四
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目覚めてすぐに、隣室から漏れる明りに気づいた。
起きようと決めた時間にきっかりと目が覚める――時計いらずの体質は、子ども時代からの癖のようなものだ。
「……何やってんだ、あいつ」
半身を起こし、獅堂は嘆息して呟いた。
セミダブルのベッド。隣に、楓が寝ていた気配はない。
昨夜、嵐の電話のことには一言も触れないまま、戻ってきた楓はさばさばした表情で食事を注文して、食べて――そして、「俺、仕事あるし、テキトーに寝てていいから」そう言い棄てて、さっさと隣室に消えてしまった。
よほど帰ろうかと思ったが、それでも――まだ、話ができるかもしれないと思い直して、泊まることにした。が、結局はそれも、意味がないことだったらしい。
まぁ、獅堂も、楓が来るのを待つまでもなく、九時前には熟睡モードに入ってしまっていたのだが。
午前五時。今朝は早出だから、少し早めにここを出て、そのまま基地に向かうつもりだった。
獅堂はベッドから降り、足音を殺して薄く開いた書斎――楓の仕事部屋をそっと覗いた。
「…………」
電源の落ちたパソコンデスク――楓は、その前に座り、机にうつぶせるようにして眠っているようだった。動かない背中、昨夜見たきりのシャツ一枚で――莫迦だな、もう明け方は寒いのに……そう思いながら、獅堂は、寝室に引き返し、毛布を一枚掴んで戻った。
「莫迦、楓……」
帰ればよかった。自分を避けているのなら―― 一緒にいたくないのなら、そうはっきり言えばいいのに。
年下の我儘というには、もう度が過ぎている――昨夜ばかりではない、ここ一月ばかり、楓はずっとこんな調子だ。
零れた髪の下から横顔がのぞいている。寝顔でさえ綺麗だった。睫が長いから、こういうアングルで見下ろしていると、まるで女性にしか見えない。
肩に毛布を掛け、そのままきびすを返そうとした時だった。
「……今から、仕事?」
声が聞こえた。多分――寝たふりだとは思っていたが、声を掛けられるとは思わなかったので、獅堂は単純に驚いてしまっていた。
「……うん、今日は、早く行かなきゃいけなくてさ」
振り返って見た楓は、先ほどと同じ姿勢のままだった。
くぐもった声だけが響く。
「大丈夫なのか、……アクロバットは初めてなんだろ」
「……まぁ、でも、訓練でそれに近いことはやってるから」
戻ってくる返事はない。
「……今週はもう、休みなくてさ、週明けにはすぐ松島だから、……次に会うのは、結構先だな」
楓は何も言わなかった。
「じゃあな、風邪引くから、ベッドで寝ろよ」
そう言って扉を閉めながら、次は――あるのだろうか、と獅堂はふと思っていた。
楓は嵐と会うだろう。
その邂逅は、―――あの冷たくて頑なで、そして哀しいほど孤独な男を、どう変えてしまうのだろう。そんなことを考えていた。
・
・
五
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”――現在、演習空域において、大量の積乱雲が発生中、シーリング一千フィート。空路の変更をお願いします”
ヘルメットに装着されているヘッドフォンから、管制塔のオペレーターの声がした。
「一番機、了解。指示願います」
獅堂はリップマイクの位置を直し、そう言った。
”――二番機、了解”
耳元で、すぐ隣を水平飛行している二番機――北條累の声がする。透明なパプルキャノピーの向こう、まだ数回目の訓練飛行に緊張した新人パイロットのヘルメットが浮かび上がっていた。
”――三番機、了解”
獅堂の後方を飛ぶ、三番機からも声が届く。獅堂と同じ中堅パイロット、大和閃の声である。
航空自衛隊では、パイロットの記章を守るため、年に七十時間の飛行訓練が義務づけられている。三番編成で行われる訓練飛行では、獅堂は常にリーダー機を与えられていた。
”――ベクター220度、エンジェル一万フィート、フューチャー各機、低空飛行を許可します”
オペレーターの声に、獅堂は気持ちを引き締めた。
「了解、現在、東京湾上空をフライバイ、二番機、三番機、四十五度の左旋回、エンジェル一万フィートまで下降する」
”――了解”
”――ほいきた、了解!”
