「真宮、」
 運転席の横顔を見上げ、そして獅堂は驚いて言葉を止めた。彼の端正な唇の端に、わずかだが青黒いしみが浮いている。
「お前……口のとこ、どうしたんだ」
「うん、ちょっとね」
「ケンカでもしたのか」
「獅堂さんには関係ないよ」
 そう言ったきり口をつぐむ、取り付くしまのない横顔。
―――何、考えてんだ……。
 獅堂は黙って、再び視線を外に転じた。
 記者会見の日から、もう二ヶ月近く過ぎている。一度も連絡はなかったし、こちらからもしていない。なのに、そのことについては一言も触れようとしない。
 怒っているのか、忘れているのか、それとも――故意に黙殺しているのか。
 車は、獅堂のアパートのある方角とは反対に向かっている。楓のマンションの方角とも違う。
 市街地を抜けた車は、やがて海が見える道路に出た。
―――港……?
 観光用のフェリーや旅客船が停泊している小さな港。ただ広い桟橋周辺に、夜釣りを楽しむ人影がぽつぽつと浮かんでいる。
 対向車が殆んどないこの道は、港が突き当たりとなって終わっている。
―――ここに、用でもあるのかな。
 堤防沿いに車を止め、楓は無言で車を降りた。
「…………」
 背を向けたまま、何も言わない。
 獅堂も仕方なく、同じように助手席の扉を開けて車外に出る。
 夜風が心地よかった。波の音と、そして濃密な海の香り。
 海面は天の星と月を映し、細かな光の粒子を揺らして、きらきらと輝いていた。
 どこかで汽笛の音がする。
 今の現状も、二人の間の気まずさも忘れ、獅堂はいっとき、その光景に見惚れていた。
「少し、歩こうか」
 楓の声がした。
 顔をあげると、少し離れた場所に立つ男は、どこか優しい顔になってこちらを見ていた。
「たまにはいいだろ、恋人みたいな真似すんのも」
「…………」
 ゆっくりと歩み寄ってくる。戸惑ったままでいると、すっと手を握られる。
 冷たくて―――乾いた手のひら。
 手を引かれて歩きながら、獅堂は何も言えなくなった。
 手を伸ばせば触れられる距離に、楓の綺麗な背中がある。風に揺れてほつれた髪、月光に照らされた耳と首筋。
 何度も抱き締めてくれた腕。優しく触れてくれた指。
 それが――今は、ひどく遠いものに感じられる。
 繋いだ手だけが、その微かなぬくもりだけが、全てだった。
 この手が離れてしまった途端、きっと二人は――友人でいることさえできなくなる、そんな寂しい予感がした。
「なんか、飲む?」
「…………」
「自販あるから買ってこようか、何がいい?」
 振り返りもしない横顔。うるさそうに前髪を払う指。
「……いらない」
「じゃ、俺の分だけ買ってくるから」
 あっけなく、繋いでいた手は、解かれていた。
 そのままポケットに手を突っ込み、楓は痩せた肩をそびやかした。
「……真宮、」
「………?何、」
 あ、やばい。
 なんだか――苦しくなってきた。
 この二ヶ月、耐えに耐えてきたものが、今、この瞬間、切れて、台無しになってしまいそうな気がする。
 うつむいた顔が上げられない。視界に映る楓の足が――街灯に照らされた影が――。
 ぽん、と頭を叩かれた。
 はっと目を開ける。
 影が、信じられないくらい間近にあった。思わず顔を上げていた。
「待ってろよ」
 声がした。穏やかで、染み入るように優しい声。
「…………」
「ちゃんと、俺は帰ってくるから」
「…………」
 楓はわずかに笑んでいる。綺麗な眼は、どこか優しい。
 胸が痛くなって、獅堂は再びうつむいていた。
―――なんで……。
 すうっとまた手が離れる。
 今度こそ、離れて、遠くへ行ってしまう影。
―――なんで、優しくするんだよ。
 視線をその背中から逸らし、海と交じり合う夜空に向けた。
 多分、楓は――自分に別れを言うために、今日、ここまで連れてきたのだ。
