七
・
・
「……落ち着いたか」
そう声をかけると、ぼうっと目を開けた男は、何度か不審気な瞬きを繰り返した。
「ここ……お前の部屋か」
「そう、僕の部屋だ」
「俺、寝てたのか」
「それはもう、すこやかに、ぐっすりと」
そう言ってベッドの傍から立ち上がり、嵐は嘆息しながら苦笑した。
「久しぶりに、あんないい寝顔を見たよ。楓が子どもの頃を思い出した」
「…………」
楓は不満気に身体を起こす。そして、ようやく飲みすぎたことを自覚したのか、眉をしかめて額を抑えた。
「……ってー」
「ったく、何が酔わない体質だよ」
薬持ってくるから待ってろよ――と声を掛けながら、台所に立ち、グラスに水を注いで戻ってきた嵐は、ベッドの少し前で足を止めていた。
ベッドに腰掛け、どこか呆けた目をした楓は、じっと――壁の一点を見つめている。
―――ああ、そっか。
すぐに、何を見ているのか、察しがついた。
「ほら、飲めよ」
そう言って水を差し出す――それを受け取り、グラスに唇をつけた楓はぽつりと呟いた。
「残してたんだな、この絵」
「まぁね」
嵐も、義兄の視線を追って、壁に掛けられた四角形のキャンパスに目を向けた。
「遺影代わり……って、実のところ、楓が死んでるなんて、僕はこれっぽっちも思ってなかったけどね」
修復した痕の残るキャンパス。
真宮の両親と、その間に立つ学生服を着た楓の姿。
いったんは俺が棄てると――楓が預かってくれたものの、結局は、棄てられなかったらしい。破れた痕を綺麗に張りなおし、部屋に飾ってくれていたのだ。
「……前から思ってたけど」
くすんだ油絵を見上げながら、透き通った綺麗な横顔が小さく呟く。
「嵐、なんでお前、自分自身を絵の中に書かなかった。普通家族の肖像画って、全員を書くもんだろ」
「うーん、なんでだろう」
嵐は腕を組み、自らが高校生の時、その絵を描く時に感じたはずの――何かの思いに心を寄せた。そういえば――どうしてだろう。
「あまり意識しなかったけど、……そうだなぁ、僕にとって大切な人たちを描きたかった、その程度の気持ちしかなかったんだと思うよ」
「自分は大切じゃないのか」
失笑したくなるような質問だった。
「……そんな、深く考えなかったよ、でも、この絵を描いているとき、僕はけっこう幸せだった。その気持ちだけはよく覚えてる」
「ふぅん……」
不思議そうに呟き、空になったグラスを投げ返すと、楓は再び、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
目は、ぼんやりと天上を見上げている。
「……しないのか」
「……しないよ」
「……ラストチャンスだぜ、嵐」
「笑わすなぁ……言うなよ、そんなこと冗談でも」
嵐は苦笑して、ベッドの端、楓の頭のある方に腰を降ろした。
楓はすかに首をかしげ、そのまま――じっと見上げてくる。澄んだ眼に、一時心を奪われる。
美しい男は、そして静かに唇を開いた。
「……オデッセイ、再起動させるんだろ」
――――オデッセイ……?
思いがけない単語に、嵐は思わず眉を寄せていた。
「それは――だけど、……よく知ってるね」
まだ、新聞等には一切公になっていないはずだ。
獅堂が漏らしたとすれば、それは――国家公務員法違反になる。天の要塞が再起動する話は、まだそのレベルでの話なのだ。
嵐が黙っていると、楓は再び視線を天上に戻し、抑揚のない口調で続けた。
「新クルーの候補者名簿を見た。最初は獅堂さんだった、それが、途中で変更になってた」
「…………」
「時期を見て、すぐに判ったよ。俺とのことだろ、それが原因で、あの人は選に漏れたんだろ」
「楓」
嵐は立ち上がりかけていた。
動揺を抑え、仰臥したままの楓の肩を掴んだ。
「君はどうしてそれを、いや、そんなこと……そんなこと、僕だって知らないのに」
「不正アクセスしたからさ、防衛庁のオデッセイ再起動プロジェクトのデータに」
なんでもないような言い方だった。
組み敷いた腕の下、真直ぐな目が見上げている。眩暈がした。不正アクセス。それが――楓にとってどんな意味を持つか、怖いほどよく知っていたから。
「…………楓…」
「元のクルーは、ほとんどそのまま再招集されてた、嵐、お前にも声がかかったんだろ」
「……断ったよ、僕は、NAVIに入る予定だから」
そんなことはどうでもいい。
そんなことは――そんなことより、
