十


「始めまして、蓮見小雪です」
 そう言って、にっこり笑った女性と引き合わされた時、獅堂は驚きで顎が落ちそうになった。
―――そっか、蓮見さん、もう結婚してたんだ。
「莫迦、誤解すんな、従姉妹だ従姉妹、親戚なんだよ」
 隣に立つ男――蓮見黎人が、慌ててそうフォローする。
「でも、来年には結婚するんでしょ、別に言い訳しなくてもいいじゃない」
 小雪――と名乗った女性は、楽しげに、そんな慌てる男を見上げる。
 血筋なのか双方共に長身だ。店に入ってすぐに目についた。黒いスーツを着た男に、淡いブルーのニットに身を包んだ女。身長のバランスが取れているせいか、並んで立つと相当に見栄えがいい。
「まぁ、……そりゃ、そうなんだが」
 何か言いたげな蓮見は、もごもごと口ごもり、困惑気味に視線を逸らす。
 なんだか、すでに尻に敷かれてますと言っているようなもので……。
「従姉妹と……結婚っすか」
 獅堂は素直に驚きを口にした。途端に蓮見は、噛み付くように顔を上げる。
「従姉妹で悪いか、そういうことになったんだよ」
「い、いや、別に」
 何故、そこで怒るんだ?
 市内の繁華街。
 鷹宮に連れてこられた店は、こじんまりとしたスペイン料理の店で、店内はわずかなテーブル席とカウンター席の二種類。どちらもほどよく空いていた。
 けげんに思いながら、獅堂は用意された席についた。
「桐谷さんに、相当からかわれたみたいなんですよ、身近なところで手を打ったとか、他に相手はいなかったのかとか」
 隣に座る鷹宮が囁いてくれる。
「はぁ……」
 身近なところで、と言うが、小雪という女性は、相当の美人だ。
 上背もあるし、名前負けしない色白の肌に桃色の唇。さらさらのストレートヘアは肩まで伸びて、キューティクルがきらきら輝いている。
 どことなく――顔の造りが、蓮見に似ていなくもない。冷たく整った美形顔。でも黒目勝ちの目は濡れたように輝いていて――女の印象は、蓮見よりは随分柔らかかった。
「あなたが、獅堂さん?わー、本物は可愛いですね。私。テレビで見て、しびれちゃったんですよ」
 そして、結構きさくな人のようだった。
「このかっこいい男の人誰?って、ママとテレビにかぶりつき、そしたら女の人だったから、吃驚しちゃった。本物に会えるなんて感激ですー。後でサインもらっていいですか?」
「は、はぁ……」
 面白い……性格をしているのかもしれない。
「それから、楓さんですよねー、超美形の彼なんて羨ましいです。目茶苦茶私好みなんですよー、今度紹介してもらっていいですか」
 仮にも婚約者の目の前で、こんなことをさらっと言う。
 蓮見は気にもならないのか、火をつけない煙草を所在無く口に咥えている。
 少し痩せたな、と思った。
 もともと鋭角の顔をしていたが、それがさらに研ぎ澄まされた感じだ。
 鷹宮の話では、今は、警視庁警護課、警護係の主任を務めているらしい。―――彼のキャリアからすれば、異例の出世だと思いますよ。鷹宮はそう言ってくれた。
 その役割が持たせる威厳―――のせいだろうか。蓮見は、以前よりさらにとっつきにくくなったような気がする。
「ほら、もっと野菜を食べなさいよ、煙草で生まれるがん細胞を、野菜で少しは殺しておかないと」
 その男に、小雪はずけずけと、実に小気味よく物を言う。
「アルコールはこれ以上駄目、明日は仕事なんでしょう」
 そして、蓮見は、あからさまに不満気な顔をしつつも、女の言いなりになっている。
 なんというか――そこはかとない幸せが伝わってくる、そんな感じだ。
「私、東京で仕事してるんです。証券会社なんですけど。彼、一度も旅行につれてってくれないし、せっかくだから休み取ってついてきちゃった」
 女はぺろっと舌を出した。
 なんていうか、美人なのに可愛らしい、愛らしい女性である。
「へぇ、こんな原始人のどこがよかったの?あなたみたいな人に、蓮見君は似合わないと思うけどな」
 と、その小雪よりもさらにずけずけとものを言うのは、途中から同席した宇多田天音だった。


