九


「いやぁ、さすがは獅堂一尉ですねぇ」
 背後に追いついてきた男は、そう言って柔らかく相好を崩した。
 訓練後のブリーフィングを終え、午後の訓練までどうやって時間を潰そうかな――と思いながら、所在なく基地内の廊下を歩いていた時だった。
 獅堂は振り返り、足を止めた。
「あれで、何年ぶりかに旧式に乗ったなんて信じられませんよ。僕の方が翻弄されました。さすがです」
 手に書類を抱えた男は、快活な口調でそう言うと、獅堂と肩を並べ、歩き出す。
 大和閃と同期入隊したという中堅パイロット工藤涼二。午前中、一緒に空に出たドルフィンライダーの一人である。
 翼の記章が入ったブルーのブルゾン。白いスカーフ。今は――獅堂も、彼らと同じ隊服を着ている。
「お世辞はいいっすよ、足を引っ張らないように頑張りますんで、当日は宜しくお願いします」
 獅堂がそう言うと、男は笑って手を振った。
「またまた、ご冗談を」
 くっきりとした二重目蓋がくどいほどの、濃い顔立ちをした男である。工藤は、「獅堂さんの噂はもう、閃の奴から毎日のように聞かされてますから」と、最初の挨拶の時から、砕けた態度で話し掛けてくれた。が、ことアクロに関しては、間違いなく先輩であり、指導者である。
 階級は自分より下だが、獅堂は彼に対し、きちんとした態度を崩さなかった。
「あれだけ、出来れば十分です。獅堂一尉は単独演技だし、問題ないですよ」
「いや、冗談じゃなく……実際、染み込んだ感覚ってのは、やっかいだな、と思いましたね」
 獅堂は自分の手のひらを見つめながら呟いた。
 実際――ひやひやもののフライトだった。
 感覚がフューチャーとは全く違う。初めて旧式からフューチャーに乗り換えた時も、同じ違和感を味わった。しかしこうして――再び、慣れていたはずの旧式に乗ると、落差はそれ以上に著しい。 
 加えて機体の状態があまりよくないのか、計器類のあちこちにひずみが生じている。
「……メンテの方は、限界がありましてね。いや、だからこそ、このフライトで引退することになったんですが」
 獅堂の杞憂を見越したのか、工藤は少し影のある横顔を見せた。
「しかし、それは少し危険ではないですか」
 わずかに眉を寄せ、獅堂がそう言った時、
「新型に慣れた人にはそうでも、自分たちにはなんでもないことっすから」
 背後から、どこか硬い声がした。
 振り返ると、廊下の向こう――踊り場の角に、一人の男が立っている。
 まだ若い、頬がふっくらとして、目がきれいな――まるで少年のような男だ。着ている制服からすぐに判る、工藤と同じドルフィンライダー。ブルーインパルスの専用パイロットの一人である。
 獅堂は目をすがめていた。
「こら、美杉、お前誰に向かってモノ言ってるんだ」
 すかさず、獅堂の隣に立つ工藤が怒鳴る。
「言っときますけど予算が大幅に削られてるんです。新型は開発費くうでしょ、そのとばっちりがきてんですよ。元オデッセイのエースだかなんだか言ってるけど、そんなことも知らないで、何しにここに来たんですか」
 美杉と呼ばれた男は、一気にそれだけ言い捨て、硬い表情のままきびすを返した。
 唖然としていた工藤が、慌てて――振り返り、へどもどと頭を下げる。
「すいません……、いや、あいつ……普段は温厚な奴なんすけど」
「いや、マジで気にならないっすから」
 獅堂も慌てて手を振った。
 本当だった。むしろ、微笑ましいとさえ思っていた。
 まるで――大和や北條と初めて会ったような、その時と同じ感じがした。ぎらぎらと燃える眼差し。輝く若さと――情熱。
 自分はいつから……あんな目をしなくなっただろう、とふと思う。
 工藤は眉をしかめながら、短い髪を掻きあげる。
「美杉の奴……女房が出産控えてて、ナーバスになってるのかな、切迫流産とかで、入院してるらしいんすよ」
「そうっすか……」
「式典の当日、見に来てもらうのを楽しみにしてたから……あの莫迦」
 工藤は再度舌打を漏らす。
「本当に気にならないっすから、……それより、メンテのことは失礼しました。……確かに今の奴の言う通りです、自分が認識不足だった」
