「見ましたよ、記者会見」
 その明るい声が第一声だった。なにから切り出そうかと緊張していた獅堂は、拍子抜けして、目の前の男を仰ぎ見た。
 嵐は、いたずらっぽい目でにっこりと笑う。
「で、ついでに言うと、例の写真も」
 ぶっ、と口に含んだ水を噴き出しそうになっていた。
「いやぁ、僕にしてみれば、目の保養でしたけど、楓はマックスで怒ったでしょ、あいつ、ああ見えて相当嫉妬深いから」
 コップをひっくり返していた。
「し、獅堂さん、何もそこまで動揺しなくても」
「あ、ああ、悪い」
 ウエイトレスが駆けつけて来てくれて、床に零れた水をふき取ってくれる。
 東京都内。
 街路沿いの静かなカフェだった。
 午後の店内は、客の影もまばらで、一瞬の騒ぎは注目を集めたものの、すぐに静かな空気が戻ってきた。
「……すいません、僕も冗談がすぎました。色々大変な思いをされたんでしょうに」
 再び二人きりになってから、嵐はそう言って頭を下げた。
 獅堂は慌てて、それを遮る。
「いや、いいんだよ、つか、さっきみたいにあっさり言われた方が助かるから」
 そう言うと、嵐は少し寂しそうに苦笑した。
「……記者会見で、獅堂さんがあんまり綺麗で、かっこよかったから……もう写真のことなんて、どうでもいいことなんだって、その時、よく判りました。ホントは僕も……眠れないほど悔しかったんですけど」
 うん……。
 少し嬉しくなって、獅堂はうつむいて、鼻をこすった。
 きっと、昔の仲間なら、みんな嵐と同じ反応をしてくれるだろう。そんな気がする。それが判っているから、あんな目にあっても、特に気にせずに頑張れたのかもしれない。
「でも綺麗は余計だよ、記者会見の後、散々からかわれたんだ、男にしか見えなかったって」
「はは、楓が、女みたいに綺麗なやつですからね」
「そうそう、結婚式は、逆バーションでやってくれって言われたよ」
「楓は激怒するでしょうね、見たいなぁ、それ」
 嵐は、楽しそうに笑う。
 オーダーしたコーヒーが運ばれてきて、会話は一時途切れてしまった。
 獅堂は、所在無く、目の前に座る男を見上げた。
 黒のタートルを着ているせいか、今日の嵐は、いつもより格段に大人びて見えた。
 黒目勝ちの綺麗な双眸、凛とした、けれどどこか優しい目鼻立ち。顔だけ見れば、まだ幼さが残るものの、―――もともと体格だけは大人の男のものだったことを、ふと懐かしく思い出していた。
 肩幅が大きく、並んで立つと見上げるほど背が高い。手指は節くれだっていて、事あるごとに男だなぁ、としみじみと思ってしまう。
 同じ兄弟なのに、獅堂とあまり目線が変わらない真宮楓とは随分な差がある。
―――そっか、血は繋がってないんだよな。
 獅堂はあらためてそう思った。
 真宮嵐と、その兄の楓。
 詳しい事情は知らないが、二ヶ月違いの兄弟は、血の繋がりがないらしい。
 うつむいたままの嵐は、手元のコーヒーカップを持ち上げながら呟いた。
「……そう言えば、アメリカじゃ、もうベクターと在来種の結婚ってオッケーなんですよね……そっちで式あげることも出来るのか……」
「いや、い、今のは冗談で、その、―――式なんか死んだってあげないぞ、その、……あんな言い方をしたことはしたけど、……別に、ホントに婚約してるわけじゃないんだから」
 少し慌ててそう答えると、嵐の眼がようやく上がった。
「じゃあ、それって、……嘘だったってことですか」
「……嘘、とは、少し違うけど」
 男の眼が、少し真剣になっている。その意味を察し、獅堂は自分も真顔になって、まっすぐに嵐を見つめた。
「……自分は、あいつを、大切に思ってる。きちんとした形でそれを誓約しただけだよ」
「かっこいいっすけど、それ、男のセリフですよ」
 ようやく相好を崩し、嵐は笑う。けれど、その眼は笑ってはいない。
「そういう発想、律儀な獅堂さんらしいけど……」
―――けど。