獅堂は操縦桿を押し、ヘッドアップディスプレイで高度、進入角度をチェックしながら機体を下降させた。ニ機、三番機の動きも同時にクロスチェックする。問題は何もない。ゆっくりと雲が割れ――海の青が、目に鮮やかに飛び込んでくる。
綺麗だな。
その眩しさに、獅堂は一瞬目をすがめていた。
”――しかし、ハードっすねぇ、獅堂さん、休暇返上で、明日には松島に飛ぶんでしょ”
三番機から、大和閃の声が届いた。
”――あんま、無理しないでくださいよ、どうせ、新長官のイメージアップを兼ねたセレモニーなんすから”
二番機から、北條累の声も届く。
「サンキュ、でもブルーインパルスは自分の目標だったからな、楽しみなものは苦にならないよ」
獅堂は計器類をチェックしながら、それに答えた。
”――僕、絶対見に行きますからね。妻も子も楽しみにしてるんっすよ”
”――俺は、気持ちだけ応援してます”
”――ばーか、北條、てめぇ、あの日にあわせて、休暇届け出してるだろ、そんなのとっくにお見通しなんだよ”
”――あ、っあれは、べ、別に他の用事があって”
大和と北條、ケンカばかりだが、意外にいいコンビなのかもしれない。
獅堂は思わず苦笑していた。
いい奴らだよな――。
心の底からそう思う。
空自に入って、いいことばかりじゃなかったのは確かだ。プライドと我が強いパイロット連中の中にあって、時には、ひどいことをされたこともある。
でも、空に出れば、みんな一緒だ。空が好きで、空に憧れてパイロットを目指した同類。心の底では、何かが繋がっているような安心感がある。
獅堂は、笑みを噛み殺して、視線を下方の海に転じた。
海の青は、空を映しているものなんだ――。あれは、楓が教えてくれたことだっけ。
胸が、ふいに痛くなる。痛むほど綺麗なブルー。
色んなことがあったけど、振り返れば楽しい思い出ばかりだった。
最初から――誰のものにもならない青、判ってたんだ――真宮は、最後には、自分を棄ててしまうだろう。
彼には彼の場所があるんだ。
自分に、自分の居場所があるように。
自分は、――この空を棄てることは出来ないだろう。
何があっても、例えそれが、楓のためでも。
空自を辞め、楓の傍にいてやることは、何度も何度も考えた。眠れないほど考えた。痩せて行く身体、精神的に不安定になっているとしか思えない行動。
でも―――。
海は空を映している、空も――海の輝きに映えているのかもしれない。でも、決して交わる事のない二つの距離。
それが、自分とあいつの距離なのかな……。
澄み切った青に落ちた、黒い影を見つめながら、獅堂はそんなことを考えていた。
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六
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「本当はさ、……会えば、何を話そうかって、……ずっと、迷ってたんだけど」
グラスに注がれたビールに口を寄せながら、嵐は、苦笑を浮かべてそう言った。
「その割には、一日、喋りまくってたな、お前」
カウンターに隣合わせで座る、楓の声は、冷めている。冷めているのに――優しく聞こえる。
「緊張、誤魔化してた。……楓があんまり、普段どおりだから、拍子抜けしたよ」
「普段どおりってどんなだよ、俺だって、そこそこ緊張してたさ」
楓はそう言い、手にしていたカクテルのグラスを空ける。
あまり、飲まないようにしよう――嵐はそう思っていたが、楓のピッチが早いので、ついつられて飲んでしまっていた。
横目で伺った楓の肌は、透き通るように白い。間近で――いや、生身の義兄をこうして見るのは、何年ぶりになるのだろう。痩せたせいか、研ぎ澄まされた美貌は、以前よりいっそう冴え冴えとして――こうしていても、店内の誰もが彼を注目しているのがよく判る。
「あの人誰、有名人?」
「ほら、……あれじゃない、前テレビに出てた、あの……」
囁きと共に、嘲笑にも似た笑い声があがる。嵐は――思わず、その集団を振り返り、きつい一瞥を投げていた。
けれど楓は、そんな視線には慣れっこなのか、一向に気にしてはいないらしい。
普通に、カウンターに座り、次々とグラスの代わりを注文している。