嵐は楓の肩を抱いたまま、引き起こすと、激しく揺すった。
「君は――何を考えてんだ!何でそんな莫迦なことをした!そんな真似をして、万が一アクセス元が解析されたら、君はどうするつもりだったんだ!」
「実刑くらうんだろ。いいよ、今さらどうなっても」
「…………」
「多分、不正アクセスはばれてると思う、……もう一ヶ月も前のことだけど、いまだに何のお咎めもなしだ。見逃してくれたのか、それとも俺だとは気づかなかったのか」
「楓、」
「……天音が、教えてくれたんだ。オデッセイがもう一度打ち上げられて、獅堂さんも招集されるかもしれないって」
「…………」
「なんとなく嫌な予感がしたんだよ。獅堂さんは、オデッセイの話をしたがらないし、……一時、様子がおかしいと思ったこともあったし」
「……獅堂さんは……だとしても、あの人は」
「そんなこと気にする人じゃないんだろう、そうだろうね。でも駄目だ、もう俺が限界なんだ」
吐き捨てるようにそう言うと、楓は嵐の手をふりほどいて、顔をそむけた。
「俺は、あの人から色んなものを奪ってきた。何も言わないけど、そのくらい判る。これからだって、数え切れないほど、あの人の可能性を奪うことになるんだろう。もう、そんなのは嫌なんだ、もうそんなのは――我慢できない」
激情を一気に吐露し、再び嵐を見上げた男は、息を吐き、そして投げやりな口調で言った。
「……お前が、俺を抱かないんなら、それでもいい。でも、獅堂さんには、俺とそういう関係になったって、悪いけど適当に言っといてくれないか」
「……適当か」
「……適当じゃ駄目か」
「……なんだよ、それ」
「…………」
「ふざけんな、なんだよ、それ!」
我慢していたものが、唐突にはじけた。
限界なのは、僕の方だ。
怒りにも似た欲情が込み上げる。
そのままベッドに押し倒しても、楓は無抵抗のままだった。どこか表情のない目が見上げている。
「勝手だ……楓…………」
「いいんだ、嵐」
「…………」
「お前の好きにして、いいんだ……もう」
胸が、つまるほど苦しかった。できやしない。こんな――ぼろぼろになった楓に、彼が傷つくと判りきったことを、できるはずがない。できるなら、とっくにしている。会うのが恐かったのは、知っていたからだ。楓は――僕が望めば絶対に拒否しないだろう。
例えそれが、本意でなくても。それがどんなに、彼にとって耐え難い行為であっても。
だから、この三年近く、離れていたし、楓も――どこかでその気持ちを察してくれていたに違いない。
そのままの姿勢でうなだれて――楓の肩に額を寄せ、嵐は、激しい衝動を噛み殺しながら呟いた。
「君は……今、どれだけ残酷なことを言ってるのか、わかってんのか」
「……俺は、そんなことを言ってるのか」
「僕が……どんな気持ちで」
君のことを忘れようと――努力してきたか。
君の事を――。
「……だから、言ったろ」
楓の声は静かなままだった。
「俺は卑怯な男なんだ。でも、こうなるのが一番いいと思ってる。獅堂さんには、あの人にふさわしい人がいて、俺にはお前がいる。最初から、収まる場所は決まってたんだ。そうは思わないか」
「…………」
嵐は顔をあげ、自分の下にある男の顔を見下ろした。こうなるのが一番いいと思ってる、そう言いながら、ひどく寂しげな目をしている男をただ、見下ろした。
「少しの間……」
楓はかすかに笑う。何か――懐かしいものでも見るような眼差しになる。とても優しくて哀しい眼差し。
「少しの間、森で迷ってただけなんだ、……あの莫迦女の方向音痴がうつったんだな。俺としたことが、情けないよ……」
――――楓……。
言うべき言葉は何もなかった。
嵐は、黙ったまま、その痩せた身体を抱きしめた。
・
・
八
・
・
外はひどい雨だった。
松島基地につき、さっそく、ブルーインパルスの編隊長と打ち合わせをして――ようやく獅堂があてがわれた寮に戻ったのは、午後十時をゆうに過ぎていた。
あいさつしようにも、寮長さえ就寝している。
仕方なく一人で荷物を運び、なんとかかんとか寝支度をすませた。まぁ、荷物は殆んどないし、シャワーは基地で浴びてきたし、着替えて布団を敷く程度の、簡単な支度だったのたのが。
明日から、T−4戦闘機を使った実地訓練に入る。
早く寝なければならないのに――不思議と目が冴えていた。
豆電球だけを灯した部屋、雨の音だけが立ち込めている。
