十四
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「……なんか、いやに元気そうだけど」
部屋に上がった嵐は、少し驚いて呟いた。
「何?なんか言ったか?」
書斎にいる楓から声だけが返ってくる。
「いや……」
昨夜、憔悴しきって帰っていった義理の兄は、今朝は朝から掃除にせいをだしているようだった。開け放たれた部屋中の窓。掃除機の音が、静かな部屋に響いている。
「……こんなに綺麗なのに、今さら、何処を掃除するんだよ」
潔癖なのは昔から変わらない。嵐は獅堂の部屋のことを思い出していた。
ほどよく取り散らかった部屋は、嵐には居心地がよかったが、楓には我慢できなかったに違いない。
買ってきたファーストフードの朝食をテーブルに置いて、そして気づいた。
同じテーブルの上に、山積みになっている見慣れない雑誌。
手にとって、すぐに判った。
「……週刊、航空……ファン」
こんなものを楓が買うはずがない。だとしたら獅堂さんの忘れ物か。それにしても、彼女の年代の女性が購読するような本ではない。
こんなものを毎週、喜々として読んでいる……そんな獅堂を思い浮かべ、思わず苦笑を漏らしていた。
そして、気づく。
ああ、掃除は――そういうことか。
楓は、この部屋から、獅堂の残り香を消し去ろうとしているのだ。
「…………」
無言で――その中の一冊を手にとる。
ぱらぱらとめくる。
隣室から、掃除機の音がやんだ。
「楓、少し前になるけどさ」
雑誌をテーブルに上に戻しながら、嵐は楓に声をかけた。
忘れ物の雑誌――そのことが、唐突に忘れかけていた記憶を呼び覚ましてくれた。
「僕の大学に……ノートを送ってくれたのは、楓だろ」
「ああ、判ってたんだ」
煩げに前髪を払いながら、楓が扉の向こうから現れた。
白のヘンリーシャツに、ブルージーンズ。少し長くなった髪は、後ろで一つにくくっている。
昨日――そのまま帰したことが、わずかな後悔となって、夕べはなかなか眠れなかった。でも、こうして普通どおりに向き合えるのは、昨夜、一線を越えなかったおかげかもしれない。
嵐はわずかにほっとしつつ、楓から眼を逸らして、ソファに腰を下ろした。
「僕が獅堂さんの部屋に忘れたのを、……楓が送ってくれたんだろ。すぐに判ったよ」
楓は、その前を素通りして、テーブルの方に歩み寄った。
その横顔が、そっけなく呟く。
「どうでもいいけど、なんで、俺の親戚の名前が、そのノートに書いてあったんだ」
「…………」
知ってたのか。
正直、ノートが送られた時、楓は気づいただろうか、と不安に思ったのも事実だった。
「……君が自分の親戚のことを知ってるなんて、意外だな」
「本家の名前くらい覚えてるよ。小学校あがる前は、そっちの家に住んでたんだ。涼二ってのは初めて聞いたが、戸籍を取ってみて判ったよ。おふくろの兄に当たるんだろ」
「らしいね」
「……俺の身内を調べて、何をするつもりだったんだ」
そう言いながら、楓は航空雑誌をひとまとめにして待ち上げる。そして言った。
「レオから聞いたよ、……莫迦な真似はやめておけ。俺はそんなくだらない小細工までして、この社会で生きたいとは思わない」
「…………」
嵐はそれには答えなかった。
楓がレオから何を聞いたのか、それは察しがついている。
そのことと――楓の親戚、叔父にあたる喜屋武涼二のことは、関係あるようで、実はない。
プロジェクトのことも、四体の完全体のことも、楓は知らない。
父―――真宮伸二郎がそれに係わっていたことも知ってはいないはずだ。
「君の一族は、ほとんど離散しているんだね」
何気なさを装って嵐は言った。
借金苦だったのか、他に事情があったのか――嵐が調べた範囲では、楓の親族で、戸籍の示す住所地に残っている者は誰もおらず、言ってみれば幽霊戸籍のようなものだった。
「……呪われてんだろ、俺もよく知らないけど、本家ってところは、地元でも村八分にあってたみたいだからさ」
「そうなのか」
それは――初めて聞いた。
「理由までは、俺もよく知らないけどな、……広い家に、じいさんとばあさんしかいなかった。近所からは、魔物の家とか呼ばれていたような気がするよ」
「………叔父さんってのは、何処に住んでたんだ」
「知らないよ、戸籍を見たらおふくろには兄妹があと何人かいたけど、……俺の記憶する限り、誰もあの家にはいなかったような気がするから」
「…………」