 信じられないくらい優しい声が、態度が、眼差しが――無言のうちにそれを語っているような気がする。
 堤防に飛び乗って、そのまま少し歩いてみた。
 自分がこれから失うことになるものを、じっと噛み締めて、そして静かに受け入れていた。
 堤防が、少しだけ海へせり出している。その小さな突起部分に座り、膝を抱いて、暗い海面をただ見つめた。
「……一人でうろうろすんなよ、何処行ったかと思ったら」
 背後で、少し苛立った声が聞こえた。
 ようやく聞くことのできた、楓らしい口調だった。
 黙っていると、楓がそのまま、堤防に飛び乗る気配がする。
 ゆっくりと歩み寄ってきて、そして隣に腰を下ろす。体温が重なって、少しだけ髪の匂いがした。
 小さなスペースで、大人二人が座るには狭すぎる場所だった。
 でも楓は何も言わない。背中をくっつけあうようにして座り、そのまま、持っていた缶のプルタブを切る。
 波音と、そして風が夜を駈ける音。やがてぽつり、と男が口を開いた。
「…………なんで、連絡しなかった」
 海風に紛れてしまいそうな声だった。
「真宮がしてくれなかったから」
 膝を抱いたままで、獅堂は答えた。
「俺がしなきゃ、お前は永久にしないつもりだったのか」
「…………」
 だって。
 獅堂は唇だけで呟いた。
―――だって、自分は。
「あんな突拍子もないこと言いやがって、普通謝罪の電話くらいするだろ、あの後、所長には問い詰められるわ、職場から祝いをもらうわ……俺がどれだけ返答に困ったと思ってる」
 獅堂は楓の手を見つめた。綺麗な指が、空になった缶を所在無く弄んでいた。
 もう一度触れて欲しかった。いや、触れたかった。
「なんで……謝らなきゃいけないんだ」
 その指から目を逸らし、獅堂は抱えた膝に顔を埋めながら言った。
「……自分は、プロポーズしたんだ」
「…………」
「ずっと、お前の返事を待ってた。……連絡がないのは、それが返事ってことなんだと思ってた」
「…………」
 しばらくの沈黙の後、男がかすかに溜息を吐く気配がした。
「それならそうと、言えよ、莫迦」
 プロポーズねぇ……。
 独り言のような呟きが聞こえる。
「……その男らしい発想、嫌いじゃないけどさ」
 こん、と、頭を叩かれた。
「全国放送で、あんなこと言われた俺の身にもなってみろ。お前はかっこよくても、俺はただ情けないだけじゃないか」
「…………」
 うつむいた顔が上げられない。
 そのままの姿勢でいると、楓が深く嘆息するのが判った。
「結婚なんて、無理だよ、……お前だって判ってるだろ」
「…………」
「…………お前さ、俺にどうして欲しいんだ」
「…………」
「一緒に暮らしたきゃ暮らしてやるよ、子どもが欲しけりゃ産めばいい。……でも、俺には、」
 俺には。
 楓はその続きを言わなかった。
 獅堂は顔を上げられなかった。
 聞かなくても、彼の言いたいことはわかるような気がした。俺には、――獅堂さんを幸せにできない。
 俺には――他に、
 他に、大切な人がいて。
「俺が基地まで行って、獅堂さん迷惑したろ」
 ふいに楓は話題を変えた。
「さんざん出入り口で尋問された、持ち物も調べられた。……まるで犯罪者扱いだったよ、ま、実際そうだから気にもならないけど」
「……真宮、」
「獅堂さんは、そんな男の傍にいていいような女じゃないよ」
「…………」
「俺はさ、どっかでずっと、この世界から逃げたいと思ってる、……そんなずるい、卑怯な男だから――」
 初めて獅堂は顔を上げて楓を見上げた。
 月光で逆光になった横顔。
 それはまっすぐに空に向けられていた。
―――ああ、この顔だ。
 獅堂は苦しいほどの胸の痛みを感じながら、楓の腕に、そっと自分の手を添えた。
 桜庭基地で、空を見上げる彼を見た時も、同じような切なさを感じた。
 その時は、自分の感情の正体が判らなかった。でも、今なら判る。
