四
・
・
―――雲が多いな。
眼下を覆い尽くす白い塊。
獅堂はヘルメット越しに届く眩しさに目をすがめながらそう思った。
雲は、地上から見れば美しい。空にいても美しい。しかし、フライト中、その中に紛れてしまえば、平衡感覚を掴むのが難しくなる。
この雲の多さは危険だな。
ブリーフィングで教えられた演習空域の天候は、気象予報士の予測では最適なものだったが、どうも予想に反して崩れ初めているような気がする。
タワーに演習空域の変更を申し出た方がいいかもしれない。
獅堂は背後を振り返った。
背後上方、約1000フィート上空から追って来る戦闘訓練機――吉村編成隊ブラックシープ一号機と北條の二号機は、すでにゆるやかな左旋回と共に下降しており、有効射程に近づきつつある。
「ヨシさん、演習空域を変更した方がよくないですか」
同じチャンネルを開いている背後の吉村に向かって、獅堂は念のため聞いてみた。
微かな雑音が返ってくる。
「……?」
不信に思いつつ、再度同じ呼びかけを繰り返してみた。
すると、ノイズと共に、ようやく吉村の声が入ってきた。
「ヨシさん、何かありましたか」
<―――いや、何もない。>
「……演習空域のことっすけど」
<―――このままいく、雲は厚いが密度は薄い、問題、>
声が途切れる。それと同時にドンッという、何か重いものが弾けるような音がした。
黒い予感を感じ、獅堂は即座に振り返った。
そして、はっと息を引いた。
吉村の一番機が大きく機首を落としている。そのまま、雲に向かって降下しはじめている。
「ヨッさん、どうした、ヨシ!」
緊急時には、敬語も敬称もへったくれもない。
その問い掛けに応じているのか、くぐもった声がスピーカー越しに届く。
でも、何を言っているのか聞きされない。
<―――ブラック・1、フレームアウト!>
その時、はっきりとした声が響いた。
吉村のものではない。彼の傍を水平飛行していたブラック・2番機、北條の声だ。
フレームアウト。―――エンジン停止。
そうか。
獅堂は即座にこの状況を理解した。
ブラック・1――つまり吉村機がエンジン停止状態に陥ったのだ。
「北條、お前はそのまま帰投しろ、後は自分たちがなんとかする」
<―――俺がヨッさんにくっついていきます、上手くいけばバッテリーの節約になる>
獅堂の声をさえぎるように、冷静な北條の声が続いた。
<―――馬鹿野郎、ぺえぺえが何言ってる、危ないからひっこんでろ!>
レッド2番機から大和の怒声が響く。
「北條、お前は帰投しろ、ヨシさんには自分がつく」
獅堂も叫んだ。
stay with leader。
この場合、隊長機について行くと決めた北條の判断は正しいとも言える。
エンジンの停止した機体はバッテリーでかろうじて飛行しているのだ。それが持つ間に再度エンジンを空中始動させるか、ゆるやかに降下してベイル・アウトするしかない。
平行感覚が判らなくなる雲中のフライトでは、姿勢指示器その他の電子機器を稼動させておく必要があるが、それは著しくバッテリーを消費する。
北條は、自分が編隊を組んで姿勢指示器の代わりになろうとしているのだ。
しかし、
「北條、帰投しろっ、それは自分の仕事だっ」
獅堂は機体を急減速させながら再度叫んだ。
が、返事がまるでないまま、北條の機体は、みるみる内に高度を下げ、頭を下げた状態で雲の間につっこんでいく。
「――――あの莫迦」
獅堂は舌打ちして、自機を左旋回に入れた。
原因は判らない、が、吉村の乗る一番機は空中でエンジン停止してしまった。つまりフューチャーが停止してしまったのだ。
エンジンが停止すれば、コクピット内の気圧が保てなくなる。つまり急激な減圧が生じ、外気圧と同じ状態になる。どんっというのは、おそらく減圧時のショック音だったに違いない。
――――この高度だ、おそらくコクピット内は冷凍庫並に凍りついてるな。
獅堂は眉宇を寄せた。
減圧の効果で酸素マスクが持ち上がるから、マスクについているマイクも声を拾いにくくなる。だから吉村の声が届かなくなったのだろう。そして、―――多分、白く凍ったキャノピーでは、視界も著しく制限されているに違いない。
―――バッテリーってどのくらい持ったかな。
獅堂は、忙しなく思考をめぐらせながら、ヘッドアップディスプレイで、吉村機の位置を捕捉。パワーを全開にしてブラックシープ二機が消えた雲間に機体を沈ませた。