 その続きを、横顔を見せたままの嵐は口にしなかった。でも、――なんとなく、獅堂には判った。
 けど、楓は逆に困ったんじゃないかな。
 嵐は、そう言いかけたのではないだろうか。
「嵐、」
 獅堂は思い切って口を開いた。
「なんですか」
「楓に、会えよ」
「…………」
「…………というより、会ってやってくれないか」
「…………」
「……不自然じゃないか、兄弟なのに……こんなに近くに住んでるのに、電話一本しないなんて」
 嵐の横顔に、暗い影が落ちていく。
 自嘲するようにゆがめられた唇が、静かに動いた。
「その理由を、獅堂さんは聞きましたか」
「……聞いてないよ、あいつ、お前のことは絶対に話そうとしないから」
「聞きたいですか」
「…………」
 一瞬躊躇したものの、結局は、
「……まぁ、いいよ」、と答えていた。
 聞かなくても判るような気がしたし、どこかで――それが、自分の杞憂であればいいとも思っていた。理解はできる。ただ、どうしても違和感はある。楓は外見を裏切って男らしい一本気な性格をしているし、嵐は嵐で、どこまでもからっと爽やかで男らしい。
―――こいつら、どっちも男らしいけど、……どうなってんだ。
 と、ない知識を色々振り絞って想像してみても、見当もつかない獅堂なのだった。
 そして、嵐から目をそらしたまま言った。
「……限界なんだ、もう」
「限界……?獅堂さんがですか?」
「…………」
 獅堂はそれには答えずに、すこし温くなったコーヒーを口にした。
「ま、そんなとこだよ。おまえらみたいな不自然なことしてる奴らを見てると苛々するんだ。何があったか知らないし、聞く気もないけどさ、いいかげん会って、すっきりしろよ、お互いに」
「……楓が、そう言いましたか」
「あいつは何も言わないよ、でも判るよ。会いたがってるよ。あいつ、意地っ張りだから、自分からは絶対に折れないだろ。……お前から連絡あるの、待ってるんだと思うんだ」
「……待ってるでしょうね。でも、それと同じくらい、僕に会いたくないと思ってるはずですよ」
 嵐の口調は冷め切っていた。
 視線を逸らし続ける――その横顔に影が落ちている。
 顔立ちは甘くて可愛い、けれど、もう厳しさと影をまとう横顔は、大人の男のそれだ。
 獅堂は何も言えないまま、黙ってコーヒーを口にした。
 視線を横に逸らしたまま、ようやく嵐が口を開いた。
「ふざけんなって、言ってもいいですか」
 初めて聞くような声だった。
 獅堂は黙って、男の横顔を見つめていた。
「限界なんて、そんな弱い言葉、獅堂さんの口から聞くことになるなんて思わなかった。今ごろになって、そんな逃げを口にするようなら、どうして楓と」
「……なんとでも言っていいよ」
 がん、とテーブルを叩く音がした。
 しんとなった店内。まばらな客の視線が、一斉にこちらにむけられるのが判る。
 嵐の目が――燃える様に輝く目が、真直ぐに獅堂を見下ろしている。
「楓はね、養親から虐待を受けていて、そのあげくに義理の父親を刺したんです。あいつはずっとそのことを悔いて、夢に見るほどうなされていた。獅堂さんだって知ってるでしょう。中国共和党で――楓が、どういう目にあっていたか」
「…………」
 獅堂は黙った。
 脳裏に浮かんだのは、楓が、その身柄をオデッセイに拘束されていた時のことだった。――全身に浮かんだ痣と、痩せ細った身体。
 戦後、マスコミを賑わした、耳をふさぎたくなるような醜聞。
 感情を押し殺したような声で、嵐は続けた。
「楓には、それがずっとトラウマだった。あいつは、心のどっかにまだ病巣を巣食わせてて、それは、―――彼の中で、当時の情景がフラッシュバックするような事態になると、爆発するんです。僕はそれを知ってて、抑え切れなかった。桜庭基地で、僕は、楓に、彼らと同じことをしようとしたんだ」
「…………」
 息を呑むような告白だった。
 予想はしていても、それを実際聞くと、ショックは想像以上のものだった。