 彼は、帰りたがっているのだ。
 彼の場所へ――あの翼を持った蒼い光の生まれた場所へ。
 あの光が何だったのか、どうして楓があんなものに変化したのか、獅堂にその理由は判らないし、特に気にしたこともない。
 でも――楓はきっと、この地上にいるべき人ではなくて。
 あの天の彼方に自分の場所を持っている――空から落ちて来た天使みたいなもので。
 翼を無くし、もう二度と空に戻れない……それが判っているから、あんな目で空を――空の蒼を映した海を、見つめているのかもしれない。
「……自分の傍にいて欲しい」
 獅堂は口を開いていた。
「ただ、手を繋いでいてくれたらそれでいい、自分は、お前が好きだから」
「…………」
「他には何もいらないんだ、お前に何か、特別なことを望んでいるわけじゃない」
「……獅堂さん」
「お前が――」
 絡んだ眼差し。男の目が、わずかに翳る。迷うように揺れている。
「お前が、自分のことを、本気で好きじゃなくてもかまわない」
「…………」
「誰かの代わりでも」
 無言のままに、肩を抱かれて引き寄せられた。
 もういいよ、そんな呟きが聞こえたような気がした。
 額が触れて、引き合うように唇が合わさる。
 静かに触れて、すぐに深く交じり合う。
 ぎゅっと胸が締め付けられて、心が切ないもので満たされた感じがした。
 苦い――微かな珈琲の味。
「……獅堂さん」
 キスは苦しいほどなのに、背中に回された手は、優しい。
「真宮……」
 名を呼ぶと、覆い被さるように、抱きすくめられる。
 迷いごと奪い取るような激しい口づけ――息もつけないほどだった。
 頭の芯がしびれて――何も考えられないまま、獅堂は男の腕にすがるようにして、その情熱を受け入れていた。
―――真宮……。
 好きだとか、愛しているとか、そんなことを言ってくれたことは一度もない。
 でも、自分の名を呼んでくれる声の感じとか、触れる指の優しさとか、キスする時の――表情とか。
 この瞬間だけ、すごく、感じる。
 自分が彼の恋人で、大切に、―――愛されているような、そんなものを確かに感じる。
「……真宮……」
 手を握る、しっかりと指を絡めて握り締める。
 何度も何度も、口づける。
 言葉で言い表せない隙間を埋めるように、離れてもすぐに求めて、触れ合って、探り合う。
 その繰り返しは、きっと――伝えあって、教えあっているのかもしれない。
 言葉に出せない思いのようなものを。キスで、この激しい情熱で。
――― 一緒にいたい。
 楓の声が聞こえてくるような気がした。
 色んな障害があって、色んな感情があって、別れたほうがお互いのためだと判っていても。
 一緒にいたい。
 この人と、一緒にいたい。
 合わさった唇から、吐息から、腕にこめられた力から、そんな激しい感情が流れ込んでくるような気がした。確かにした。
「……自分なら、大丈夫だ」
 額をあわせたまま、獅堂は、男の痩せた腰を抱き締めて、呟いた。
「他の人がダメなものでも、自分なら受け止められる。だから自分を信じてくれ」
 答えの代わりに、いっそう強く抱き締められた。
 耳元で、楓が何か囁いた気がした。
 首筋に、その唇が落ちてくる。
「……真宮……」
 夢でも見ているような――甘い陶酔に包まれて、獅堂は、ゆっくり目を閉じた。
―――藍。
 囁きは、確かに自分の名前だったような気がしたから――。



                 十三


「……こんな時間だとは思わなかったな」
 助手席に乗り込んで、獅堂はわずかに身震いをした。
 夏はとうに終わっている。明け方は――海の傍というせいもあって、想像以上の寒さだった。
「獅堂さん、今日は?」
 運転席に座る男は、何事もなかったような口調で言う。
「……休みだけど、真宮は仕事とか、大丈夫なのか」
