―――嵐……。
             君が、僕の名前を呼ぶ。






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「……まだ熱が高いようだな」
 額に触れる、冷たい手のひらが心地よかった。
「風邪なんて初めてだよ、……結構辛いものなんだな」
 僕は無理に笑って、枕元の楓を見上げた。
 長い睫が、白い肌に影を落とす――男だよな、と、一時いぶかしく思えるほどの清冽な美貌。同い年の、自慢の兄。
 声を出すと喉が痛む。
 頭の芯がずきずきしている。
 部屋の中が薄暗い、今――何時頃なのだろうか。
「母さんは、……まだなのか」
 ずっと自分の世話を焼いているのが、楓一人だというのが気がかりだった。
 家には他に、誰の気配もないようだ。静かな部屋に時計の音だけが響いている。
 耳元で聞こえる、ぴちゃり、という水飛沫の音。
 楓は無言のまま、額のタオルを取り替えてくれた。
 僕はその手を掴んで遮った。
「……もういいよ、楓、君のクラスは、明日テストだろう」
「大丈夫、どうせ勉強なんてしたことない」
 垣間見える、彼らしい不適な笑い。
 僕も思わず苦笑していた。
「…………君らしいけど、無理はするな」
 確かに楓はまともに勉強などしない男だ。いつも本ばかり読んでいて、教科書は新品同様に輝いている。
 それでも彼の成績は学年トップで、悔しいけど、僕が勝てたことなど一度もない。
「母さんのことは気にすんな、今日も……けど、元気そう……で、……だから」
 熱が高いのか、頭上から夢うつつに声だけが聞こえる。
 そっか――母さんは、まだ病院なんだ。
 過労で倒れたのが、もう――どのくらい前になるんだっけ。
 父さんが収監されて、もう一週間になる。講演中、莫迦みたいな乱闘に巻き込まれて――何かの誤解だから、すぐに帰れる――そんな電話があったきり、もう一週間も留置所から戻ってこない。
「……僕らのせいかなぁ」
 僕は呟く。
 天井が回っている。
「僕らがベクターだから、父さんは警察から目をつけられてるのかなぁ」
「関係ないよ、どっちかって言えば、それを公にしてるから、いけないんだ」
 楓はさばさばとした口調で言った。
 でも、――顔が見えなくても判る。その綺麗な眉は今、多分、苦しげに歪んでいる。
「莫迦だよ、父さんは。普通のベクターの親みたいに、世間の片隅で、こそこそ生きてりゃいいものを――講演会やマスコミで、ベクター擁護論を吐いてるからいけないんだ。中国共和党から派生した過激派の一種だとみなされてるのさ」
「……そんな言い方はよせよ……」
「本当のことだろ」
「……君が言うなよ、楓……」
 楓の指が頬に触れる。
 冷たいのに暖かい。
 楓という人はいつもそうだ。
 冷たいのに――暖かい。
「……無理するな……僕には、そんな言い方をしている、君が一番辛そうにみえるから――」
「何言ってんだ」
「……君一人が悪者になりたい気持ちはわかるけどね、……君のせいでもないんだ。僕のせいでもない。……僕の言い方が悪かったよ、ごめんな」
「…………」
 そして、常に自己犠牲を自分に強いる。
 他人の痛みまで背負い込んで、自分一人を悪者にして――自分で自分を傷つけている。
「……楓………」
「何?」
「そばに……いてくれるよな」
「だからいるよ」
 そっと手を伸ばす。その手が暖かく包み込まれる。
 楓の体温が近くなる。
 少し独特の心地良い髪の香り。
 そして気づく。
 ああ――不安なのは、僕じゃない。楓なんだ。
 一人きりで、僕の枕もとに座る楓が何より――今、心を痛めて傷ついている。
 そして、僕は、ますます不安をかきたてられる。
 この世界に、楓を一人きりにさせたくなくなる。
 誰よりも頭が良くて、気高くて――なのに、その反面、脆くて容易に傷ついてしまう楓。
 僕が永久に傍にいて、守って上げることができたら――どんなに。
「君が、女だったらなぁ」
「ばーか、気色悪いこと言うな」
「……そうかなぁ、僕は絶対に惚れてるよ、絶対に他の誰にも渡さない、僕の……お嫁さんになってもらう」
「………………体温計、口につっこんでやろうか」
「まぁ、君は男だから、そんな気にもなれないけどさ」
「ったり前だ、それ以上続けたらぶん殴ってやろうかと思った」
 楓は笑う。
 少し間を置いて僕も笑う。
 僕たちはいつも二人だった。
 寄り添っていられれば、他には何もいらなかった。
 色んな子に恋をしたけど、結局はいつも、楓のところへ帰っていった。
 ねぇ、楓。
 今なら、その理由がよく判るんだ。
――――そこが……僕の居場所だっから。
 この世界で、たったひとつの。
 君の傍が、僕がいるべき場所だから。