 獅堂は、こみあげる感情をぐっと堪え、黙って、男の激情が収まるのを待っていた。
「楓は拒まなかったし、怒りもしなかった。ただ――驚いていて、辛そうだった。呼吸が苦しげになっていって、……顔色は紙みたいに白くなって、……そのまま失神しました。僕は、……僕は」
「…………」
「……自分でも判らない。どうしてあんなことをしてしまったのか。……僕だって苦しい、こんなおかしい気持ちになった理由が自分で理解できない、分析できない」
 嵐はうつむき、何かに耐えるようにテーブルの上の拳を握り締めた。そして顔を上げ、真直ぐに獅堂を見つめる。
「でも、僕は楓が欲しい、今だって、痛烈に求めている。楓のためなら僕は自分の命なんかいらない。それくらい愛している、傍にいれば、僕はまた、必ず彼を追い詰めてしまう」
「……嵐」
「獅堂さんは、そんな僕から楓を奪ったんだ。あなたにその気がなくても、僕にとってはそういうことです。楓を傷つけるなら、それが獅堂さんでも、僕は絶対に許さない」
「許さないって、どうするんだ、そう言うお前がやってることは、手の届かないところで吼えてるだけだろ」
 獅堂は、突き放すような口調で言った。
 嵐の顔が、はじめて見るような恐いものになる。
 それにも怯まず、獅堂は、用意していた紙を差し出した。
「……あいつの部屋の電話と、携帯の番号。七時以降は、ほとんど家にいる奴だから」
「…………」
「お前が自分を許さないっていうなら、それでいいよ。自分はただ――お前らに、仲直りして欲しいだけだから」
 獅堂は静かに立ち上がった。
「話し合わなきゃ、何も変わらないし始まらない。オデッセイで、自分にそう教えてくれたのはお前だよ、嵐。そう言ったお前に、自分は諦めて欲しくないんだ。楓と――会えよ」


                三


「来るなら、連絡くらいしろよ」
 玄関のドアを開け、出迎えてくれた真宮楓は、いつにも増して不機嫌そうだった。
 不機嫌というよりは――冷たい、そっけない顔をしている。
「悪いな、携帯を基地に置きっぱなしにしててさ」
「…………」
 あえて明るく言ってもその表情を変えないまま、楓はきびすを返し、さっさとリビングの方に戻っていく。
―――またか……。
 溜息を飲み込んで、獅堂は靴を脱ぎ、彼の後を追った。
 背を向けたままの男が、不機嫌そうな声で呟く。
「獅堂さんに携帯って無意味な持ち物だろ。掛けても出ないし、掛け直してくれたこともないし」
「しょうがないだろ、待機中は携帯なんか持てないから」
「だから、無用なものは持つなよ。基本料金の無駄」
 そう言い棄てると、獅堂の横をすり抜けるようにしてキッチンに入っていく。
 柔らかな白い長袖のシャツに、ストレートのジーンズ。細い腰が、緩めのシーンズのせいか、余計に細く、繊細に見える。
 シャワーでも浴びた後なのか、すれ違う髪からは、清潔なミントの香りがした。
 いつものことながら、綺麗な男だな、と見惚れずにはいられない。
 左右対称の完璧な美貌。作り物めいて、最初は恐くさえあったけれど―――その意外な内面の人間臭さを知った今では、冷たい横顔も眼差しも、むしろ可愛く見える時がある。
 特に、笑うと見える八重歯が、可愛いな、といつも思う。
 実際、楓が自分より二つ年下だと実感できるのは、彼が無防備に笑顔を見せてくれる時だけだった。
 でも――。
「なんか飲む?」
 冷たい声がキッチンから聞こえる。
「いや……いいよ」
 やっぱり来るんじゃなかったな、と思いつつ、獅堂は慣れたソファに腰を下ろした。
 冷蔵庫が開閉する音が背後から響き――すぐに楓が、缶ビールを片手に戻ってくる。
「悪かったな、突然来て」
 なげやりな所作でソファに座る楓に、獅堂は――繋ぐ話題もないので、とりあえずそう言ってみた。
「いつも勝手にあがりこむくせに、何しおらしいこと言ってんだよ」