 今度は、逆に獅堂が頭を下げる番だった。
 本当に、知らなかった。
 この世界には、光と影が混在している。新型――フューチャーという華々しい存在の影で、旧型を操るパイロットたちは、苦渋の思いを噛み締めていたのかもしれない。
 頭を下げつつ、下げられつつ、結局互いに苦笑しながら、執務室のある階まで戻ると、そこは妙に緊張した空気が張り詰めていた。
 事務員たちが、書類を片手に、慌しく廊下を行き来している。明らかに隊服ではない背広姿の男が二三人、険しい目で話をしながら過ぎ去っていく。
 工藤が、あっと言った目で顔を上げた。
「ああ、そうだ。忘れてた。今日は、本庁からおえらいさんが来るんですよ」
「へぇ」
 獅堂は少しびっくりした。
 本庁とは、防衛庁のことである。
「ほら、今回の引退式には、新任の青桐長官が出席されるでしょ、マスコミも大勢来るし、警備も相当厳しいものになるらしいんです。警視庁警護課からも、応援部隊が呼ばれてるそうですし」
「そうなんすか」
 そんなに大げさなことになっているとは思ってもみなかった。
 その――大観衆の中で飛ぶのか、と思うと、さすがに鳥肌の立つような興奮を禁じえない。
「今日は、警備の打ち合わせに来られてるのかな。マスコミも来てるようだし……そんなことでもなきゃ、普段は静かなとこなんですけど」
 じゃ、失礼します。僕はこれを届けないと。
 そう言って、工藤は、別の方角に消えていった。
―――コーヒーでも飲むかな。
 一人になった獅堂が所在無くそう思った時。
 ふいに近づいて来た硬質な足音が、少し後ろで止まるのが判った。
「獅堂一尉?」
 背後から聞こえる声。
 その声だけで、獅堂には、それが誰だか判っていた。
「た……」
 振り返ろうとして、足が動かなかった。
 どうして――ここに、今この人がいるのだろう。
 突然すぎる。心の準備も何もない。こんな不意打ちみたいな再会が――あっていいのだろうか。
 しかも、こんな――。
「やっぱり獅堂さんですね、驚きました。もう松島に来ていらしたんですか」
 懐かしい声が、足音と共に近づいてくる。
―――鷹宮さん……。
 獅堂は、強張った首をかしげて、かろうじて背後を見た。
 窓から注ぐ逆光に、背の高いシルエットが浮かび上がる。日本人離れした長い脚。少し色素の薄い髪。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
 鷹宮篤志。
 男はそう言い、綺麗な眼で微笑した。
 黒地に紫紺ラインの入った士官服。胸に輝く階級バッヂ。鮮やかに帽子を外し、白い手袋をつけた手が、すらり、と形良い敬礼をする。
 別れた時と少しも変わらない身体のライン、穏やかで優しい微笑。
「あ、――お、お久し、―――ぶりです」
 極限までどもりながらも、獅堂も慌てて敬礼した。
 鷹宮はにっこり笑い、敬礼を解いて歩み寄ってくる。
 何故、鷹宮が、こんなところに現れたのか――という驚きよりも、三年前と少しも変わらない身体の線や笑顔に、自分でも理解できない動悸がするのが不思議だった。
 近寄ってくる距離だけ、後ずさり、獅堂は警戒しながら、男を見上げた。
「今日は、式典の会場の下見です。偶然ですね、びっくりしました」
「……た、鷹宮さんも、引退式に来られるんですか」
「うちのトップが出席しますので、その護衛も兼ねて」
「トップって……」
 影が自分の上に重なる。
 その距離に戸惑って、獅堂はさらに一歩引いていた。
「そんなに警戒しなくても」
 鷹宮は、あきれたように苦笑する。
 そして、ふいに、いたずらめいた目になった。
「ああ、そうか。そう言えば、あの時以来ですねぇ、獅堂さんとは」
 笑みを含んだ――それでいて、怖いほど怜悧な目。
 あの時。
「そ、そそ、そうでしたっ……け、自分は、……なんだろう、その……よく記憶していませんから」
 誤魔化してみても、あの時――それが何時を指すのか、すぐに判る。
 意識しまいとしたが、自然に頬が熱くなっていた。
 桜庭基地での最後の夜。