多分、フューチャー機のバッテリーはそうは持たない。これが唯一の欠点とも言われる所以だが、とにかくフャーチャー搭載機は電源を食うのだ。従来機の比較にならないほどに。
この高度で切れれば最後、待っているのは間違いなく墜落だ。
―――吉村さんなら大丈夫だ。
再度、ヘッドアップディスプレイで確認する。二機との距離は一千フィート以上に開いている。
ただし、ディスプレイのみでは、音速で移動する戦闘機の、細かい位置までは捕らえきれない。
だからこの距離では、目視が何より重要になる。目を凝らし、薄い雲の向こうに見える機体を必死で追いかける。
<―――獅堂さん!>
大和の声がスピーカーから響く。
「大和、お前は帰投しろ、この狭い空域で、機体同士がぶつかったらシャレにならない」
―――吉村さんなら大丈夫。
下降していく尾翼を必死で追いながら、獅堂は再度自分に言い聞かせた。
バッテリーで飛んでいるのだから、当然速度は極端に落ちている。落ちた速度で推力を維持するためには、頭を下げて、降角度で下降していくしかない。
だから吉村は機首を下げ、雲の間に沈んだのだ。
この状況で、吉村は忠実にマニュアルを護っている。さすがだな、と思っていた。普通ならパニックになってもおかしくない場面である。
<―――獅堂、こちらブラック・1。聞こえているか。>
ふいに、吉村の声がスピーカーから流れ出した。
「ヨッさん、大丈夫っすか」
ヘルメットのマイクを捨てて、無線機を使っているのだろう。すこし聞き取りにくいが、普段通りの冷静な口調である。
<―――自分は大丈夫だ、このまま180ノットで降下し、雲を抜けたら空中始動する。それよりも北條がおかしい。>
「―――え?」
吉村機に気を取られすぎていた獅堂は、はっとして視線を下げた。
厚い雲に覆われ、北條の機体はどこにも見えない。
<―――呼びかけにも応じないし、自分を追い抜いて、どんどん高度を下げている。もしかして、バーディゴーに入っているのかもしれない。>
バーディゴー。
空間失調症。
飛んでいる間に、方向感覚を失う症状をいい、視界の悪い空ではよく起こる現象である。
前後左右どこを見ても同じ景色が続くと、視覚的、感覚的な錯覚に陥ってしまうのだ。
下降しているつもりで上昇している。
上昇しているつもりで下降している。
計器をチェックすれば一目で異変に気づくのだが、雲の中で、おそらく必死になって吉村機を探している北條には――計器を見る暇がないのだろう。
目視を誤って機体同士が激突すれば、取り返しのつかない惨事になるからだ。
「北條の通信機は故障っすか」
獅堂は自分も高度を下げながら忙しなく聞いた。
<―――いや、正常なはずだ、しかし、こちらの声が届いていないのかもしれない。何度も計器チェックしろと呼びかけているんだが、応答がない>
その声に焦燥が滲んでいる。
これはただごとではないな、と獅堂にも即座に理解できた。
「判りました、自分が行きます。ヨッさん、It success」
獅堂はパワーを全開にして高度を下げた。どんどん下げる。厚い雲はとうに切れ、薄雲が霧のように視界を遮っている。
遥か下方に機体の影が見えた。ヘッドアップディスプレイで捕捉した位置を確認する。
間違いなく北條のブラック2番機で、ここで捕らえられたのは幸運以外のなにものでもなかった。
確かに尋常ではない速度で下降している。
獅堂は高度計に素早く目をやった。
すでに、下降していい高度ではない。
この速度で、この降下角で下降を続ければ、間違いなく地上に激突する。機体を急上昇に転じることさえ不可能になる。
間違いない。北條本人は水平飛行か、もしくは上昇しているつもりなのだ。そのつもりで下降している、だから、ものすごいスピードで地上めがけてパワーを全開にしているに違いない。
「北條、計器チェック、高度を確認しろ!」
叫ぶ。返ってくる声はない。
仕方ない。
危険を覚悟で、獅堂はフューチャーのパワーをフルスロットルに切り替えた。
追いついて、手信号で合図するしかない。
この距離と速度では、追いついた直後に、機体を緊急回復操作で急上昇させる必要がある。そうしなければ、物理的に上昇できなくなるからだ。高度を回復できないまま、地上――正確には海上に激突するだろう。
