?嵐……嵐、何処にいる。
俺はずっとここにいるのに。
ここでお前を待っているのに。
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「あそこの家には、バケモンがいるんだと」
「あの家の人間と、係わっちゃいけないよ」
小学校にあがる前まで、住んでいた大きな家。
近所の人たちの言う、その噂の意味が――当時の俺には判らなくて、なのに、言われた言葉やまなざしだけは記憶にしっかりと残っている。
今でも――夢に見るほどに。
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「しょうがないねぇ、金に目がくらんだアタシが莫迦だったんだから」
そう言う女の目にはいつも、嫌悪と憎悪が溢れていた。
「産むだけでいいっていうから引き受けたのに、結局背負い込まされたんだよ、やっかいだねぇ、本家が破産して頼るところは他にないし」
「ま、そう言うな、こんだけ綺麗なガキなんだ、いくらでも買い手はあらぁな」
母親―――と言ってもいいのだろうか、自分を育ててくれた女の二人目の夫は、絵に書いたような転落人生の最後を、場末のホステスの雇われ用心棒に決めてしまったヤクザ崩れの男だった。
それまで住んでいた大きな家を出て、――母子三人で暮らしていたアパートに、いつの間にか居着いていた見知らぬ男。
その男が居着くようななった二間きりのアパートは狭くて――、ふたつ違いの弟と俺は、いつも外に追いやられていた。
雨がひどい日は行くあてもなくて、アパートの階段に、二人でいつまでも座っていたような気がする。
五つか、六つの頃の―――記憶。
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「目障りなんだよ、このクソガキが!」
「ちょっと顔はやめといてよ、最近、民生委員がうるさいんだから」
同居してしばらくすると、男は本性を剥き出しにして、我が者顔で家族を支配するようになっていた。俺は気に入られなかったのだろう。何かにつけては、殴られて、足蹴にされた。
目があうだけで、生意気だと蹴りが飛んできた。
無視すれば、その倍だけ殴られた。
「ガキのくせに、大人みたいな目をしやがる、ええ、その目を潰してやろうか」
あれは、いつのことだったんだろう。
何をされても、特別な感情をもつことは無かったのに、あの日の出来事だけは鮮明に覚えている。
酩酊した男に、二階の窓から、衣服や、靴や、リュックの中身を全て投げ捨てられた。遠足の前夜で、珍しく母が、色んなものを新調してくれたのが嬉しかったのかもしれない――初めて逆らって、そして階下に走り降りた。
アパート下のどぶ川に飲まれ、汚濁にまみれながら遠ざかっていくそれらを、川沿いにどこまでも追いかけた。
泣きながら追いかけた。
繁華街の近くに住んでいたから、いつのまにかその只中に迷い込み、沢山の人たちの好奇の眼差しと嘲笑の中、ずっと川沿いを歩いていたような気がする。
夜のネオンの色とか、行き交う人々の不審気な顔とか――嫌なくらい覚えている。
沖縄にいた頃、泣いたのは、それが最後だった。
アルコールの饐えた匂い。
「あんたねぇ、服のお金だって莫迦にならないのに」
夜の腐臭、吐き気を催すような大人の匂い。
「けっ、ほっときゃいいんだよ」
醜悪な日常。
白けた絶望の支配する世界。
幼かった弟だけは、母から偏愛されていた。それだけが救いだったような気がする。
もう――随分大きくなっただろう。生きているのか死んでいるのか、それさえも判らない。今の俺が名乗り出ても迷惑なだけだから――多分、二度と会うこともないのだろうが。
自己防衛本能からか、決して、俺にはなつこうとはしなかった義弟。
自分一人が毛嫌いされている理由は、理解していたし、納得もしていた。母は綺麗な人だったが、本当の母親ではなく、ただ、金銭と引き換えに、出産を決めたのだと――。
誰かの代理として出産を決め、そのまま子育てまで押し付けられたのだと――。
そんなことだけが、言葉の端々から察せられていたからだ。
「ああ嫌だ嫌だ、おぞましい。あの時、お金にさえ、目が眩まなかったら」
それが悲しいとか、辛いとか、そういう感覚ごと麻痺していて、―――いや、それが日常の全てだったから、多分まだ――本当の意味での幸せを知らなかったから、だから平静でいられたのかもしれないけど。
アパートの階段に座り、遠くに見える海を眺めることだけが一日の大半だった。
部屋の中から、母と男の笑い声が微かに響く。
薄汚れた世界の果て。
何故、ここで生まれ、そして生きていかなければならないのだろうか。
そんなことを考えながら。
海から―――誰かが自分を呼んでくれるような気がして――その幻聴のような海鳴りに、ずっと耳を傾けていた。
潮騒を聞くと、自分の中の何かが、確かにそれに答えている。
全身の血が、すぅっと気化してしまうような、不思議な感覚。
ざわざわと、身体の底から何かが湧きあがってくるような心もとなさ。
そうだ、確かに俺は待っていたんだ。
自分を、―――俺を呼ぶ者の存在を。
この醜悪な世界から、
俺を連れ出してくれる存在を―――。
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「まぁ、いよいよその時がきたってことよ」
