―――この夜は、本当に終わったのだろうか。
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「――――真宮……」
真宮楓は、はっとして眼を開けた。
額に触れている冷たい指。
蒼い薄闇の中、見下ろしている顔。
―――嵐……。
ではない。判っていても、どうしても一瞬だけ面影が被る。
「……大丈夫か、また少し、うなされてたみたいだけど」
優しい声。
再度額に触れて、髪をかきあげてくれる指。
いっとき、その心地よさに目を閉じて、そしてその手を押しのけた。
「……平気だから、……悪かったな、起こしたみたいで」
背を向ける。
カーテン越しの空が蒼白い。
夜明けが近いのかもしれない。
なんの夢を見ていたのだろうか――嵐の夢だ。物苦しくて、幸福で、哀しい――そんな感情の断片だけが、胸の底によどんでいる。
判っている。自分が嵐の夢を見る時、嵐もまた、必ず自分の夢を見ている。
不思議で、そして奇妙な宿縁、切り離せない精神のつながり。
―――嵐……。
どこにいる。
お前は今、どこで――俺の夢を見ているんだ。
隣の女が、そっと立ち上がる気配がする。
楓は明け行く空を見上げながら、遠ざかる足音だけを聞いていた。
こんな時、獅堂の顔は見たくないし、自分の顔も見られたくない。
頭の中は、嵐との思い出がいっぱいで――獅堂と向き合うことができなくなる。
―――できないんじゃなくて――辛いんだ。
楓は心の中で思いなおした。
彼女が払った犠牲にあたうものを、自分は彼女に返せているのだろうか。こんな風に、一緒にいても、他の人間のことで頭が一杯になっている自分に。
彼女と――一緒にいる資格があるのだろうか。
―――それに……。
もうひとつの、ある意味嵐のことより重大な気がかりを思い出し、楓は溜息をついて眉をしかめた。
再び足音が近づいてくる。
「……真宮、」
楓は眼を閉じ、寝たふりをした。
が、次の瞬間、掛布をいきなり、引き剥がされていた。
「わっ、」
さすがに驚いて半身を起こした。
「起きよう、真宮、もう五時になるからさ」
頭にくるくらい、爽やかな声。
「……ざけんな、まだ五時にもなってないだろうが」
不機嫌にそう言って、額を抑える。冗談じゃない。どこの世界に、もう五時だと当然のように起こす女がいるのだろうか。
―――そうか、忘れていた。
この人は、超がつくほど健康優良児で。
「どうせ、寝れないんだろ、顔にそう書いてあるよ。うだうだ悩むくらいなら、散歩にでも行こう」
「…………散歩って……犬連れた老夫婦じゃないんだから」
朝が目茶苦茶強いんだ。
軍の生活が染み付いているせいだろうか。わずかな物音でもすっきりと目を覚ますし、寝ぼけることなんて絶対にない。
そもそも二十五にもなって、いまだに両視力が2.0、虫歯も一本もなく、腕力も握力も男並。
こんな女、捜そうと思ってもなかなかいないに違いない。
―――いや、もはや女じゃねーな。
仕方なく立ち上がりながら、今日の朝食は何にするかな――と、楓の思考は主婦のそれに転じてしまっている。
獅堂に食事の面で、何かを期待するのはやめている。
まぁ、よく――こんな食生活で健康を維持できるよな、とあきれるほど、自炊ができない女なのだ。
「いやぁ、サバイバルなら生き残る自信はあるぞ、飯ごうとか貸してみな、お前よりは上手にメシが炊けるから」
「……天変地異が起きたら頼むよ」
冷蔵庫を開ける楓の背後で、そんな言い訳がましいことを言うのは、自分でも多少自覚があるからだろう。
最近、買い物してないからな――少し寂しくなった冷蔵庫を閉めて、楓は諦めを込めて嘆息した。
「んじゃ、行くか。丁度魚が切れてるから、港の方まで歩いてみるか」
「うん!」
「…………やっぱ、やめた、お前一人で行って来い」
返事があまりに嬉しそうなので、素直に喜ばせたくなくなってくる。
背を向けて寝室に戻ろうとすると、獅堂が不満気に追ってきた。
「ええー、行こうよ。魚雅のおっさん、真宮が行くとサービスしてくれるのに」
「…………知るか」
はぁっと溜息が出る。
夢の余韻は跡形もなく消えてしまった。
