十
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「なんだ、元気そうじゃないか、死にぞこない」
何の気なしに扉を開けると、室内の中央、柱に背を預けるようにして、久しぶりに見る顔が立っていた。――北條累である。
意表をつかれた獅堂は、咄嗟にそんなセリフを口にしていた。
基地の休憩ルーム。
アラート明けの獅堂は、そこに設置してある長椅子のひとつで仮眠をとるつもりだった。
一時間後にはブリーフィングが始まる。まだ帰宅するわけにはいかないし、本格的に寝てしまうわけにもいかない。
午後の8時を回ったばかりだったが、早朝から基地に詰めていたため、少しでも仮眠を取っておきたかった。
「……どうも」
北條は低く言うと、何故か周辺を見回し、そして彼の背後の長椅子に腰を下ろした。
大きな身体は、腰掛けていても迫力がある。
普段は怖いくらい野性的な眼差しで、そして何かしら挑発的な男が、今日は妙に大人しい顔をしていた。
「―――?」
あの事故で負った怪我により、北條は三週間の飛行停止処分を受けた。そしてまだ、その処分期間は終わってはいないはずだ。
彼はその間、地上勤務に回されており、執務室の場所上、――獅堂が北條の顔を見るのは、事故以来これが初めてだった。
―――こんな時間に、こんな所で何やってんだ、こいつ。
そう思いながら、獅堂は一番端の長椅子に仰向けに寝転んだ。なるべく離れたかったが、北條が部屋の中央にどっかと腰を下ろしているため、距離は椅子二つ分しかあいていない。
「死ぬ気だったんすか」
野太い声がしたのは、その時だった。
「は――?」
少し驚いて半身を起こす。
休憩スペースには、今、獅堂と――そして、北條の二人しかいない。
座ったままらしい男の影から、どこか暗い声が響く。
「事故の報告、読みました……あの高度で、あんな速度で……上昇できるぎりぎりのタイミングだったそうで」
怒っているような声でもあり、皮肉を言っているような口調でもある。が、垣間見える北條の横顔はひどく暗い。
「……そうだが」
「俺とあんた、空自にとって、どっちが必要な人材か、……考えるまでもないと思うんすけど。俺は自分のバーディゴーにも気づけない間抜けなパイロットで、あんたは優秀なトップガンだ」
獅堂は身体を起こし、長椅子に座りなおした
「それで?」
まぁ、その通りだから、あえて否定するつもりも謙遜する気もない。
北條は、自嘲気味に、苦笑を漏らした。そして続けた。
「俺を助けるために、あんたまで死ぬとこだった……莫迦ですね。だから女はダメなんだって、みんな影で笑ってますよ。口ではえらそうなことを言っても、結局は情に流されちまうんだって」
「流されてはいない」
獅堂は、静かな口調で言った。
「自分は全て計算していた。高度計も、Gの圧力も理解していた。あのポイントがぎりぎりで、あれを逃したら、それ以上追う気はなかった」
「…………」
「言ったろう、自分は墜落する時でも、それを冷静に実況中継できるだけの自信があると」
北條は押し黙ったまま、何も言わない。
獅堂は嘆息して、再び長椅子に寝転がった。そして、天井を見上げながら続けた。
「ある意味、フャーチャーの限界を試してみたのかもしれない。……何が言いたいかは知らないが、自分に礼を言ってもらう必要はない。自分はあの時、自機で対応可能な、当たり前のことをしたまでだ」
「っ……べ、別に、礼なんて、言う気はないっすから」
初めて動揺を見せる男。
卑猥なジョークだけは気に入らないが、獅堂は、この北條と言う男が、印象よりかなり思慮深いことを知っているつもりだった。
「ないっすけどね、……ただ、ひとつだけ、わかんなくて」
戸惑うような声が続く。
―――眠いんだが、とは言えなかった。
獅堂は仕方なく、再度起き上がる。
この男は、ここで――多分、自分が来るのを待っていたのだろう。
椅子に腰掛けたままの男が、ぐっと拳を握るのが判る。
「なんだってあんたは、俺のミスを庇ったりしたんですか。俺の隊長は吉村さんで、あんたじゃない。罰を受けるのは、俺と吉村さんで、あんたには何の関係もないことなのに」
「……庇ったつもりは……」
言いかけて、わずかに逡巡し、そして獅堂は天井を仰ぎ見た。
「まぁ、……借りを返したってことかな」
小さく呟く。
この件で、獅堂は、二ヶ月の減俸と一週間の謹慎処分を受けている。が、庇ったと思われるのは本意ではないし、北條に貸しを作るつもりもない。
「……借り……?」
初めてこちらを見る男の目、それが不審そうにしばたいている。
「お前は、自分を助けてくれただろう、助けられっぱなしというのが嫌なんだ、自分は」
男の顔を真正面から見据えながら、獅堂は言った。
「……助けたって、」
