「ふざけんな、そんなことで、納得できると思ってんのか」
「お前が帰れないなら、俺が行く、電話で話すようなことじゃないだろ」
「ポストに入れといたよ、それが俺の気持ちだ、あとはお前次第だから」
 真っ白な紙面を見つめている。
 白紙――ではない、確かに記されたはっきりとした筆跡。
 黒い文字。
 それが時に揺らいで見える。
 頼りない指が、ペンを掴んで字を綴る。
 許してくれ。
 許してくれ―――……。

・・



「…………」
 まただ。
 やるせない思いを抱いて、真宮嵐は目を覚ました。
 仰向けになった目を射る電灯。白い光、明るい部屋――電気を消し忘れて……、そうだ、転寝していたんだ、僕は。
 ベッドから身体を起こし、嵐は重い溜息をついた。
 時計を見る。午前二時。何を――眠りに落ちる前、僕は、何をしていたんだっけ。
 レポートの提出期限が明日までで――いや、そんなことはどうでもよくて。
 立ち上がり、窓辺に立ってカーテンを開ける。見るまでもなく、夜明けはまだ先だった。けれど、確実に朝は来る。
 今日ほど――いや、昨日の夜ほど、明日が来なければいいと思えたことはなかった。
 獅堂さんが、会いに来る。
(――明日、午後から休暇が取れそうでさ、ちょっとお前に……話したいことがあるんだが)
 昨夜かかってきた電話の声は、明るさを取り繕ったような無理な響きがあった。
(――アラートが六時明けなんだ。……何もなきゃ、そこで帰れる。一眠りして出るから、昼前にはそっちにつくと思うんだけど)
 大学近くの喫茶店、そこを待ち合わせの場所にして電話を切った。
 嵐もまた、何気ない口調で受け答えたが、獅堂から見れば無理をしているように感じられたのかもしれない。
「…………」
 ずっと――逃げ続けてきた事と、対峙する時が迫っている。
 眉をひそめ、嵐はカーテンを閉めて机についた。
 獅堂の話が、楓と関係ないはずがない。まだ、楓には会えない。会いたくないのに――。
 二人の記者会見を見て、初めて気づいた。――まだ、自分の中では、本当の意味で整理がついていないのだ。そうでなければ、あんなことに巻き込まれた二人に、とっくに会いに行っていただろう。
 そして。
 白紙のレポート用紙をみつめたまま、嵐は唇を噛み締めた。
 不安なのは、楓のことばかりではなかった。
 数ヶ月前から、月に一二度見る、不可解で奇妙な夢。
 真っ暗な視界に、時折ぼんやりと、思念のようなものが透けて見える。それは物だったり、形をなさない象形画だったり――様々なものがランダムに浮かんでは消えていく。
 それから、水の底から聞こえるようなくぐもった声。
 それは英語だったり日本語だったりする、思念のような、頼りないものだったりもする。
 最初は意味が判らなかった、でも――今なら判る。
 これは――意識なのだ、他人の意識と、自分のそれが同調しているのだ。
―――でも、……どうして。
 相手は楓ではない。それだけは判る。
 楓と自分の間にも、他人には説明できない、何かの――精神のつながりのようなものが確かにある。これは幼少からのことなのだが、嵐が楓の夢を見れば、楓も必ず嵐の夢を見ている。
 声が聞こえないほど離れているはずなのに、互いの声が聞こえるような――そんな錯覚を同時に体感したこともある。
 でも、夢は、そういう感覚とは全く違う。
 楓ではない――他の誰か。
 自分の意識の中に、もぐりこんでくる意識の存在。
 今日、夢で聞こえた声――それはひどく頼りないものだったが、確かに聞き覚えのある声だった。懐かしい――どこかで、確かに聞いた声。なのにそれが思い出せない。
「……どうなってんだ」
 眉をしかめ、嵐は自分の髪に指を差し入れた。
 何か、とてつもなく嫌な予感がする。
 自分だけでなく、それは楓にとっても――ひどく不幸な未来を引きずってきそうな気がする。
―――楓には、言えない。
 僕はどうなってもいい。でも。
 楓にだけは、―――誰よりも幸せになって欲しいから。












