに思いを伝える。
獅堂は顔を上げる。楓がそれを見下ろしている。どこか辛そうな目にも見える。でも――それは、愛されているからだって、今なら素直にそう思えるのは何故だろう。
その愛しい頬を抱き、獅堂は楓の首筋に唇を当てた。
「……っ、?」
一瞬の間の後、楓は、ばっと身を引いた。
「……な、何の真似だよ、それ」
首の当たりを手で押さえ、思い切り動揺した眼が揺れている。そこまで驚いた表情を見たのは、多分これが初めてだ。
「痕って、」
獅堂は、わずかに頬を赤らめて呟いた。
自分にしてもこんな真似、多分、最初で最後だろう。
「これは、自分のものだって、そういうこと……なんだろ」
「………そりゃ……でも、」
言葉を途切れさせ、喉元に手を当てたまま、楓は茫然とした眼をしている。
「つけてみろって、前にお前が言ってたからさ……はぁ、結構しっかりつくもんだな」
別に皮肉や報復の意図でつけたわけではなかったのだが――が、冷静な男の顔が、その言葉で、さーっと蒼ざめた。
「な、なんつーことを……あのなー、俺は一応、あれでも加減して」
「えっ、そうだったのか」
しまった。思いっきり目立つ場所にやってしまった。
「………互いの立場ってもんを考えろよ……獅堂さん……」
「ご、ごめん……」
まさか楓にそんな説教をされるとは……。
凍りつくような沈黙の後、大きな溜息と共に顔を上げた楓は、少し怖い目になっている――ように見えた。
うわ、怒られる、と思った途端、抱き上げられて、そのままベッドに下ろされていた。
「ま、真宮」
被さってくる重み。嬉しいけど――場所的に落ち着かない。
「お返ししなきゃな」
さっきまで蒼ざめていたのに、今度は楓が、いたずらっぽい顔になっている。
「……う、うん……」
「こんな服着た獅堂さんって初めてだから、……結構、興奮するな」
「は――?」
そう言えば、何も着る服がなかったから――看護士さんが用意してくれた、ネグリジェみたいなものを着てたんだった。どうりで足元が涼しいと思ったら。
「ちょっ……ま、待て、真宮」
「何、」
「何って、……判ってんのか、ここ」
「病院だろ、知ってるよ」
逃げようとすればするほど、なんだか服が乱れていくようで、心もとない。わー、スカートなんて、もう二度と穿かないぞ!
と、後悔しても遅かった。
「……誰も来ないよ」
「…………ん……」
「心配しなくても、そんなひどいことはしないよ……ただ、触れてたいだけだから」
額があわさって、唇が触れ合う。
キスは、すぐに忙しなく、そして深くなっていく。
あ、なんだろう……もう、場所なんか、どうでもいいって感じで……。
「やば……、久しぶりだから、」
唇を離して、楓はわずかに苦笑した。
「止まんなくなりそうだ、……いい加減にしないとな」
抱き起こされる。
そのまま――ベッドの上に座ったまま、獅堂は、楓の肩に頬を預けた。
腰に手が回って、ゆっくりと抱き締められる。
「ここに……泊まって、くれないよな」
獅堂がそう言うと、楓は笑った。
「今日は帰るよ」
「……うん」
「心配しなくていいよ」
強く、優しく抱き締められる。耳元に唇が触れる。
「俺は何処にもいかないよ。あそこで、獅堂さんが空から帰るのを待ってるから」
「…………うん……」
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・
二十二
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「おめでとうございます!!」
けたたましい声と共に、ばんっとドアが開けられて、抱き合った二人の全身から血が引くよりも早く、クラッカーが、5、6発たてつづけに発射された。
反射的に――これは、職業病のようなものかもしれないが、咄嗟に楓を背後に回したのは獅堂だったが、隠さなければならないのは、むしろ自分の胸元だった。
「う、うわっ、す、すす、すいませんっ」
先頭で顔を真っ赤にしたのは嵐で、
「ばーか、だから、もうちょっと待とうって言ったじゃねぇか」
と、肩をすくめたのは、桐谷徹。
「これくらいの時間があれば、まぁ、十分だと思ったんですが」
しれっとした顔で、確信犯なことを言うのは鷹宮で、
「……ここにいる全員、後で血を見るんじゃないか」
強張った顔をしているのは、この中で唯一、楓の強烈な嫉妬光線を受けた経験のある椎名だった。
「ふぅん、やっぱ、こいつも女だったのか」
呟く蓮見。
「きゃーっ、獅堂さんってば、大胆ですねぇ」
その隣には、婚約者の小雪嬢。
「し、獅堂さん……」
何故、北條累までそこにいる?