「弟の行方くらい、探し出してやりたいけどな」
横顔に、暗い影が落ちている。
「……君は、彼らとは……血は繋がってないんだろう?」
「だろうね。俺は体外受精児だし、ベクターだし……詳しくは知らないし、知りたいとも思わないけど」
昔と違い、今の戸籍には養子実子を区別する欄はない。ただ、認定されたベクターだということを記す別欄があるだけだ。体外受精児であれば、そもそも実子として届けられるから――戸籍からその実親の痕跡を探し出すのは不可能だった。
「楓……この世界のどこかに」
楓の、今の言葉は本音だろうか。
そう思いながら、嵐は呟いた。
「僕たちのDNAの元になる人たちがいる。……楓は、会いたいとは思わないか?僕らの本当の両親に」
「精子や卵子を提供すれば、それで親って言えるのか、莫迦莫迦しい」
楓の声は厳しかった。
「……俺にしても、お前にしても、そんな騒ぐような話じゃない、ベクターの出生としてはありがちな、どこにでも転がってる話だよ。まだラッキーだ。17歳まで優しい人たちに育ててもらった。獅堂さんが孤児なのは知ってるだろ」
「……聞いたことは、あるけど」
急に獅堂の名前が出たので、嵐は思わず口ごもる。
今日、その名前は出さないでおこうと思っていたのだが。
髪を結んでいたゴムを取り、楓は煩げに伸びた前髪をかきあげた。
「あの人は、生まれてすぐに母親を亡くして、タクシー運転手をしていた父親一人に育てられたんだ……父親って人は、獅堂さんが五つの時、遊園地に出かけて――そのまま、消えてしまったらしい」
「蒸発か」
「子どもを一人で遊ばせて、その隙に消えたんだ。なぁ、どう思う?想像したら、たまらなくなった。戻ってきたら、待っててくれてる人がいないってどんなだろうな。あいつはさ――」
「…………」
「一人で買い物に行くのも嫌がるんだ、俺が一人で行くって言っても、絶対についてくるんだ。ドイツでもそうだった。一人で行けっつったら、なんともいえない眼で俺を見るんだ」
「……誰に、聞いたんだ、その話は」
「……あいつのアパートの管理人のおっさん。……へんなオヤジだけど、あれで昔、児童相談所にいたんだってさ、獅堂さんのことは、その当時からよく知ってるらしい」
嵐は眉根を寄せた。
獅堂さんの明るさからは――振る舞いからは、そんな過去の影はみじんも見えてこなかった。人のことは気遣っても、自分のことを話すような人ではないから――。
「……待ってなくていいのか」
「何を」
「そんな獅堂さんを、君は待ってなくていいのか」
「……だから、それは、俺の役目じゃないんだよ」
もうよせよ、とでも言うように、楓は無理に作ったような冷めた顔を上げた。
「その話はもういい、とにかく――レオが考えてる莫迦な計画はすぐに中止しろ、お前、来年NAVIに入るんだろ」
そう言いながら荷造り用の紐を持ってきた楓は、それで、航空雑誌の束を括ろうとしている。
嵐はそれを手伝おうとした。
「楓……君も、一緒に来いよ」
楓の手が止まり、雑誌の山がわずかに崩れた。
「来いよ、……行こう、スイスに。また三人で、……ドロシーもいるから四人か、……四人でさ、楽しくやろうよ」
「俺には、移住制限があるから」
「そんなもの、なんとでもなるよ。NAVIが動けば、日本政府だっていずれは、移住を許可してくれる」
そう、それが一番いいのだ。
楓のためには――この日本を離れた方が。
自分がそうだったように、いやそれ以上に、楓が許可を得るのは困難を伴うだろう。けれど、レオなら絶対になんとかしてくれるはずだ。レオもまた、楓のためなら、命さえいらないと思うほど――楓を、愛しているのだから。
「俺はいいよ……それより、嵐」
そう言い掛けて、楓は、何故か難しい顔になった。作業の手を止め、そのまま疲れたようにソファに座り、背を預けた。
「……お前の決めた事に、あれこれ口を出すつもりはない……ただ、………嵐、正直に言えば、お前にも……まだ、早いんじゃないかと、俺はそう思ってる」
「え?」
何かを思索する時の楓の癖、膝の上で、所在なく綺麗な指を組替えている。
「最近のレオはおかしい、お前は――色んなことがあって、その反発からNAVIに同調しているだけなんだ、……判ってんだろ、レオは、基本的にはベクター優位主義者だ。そして今、その力をますます過激な方向に向けようとしている」
「……レオは……守ろうとしているだけだよ」
「判るよ、それは理解しているし、必要なことだ。でも……」