              一


「つかさ、なんでお前がここにいるんだよ」
 獅堂藍は、生あくびを噛み殺しながら、壁に掛けてある時計を見た。
 あと五分。
 滑走路脇にある待機所――アラートハンガー。
 獅堂は三時間近く座りっぱなしの腰に手をあて、わずかに背筋を伸ばしてみた。
 多分、今日は何もないだろう。ここ数日、獅堂が属する百里基地からホットスクランクブルが召集されたためしがないからだ。こんな、エアスポットのような日々もたまにはある。
 で、気を抜いていたら、途端に馬車馬のように働かされるのも、よくあるパターンなのだが。
「いいじゃないっすか、暇なんすよ、俺、獅堂さんの次の待機組だし、」
 なんでお前がここにいるんだよ――そう言われた男は、呑気にコーヒーカップを口に運びながら、そう答えた。
 第101飛行隊、獅堂が編隊長を務めるレッドクレセントの飛行隊員、大和閃、通称センちゃんである。
 元々は小松基地のエースパイロットだった男は、今ではすっかり百里に腰を落ち着けている。
「お前さ、小松には戻らないって言ったらしいじゃないか」
 百里では、大和はあくまで臨時召集されたパイロットなのである。獅堂としては、大和に早く、彼自身の出世コースに戻って欲しいのだが、この飄々とした男にとっては、そんなものは、さほど眼中にないようだった。
 今も大和は、言いましたけど、それが何か?といった目で獅堂を見返している。かすかに溜息をついて獅堂は続けた。
「お前がいてくれると助かるが、お前はいつまでも人の下で飛んでるような男じゃないよ、早く希望出して小松に帰れよ」
「ここにいたいんですよ、せっかく獅堂さんのチームに戻れたんだし、そんなつれないこと、言わないでくださいよ」
「つれないも、何も」
 お前が大切な友達だから言ってるんじゃないか――そう言いかける前に、男はしれっとした顔で言葉を繋いだ。
「それに獅堂さん、来週には松島でしょ、ここもまた人手が足りなくなるんじゃないですか」
「……松島のことは、まだ未定だよ」
 獅堂はうるさく伸びた前髪をかきあげた。ああ、そろそろばっさりやりたい。なのに、自由になる時間が殆んどない。
 ホットスクランブル(実働発進)がなくても、三時間待機だけは二日おきにやってくる。新人の演習指導と座学の講義。自分の持つ飛行隊の編成飛行訓練――と、ここ一ヶ月の獅堂のスケジュールは、売れっ子タレント並の慌しさだった。
 それに加え、先週、唐突に後藤田航空団司令から言い渡されたことがある。
 大和は腕を組み、何かに感じいるように頷いた。
「でもすげぇっすよ。ブルーインパルスの引退式に、獅堂さんがゲスト飛行するなんて、多分、当日はマスコミもいっぱいきますよ。よっ、空自のプリンセス・藍」
「…………寝てこいよ、頼むから」
「やですよ。僕はね、獅堂さんのガードをするって決めたんです」 
 大和は、鋭い目で、獅堂の隣に座る、際立って大柄な男を見上げた。
 どこで耳にしたか知らないが、大和は、数ヶ月前の――獅堂が仮眠室で襲われかけた一件を耳にしたらしい。それには色んな事情があって、多少の誤解もあるのだが、大和はその事件の首謀者――と見なされている男、北條累に、異常な敵対心を持ち続けているようだった。
「こんな危険な男が、傍にいるんじゃ心配で心配で。おちおち寝てもいられませんよ」
「うっせぇな」
 危険な男――北條累は、うるさげに眉をしかめた。
 ばさばさに伸びた黒髪を、後ろでひとつにくくっている。190センチ近い長身に、野性的な眼差し。整った綺麗な顔立ちをしているものの、印象の恐さがそれを全部帳消しにしている。
 もっとも本人は、自分の外見にも印象にも、殆んど関心がないようで、誰にどう思われようと関係ねぇよ――と言った、開き直りの態度が透けて見える男である。
 その北條は、今月、正式にフューチャーのオペレーショナル・レディ(一人前)パイロットとして認定され、スクランブル任務――対領空侵犯措置任務に回されるようになったばかりだった。
 同時に獅堂の飛行隊――第101飛行隊に正式に配属され、最初のスクランブルを隊長である獅堂と組む事になったのである。