 取りつくしまのない横顔。プルタブを切る音だけが静かな部屋に響く。
―――メシ、食ったのか。
 そう言いかけて獅堂はやめた。こんな時間からアルコールを口にする楓を見るのは、何も今日がはじめてのことではないし、彼は酔わない体質なのか、顔色ひとつ変わらない。ただ――ますます不機嫌になるだけだ。
 心配なのは、食事をきちんと取っているかだけで――今も、美味しくなさそうに、ただ缶ビールを口につけている男は、いつも以上に不健康そうに見えた。
「今日は、泊まってくつもりだったけど……」
「だけど?」
「……いや、……よかったのかな」
「いいも悪いも」
 飲みかけの缶をテーブルに置き、楓はテレビのリモコンを掴む。スイッチが入り、バラエティ番組なのか、たちまち馬鹿げた騒音が流れ始めた。
「いつもそうしてるだろ、断ったことなんてないじゃないか」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
 どう見ても、彼が好きそうな番組でもないのに、楓はぼんやりとテレビ画面に見入っている。仕方なく――獅堂は持参した航空雑誌を取り出して広げた。
 するとすぐにテレビが切れる。
 獅堂が顔を上げると、すでに楓は立ち上がっていた。
「仕事少し残してるんだ、悪いけど、あっちの部屋にこもるから、好きにしてて」
「ブルーインパルスの引退、正式に決ったんだ」
 獅堂は背後の楓に向かってそう言った。
 今をのがすと、話すチャンスはなさそうだった。今日は――それを伝えるために、ここに寄ったのだ。
「それで?」
 彼は、興味なさそうな口調で、それでも扉の前で足を止めてくれている。
 ブルーインパルスとは、T4戦闘機のことをいい、空自を代表するアクロバット集団、ドルフィンライダーが専用に機上する飛行機である。かつて獅堂は、このアクロ飛行に憧れ――ゆえに航空自衛隊のパイロットを志した、といういきさつがある。
 その話は何度もしたから、楓もブルーインパルスについての基礎知識はあるはずだった。
「引退式が、松島基地で行われる。多分、今後、空自のアクロバットは衰退していくだろうな。予算もなくなるらしいし」
「前も聞いたよ、だから何」
「これからの航空機は、全てフューチャー対応機になる。……まぁ、なんていうか、ひとつの時代の終わりだな」
 楓はその話にはまるで興味がないのか、退屈そうに髪をかきあげている。
「で、その時代の終わりにふさわしい式典が……」
「獅堂さんが、その引退式でアクロ飛行をするんだろ。……新聞で読んでるから」
 あ、そうなんだ。
 どうやって話しの段取りをしようかと思っていた獅堂は、がくっと拍子抜けした。
「じゃ、知ってんだ……よな、自分、来週から」
「松島基地に行くんだろ、アクロの訓練するために」
「うん、なんだ。知ってたのか、式典まであっちにいるから、一ヶ月は戻れないんだけど」
「いいよ、俺も週末のんびりできてせいせいするから」
 そんな言い方しなくても……と、思ったが、楓はそのまま戻ってきて、獅堂の隣に腰を下ろしてくれた。
「よかったじゃん、もともと松島に行きたかったんだろ、獅堂さん」
 口調は冷たいが、距離の近さにほっとする。
「うん、まぁな」
 獅堂は素直に頷いた。
 あのまま……平和な時代が続いていたら、オデッセイに召集されることがなかったら、おそらく叶っていたはずの夢。台湾有事の翌年には、獅堂はブルーインパルス部隊がある松島基地に異動することが内定していたのだ。
 今でも、そのことだけが少し悔しい。
「自分は、あいつに憧れてパイロットになったからな……」
 楓は答えない。
 獅堂は、軽く息を吐いて、立ち上がった。
「ま、話はそれだけだ。仕事があるなら、自分は帰るよ、邪魔しちゃ悪いからな」 
「食事、どうする」
「…………」
 ふいに話題を変えられ、驚いて男を見下ろした。―――こいつの頭、今、ちゃんと機能してるのか?