「……そんなに、飲めたっけ、楓」
「まぁね。飲んでも酔えない体質なんだ。お前よりは酒癖悪くないよ」
「酒癖って……僕は別に」
その言葉に鼻白むと、楓は、初めて微かな笑みを浮かべた。
「説教癖、直ってないんだろ、久々に会って、お前みたいな莫迦に説教されんのはいやだからな」
「莫迦ってなんだよ、僕にそんなことを言うのは楓くらいだ」
さすがにむっとしたものの、そういう楓の、変わらない態度にほっとしてもいた。
「今日は……ありがとな」
少し真面目になって言うと、楓はようやく穏やかな顔になった。
「いいよ、俺も楽しかったし」
「うん……僕も楽しかったけどさ」
「なんだよ、含みのある言い方だな」
「…………」
嵐は口元から笑みを消し、飲む気の失せたグラスビールを手のひらで抱いた。
楽しかったのは本当だった。実際――何故、こんなに長い間避けあっていたか判らないほど、再会した瞬間から、二人はかつての嵐と楓に戻っていた。
今日一日、大学の研究室で二人で過ごした時間。それはかつて、まだ二人が互いを一番必要としあっていた頃の――夢のような記憶を、否応なしに呼び覚ます
久々に見た楓の笑顔。笑い声。屈託のない触れあいは、想像以上に苦しみを伴わなかった。
ただ――やすらげていた。不思議なくらい、幸せな気持ちでいられた。
「……楓、お前さ」
けれど、同時に感じてもいた。楓の態度が不自然で、どこか――無理にはしゃいでいるような、違和感があったことに。
「……獅堂さんと、上手く、いってないのか」
その質問が、楓の気持ちを害することは予想していた。でも――それが聞きたくて、わざわざここ――大学の傍の居酒屋に誘ったのだ。
今日一日、ずっと気になっていた。楓の健康状態はどうなっているのだろう。獅堂さんは――本当に、こんな状態の楓を見捨てるつもりなんだろうか。
「どうしてそう思うんだ」
楓の横顔が、再びそっけなくなっている。
「……どうしてって」
どう言えばいいのだろう。獅堂さんが、「限界」って言ってたよって、―――そんなこと、言えるはずがない。
「獅堂さんに言われたんだろ、俺に連絡するようにって」
けれど、楓はあっさりと口にした。
新しく来たグラスを、まるで水でも飲むようなあっけなさで口に運ぶ。
「鈍そうに見えて、本質を見抜く力は野人なみにある人だから、判ったんだろ……もう、限界なんだよ」
同じ単語が出てきたことに、嵐は表情を変えずに驚いていた。
「言っとくけど、獅堂さんが限界感じてるわけじゃないよ。あの人の我慢強さには頭が下がるよ。あいつはさ、……何があっても、俺の手を離したりしない人だから」
「楓……」
「そんな獅堂さんが、俺と安心して別れられるのって、どんな時だと思う?」
「楓、酔ってるだろ」
相手の顔も観ないままで、ただ淡々と喋る横顔に、わずかな異常を感じないでもなかった。それには構わずに楓は続ける。
「俺が、嵐の傍に戻ることだよ。お前と一緒になることだよ。それが俺のためだって、あいつ、莫迦だから、そう思ったんだろうな」
「楓、」
「限界なのは、俺の方なんだ、嵐、……俺を、助けてくれ」
横顔が、ふいに崩れた。まるで泣き出しそうに見えた。
両手で額を押さえるようにしてうなだれる楓。嵐はとっさに、その頭を抱いて、自分の傍に引き寄せていた。
「……嵐……」
カウンター越しの店員が、少し驚いたような顔をしている。その眼差しも気にはならなかった。
今は、壊れてしまいそうな男のことだけしか頭になかった。
「……何が、あったんだ」
「…………」
「言えよ、何があったんだ、獅堂さんと、何があったんだよ」
「……別れるよ、もう、一緒にいたくないんだ」
「楓……」
「俺は卑怯か、でも、今、俺はお前に傍にいてほしい。お前に……傍にいて欲しいんだ」
触れる額の熱さから――鼓動の音が伝わってくる。
「僕は、楓に……何をするか判らないのに、」
名状しがたい苦しさを堪え、嵐はようやくそれだけを言った。
「俺、今、限界超えて飲んでるから」
返ってきたのは、笑うような声だった。
「もういいんだ。嵐、俺だってお前が欲しい。いい加減身体を繋いどこう。何も変わりはしない。俺たちは……最初から、互いを求め合っていたんだから」