うつむいたまま、楓は軽く嘆息し、組んでいた指を解いて顔を上げた。
「お前と俺は、彼らとはまた立場が違う。それを忘れるな。俺はな、……お前には、もっとグローバルな視点でものをみて欲しいんだ」
「……なんだよ、それ」
「大学出てすぐにNAVIに入らなくても、もっと、色んなとこを見て……それからでも遅くないんじゃないのか」
「…………」
親父みたいなこと、言うんだな。
そう言いかけて嵐はやめた。
楓の言うことは、嵐自信も以前から思っていたことでもあった。
確かに最近のレオには、少し得体が知れない所がある。何かを自分に隠している――そのことは、確かに感じる。ここ最近連絡を取っていないのは、そのせいだ。
「……考えとくよ、……でも、楓にそんな説教されるとは思ってもみなかったな」
「お前の専売特許を取っちまったな」
「ひどいなぁ、」
さらに言葉を続けようとして、嵐は、零れた雑誌の一冊から――そのページの隙間から、一枚の紙切れがのぞいているのに気がついた。
「……なんだ、これ」
「え?」
「写真かな……挟まってるぞ」
楓も、それには気づいていなかったのか、意外そうな眼をしている。
予想通り、それは一枚の写真だった。
古いものなのか、少し表面が硬くなっている。
白地にブルーのラインが入った飛行機――戦闘機の前で、数人の男たちが、左肩を誇示するようにして、その写真に収まっている。
カーキ色の飛行服、左肩に同じような記章を光らせて、おのおのヘルメットを抱えている。
いや――全員男、だと思ったのは一瞬で、すぐにその中に、場違いに柔らかい顔をしている小柄な姿を見つけ出す事ができた。
列の一番端で、どこか――不思議な、あどけない顔で映っている女。
嵐は、思わず苦笑を浮かべていた。
これは――いくつの時だろう。まだ高校生のようにも見える。可愛すぎる。
「可愛いなぁ、これ、いつの頃だろ、獅堂さん……女の子みたいだ」
「いや……もともと女だろ、あの人は」
楓は、面白くなさそうな顔をしている。
「あ、見ろよ、これ椎名さんじゃないか?うわー、若いなー、かっこいいなー」
「……ゴリラに似てるよな、前から思ってたけど」
嫌に冷めた声が返って来る。
「…………」
楓の横顔が、―――不機嫌を通り越して怒っているのを見て、嵐は眉をひそめていた。
「……なんだよ、何怒ってんだよ」
「色々……思い出して、むかついた。あの無神経女のことだ」
苛立ったように立ち上がり、キッチンの方へ消えていく。
「……獅堂さんのことか」
その背中に嵐は聞いた。
冷蔵庫を乱暴に開け閉めする音と共に、苛立った楓の声が返ってくる。
「お前はどう思う、あんなに綺麗なのに、あの人は、自分のことが、何も判ってないんだ」
「…………」
―――あんなに、綺麗。
まぁ、綺麗な人だとは思う。
でも、楓に比べたら……綺麗のレベルが違うだろう、とも思う。
キッチンから、缶ジュースを手にした楓が戻ってくる。それを嵐の方に投げて、楓は自分の胸元を叩いた。
「平気で、こうだ、シャツの胸元をこんなに開けて、ぶらぶら歩き回ってるんだ、俺には信じられないよ。どれだけ目立つか判ってないんだ。男の視線なんて、気にしたこともないんだろ」
「…………」
まぁ、そうだけど。
でも、それが獅堂さんの、いいところ、というか、付き合いやすいところで。
嵐が黙っていると、楓はふたたびテーブルの上の雑誌をまとめはじめた。
「……基地の中でも、あんな感じでいるんだろう、そう思うと、顔見るだけで、苛々するんだ。どう思う、嵐。……人の気も知らないで、あの女の考えてることと言ったら、仕事や空のことだけだ」
「……そんなことは、ないと」
「いや、そうに決まってる。あの人は、本当の意味で、俺を好きなわけじゃない。いっつも、どこか遠くを見てる。あの人の居場所は空で、空にいれば、あの人はそれでいいんだ」
「…………楓」
「なんだよ」
乱暴に――航空雑誌をひとまとめにしている横顔に、嵐は心底あきれていた。
「君は、…………そんなに好きだったのか」
「――――はぁ?」
「今、僕は、君をぶんなぐりたい衝動に必死で耐えているんだが――今の君みたいな男のことを、なんて言うか知ってるか」
「なんだよ、持って回った言い方はよせ、苛々する」
「……嫉妬に狂ってるっていうんだよ!空にまで嫉妬するようじゃ、もう君はおしまいだよ。君みたいな莫迦は初めてだ」
「………嫉妬って……」
楓は――虚を突かれたような顔になる。
はぁ……。