「あ、てめぇ、自分より先輩パイロットに、なんつー口の聞き方だ」
 大和は気色ばんで、自分より上背のある北條を睨み上げた。
 普段温厚な大和だが、どうもこの、生意気な新人パイロットとは相性が悪いようだ。
 正直、この二人と、三番編隊を組む獅堂の苦労は並ではない。
「まぁまぁ、センちゃん、こいつ、今、緊張しどうしだからさ」
 獅堂はそう言って、今にも立ち上がりそうな男の肩を叩いてなだめた。
「へぇ、あ、そうか、お前、今日が初待機か」
 途端に大和は、にやっとした顔になった。
 席を一つ開けて座っている北條だが、その前にあるテーブルには、夜食として出されたトレーが、手付かずのまま残されている。
 大和はさらに、にやにやと笑った。
 北條は面白くない顔で横を向く。
 新人にとって、初めてのスクランブル待機は、どんなに肝の座った男でも、相当の重圧があるらしい。なにしろ、実働――ホットとは、演習ではないのである。一歩間違えれば、いつ国籍不明機と戦闘ステージに突入してもおかしくない状況が、ベルひとつ先の空に待ち受けているのである。
 獅堂や大和のようなベテランパイロットなら、こういった待機下にあっても、余裕である。
 コーヒーを飲みながらくっちゃべり、それでもベルが鳴れば、カップを蹴散らし、一気に戦闘機に飛び乗って、一番に発進させる自信がある。
 多分――北條は、この三時間ずっと、頭の中でベルが鳴った後のことをシュミレーションしていたのだろう。獅堂も初めての時はそうだった。戦闘機に駆け上る、ヘルを被る、マスクを締める、その後に続く発進手続きを、ひとつひとつ、頭の中で暗証していた記憶がある。
 初めての時とは、みんなそういうものらしい。
「ほっほーう、食事も手付かず、コレは相当緊張してるねぇ、ホラ、あそこ触ってやろうか、縮み上がってるだろ、オイ」
 が、調子に乗った大和は、いっそう嬉しそうな顔になり、生意気な新人パイロットをからかい続けた。
「なっ、あんたっ、女の前で、なんつーことを」
 それまでむっつりと黙りこくっていた北條が、初めて泡を食ったような声を出す。
「なんだ、女って、獅堂さんのことか、もしかして」
 大和は笑う。
 もしかしなくても、この場に女は獅堂しかいないのだが――。
「だったら、大丈夫大丈夫、この人は女じゃねーから、それに」
 大和は眉をしかめ、ふざけたように手を左右に振った。
「この手のシモネタは、全然理解できない人だから、話しても無駄、からかっても無駄。ねぇ、獅堂さん」
「……?……何の話だよ」
「前もさ、写真で三回いくって意味が理解できなくて、ほら、どうでした、獅堂さん、あの話、例の彼氏にしてみました?」
 大和は笑いながら、北條の顔をのぞき見た。
「な、全然だろ、この人、年の割には純粋培養っつーか、ホント、鈍い人だから」
「…………鈍いっつか、獅堂さん、今真っ赤になってますけど」
「え……は?」
 大和は振り返る。獅堂は咳払いをして、「……あと、三分だな」と視線を泳がせながら言った。
 ぎゃっと叫んで、大和は両手をすりあわせた。
「……お、恐ろしい、僕には妻も子もいるのに、ああ恐ろしい恐ろしい」
「お前なー、その妙なリアクション、なんとかしろよ」
 溜息をつきながら獅堂が言うのと、
「俺、コーヒー入れてきますから!」
 怒ったように北條が立ち上がるのが同時だった。
 その怒りのオーラが滲み出た背中を、獅堂は首をかしげながら見送って、言った。
「……何怒ってんだよ、あいつ」
「ああ、恐ろしい恐ろしい」
 大和は、念仏のように繰り返すだけだ。
 はぁっ。
 再度大きな溜息をついて、獅堂は椅子の背に身体を預けた。
 今日に限って、スクランブルは――ないのだろう、多分。
 実のところ、あればいいな――などと思っていた獅堂なのだった。
 空に、私情は待ちこむまいと決めている。
 でも――まだ、どこかで未練を抱いている。
 まだあの手を――。
 目を閉じて思う。愛しい人の面影を思う。
 あの人の手を。
 冷たくて暖かい手を、失いたくないと、思っている……。



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