七



「その歯、矯正してあげましょうか」
 男は、柔らかな口調で言った。
「―――は、」
 真宮楓は、戸惑って顔を上げる。
「いえ、その憎たらしい八重歯を、ペンチで引き抜いてやろうかと思いましてね」
 男は――佐々木智之は、おかしそうな口調で言うと、実際楽しそうに微笑した。
 穏やかな気候で、風は生暖かかったが、滲んだ汗を心地よくさましてくれた。
 橋の欄干に体を預けるようにして立つ、長身の白衣の男。
 その隣に立ちながら、楓もまた、男の視線を追って抜けるような青空を見上げていた。
 眼下には青黒い河川が流れている。お世辞にも綺麗とはいえないが、流れるせせらぎの音が涼しげだった。
 背後には、この男が開業医を勤める歯科医院がある。
 今は昼休憩なのか、尋ねていくと、男は気安げに外に出ましょう、と言ってくれた。
「あんな目にあっても、呼んだら来てくださったわけですか、真宮君は義理堅いのかな、それとも、そんなに獅堂さんのことが気になるのかな」
 佐々木が謡うような口調で言う。
「……お礼を、言わなければと思っていましたから」
 楓は静かに言葉を繋いだ。
「薬を処方してくださった。……おかげで随分楽になりました。医者に行くのが苦手なもので」
 用意していた代金を取り出そうとすると、男はやんわりと、それを否定するように手をかざした。
「恐がらせてしまったお詫びです。……いや、君みたいな綺麗な人を、間近で見させてもらったお礼と言ってもいいかな」
「……は、はぁ」
 どうもよく掴めない人だ。
 けげんに思って視線をそらしながら、楓は少し困惑していた。
 間違いなくストレートなはずなのに、先日のことといい、時折妙なことを言う。
 ただ、彼が自分を憎んで――苦しめたいと思っていることだけは確かで、それは、どんな手段であっても、受け止めるつもりではいた。
「……君が綺麗だというのは、本心です。……僕はね、気づいたんです。……いや、最初から気づいていたのに、それを認めたくなかったのかもしれない」
 佐々木は河川に視線を落としながら呟くように言った。
「……昔ね、獅堂さんが言ってました。空には天使がいて、それを見た者は二度と戻ってこられないんだそうです。……パイロット仲間の格言みたいなものなのかな。……空に魅せられたあの人は、ある意味もう天使を見ているのかもしれない。その時、僕はそう思いました」
「…………」
 そうかもしれない。
 楓も素直にそう思った。
 獅堂の目には――決して自分が映らない瞬間がある。空に魅せられた女の眼差し。
 多分、誰のものにもなりはしない、空の蒼を映した瞳。
 佐々木は顔をあげ、そして息を吐くように笑った。
 何かをふっきったような笑顔だった。
「彼女はね、確かに天使を見たんです。空の蒼に溶け込んだ翼を持った天使をね――多分その瞬間、あの人は恋に落ちたんだ」
「…………」
―――え?
「どうやって君と獅堂さんが、結ばれたのかは知りません。……でも、そうなるような、それが最初からの運命だったような……そんな気がしますよ、僕にはね」
「あれは――偶然で」
 楓は、困惑して口ごもった。
 そうだ、偶然だ。
 たまたま目の前に機体があった。そこに獅堂が載っていることを認識していたわけではないし、助けようと意図したわけではない――多分。
 佐々木はかすかに苦笑した。
「……偶然なのかな、……でも、その偶然は、目に見えない糸で導かれた結果だったのかもしれませんね」
「僕は、彼女と」
 楓は、少し強い口調で言った。
「……この先、今までのようなお付き合いをするつもりはありません。僕は、彼女に相応しい男じゃない」
「獅堂さんは、そうは思っていませんよ」
 男は即座にきり返した。
「あの人はね、ああ見えて非常に頭のいい人なんだ。記者会見を拝見しました。彼女は覚悟を決めてあの席に挑んだ。これから自分が受ける処分も、扱いも、―――あなたが受けるであろう批判も非難も、あの人は全て理解していたと思いますよ」
「…………」
「あなたが世間的にどう見られているとか、……獅堂さんの立場がどうとか、そんなことは何の意味もないことです。要はそれだけの覚悟をもてるほど――空を棄てても構わないと思うほど、獅堂さんは、あなたに惚れてるってことですよ」
「…………」
 どう――何を、答えていいか判らなかった。
 彼女は俺のことを好きでいてくれるのだろうか。
 そう思える時もあるし、そうは思えない時もある。
 つかみ所のない面白い女。きっと――二度と巡り会うことはないだろう。こんなに―― 一緒にいて、楽しめる相手には。
 キーン、と、耳を劈くような音がした。
 楓は眼をすがめて空を仰いだ。
 黒い点のような飛行機が、ものすごい勢いで頭上彼方を通過していく。
「……戦闘機ですよ、ここは演習空域に向かうためのコースなんだそうです」
 佐々木の声が爆音に混じる。
 矢のような機影を見送りながら、楓は、胸が痛むような――郷愁にも似た感慨を抱いていた。
 あの機に獅堂が乗っているわけではない。けれど、この天と地の距離、これが二人の差なのだ。多分――一生かけても、永久に縮むことのない。手の届かない距離。
「あの人は、あなたが思うよりはずっと強い人です」
 ようやく静かになった空、それよりも静かな佐々木の声がした。
「君が獅堂さんのことを思いやって別れを決めたのなら、それは君の弱さでしかない。獅堂さんが覚悟を決めたことから、君は逃げようとしているだけだ」
「…………」
「人の手は、誰かを幸せにするためにあるんです……、これはね、娘が言った言葉ですが」
「…………」
「真宮君の手は、誰を幸せにするためにありますか?たった一人を幸せに出来ない君に、背負った罪を全て受け止める事が出来ますか」
「…………」



