十三
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「蓮見さんは……本当に、ご結婚されるんですね」
「綺麗な人でしたね。彼と相性もいいようだ」
タクシーが、二人の横を次々通り過ぎていく。もう、どれだけ歩いたろう。酔いは――冷めたような気がするものの、もういいですとは言えなかった。とりとめもない話をしながら、獅堂はなんとはなしに、今の時間を心地よく思っている自分に気づいた。
鷹宮もまた、通り過ぎるタクシーを振り返ろうともしない。
「……道、詳しいですね」
「何度も遊びに来ましたから」
繁華街をすいすいと抜けながら、なんでもないことのように男は言う。
―――遊びにね。
獅堂は少しむっとしていた。
そうだ――忘れていた。この人は無類の遊び人で、何人も恋人を持っていて、その延長みたいな感じで自分にもあんなことをしたわけで――そういう意味では、もっと怒って拳の一発でも入れないといけない相手なわけで……。
獅堂が少し歩調を速めると、鷹宮もすぐに歩幅を合わせ、肩を並べて歩いてくれる。
「蓮見さんが、結婚されるのが、不服そうですね」
「えっ」
「そんな目をしていましたよ、小雪さんを初めて見られた時」
「……そんな、わけじゃ……」
掛けられた言葉に動揺しながら、思わず獅堂はうつむいていた。
こんな風に、鷹宮はいつも簡単に自分の心を見抜いてしまう。
だからいつも、誤魔化すことを諦めて――本音を打ち明けてしまうのだ。昔から――そうだった。
「確かに……少し寂しいとは思いました。……いつまでもオデッセイの時のままでいられたら――そんなこと思うのは、自分の身勝手かもしれないですけど」
「人は変わります。変わらないと生きてはいけない」
「…………」
その言葉に、言外の厳しさを感じた気がして、一瞬、足を止めかけていた。
「どうしました」
少し先に立つ鷹宮は、立ち止まって、微笑している。
先ほど聞こえた声に感じた厳しさは、その笑顔に微塵もない。
「あ、す、すいません」
こうして、―――鷹宮と、肩を並べて歩いているのが不思議だった。
楓は――先を行くか、後をついてくるか、あまり自分と歩幅を合わせようとはしない。
鷹宮は一緒に歩いてくれる。獅堂が立ち止まれば、自分も足を止めて、待っていてくれる。
―――莫迦だな、自分は。
鷹宮と楓を比べている。
そんなことをしても――何の意味もないことなのに。
「蓮見さんは、……あれで、幸せなんですよね」
獅堂は、自分に言い聞かせるように呟いた。
蓮見の隣には右京がいて、右京の隣には蓮見がいる。
それが普通で、当たり前の光景だった。オデッセイにいた時は。
「獅堂さんには、どう見えました」
「幸せそう、でした」
「ま、誰がみてもお似合いでしょうね」
鷹宮は横顔で苦笑し、そして、呟くような口調で言った。
「どこか、右京さんと感じが似ていた……それが、……少し気にはなりましたが」
「似てますか」
むしろ、正反対だと思うのだが――。
「似てますよ、右京さんが、OLになって、女性らしい服装をして、……普通の、年相応の女性として生きておられたら、」
「…………」
「あんな感じになったんじゃないかな。……二人の会話を聞きながら、僕はそう思いましたけどね」
「…………そんなの」
哀しすぎますよ。
言いかけて、獅堂はやめた。
仮に、蓮見が、かつての恋人の面影を追い求めていたとしたら――。
だったら、どうして右京と別れることにしたのだろう。どうして、――待ってあげることができなかったのだろう。
「室長は、ご病気だと聞きましたが」
「……らしいですね」
「重いんです……か」
「さぁ」
重くないはずはないだろう――それは、獅堂も漠然と察していた。そうでなければ考えられない。こんなに長く――帰国はおろか、連絡さえ取れないなんて。
黒い予感を打ち消しながら、あえて明るい口調で聞いた。
「でも、右京さん、向こうでお元気になられたら、いずれ日本に帰ってくるんでしょう」
「さぁね、ご主人しだいではないんですか」
その言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
「彼女は、もう、ご結婚されてるんですよ。一年以上も前に」
―――え……。
鷹宮の背中は振り返らない。
「さらに言えば、同時に警察庁にも辞表を提出されておられます。だからこそ、蓮見さんも思い切ったのでしょうけれど」
「…………」
初耳だった。
結婚――退職?
あの室長が?
そんなこと――遥泉も言ってはいなかったはずだ。
「……蓮見さんは、向こうに行って、彼女に婚姻届を手渡したそうですよ。……その返事代わりに、別の人との結婚証明書が送られてきたそうです」
「そんな、どうして」
「さぁ、大人同士が決めたことですから」
鷹宮は足を止め、ようやく振り返って微かに笑んだ。
「僕のホテルはここですが」
「…………」
ああ、そうか――。
獅堂は目の前の男と、その背後の建物を同時に見上げた。
近くにホテルがあったから、だから鷹宮はタクシーも拾わずに歩いていたんだ。自分は何を――莫迦みたいに、とことこ後をついて行っていたのだろう。
「一緒に部屋まで行きますか」
「ば、莫迦なことを」
怒ろうとしても、何故か言葉が弱々しくなっている。鷹宮も何も言わない。その――沈黙が恐かった。
「……今夜のあなたは」
「…………」
「あの夜と同じ顔をしていますね」
「…………」
「真宮君と、何かありましたか」
優しい声音に、とっさに眼を伏せていた。「別に……」と言ったものの、鷹宮には見透かされているのを覚悟した。
その鷹宮が、かすかに笑う気配がする。
「……あなたは、まだ気づきませんか」
「え……?」
―――気づく?