 あれは――まるで、交通事故にあったようなものだった。
 今でも獅堂は自分にそう言い聞かせている。
 そして、事故の責任は自分にもある。割合は――7対3くらいで、鷹宮が悪い、とも思っているのだが。
 確かに自分も油断があったし、甘えがあった。それにしても、いきなりすぎた鷹宮の行動は、当時の獅堂には予測不可能だった。
 忘れようにも忘れられない、初めて男の前で泣いた夜。
 泣いた――というより、あれは生理的な涙だったのだろう。その時点で抵抗するのを諦めて、覚悟を決めていたとは言え、想像を越えたあまりの痛みに――泣き声を上げてしまったのだから。
 その時の状況を思い出すたびに、獅堂はわーっと叫んで、空想を拳で打ち消し、どこかに走って逃げたくなる。
 最悪なのはその後だった。
 泣いた自分を見て、鷹宮は初めて優しく抱き寄せてくれた。よしよしと、まるで子どもをなだめるように、頭を撫でてくれていた。
 自分は――なんだか心細いのと怖いのとで、その腕にすがって、肩を震わせていたような気がする。
「……やめましょうか」
 耳元で鷹宮の声がした。
 何故か胸がいっぱいになって、
「……すいません」
 そんなことを言った気がする。
「すいません、鷹宮さん」
―――だーっっっ
 と、獅堂は、その場面を思い出すだけで、悔恨と自分の莫迦さかげんに眩暈がするのだ。
 どうしてそこで謝る、自分。
 どう考えても、無理矢理だったのに。
 あんなことまでさせられて、どうしてそこで――謝ってしまったんだ!
「……獅堂さん?」
 はっと、獅堂は顔を上げた。
 ほとんど至近距離に近づいた顔。
「わっ、わわっ、何するんですか、こんなところで」
 慌てふためいて後ずさり、壁に背中が激突した。
 その目も唇も――初めて見た逞しい裸体も、全部身近なものとして知っている。その記憶が、蘇って、ちらついて、消えてくれない。
「……何って、別に」
 鷹宮は唖然としている。それはそうだろう。勝手に過去のことを思い出し、勝手にプチパニックに陥っているのは獅堂一人なのだから。
「じ、自分は、もう、昔の自分じゃありませんから!」
 かろうじて姿勢を立て直してそう言うと、鷹宮は何度か瞬きしてから、微笑した。
「知ってますよ」
 その笑顔が、どこか寂しげに見えたのが意外だった。少し意表をつかれた気がして、獅堂は、それ以上言葉を繋げずに口をつぐんだ。
「真宮楓君とは、仲良くやっていますか」
「は……あ、はぁ」
 昨夜別れました――とは、さすがに言えない。
「記者会見、拝見しました」
「…………」
「大人になりましたね。まるで、別のあなたを見ているようでしたが」
 何故だろう。
 鷹宮の顔が見られない。
 何故いつも、この人はこういうタイミングで――自分の前に現れるのだろうか。
 一番会いたくない時に、そして、それと同じだけ会いたいと思っている時に。
「……結婚というのは、あなたなりの責任の取り方ですか」
 責任、という言葉の意味が上手く咀嚼できなかった。
 獅堂が黙ったままでいると、鷹宮は染み入るような眼で、ふっと笑んだ。
「……あまり、何もかも、一人で抱え込んではいけない」
「…………」
 この人は何が言いたいのだろう。そう思いながら、獅堂は、自分の思考がどんどん頼りなく揺れていくのを感じる。
 鷹宮と一緒にいると、いつもそうだ。自分がどうしようもなく――弱い人間になっていくような気がする。何故だろう。何故――。
「まぁ、それはそうと、実は、もう二人、懐かしい面子が揃ってるんですよ」
 鷹宮はふいに、明るい、彼らしい口調になった。
「二人……ですか」
「僕は、今夜はこちらのホテルに一泊します。よければ、夕食をご一緒しませんか」
「……え」
 獅堂は戸惑う。
「心配しなくても、二人きりってことはありませんよ」
 男は快活に苦笑した。
「蓮見君と、宇多田さんですよ。彼らも仕事でこちらに来てるんです。どうですか、久しぶりに二人に会いたくはありませんか」
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