 エンジンの掛かった車内、電子時計は午前五時を示していた。
「今日は土曜、でなきゃ、とっくに帰ってる」
「…………」
 いつもの、皮肉に満ちた口調。
 でもそれが、獅堂の好きな、楓の喋り方だった。
 あれからずっと、手を繋いで――夜の海を二人して見つめていた。
 何を話したわけでもないし、互いの胸にある懊悩が解決されたわけでもない。
 でも――不思議と満たされた気持ちのまま、獅堂は、この――二人きりの、宝物のような時間が過ぎるのを惜しんでいた。
 こんなに愛されていると感じたことは初めてだったし、きっとこの先もないような気がした。
「帰るか」
 ふいに楓が、さばさばした口調で言って立ち上がるまで、二人は―― 一言も口を聞かなかったように思う。
「どうする?うちで一緒にメシでも食うか」
 そして今、車の中で、背後を確認しながら楓が言った。
「いいのか」
「いいよ、でも俺、いい加減眠いから、午前いっぱい爆睡すると思うけど」
「いや……自分も眠いし」
「んじゃ、ひと眠りしたら出かけよう。車の運転にも慣れときたいしさ」
「…………」
 なんだろう。この――思いっきり平常モードな日常会話は。
 ぐわん、といきなりアクセルを踏み込まれたのはその時で、獅堂は再び後部シートに頭をぶつけた。
「………真宮」
「何?」
 どうやら、運転のマナーから教えた方がいいのかもしれない。
「また信号か、日本の道路って難しいな」
「…………」
 いや、道路の問題ではないだろう。
「コンビニでも寄るか、前みたいに食パン一枚じゃたまらないからな」
 口調は皮肉に満ちていても、声はどこか柔らかかった。
 手を繋ぎ、暗い海を見つめながら、―――楓は何を考えていたのだろう、と、ふと思った。
 ふっきれたのだろうか。自分と生きていく決意を固めてくれたのだろうか。いや、――そうではないだろう。
「……寒い?ヒーターでも入れようか」
「いや、別に……」
 優しくされると不安になる。
 きっと楓は、やがて来る確実な別れを見据えたまま――ただ、その時を、少し先に延ばしてくれただけなのだ――そんな気がする。
「……ま、いいか」
 獅堂は低く呟いた。
「え?」
「いや、先のことなんて判んないと思ってさ」
「……?」
 獅堂は両腕で伸びをして、はじめてすっきりと微笑した。
 そう――先のことなんてわからない。空の天候と同じで、どんな風にだって変わるんだ。
「あ、そうだ」
 そして、唐突に思い出していた。
「あのさ、……例の写真があったろ、ええと、自分の」
「……性詐称疑惑が持たれた写真のことだろ、それが何?」
 どういう意味だろう。
 少しむっとしたが、気にせずに続けた。
「…………それでさ、隊の者が、三回いったっていうの、どういう意味か判るか」
 キュゥゥッ。
 すごい音がして、急停止した車内で、獅堂は激しくバウンドしていた。
「ばっ……な、なにやってんだ、お前」
 フロントガラスで頭を打つ寸前だった。
 早朝の道路だから、行き交う車も追ってくる車もない。そうでなければ、確実に事故がおきていただろう。
「それ、誰が言ったか覚えてるか」
 冷え切った声がした。
「……え、いや、……誰だったろう。その場には大勢いたから」
「………………」
 再び車が発進する。
 後頭部を打ったのは三回目だった。
「真宮、お前、免許なんか持つな!」
 獅堂はたまらず、非難の声を上げた。
「獅堂さん、それ、ただのジョークだから、気にすんな。笑えないブラックジョーク」
「……なんの話だよ」
「そんな奇特な人物は俺くらいだろ」
「…………?」
 見上げた横顔が、少しだけ笑った気がする。素早いキスが、頬に触れて、獅堂は思わず赤面していた。
「帰って、それを証明してやるよ」

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