―――嵐……。
「―――嵐?」
 はっとして顔を上げる。
 確かに今、楓が僕を呼んだような気がした。莫迦な幻聴――判っている、まだ楓は、ロスに残ったままなのに。
 僕一人だけ、学校の都合で帰国した。楓の声が、ここにまで届くはずがない。
「ごめん、……少しぼんやりしてたから」
 僕は顔をあげ、真剣な目で僕を見下ろしている二人を――ついさっきまで、実の両親だと信じていた人たちの顔を見上げた。
「いずれは話すべきだと思っていた。……嵐、お前は、母さんの産んだ子供だが、私の本当の子供ではないんだ」
 不思議なくらい驚きはなかった。
 両親が楓を引き取った時から、―――どこかでこの日が来る事を理解していたのかもしれない。
 自分も楓と同じように、かつて――この人たちに引き取られたのかもしれないな。そんなことをふと思ったから。
 むしろ、母が実母であったことが嬉しい驚きだった。
 柔らかな顔立ちで、そして平均より小柄な母は、正直少しも自分と似たところがなかったからだ。
「お前はもう大人だ、そして、どんな残酷な現実も受け止められる柔軟な性格をしている。だからだろうな――ある事情から、私はお前に、私の過ちを知ってほしいと思うようになった」
 父がそこまで言うと、母はそっと席を立って二階に消えた。
「過ち……?」
「私がかつて犯した罪のことだ、今の私の人生は、その贖罪のためにあるといっても過言ではない」
「……」
 初めて見るような――父の、暗く沈んだ横顔。
「犯罪……か、何か、なの」
「……そうとも言える、そうでないとも言える。今、詳しい事情を話すわけにはいかないが、全ての記録は、いずれ全てお前に手渡すつもりで保存してある。……それは、私の死後に、見て欲しい」
「なに言ってんだよ、父さん……死ぬなんて」
「嵐、死は誰にでもやってくる。人の生は、いつなんどき終わりを迎えるか判らない。たくましい反面ひどく儚い生物種なのだ、我々は」
 真剣な目の色が、少しだけ恐かった。
 この人は本気なのだ。本気で――何かを、自分に託そうとしている。
「……いずれお前にも判るだろう――私が、何を伝えようとしているか」
 少し、苦しそうな声だった。
「楓にそれを伝えるかどうかは、お前の判断に任せたい。楓は傷つきやすい繊細な子だから、……心配なんだ。それに、誰よりもお前を信頼している。お前の言う事なら信じるし、お前と一緒なら耐えることも出来るだろう」
――――そうだろうか。
 僕は少し黙る。
 ロスへの留学中、初めて出来た二人の間の溝のようなもの。
 その原因が、レオナルド・ガウディ。
 あの――少し変わり者の、美貌の男にあることは判っている。
 僕は嫉妬しているのだろうか。楓は、そんな見苦しい僕の態度をどう思ったのだろうか。
 誰よりも誇り高く、潔癖な楓が、自分がそういう対象として見られることを、鳥肌の立つほど嫌っているのを、僕はよく知っている。
 なのにどうして、楓はレオに心を開いているのだろう。
 僕にはそれが信じられないし――そんな楓を見るのが、正直とても嫌なんだ。
「僕は父さんを信じてる、何を言われても父さんを尊敬する気持ちは変わらない。……楓もそれは、同じだと思うよ」
 僕はそれだけ言って席を立った。父は――これ以上、何も語らないだろう。
 いずれ――その時が来るまでは、何も。
「嵐、」
 けれど父は、扉を開けかけた僕を呼び止めた。
「この言葉を記憶しておいて欲しい、Human beings' hope」
「……人類の、希望……?」
 僕は立ち止まり、そして振り返って呟いた。
 父は大きく頷いた。
「これから何度か、これと同じ言葉に、君は出会うことになるかもしれない。どんな意味で用いられようと、それは言葉どおり希望なのだ――君たちの存在は希望なのだ。どんな絶望的な状況でも、それを決して忘れてはいけないよ」



 父の伝えたかったこととは、今となっては想像の域を出ない。
 父の残した研究資料は、あの忌わしい事件当夜――全て持ち去られ、あるいは消去されていたのだから。
 ただ、僕はもう知っている。
 トランスジェニック・ヒューマンを作り出した、あるプロジェクトの存在を。
 そのプロジェクトに係わった研究員の一人が、真宮伸二郎――大学を出たばかりの父だったことを。
 僕と楓を含め、あと二体、計四体の完全体がこの世界のどこかに存在しているということを。
 あの人は教えてはくれなかった。
 残る最後の一体の名前を、あの人は教えてはくれなかった。
 いずれ判るということなのか、知る必要がないということなのか――。
 戦後の世界はひどすぎて、ある意味、戦争中よりひどすぎて、僕は、正直、全てに眼を背けてしまっていた。
 何もかもどうでもよかったし、これ以上何かを知りたいとも思わなかった。
 全てを忘れて――楓と二人で、静かに生きていきたかった。
 僕が聞かされたもう一体の人物の名を、楓には言ってはいないし、言うつもりもない。
 THプロジェクトのことも一切話してはいない。
 知れば、多分楓は壊れてしまうだろう。―――そんな気がする。
 あの人は――右京さんは、そんな自分の気持ちを見抜いていたのだろうか。
 もう、軍には係わらないと、僕ははっきり、まるであの人への決別のように宣言してしまったから。
 だから、何も言わずに渡米してしまったのだろうか――。



 この世界で、たった四人の僕らの同胞。
 彼らは、僕らを待っているのだろうか。
 僕が楓を待っていたように。
 楓が僕を待っていたように。


 
―――嵐……。
 君が、僕の名前を呼ぶ。
 その響きに、僕はひととき酔いしれる。
 僕は君を愛している。
 肉体を超えた存在を、その気高い精神を、君の全てを愛している。
 あの変化の瞬間、黙示録は僕自身に下された。
 たとえ、現世では結ばれなくても。
 この世界でたった一人。
 楓、僕には、
 君だけしか―――。








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act6 堕天使の夢