悲しみもやるせなさも、それと同じくらいの幸福も――もう、切り離された感情に変わってしまっている。
それがいいことなのか、悲しむべきことなのか――楓には判らない。
「外に出るなら、お前も着替えろよ。まさか、そんな格好で行く気じゃないだろうな」
クローゼットから衣服を取り出しながら、楓は背後の獅堂に声を掛けた。
色気も何もないスポーツタイプのシャツとズボン。
獅堂はスタイルが――ある意味いいから、そういう男らしい服が、妙にフィットしているのだが、しかし――週末、仮にも「彼氏?」の家に泊まる時にまで、そんなものでいいのだろうか。
羽織ったシャツのボタンを留めていると、背中に、ふいに獅堂の体温が近づいて来た。
手が、そっと自分の腰に回される。
「うん、少し肉がついた気がする」
すぐ背後で響く満足気な声。
「そんなとこについても、嬉しくねーよ」
「何言ってるんだ、お前、自分がどれだけ痩せてるか自覚ないだろ」
無遠慮な手が、そのまま胸に、腕に触れてくる。
「絶対、前より肉ついたよ。そういや、最近、食事とかもちゃんと取れてるし。でも、もうちょっと筋肉つけないと」
「…………」
判ってないのか、わざとなのか。
腹の辺りを触る手を掴み、振り向き様に抱き寄せる。
獅堂は、驚いた顔になった。
「……獅堂さんも、少し肉ついたね」
「そ、……そんなこと、ないと思うけど」
戸惑う声が可愛い。
「そうかな、胸とか、大きくなった気がするけど」
少しからかうつもりで言ってみると、獅堂は嬉しそうな顔を上げた。
「そうなんだよ、最近、胸筋鍛えてるんだ。基地の傍にジムが出来てさ、暇が出来たら通うようにしてるから」
「………………誰がそんな、クソ色気のない話にもってけっつったんだよ」
それでも、数秒後には、ベッドの上に組み敷いていた。
「ま……宮、やだ、……明るい」
「いいじゃん、身体に自信できたんだろ」
「そ……そういう問題じゃ」
額を合わす。
唇を寄せる。
観念したようにすうっと柔らかくなる身体。正直、体型にさほどの変化は感じないものの、触れるたびに、愛しさが増していく身体。
時々――たまらない嫉妬をかきたてられる時もある。
こんな風に、触れて、愛したのが自分だけではないということに。
「……真宮……」
こんな風に名前を呼ばれたのが、自分だけではないということに。
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彼がまた、遠くを見ている。
窓辺から、天空の彼方を見上げている。
身支度を終えて戻った獅堂は、窓辺に立ったまま動かない男の背を見つけ、そのまま言葉を失っていた。
何を考えているのだろう。
うわごとで繰り返し呟いていた、彼の弟のことだろうか。
ついさっきまで、抱き締めてくれた腕も、情熱的な唇も、優しい眼差しも、今は他人のように冷たくて遠い。
背中に抱いた孤独と苦悩。
自分が傍にいても、どれだけ近くにいても――それを癒してあげることはできないけれど。
「まーみやっ」
背後に駆け寄り、背中から抱きしめる。
「……なんだよ、朝からテンション高いな、お前」
端正な横顔に、仄白い朝日が映えている。
空の彼方に滲む薄雲。それが色彩を露わにしつつある。
ビルの間から登る朝日。薄紙を剥ぐように明けていく暁の空。
「……地上の夜明けも悪くないよな」
楓の手を握ったまま、獅堂は小さく呟いた。
それには答えない男が、少し寂しそうに笑んだのが判る。
そしてまた、遠くを見る。
ここにはない、何かを求めて空を見る。
「…………」
―――自分は……。
獅堂は、初めて心もとないものを感じ、男の手のひらをいっそう強く握り締めた。
自分は、真宮を本来ではない場所に縛り付けて、
ただ、苦しめているだけではないだろうか。
「………朝は好きだな、夜が終わったって感じがするだろ」
低く呟くと、ようやく楓は苦笑して、いつもの彼らしい笑顔になった。
「ばーか、当たり前に終わってんだよ」
笑おうとして、笑えなかったのは今度は獅堂の方だった。曖昧な笑みを浮かべたまま、一秒ごとに変化していく空に、誤魔化すように視線を戻した。
―――この夜は、本当に終わったのだろうか。
そんなことを考えてしまっていた。