嵐は溜息をついていた。
気づけよ、莫迦。
もう―――君は、僕なんか見てなくて。
僕を必要としてないって、そういうことなんだよ、楓。
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十五
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「どうしました」
機体の前で首をひねるドルフィンキーパーに気づき、獅堂は思わず声をかけていた。自機のチェックを終えて、そろそろ着替えに戻ろうか――と思っていたところだった。
「ああ、すいません、どうも……調子がいいような、悪いような」
日に焼け尽くした精悍な顔をした整備士は、獅堂の姿を認めて慌てて立ち上がった。この一ヶ月に及ぶ基地生活で、すっかり馴染みになった中堅整備士である。
彼のような――青い作業着をまとう、ブルーインパルス専用の整備士は、ドルフィンキーパーという愛称がつけられている。
「どこを調べても、問題はないんですが、タクシー・チェックをしたパイロットが、微妙に機体がぶれるっていうんですよ」
「離着陸時に、ですか」
獅堂は眉をひそめた。
「そうです、俗に言う、nose shimmyです。この機はアタリじゃないはずなんですけどね」
獅堂は時計を見た。
午前六時、今日の正午丁度には、T-4機の引退式のセレモニーとして、最後のアクロ飛行が始まる。
獅堂が演じるのは、五分間の単独演技で――それは2時きっかりにはじまることになっていた。
「代わりの機体はないですか」
nose shimmyとは、離着陸時の滑走中に起きる不具合現象である。
滑走中、あるスピードに達すると、前輪が左右に震え、その震動が機体に伝わり、滑走困難を引き起こしたり、タイヤをバーストさせたりする。
最悪、前脚破損により、機体が地面に接触、爆発することもあり得る。
タクシー・チェックとは、いったん不具合が起きて整備したものを、テストパイロットが点検飛行することを言う。そして、点検した結果が、「微妙に機体がぶれる」というものだったのだろう。
代わりの機体はないですか――。
獅堂のその質問に、整備士は苦い顔になった。
「今日の今日では、難しいですね、現時点で使える機は限られてますから、こいつはまだいい方ですよ」
そして、油で汚れた手袋で、ブルーの機体の腹部をぱしん、と叩く。
「今日のフライトに使って、問題ないと思いますか」
獅堂はその機体を仰ぎ見ながら聞いた。
晴れきった空の下では、あざやかなブルーに見えるボディの色も、薄暗い格納庫の中では妙に暗く、黒ずんで見えた。
「多分ね。テスト・パイロットも少し気になる程度だって言ってますし……まぁ、問題ないでしょう、……ただ、まぁ、毎度のこととはいえ、原因が判らないというのが、なんとも」
nose shimmyという現象は、おおむね原因不明であることが多いらしい。だから、一度トラぶった機体は、何度も同じことを繰り返す。最初に整備士が「アタリじゃない」と言ったのは、この機体がそういったトラブルを初めて起こしたことを意味している。
「……上に報告は」
念のため、獅堂は聞いた。
もう、再度のタクシー・チェックをする時間はないのだろう。微かな不安材料でも、いったん空に出ると取り返しのつかないことになる。それは、空に出るものとしての常識だ。
「しました、問題ないなら行け、と。今日は、マスコミも大勢詰め掛けてますし、空自のメンツがかかった式典ですからね」
「……誰が、機上するんすか」
「美杉2尉です」
わずかに考え、では、自分がそれで行きます、と獅堂は言った。
彼の妻が先週退院し、そして今日、家族と共に来るはずだということを――昨夜の食堂で、聞くともなしに聞いたことを思い出していた。
「でも……獅堂さん、――それは、」
整備士はさすがに口ごもっている。
「タワーに、機体の変更を申し入れてもらえますか、上官には自分から報告しますんで」
自分が一番整備の行き届いた――調子のいい機を与えられていることを、獅堂は、よく知っていた。
―――大丈夫だろう。
最初は戸惑ったものの、すぐに旧式の操縦カンは戻ってきた。
今であれば、多少難のある機体でも上手く操縦できる自信がある。
「今日のプログラムで、単独飛行は自分だけっすから―― 万が一何かあっても、一人ならどうにでもなります」
戸惑う整備士にそう告げて、獅堂は、蒼く翳った機体を見上げた。