「うわっ、僕には妻と子が、妻と子が」
これが夢なら、早く覚めてくれればいい。
獅堂はただ、そう思った。背後で固まっている楓を振り返る勇気は――もちろん、なかった。
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二十三
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一時間後。
静かでなければならないはずの病室は、即席の結婚披露宴会場に早代わりしていた。
「実は僕たち、二人のために、こっそり結婚式をあげてやろうって、前から計画してたんですよ」
嵐の言葉に、思わず感激してしまった獅堂だったが、つれていかれた別室で、用意されていたのは、黒のタキシードだった。
「…………ちょっと、待て」
にこにこした顔でそれを着せてくれたのは――国府田ひなのだった。
「自分が、こっちを着るって、ことは……さ」
おそるおそるそう聞くと、
「さぁ?衣装は宇多田さんが用意してくれたんですよー、プレゼントですって、撮影用のものだっていうけど、綺麗でしたよ」
ひなのは、無邪気にそう答える。
―――綺麗でしたよ?
綺麗でしたよ?
それは、……少なくとも、タキシードのことをいうのではなくて。
なくて――だとしたら。
「早く早く、消灯までって、病院に釘さされてますから」
そもそも病院で、こんなことをやろうという神経が信じられない。
ひなのに手を引かれ、病室に戻るとわっと拍手が巻き起こる。
後は新婦を待つだけですね、という鷹宮の楽しげな声を聞いて、獅堂は全身の血が引いていくのを感じていた。
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二十四
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「ちょっとまて、俺は死んだってそんなもの着ないからな」
「……楓君、今さらそんなこと言わないでよ」
宇多田は、両手を腰に当てて溜息をついた。
「今さらも何もあるか、ふ、ふざけんな、なんだって、俺が」
楓は、激しい憤りを感じて、そこで言葉を途切れさせた。
冗談じゃない。ここで、獅堂の同僚や友人に囲まれたことでさえ、眩暈がするほどの衝撃だったのに、それに加えて。
「みんな、あなたが来るのを待ってるのよ。今さら獅堂さんに恥をかかせるつもり」
「は、恥って、これ以上の恥があるのか、知るか、そんなこと」
動揺で、言葉尻が震えてしまうほどだった。
「とにかく俺は帰る、こんな莫迦騒ぎにはつきあえない!」
席を立とうとすると、宇多田は、うなだれて、目元に指を当てた。
「…………ひどいのね、私が、……どんな気持ちで、それを用意したかもしらないで」
「……どんな、気持ちって」
潤んだ目が、その視線が、じっと――楓の首のあたりに注がれている。
―――あの、莫迦。
舌打したい気持ちを抑え、楓は、ばっと首に手を当てていた。
宇多田は、ますます恨みがましい眼差しになる。
「見せつけてくれるのね……私じゃ駄目でも、獅堂さんならいいってこと」
「いや、別に……あのな、それとこれとじゃ」
話が全く別だろ。
と、いう抗議の声は、朗々と続く女の繰言に遮られる。
「私の辛い気持ちも察してよ、どうして……私が、まだ忘れられないほど大好きな楓君と、大嫌いな獅堂さんの結婚のお祝いをしてると思ってるの……」
「……天音……」
「自分の中のけりをつけたかったの。このドレス……本当は、獅堂さんに着せるために用意したものだけど、……そんなのって、辛すぎる。哀しすぎて見ていられない。死んだ方がまだマシよ。せめて楓君に着てもらえれば、私も気が済むと思ったのよ」
「…………?」
よく判らない理屈だった。
が、そのまま本気で泣き出した宇多田に、楓は真剣に驚いてしまった。絶対に泣くようなタイプの女じゃないと思ったのに――。別れた時でさえ、笑っていた女だったのに――。
「あなたが行かなきゃ、獅堂さん一人が、桐谷さんの生贄になるのよ、それでもいいの?早く休ませてあげた方がいいんじゃないの?」
―――いや、だからそれを、俺に責任転嫁されても。
その後も延々と続く愚痴。累々と流れる涙。
「一瞬でいいの、宴会の余興みたいなものよ。すぐに脱げばいいんだから、ね、お願い」
それが撮影用の目薬だと聞かされたのは、全てが終わった後だった。
確かに、別室に連れて行かれた獅堂のことが気がかりで、早くこの場を逃れたい――というのもあった。
が。
自分の――意外な人のよさを、楓はその夜、いやというほど痛感したのだった。