                 八


「……誰、あんた」
 そう言ってけげん気に振り返った男は、一瞬間を置いてから、あっという顔になった。
 陽射しが、見事に禿げ上がった男の禿頭に照り付けている。
 眉毛が濃くて、大きな眼を覆う睫が長い。
 年の頃は50前くらいだろうか。異相――と言っていい顔をした男だ。
 白いシャツにステテコ姿。こんなクラッシックなスタイルは、昔の本でも見なければお目にかかれない。
 誰、と聞きたいのは楓の方で、どうしてこんな奇妙な男が、獅堂の部屋の前でバケツを持って立っているのか。思わず戸惑って男の異相を見下ろしていた。
「ああ、あんた、アイちゃんのコレ、ひゃあ、近くで見ると、びっくりするくらいいい男ねぇ、アタシ、マジでドキドキしちゃった」
 アイちゃん……?
 まさか――獅堂、藍。
 獅堂のことだろうか。
「ああ、アタシ、このアパートの管理人よ、呼び方ならトシちゃんでいいから。ええと、―――あっ、今、アイちゃんいないんだけど、ええと、何か用なのかしら」
 ふいに動揺した顔になり、長い睫がばしばしと動く。男の目が、どこか気まずそうに泳いでいる。
「いや、僕は鍵を」
 ポストに投げ込むつもりで――楓は、そう言いかけて、獅堂の部屋の扉を見た。
 そして、無言のまま眉をしかめていた。
 何枚かの張り紙が目に付いた。その紙に書かれている文字も。
「…………」
「あ、ああー、これね、うん、ちょっと偏屈なおっさんが一階に住んでてねぇ。あ、大丈夫よ、アイちゃんは知らないから、あの子も可哀相な子だからねぇ、これ以上辛い思いさせたくないのよ」
 楓はようやく理解した。
 この男は、獅堂の部屋の扉を綺麗にしようとしていたのだろう。
 糊か何かでべったりと貼り付けてある和紙のような紙。何度も剥がして、綺麗に洗い流した跡がこびりついている。
「……僕がやります」
 楓は、男の手からバケツを掴みとっていた。
「やるって、あんた……そんないい服着て」
「僕がやります。ご迷惑をお掛けしました。……差しさわりがなければ、その一階の方のお名前を教えていただけますか」
「えっ、でも、」
「僕を恨んでのことなら、謝罪したいだけですから。これ以上、彼女にもあなたにも迷惑は掛けられません」
 そう言いながら、上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっていた。
 卑猥で下劣な文章。
―――こんなものまで。
 楓は胸が痛くなった。
 こんなものまで、あんたが受け止める事はないんだ、獅堂さん……。
「……男ねぇ、あんた、見直しちゃったわよ、アタシ」
 背後で、キンキンと響く声がした。
「アイちゃんの選んだ男なら間違いないと思ってたけどね。今でこそあの子、空軍のエリートだのなんだのって持ち上げられてるけど、ああ見えて結構苦労人なのよ。今まで辛い思いをしてる分、あんたが幸せにしてあげなさいよ」



                  九


 夕闇が濃かった。
 汽笛が赤い海に溶け込んでいる。
 どれだけ、こうしていただろう。
 時折、散歩中らしい老夫婦が行き交うばかりで、この寂れた港に人の気配はないようだった。
 夜空に輝く宵の明星。
 壮大な夕焼けを切り裂くように、黒い点が矢のように通過していく。
 それが、この先にある百里基地に向かって帰投中の戦闘機であることを、楓はよく知っていた。
「…………俺の、手か」
 唇の端が、まだ少しだけ痺れていた。
 それを指で拭い、楓は暮れゆく黄昏に眼をすがめた。
 手のひらには、まだ銀色の欠片が乗っていて、それは夕焼けを浴びてきらめいている。
 今日、佐々木から手渡された獅堂の部屋の鍵。
 彼なりの気遣いだったのだろうか。「渡してください、君の手から」そう言って渡された過去の断片。
 それを一度ぽん、と投げて、再び手のひらに握りこむ。
「…………」
 佐々木のことは、正直嫌な男だと思っていた。
 初見から――桜庭基地で初めて見た時から気に入らなかった。獅堂は、二言目には「あの人はいい人だ」と口にするが、「お前は人を見る目がないんだよ」そんな冷たいことを言い返していたような気がする。
 結局は、人を見る目がなかったのは自分の方だった。
 かすかな笑みが唇に浮かんだ。
 楓は立ち上がり、大きく腕を振りかぶって――銀の欠片を面前の海面に放り投げた。
 それはすぐに紅の空に吸い込まれ、ひとすじの光となって、きらめく水面に消えていった。


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