異変が起きたのは――小学二年生のときだった。
少し前から、このアパートに住めなくなるだろうということは漠然と察していた。
連夜のように訪れるヤクザじみた男たちや、扉に貼り付けられた張り紙。
泥のように酔いつぶれては暴れる男に、泣きはらした目をした母親。
借金でも嵩んでいたのだろうか。今となってはその理由まではよく判らない。
「いやよ、隆也は連れて行くからね、あの子は正真正銘私の子どもなんだから」
「そっちの方はどうでもいい、問題はあのガキよ、本土にいる俺の知り合いで、高く買ってくれそうな奴がいるんだが、売っちまってもかまわねぇか」
「……いいのかい、あの子は多分……なんだよ」
「知ったことか、こんな田舎で、まだ誰も本物にお目にかかったことはねぇんだ、黙ってりゃ判るはずがねぇ」
「法律的に、やばいことになるって聞いたことがあるよ、心配だねぇ」
「けっ、お前は臆病でいけねぇや」
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俺は――海から離れたくなかったんだ。
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台風が来ていた。嵐の夜だった。
指先に、まだ血の雫が残っている。それを雨にかざして洗い流し、吹き付ける暴風雨の中、荒れる海を背に、俺はただ歩いていた。
その数時間前、この手で男を傷つけてしまった。
咄嗟に手にした鋏で、思いっきり、肩先あたりを突き刺した。
男は自分を――まるで母を扱うそれと同じようにしようとしたのだ。
けれど、逃げるための手段とは言え、他人を傷つけたことが、その時の吐き気がするような情景が、まだ――収まらない手足が震えと共に蘇る。
うねるような波が、背丈よりもさらに高い位置から襲い掛かってくる。
突風が、時に呼吸さえ遮った。
死んでしまいたかった。いっそ。
この海に飲まれて、消えてしまいたかった。
―――誰か……。
誰か俺を、
この世界から連れ出してくれ―――。
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「あの子、ベクターなんだって」
「……何、それ」
「知らない、でも、中村先生が、あんまり喋っちゃだめだって言ってたよ」
「へんな子だよね、いっつも海ばっか見てるし」
「お父さんを刺したって聞いたよ」
「うわ、こわー」
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「……楓……君、だね」
ざわり。
自分の中の、何かが、確かに反応した。
砂を払って立ち上がり、俺はその人たちを見た。
一目で地元の人ではないと判る服装をした、二人の大人と一人の子ども――その三人連れを見つめた。
「ずっと探していたんだ。君が、僕の……大切な人の子どもだからね」
白髪交じりの、大柄な男の人が喋っている。
風に攫われる、低音でくぐもった声。
はっきりと聞き取れなかった言葉。
いや、聞こえていたけれど、その意味が理解できなかった言葉。
「おいで……そんなに怖い顔をしなくてもいい。今日から私たちが、君の家族になるのだから」
「君が楓君?かっわい〜い」
この人は――男の人の妻なのだろうか。それにしては、ひどく若い、若すぎるような気がする……。
ざわり。
また、自分の中の何かがざわめく。
この胸騒ぎと心もとなさ。
他人など容易に信用しないと決めていたのに、不思議と彼らから目が離せない。
「……嵐です」
俺は、にっこりと笑う綺麗な目をした男の子を見た。
最初から、その存在が妙に気がかりだった。
俺がそいつを見ると、そいつは――片頬にえくぼを浮かべ、くっきりと笑った。
「ええと、真宮嵐、よろしく!」
ああ、そうか。
「……ラン、」
俺は、その名前を呟く。
「うん、嵐だよ。楓、君……楓でいいよね」
嵐は、あっさりと俺の名前を呼ぶ。
ああ、そうだ。
嵐は手を差し出す。
俺は自然にその手を握る。
「ここは綺麗だね、僕は海なんて見たことないから、びっくりした。あっちの方に行ってみようよ」
屈託無くそう言って、嵐は俺の手を引っ張る。
「子ども同士は、すぐ仲良くなるもんだな」
「嵐なら大丈夫って言ったでしょ」
ああ、そうだ。
―――俺は、こいつを待っていたんだ。
「楓、泳げる?」
「溺れない程度には」
「すごいなぁ、僕、水泳だけは苦手でさ、よかったら今度教えてよ」
「教えるも何も、動かなきゃ浮くんだ、やってみろ」
「……なんか君って、おもしろいね」
繋いだ手から、何かがゆっくりと流れ込んでくる。
心もとなさも、ざわめくような血の騒ぎも、不思議なくらい静まり返っている。
何故だろう。
初めて会うはずなのに。
初めて聞く声のはずなのに。
全てが懐かしくて愛おしい。
生まれた時から――いや、まるで生まれる前からの親友でもあったように。
「……楓」
海を見ながら、嵐が呟く。
俺よりは明らかに幼げなのに、その瞬間だけ、どこか大人びた横顔だった。
「……やっと会えたね」
「……そうだな」
この時交わした会話の意味は、その時感じた感情は、―――何年たっても理解できない。
自分だけではなく、多分、嵐も、きっと何も理解してはいない。
でも俺は、その時確かに感じたんだ。
―――嵐。
俺はお前を待っていたんだ。
お前に会うためだけに、俺はこの世界に生まれたんだ……。