「自分が仮眠室に泊まっていた夜だ。お前は、他の者を押しのけるようにして自分の上に被さってきて」
あの時には判らなかった。少しおかしいな、と思った程度だった。
あとでよく考えて、ようやく気がついた。
「わざと、自分に急所を示したんだ。そうだろう?あの姿勢で、自分は肩に力が入らなかった。殴った拳に、さほどの力はこもらなかったはずなのに、お前は大げさに飛びのいてくれた」
「…………」
「お前みたいにでかい男が、反撃されてひっくり返ったら、他の奴らは吃驚するだろう。……最初から、お前は、そうするつもりで仲間に加わったんだ」
「……すげぇ、楽天的な解釈っすね」
戸惑いを押し殺したような――抑揚のない声が返ってくる。
「ま、そういう性格なんだ。ほっといてくれ」
今度こそ寝るつもりで、獅堂は仰向けにひっくり返った。
「……あんた、ひょっとして、何もかも、判ってて」
北條が、そう呟いた時だった。
「獅堂さん、ここでしたか、後藤田さんがお呼びですよ」
バタン、とドアが開いて、忙しげに現れたのは吉村だった。
「え、うわ、なんだろう」
獅堂は、さすがに慌てて跳ね起きた。
あの細かい上司に呼び出しを食らうということは、間違いなく、よくないことだ。
「すいません、吉村さん」
すれ違いざまに声を掛けた時、
「それから、私、今月いっぱいで退官することになりました。短い間でしたがお世話になりました」
まるで朝の伝達事項を言っているようなあっけなさで、吉村が言った。
いや、それが吉村の口から出た言葉だと――そう気づくのに、獅堂は数秒を要していた。
「―――――は?」
「……言葉どおりです。多分、後藤田さんの話とは、あなたに編隊長に復帰するよう――そんな話だと思いますが」
「ちょ、ちょっと待ってください、どうして、そんな」
「ヨシさん」
獅堂が混乱してそう言うのと、北條が立ち上がって駆け寄ってくるのが同時だった。
吉村はそんな二人を見比べるようにして、かすかに笑った。
「北條を頼みます、こいつは、おそらくあなたの編成隊に入ることになる。こう見えて、空学時代は、獅堂さんの写真をロッカーに貼っていたほどの男だから、きっといい相棒になりますよ」
「…………は?」
「うわっ、わーっ、わーっ」
隣に立つ大男が、思いっきり動揺している。
吉村は楽しげに笑った。
「まぁ、あなたに反感を持つようになった理由は、後でゆっくり聞けばいい。獅堂さん、私はあなたに勝ちたかった、色んな意味でね――でも負けました。完敗です。あなたが気づいた北條の異変に、私は気づくことができなかった。あれが全てです」
「……吉村さん」
でも、やめることはない。そんなことで――そう言いかけた獅堂の胸中を察したのか、吉村は少し寂しげな目になった。
「獅堂さん、やはりね……我々ベテランには、フューチャーは扱えない。エンジントラブルは、私の単純な操作ミスが原因です。何年も……十数年以上ジェットエンジンで飛んできた。もう、その操縦過程が骨の髄まで染み込んでる」
「…………」
「聞きましたか、松島のブルーインパルスは、この秋の航空祭が、最後のフィナーレになるそうです。……T―4機が製造中止になりましたからね。……そして、フューチャー機はアクロバットには不向きだ。加えて世の中は、そんな呑気なアクロ飛行に数億をつぎ込むことを許してくれるような時代じゃなくなっている」
獅堂には何も言えなかった。
ある意味、吉村の言う事は――獅堂自信が、この三年、教官を勤める内に悟ったことでもあった。
「……ブルーインパルスに入るのが、ずっと私の目標でした。これでふんぎりがつきましたよ。旧型機と共に、旧型パイロットも引退します」
静かな所作で敬礼し、そして吉村は、詫びるように、獅堂に深く頭を下げた。
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十一
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「ヨシさんは、あんたを助けようとしてたんだ」
その言葉に、後藤田の部屋から出たばかりの獅堂は足を止めていた。
薄暗い廊下の隅に、淡い蛍光灯に照らされた北條の姿がある。
腕を組み、どこか沈鬱な目で床の一点を見つめている。
「……俺に、あんたを護るように言ったのはヨシさんだよ。……あの人も辛い立場だったんだ、それは判ってあげて欲しい」
「……わかってるよ」
写真の流出といい、情報の漏洩といい、そこに吉村が噛んでいることは、漠然と察していた。が、それだけではないような気もした。
もっと、大きな力が働いて、自分が隊を辞任するように仕向けられていた。そんな気がする。多分、吉村も、その歯車のひとつだったのだろう。