「……いや、まだだけど、お前が食べたいなら、どっか行こうか」
 再び座りながらそう答えると、男の綺麗な眉が、かすかに歪んだ。
「外は嫌だな、妙に目立つし」
「真宮が綺麗すぎるからな、いいよ、自分は気にならないから」
「……どっちが目立つと思ってんだ」
「は………?」
 もういいよ。
 男は、静かに形良い首を振って、そのまま黙る。
 まただ――。と獅堂は思った。
 また、こんな目をする。こんな――苦しげな顔になる。
 辛いのか。
 自分が傍にいることで、お前を苦しめているんじゃないのか。
 楓は笑わない。
 もう――彼の笑顔を見なくなってから、どのくらいたつだろうか。
―――何を……抱えてるんだ、お前は。
 それを口にしようかどうか逡巡した時、ふいに腕を捕まれ、引き寄せられていた。
「真宮……」
「…………」
 抱き締めあうと、シャツの上からでも判る――ひんやりとした滑らかな肌の感触。また少し痩せたな、と獅堂は思った。
 一時、戻りかけていた身体は、ここ一ヶ月で、また奇妙な痩せ方を見せ始めている。
 桜庭で最後に別れた時、楓は――細身ではあったが、しなやかに張詰めた筋肉が、むしろ美しいくらいだったのに。
 それが二年の海外留学の間に何があったのか、眉をひそめるくらい病的な痩せ方をして戻ってきた。
 なのに、それでも不思議なくらい力強い。
 こうして腕を取られ、身体の上に被さってくると、有無を言わさない力がある。
 そして、痩せ方だけではない、最近の楓は、ずっとおかしい。
「……真宮、駄目」
「……何が」
「痕つく……駄目だって、」
 痛みさえ伴うキスが、胸元と首筋に落ちてくる。
「誰かに見られたら困る?」
「っ、……たりまえだろ、お前だって困るだろ、つけてやろうか」
「じゃ、つけろよ」
「…………」
 どこまで、本気か冗談かわからない。
 黙ったまま仰向けでいると、性急な腕が、乱暴に衣服を剥ぎ取ろうとする。
 逆らうつもりは最初からないけど、どこか他人行儀な冷たさが寂しかった。
「……真宮、お前、……へんだぞ、最近」
「そう?別に、いつも通りだけど」
「…………」
 そして、唐突に楓は、手を離して起き上がった。
「やーめた、嫌がる女が相手じゃつまらない」
「……別に、嫌がってなんか」
「顔が拒否してるよ」
 そのまま、さっさと立ち上がって電話の方へ向かっていく。
「適当に注文するよ、なんでもいいだろ」
「…………」
 また、このパターンか。
 はぁっと溜息をつきながら、獅堂はソファに座りなおした。
 楓は最近、いつもそうだ。
 こっちの気持ちなんかお構いなしで、乱暴に求めては、途中で冷めたように手を止めて立ち上がる。
 近寄れば迷惑そうにするし、離れようとすれば、引きとめる。
 何を考えているのか――判らない、掴めない。
 楓が電話の子機を掴むのと、その電話がいきなり鳴り始めたのが同時だった。


 包むような優しい声が、しばらく隣の書斎から響く。
 リビングのソファに腰掛けたまま、獅堂は、無言でその声を聞いていた。
「うん……そっか、今年卒業なのか、お前は忘れっぽいからな、……単位の取り損ねはないだろうな」
 会話がぎこちなかったのは、最初のうちだけだった。
「卒論……?ああ、その分野なら、手伝いくらいは出来そうだが……そりゃ、いいけど」
 こんな楽しそうな声を聞いたのは久しぶりだった。
 自分の胸が、かすかに軋むのを獅堂は感じた。
「………ああ、わかってる。うん、その時にな」
 電話を切る音がする。
 しばらく楓は戻ってこなかったし、獅堂もそのまま動けなかった。
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