ゴウッ、バチバチ……と、火花が飛び散るような音がした。
限界に近い加速。
<―――獅堂、危険だ、それ以上は無理だ!>
吉村の声がスピーカーで弾けている。
<―――馬鹿野郎、お前が死ぬぞ!引き上げろ、獅堂!>
それに答える余裕は、もとよりない。
ぐぐっと酸素マスクが待ちあがる。締め上げるGで、思わず奥歯を噛み締める。
高度四千フィート。
ようやく北條の左翼に追いついた。
ぎりぎりの高度と速度。パワーをアイドルに切り替え、ブレーキを引く。
キャノピー越しに北條を見る。
北條のヘルメットがこちらを向いているのが判る。多分、この視界の悪さでいきなり隣に滑り込んできた獅堂に戸惑っている。
「計器チェック」
獅堂は手で計器類を示し、指を下に向けた。下降しているぞ、という合図である。
そしてさらに自分を指で指し示した。
―――従え。
今は自分がお前のリーダーだ。
ついて来い。
高度が四千を割る。
ここで戻らなければ、フルスロットルにしている分だけ、獅堂の機体の方が姿勢回復困難になる。
「行け――!」
もはや、北條の反応を確認することはできなかった。
最大のGをかけて、機体を引き上げる。
びりびりと全身が震える。奥歯を噛んでも歯の根が合わない。体だけではない、機体ごと震えている。限界に近いGなのだ。
「く……っ……」
信じるしかない。
この機体の性能を――嵐の開発したフューチャーの底力を。従来機よりは強力なGに耐えられるはずだし、急激な機体上昇も可能なはずだ。
手袋に覆われた手指がしびれている。汗が冷たく首筋を濡らし、胃の腑がねじれそうな――獰猛な吐き気と首の痛み。
気が遠くなりかけていた。
目がかすむ。視野狭窄を起こしかけている。
やばいな――と思った。
機体は耐えられても、中の人間が耐えられるかどうかまでは計算していなかった。
最悪――自動操縦で、誘導してもらって――。
雲が切れる。
―――終わった!
まだ意識はしっかりしていた。
震える指で水平飛行に切り替える。Gの圧力が抜けていく。
「北條――」
初めて背後を振り返った。
これで通じなかったら、もはや北條はパイロット不適格としか言いようがない。
が、獅堂の背後に、若干の高度差を持って北條のブラック2番機が水平飛行しているのが見えた。
ほっとしたのも束の間、その両翼が変形しているのを見て、すぅっと冷たいものが脳裏をよぎる。
頑強な機体でさえ、Gの負荷に耐えられなかったのだ。
北條の機体があれだけ損傷しているなら、自分の機体は、さらにひどい状態なのに違いない。
―――こりゃぁ……後藤田さんに叱られるな。
この修繕に費やされる費用は、おそらく請求されても支払いきれるものではない。
が、とにもかくにも生還した。
間違いなく死の一歩手前だった。
「やったな」
北條機に向かい、獅堂は親指を立てて見せた。
返ってくるサインはない。
が、北條機はぴったりと獅堂の尾翼に寄り添ったまま、離れなかった。
それは彼が、獅堂をリーダーと認めていることを意味していた。
・
・
五
・
・
「馬鹿者!!」
宵の明星が輝く滑走路で、獅堂は首をすくめたまま、出迎えた後藤田の叱責を浴びていた。
隣には、同じく帰還したばかりの吉村三佐が直立不動で立っている。
北條は帰投してすぐに医務室に運ばれた。
両鼓膜損傷―――つまり、鼓膜が破けていたのである。
何時の時点でそうなったのかは知らないが、だから北條は、通信機の声を聞き取ることができなかったのだ。
「新人の健康管理もできない隊長などやめてしまえ!戦闘機に新人パイロットの育成、一体そこに、いくらの血税が費やされていると思っている、貴様らは、それを全て無駄にするところだったんだぞ」
後藤田は蒼白い顔を真っ赤にして怒っている。
北條は中耳炎を起こしていたのだ。
風邪が治ったばかりだったらしい。本人は完治したつもりでいても、耳に異常が残っていたのだろう。
「……本人に聞き取りましたが、風邪のことは一言も言いませんでしたので」
吉村が苦しげにそう答える。
「虚偽報告があったということか、では北條はパイロット失格だな」
後藤田が鋭くそれに突っ込んだ。
「上官の命令に従わなかったばかりか、自力でバーディゴーに気づくことさえできなかった。北條の処遇は方面隊長殿とも相談して決める。お前らもただではすまないぞ」