その理由までは判らないし、知りたいとも思わない。
ただ、最後まで吉村を信じたことだけは間違いなかった。獅堂にはそれだけで十分だった。
「……一つ、聞いてもいいっすか」
北條の声は暗かった。
「あんた、なんで拳銃なんか持ってたんだ」
その傍を通り過ぎながら獅堂は答えた。
「……内規17条の三項だ、部屋に戻ってよく読んでみろ」
「知ってるよ、それくらい。……だから、拳銃のことは、あの夜の誰も口外してはいない。でも」
「北條」
獅堂は足を止めて北條を振り返った。
「お前は明日づけで、自分の隊の一員になる。お前は、自分の命令には絶対に従えると誓えるか」
「…………」
「何があっても自分を信じ、自分ためなら死ねると言えるか」
北條は黙る。
見下ろしている、暗い炎を宿した眼差し。この応答によっては、後藤田に申し出て、編隊長の座を辞すつもりの獅堂だった。
「言えるよ」
けれど、男は、ぶっきらぼうにそう言って、それを裏切るような丁寧な所作で敬礼した。
「俺はあんたのためなら死ねる。あの空で、あんたが俺を助けてくれた。その時から、あんたは俺のリーダーだから」
「よし!」
自分も敬礼を返しながら、獅堂は大きく頷いた。
そして、不思議な感覚を覚えていた。確か、大和と初めてフライトした時も同じように思ったはずだ。
空自に入隊してから何年も立つし、編隊を組んだ相手は限りなくいる。が、こんな風に思える相手はごくわずかで、それは、理屈ではなく肌で判る。
―――もしかして、こいつとは長い付き合いになるのかもしれないな。
「しっ、獅堂さん、大変ですよ!」
背後で、泡を食ったような大和の声がしたのは、その時だった。
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十二
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「よう」
獅堂は――信じられなかった。
淡い蛍光灯の下、乗用車に背を預けて立っている、すらりとした長身の男。
基地のすぐ対面にある車道。歩道ぎりぎりに駐車された車の背後には、見回りの隊員が二名控えている。
「ま……」
立ちすくんだまま、言葉が何も出てこなかった。大和から聞いた時はまさかと思ったが――。
「遅かったな、結構待たされたよ」
真宮楓は、そう言って、背後の乗用車を指し示した。
「……乗る?借り物のボロだけど」
静かな――どこか表情の読めない顔をしている。声だけがひどく優しくて、それが全然、いつもの楓らしくない。
白い長袖のシャツに、ジーンズ。
こんな薄暗がりでも、楓はやはり綺麗だった。彼の周辺だけ、凛光を放つような輝きがある。
何日ぶりに――会うだろう。懐かしさと嬉しさと気まずさがごっちゃになって、どうリアクションしていいか判らない。楓は――また少し痩せた気がする。
しばらく口を開いていた挙句、獅堂の唇から出てきた言葉は、感情とは裏腹のものだった。
「……お前、運転免許持ってたっけ」
「取ったばかり、まぁ、向こうで持ってたから、三日の講習で済んだけど」
楓も普通にそれに答える。
「……乗ってもいいか」
「いいよ、そのつもりで迎えに来たから」
助手席に回って扉を開けてくれる。
獅堂は天を見上げていた。少しだけ欠けた月。よかった、雪は降っていない。
一応、車の背後に控えている若い隊員に目で合図した。―――もういい、と。
楓は、この門前で自らの氏名を名乗り、自分と――獅堂と面会したいと申し入れたのだ。
信じられなかった。いや、今でも信じられない。
「シートベルトつけろよ」
ステアリングを握る横顔に、差し込む月光が映えている。そして楓は、いきなりアクセルを踏み込んだ。
「……運転、大丈夫なのか」
言っては悪いが思いっきり急発進だった。
ごん、とシートに頭をぶつけ、獅堂は傷みに眉をしかめながら聞いた。
どこか危なかしい走行で、お世辞にも運転が上手いとは言えない。
「そんなに好きじゃないけど、車がないと不便だから」
「免許はいつ取った」
「向こう行ってすぐに。でも殆んど乗らなかった」
それでこんなにふらふらしているのか、と思った。
天才のくせに、何もかも完璧ってわけじゃないんだな。それが少しだけおかしいし、嬉しい。
「この車は、どうしたんだ」
「職場で借りた。取りあえず、買うまで使えってさ」
「で、買うのか」
「ないと不便っつったろ、質問ばかりだね、獅堂さん」
「…………」
獅堂は黙って、流れていく景色に視線を転じた。
買わなくても、自分の車を使えばいい。
そう言おうとして――言えなかった。
今夜、楓は、一体何の意図で、基地まで出向いてくれたのだろうか。
黙っている横顔からは、何の表情も掴めない。
クリックしてエンターを押すだけです。よろしければ…… |