顔を上げようとした時、
「真宮君は、あなたを辛そうに抱きますか」
ふいに男の口調が明るいものになった。
「はっ、はぁっ?」
思わず転びかけていた。
「嫌がる行為を強要しますか」
「ちょ、な、なな、なんの話っすか」
そのまま言葉を失い、唖然、と口を開けていると、鷹宮はにっこりと笑みを浮かべた。
「悪いとは思いましたが、あまりにお三方の声が大きかったもので、ついつい聞き耳を。ひとついいことを教えてあげますよ」
「な、なな、なんすか」
「まぁまぁ、そう警戒せずに、私はあの二人よりは恋愛経験が豊富ですから」
「は……はぁ」
獅堂は耳まで赤くなる自分を感じた。な、なんだって男の人と、こんな会話をしなきゃいけないんだ??しかもよりにもよって天敵のような鷹宮と。
しばらく楽しそうな目で見下ろしていた鷹宮は、片腕を腰に当て、ようやく視線を逸らしてくれた。
「真宮君とのことはね……あなた次第だと思いますよ」
「……え……」
「言葉通りの意味です。あなたが、彼を受け止められるかどうかではないですか」
「……あの、いや、鷹宮さん、それは」
「彼はね、あなたが思うよりずっと、あなたが好きなんです。……私にはよく判りますよ、なぜなら」
そこで一瞬言葉を切り、男は獅堂を見下ろした。
「私が、あなたを」
「………?」
いや。
言いかけた言葉を飲み込み、鷹宮は苦笑した。
「誤解されてはいけないから、最初に言いますが、今からする話は、あなたのことではありません。私もかつて、一度だけ、苦しいほど好きな人を抱いたことがある」
「…………」
怜悧な横顔が陰になっている。
まるで言っていることが全てジョークのような明るさで、けれど鷹宮は言葉を続けた。
「これが最後だと判っていたから、嬉しいというより辛かった。楽しむというより、ただ、十代の子供のように、相手に自分をぶつける事しか出来なかった」
「……それは……」
でも―――。
でも、真宮は――。
獅堂は黙った。ようやく――朦朧とした意識の下で、宇多田や小雪に揶揄された言葉を思い出していた。
そうなんだろうか――でも、……でも、真宮には、あいつには、
―――嵐がいるんだ。
自分ではなく、嵐がいる。
そして。
―――そっか、鷹宮さんにも、そんな人がいたのか……。
そのことも、不思議な感銘を持って胸の内側に響いていた。
あの鷹宮に――。
真面目な恋愛など、決してしそうもない男に……。
「私の相手を知りたいですか」
「えっ」
「そんな顔をしていますよ。教えてあげましょうか」
「…………」
聞きたいようでもあり、聞きたくないようでもある。
今の刹那感じた――不思議な思いを、どう言って表現していいのか判らない。
「……別に……どうせ、自分の知らない人なら」
「よく知ってる人ですよ」
静かな笑みを湛えた瞳。
見入られて、うろたえた。昔からそうだ。ふざけておいて――ふいに真面目になる。真面目になったと思えば、またふいに逸らす。
鷹宮は、そんな風にいつも掴み所がない。話していると、いつも自分のペースが狂わさせるのを感じる。
けれど、昔は、誰よりも信頼していた相手だった。色んなことを相談したし……色んな話を打ち明けたような気もする。多分、鷹宮ほど、獅堂の過去を知っている男は他にはいない。
そして。
微かに笑う、その鷹宮が口にした三文字の名前を聞いて、獅堂はかちんと硬直したまま動けなくなってしまった。
その獅堂を横目で見て、楽しげに笑い、そしてようやく鷹宮は姿勢を正した。
「では、そろそろ戻ります」
「あ、ああ、はぁ」
こ、こんなことを聞かされて――言い逃げだ、とも思うが、今は混乱して言葉が上手く出てこない。
「タクシー、拾いましょうか」
「いえ、いえいえ、もう、すっかりシラフですから、ハイ」
「また、式典の日にお会いしましょう。今日はあなたに会えて嬉しかった。ずっと嫌われたと思っていましたから」
視線を別の方角に転じ、鷹宮は苦笑しながら呟いた。
獅堂は黙ったままでいた。
嫌っていたわけでは決してない。
嫌いになれたら、憎むことができたら、―――もっと早く、会えていたような気がする。
確かに無理矢理のセックスだった。
が、あの時は、獅堂自身にもそれを望む気持ちがどこかにあったのを否定できない。もっと――命がけで抗えば、鷹宮も無理強いはしなかっただろう。
でも、そうはしなかった。抵抗したものの、結局は諦めて……そして、受け入れた。
理由は、今考えても判らない。
判らないから――会いたくなかったのかもしれない。
「では、失礼します。また式典の当日に」
鷹宮はそう言って、綺麗な所作で敬礼した。
「……はい」
「獅堂さんの、アクロフライト、楽しみにしていますよ」
穏やかにそう言って、背中を見せて、去っていく男。
獅堂は思い出していた。
(――――で、獅堂さんは、海釣りに出かける。高波に飲まれて、溺れるとしてさ……獅堂さんを助けるのは、誰だと思う。)
(――――今、頭の中に誰が浮かんだ?それ、少なくとも俺じゃないだろ。)
頭に浮かんだのは、今、獅堂の目の前で微笑していた男の顔だった。
なんの違和感もなく、ごく自然に、獅堂は鷹宮の顔を思い浮かべていた。
椎名でもなく、……楓でもなく。
そのことが、胸苦しい悔恨のように心を締め付けて、獅堂は、いつまでもその場から動けなかった。