そのまま背を向けようとする後藤田に、獅堂は思わず声を掛けていた。
「あ、……すいません、自分は聞いていました」
後藤田が不審気に足を止める。
「自分は、北條から体調の異変を聞き取っていました。その上で、フライト可能だと判断しました」
嘘ではない。
獅堂は悔やむような思いで、あの時のことを思い出す。
確かに北條の異変に気づきながら、強く言い切ることができなかった。あの時点で吉村なり後藤田なりに報告していれば、今日の演習は中止になっていたはずだ。
「北條は、あの状況で、リーダー機を補佐する選択をしました。耳の痛みは相当強烈だったはずです。確かに判断ミスではありますが、パイロットの精神には沿っています」
「……stay with leaderか」
「はいっ、結果オーライです。リーダー機がフレームアウトして、自分は耳が聞こえない。その状況で北條のように冷静に振舞えるかどうか、―――自分には自信がありません」
「馬鹿者!!」
再び後藤田の雷が落ちる。
獅堂は肩をすくめてそれを受けた。
「それは冷静な判断とは言わん、獅堂、お前は事故の報告書を書け、今日はそれが出来るまで帰るなよ。処分は追って申し渡す」
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・
六
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・
「……獅堂さん、」
ブリーフィングルームを出た時だった。
背後から、吉村の追いすがる気配がする。
獅堂は足を止めて振り返った。
どうせ深夜まで帰れない、このまま基地の食堂に行って、遅い夕食を取るつもりだった。
「今日は、ごくろうさまです。獅堂さんのおかげで北條は一命を取りとめた」
吉村は真摯な口調で言った。
「……まぁ、自分の判断ミスから起きたことですから」
そんなに真剣に言われても困る。獅堂は髪に指を射し込んだ。
「ミス……ですか」
吉村の口元に、あるかなきかの笑みが浮かんだ気がした。
が、それは一瞬で、すぐに男は真剣な目色を取り戻す。
「それは嘘です。いや、北條の上官の私には判ります。北條はあなたに、素直に報告などしないでしょう」
ほとんど同じ目線から、吉村の細い目がじっと見つめている。
獅堂はきっぱりと言い切った。
「嘘ではないです。自分は、北條の声が少しかすれているのに気づいていた。それは報告を受けたも同然です」
「…………」
吉村の目が、さらに細くなる。
どうして、こんな怖い目で見られるのか――獅堂はさすがに居心地が悪くなって視線を下げた。
「とにかく今日のことは、自分のミスです。北條には悪いことをした。まぁ、あいつにも、反省するとこはしてもらわなきゃ困りますが」
じゃあ――そう言って背を向けかけた時、背後で低い声がした。
「どうして庇うんです」
「……は?」
その暗い声が、一瞬吉村のものとは思えなかった。
「どうして、北條を、……いや、私を庇うんです。獅堂さん、あなたは知っているはずだ。あなたの情報をマスコミにリークしたのは」
「吉村さん」
その言葉の続きを、獅堂は強い口調で遮った。
「自分は、先輩パイロットとして、吉村さんを尊敬しています」
「…………」
「……ベテランの方が、フューチャーに対応できずに次々とリタイアされている。……自分は、こういう立場ですが、基本的には旧型機が好きです。イーグルやミグや……あのジェットエンジンの、オイルの匂いがたまらない」
廊下の照明は暗く、吉村の表情はよく見えなかった。
「旧型の良さを知っている仲間は、一人でも失いたくない。同じ空の、好きなものを共感できる仲間ですから」
吉村は答えない。
獅堂は軽く息を吐いて、敬礼した。
「今日の空中始動は見事でした。突然のエンジン停止にもかかわらず、冷静な判断で、北條のゴーディバーを見抜かれた。北條を救ったのは自分ではない、吉村三佐です」
失礼します。
そう言って獅堂は背を向けた。
どうせ、失うものは何もない。
最悪、パイロット不適格者の烙印を押される可能性のある北條に比べれば、せいぜい減級か減俸か、もしくは謹慎で済むだろう。
庇った――という意識はなかったが、実のところ、借りを返したい、という意図はあった。
まぁ、その借りが何なのか、北條本人は気づいていないだろうが。