              十一


 なんとなく男女で席が別れ、気がつくと午後10時を大きく回っていた。
 鷹宮と蓮見は、少し離れたカウンターに場所を変え、二人で話しこんでいるようだ。
 狭い店内で、長身の男二人は目立っていた。でもその二人より、さらに目立っていたのがテーブル席で騒いでいる女三人組だった。
 いや、正確には、騒いでいるのは、獅堂を除く二人だけだったのだが。
 獅堂は、宇多田と小雪のおしゃべりを延々聞くはめになっていた。二人はすぐに意気投合して、男の悪口に花を咲かせている。聞いている分には楽しいものの、話題にはついていけず、獅堂は所在無く、グラスのビールに唇をつけていた。
 明日は、休みだし――まぁ、たまには、こんなのもいいかもな……。
 喧噪が――周辺で、別世界の背景音のように流れていく。
 ともすれば、昨夜の、楓の声がそれに被さる。
 もう――忘れなきゃいけないんだ。
 もう――考えちゃ、いけないんだ……。
「ホント、愛されてる実感がないんですよー、私だって、今までつきあった人いましたから、判ります。愛のあるセックスって、やさしいだけじゃないでしょ。なんていうか、切ないっていうか、余裕がないっていうか」
「うんうん、判る判る」
 ぼやいているのは小雪で、頷いているのは宇多田のようだった。獅堂がみるに、二人とも相当酔いが回っているようだ。
「なのに、彼はただ優しいだけなんです。なんか、つまんないっていうか、刺激がないっていうかー」
「私も経験あるからわかるなぁ。優しいセックスだけじゃ、物足りないのよね」
―――ん?
 今、何の話してるんだ?
 そう思った時、二人の女の据わった目が、同時に獅堂に向けられた。
「獅堂さんも判りますよねー」
「そうよ、ここまで人の話を聞いたんだから、あなたも自分のこと、喋りなさいよ」
「……え、べ、別に、自分は聞いては」
「楓君はどうなのよ、激しいの?優しいの?」
「は――??」
「どんな風に獅堂さんを抱くのよ、教えなさいよ」
「ど、どど、どんなって」
―――言われても。
「…………」
 楓――。
 獅堂は、自分の気持ちが、すうっと冷めていくのを感じた。
 もう、二度と触れられる事も、触れる事も出来ない人。
 あっけなく別れを告げて、そして遠くに行ってしまった人。
「……別に……冷たいだけっすよ」
 手元のグラスを一気に空けてから、獅堂は呟いた。
 そう、楓は冷たかった。わがままで自己中で、サイテーな男だった。
 なんか――今さら、腹がたってきた。
 何が猛獣狩りだ、何が海釣りだ。
「わけわかんない男ですよ、怒ってると思ったら、辛そうだったり、苦しそうだったり、そんなに嫌だったら、最初からしなきゃいいのに」
「……なに、それ」
「人の嫌がることばかりするし、……なんていうか、自分は嫌われていたんです、嫌々されてたみたいっすよ」
「なによ、意味わかんない」
 頬杖をついた宇多田は、据わった目のままで呟いた。
「なんですかー、そのぉ、嫌がることばかりするって」
 小雪は大きな目をしばたかせている。
「あれじゃない……とか、……とか」
「あ、私それ、むしろ好きです。あっちじゃないですか、……とか、……とか」
 理解不能な会話が続く。
 なんだか何もかも面倒になって、獅堂は抱いていたグラスを、どん、とテーブルの上に置いた。
「そんな、わけわかんないことじゃないです。……嫌だって言ってるのに、首とか、目立つところに痕つけてみたり、そんな、ガキみたいなことで」
 頭の芯がぼーっとする。
 獅堂は腕をつき、その中に顔を沈めた。
「こっちにその気がないのに、……勝手に絡んできて、なのに、冷たくて……怒ってるし、なんすかねぇ、もう」
「……それ、結局、のろけじゃないですか」
 小雪の、不思議そうな声がした。
「いやだなぁ、獅堂さん、それ、目茶目茶愛されてるってことですよ」
「そうそう、私もそう思う。なんか腹立ってきたわ。あの楓君が、こんな女にぼろぼろにされてるなんて」
―――なんの……話だっけ。
「まぁまぁ、鈍い人だから、大目にみてやってください」
 鷹宮の声が、それに被さる。
「帰りますよ、獅堂さん」
 その声で、ようやく獅堂は我に返っていた。


            十二


「つまらないことで、時間を潰させてしまいましたね」
 繁華街の路地。並んで歩く、鷹宮の声は優しかった。
「いえ、結構、楽しかったっすから」
 獅堂は答えながら首を振った。
 なんだろう。最後に――結構、嬉しいことを言われたような気がするのに、それがどうしても思い出せない。
「私は助かりました。あなたがいてくれたから、宇多田さんも蓮見さんも来てくれた」
「え……?」
「……色々、聞いてみたい話がありましたから。なんにしろ、助かりました」
「…………」
 信号が近いせいか、鷹宮が少しだけ歩調を速める。その広い背中を見つめながら、この人は今、何の仕事をしているのだろう――と、ふと思っていた。
「相当、酔ってますね」
 気がつくと、少し手前で鷹宮が足を止めていた。
 同じ歩調で歩いているつもりで、いつの間にか、置いていかれていたらしい。
「そんな……感じでもないっすよ、大丈夫です」
 空元気を出してそう言いながら、慌てて足を速める。
 それでも、足元は自覚するほどおぼつかなくて、鷹宮は苦笑しながら、そんな獅堂が追いつくのを待っていてくれた。
「少し歩きましょうか」
「は……?」
「酔ったあなたを見ると、抑制する自信がなくなります。基地まで送りたいところですが、俗に言う送り狼になりそうで」
「はっ、いえ、いえいえ、結構です。タクシー拾って、適当に帰りますから」
 な、何を言うんだ、この人は。
 赤面し、大慌てで通りを見る。車は流れているが、タクシーらしきマークは見えなかった。
「いえ、やはり少し酔いを冷ましましょう」
 有無を言わせない声がした。そのままぐっと腕を引かれる。
「私が我慢しても、今日のあなたは、簡単に誰かに襲われてしまいそうだ。あの夜と同じですよ、獅堂さん」
 と、三年前、簡単に獅堂を襲った男は、しれっとした顔でそう言った。
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