関東一円に大雨警報が出されていた。この雨は――遠い地にいるあいつのところにまで通じてるのかな、仰向けになって天上を見つめながら、そんなことを、ふと思う。
それから、どのくらいたったのか――。
携帯電話が鳴ったのは、もう深夜に近い時間で、うとうとしかけていた獅堂は、はっとして跳ね起きていた。
何故だろう、楓からだという確信があった。いや、今夜――必ず連絡があるような、そんな予感がずっとあった。
「……真宮……」
受話器の向こうから聞こえてくる沈黙。
電話の相手を確信し、獅堂は相手の名前を呟いていた。
耳元で、かすかなくぐもった笑い声が響く。
『―――奇跡だな、獅堂さんの携帯に繋がるなんて』
彼の声。
『悪かったかな、こんな時間に』
冷たくて優しい――彼の声がとどく。
「いや、起きてたから。……今、松島でさ」
『知ってるよ、そっち雨なんだろ、今、降ってる?』
「うん……」
ぎゅっと携帯電話を抱き締めていた。
きっと、この電話が、最後になる――そんな不思議な気持ちがした。
『嵐と会ったよ』
「……そっか」
『さっきまで一緒だった、……ありがとな、獅堂さん』
「…………」
『お前のおかげで、嵐と会えた。嵐と分かり合えたから』
「……楽になったのか」
『なったよ、もう大丈夫、……今まで、悪かった、ひどいことばかりしたよな……ごめんな』
「…………」
なんと言っていいか、判らなかった。謝られる事が、こんなに辛いことだと思わなかった。鼻の奥と目蓋の裏が痛い。
『今、少し時間いい?』
楓の声は優しい。哀しいくらい優しい。
「うん……?」
『眠かったら、寝ながら聞けよ。俺、テキトーに喋ってるから』
「……聞いてるよ」
『色々さ、考えたんだ。それをどう伝えていいか判んないけど……例えばさ、俺がアフリカに猛獣狩りに行ったとして』
「何の例えだよ、それ」
いきなりの妙な展開に、思わず失笑を漏らしていた。楓はそれに構わずに続ける。
『ライオンに襲われるだろ、そうしたら、獅堂さんは助けに来てくれるんだ。何があっても、何をおいても』
「…………」
『で、獅堂さんは、海釣りに出かける。高波に飲まれて、溺れるとしてさ……獅堂さんを助けるのは、誰だと思う』
「…………」
『今、頭の中に誰が浮かんだ?それ、少なくとも俺じゃないだろ』
獅堂は何か言おうとして、言えなかった。それは――そのとおりだった。
「……真宮、」
『俺はさ、そういう関係がもう嫌なんだ。一方的にあんたに守られるような、そんな関係が、もう重たいんだよ』
「それが……」
声が、喉の奥に張り付いていてる。
「それが、嵐なら平気なのか」
ようやく出たのは、そんな言葉だけだった。
『……例えば、獅堂さんと、嵐が、同時に溺れてるとして』
楓の声も、どこか苦しげに聞こえた。
『俺は間違いなく、一編の迷いもなく、嵐を先に助けるだろう。嵐に何かあれば、俺は地球の裏側にだって飛んでいく、自分の命だって惜しくない』
「…………」
『嵐にとってもそれは同じで、俺たちは、対等で、いつも同じスピリットを分け合っている。それが、俺と嵐なんだ』
そっか。
電話を抱いたまま、獅堂は静かに笑みを浮かべた。
もう、終わったんだ。
今さら、じたばたあがいても仕方がない。
アラート開けのあの朝、嵐に会いに行った時から、こうなることは覚悟していた。もう――自分の役目は終わったのだ。
楓が――嵐の身代わりを自分に求め、それで心の隙間を埋めていただけだとしたら――もう……その役目は必要ないのだ。
『……切るけど、何か、ある?』
「……ないよ、今までありがとう」
『それ、俺のセリフだよ』
「…………」
『アクロフライト、頑張れよ。旧式の操縦久しぶりなんだろ。無理はするなよ』
「…………」
『食パン一枚の朝食はやめとけよ。身体に悪いから』
泣かない。
『部屋の鍵は時々変えるんだぞ、お前は無防備だから心配だよ』
こんなことで、絶対に泣かない。
『……こっちも雨、降ってきたな』
決めたんだ。決めてるから、涙は、嬉しい時にだけ出すようにしようって。
獅堂が聞いている雨の音を、今、同じように楓も聞いている。
それだけのことが、わずかに二人の距離を縮めたような気がした。
『じゃあな、おやすみ、獅堂さん』
やがて静かな声が携帯から響く。
「おやすみ、真宮」
獅堂は通話ボタンを押した。
目を閉じて、きつく閉じて、込み上げるものにじっと耐えた。