二


―――眠い……。
 部屋にたどり着いた時には、すでに午後10時を回っていた。
 結局取り逃がした国籍不明機は、旋回を繰り返しながら、日本上空に七時間近く居座っていた。
 そうなればもう、持久戦というか、にらめっこのようなもので、攻撃を仕掛けられない以上、燃料と体力の続く限り、交代しながらスクランブルを続けるしかない。
 フューチャーの燃料は基本的には半永久的に持つ――らしい。
 ただし、スクランブルにつくパイロットの精神力が持続できるぎりぎりが、三時間程度と言われている。よって内規により、三時間交代が義務付けられているのである。
 最初のスクランブルは内規通り三時間で交代となり、いったん基地に引き返した獅堂は、そのまま三十分待機組に回され、そして二度目のスクランブルが午後五時に命じられた。
 戻った時はへとへとだった。
 が、それで終わるわけではない。
 ブリーフィングルームで、延々と反省会が続き、ようやく開放されたのが午後9時過ぎ。
 明日は休みだ。それだけが救いだよ――そう思いながら、死んだようにベッドに倒れこむ。
 が、一日休んだ後、その翌日には演習が控えている。
 実はそっちの方が、スクランブルよりもやっかいで――、相手は、今となっては国籍不明機より扱いが面倒な、同僚パイロットなのである。
 はぁ、誠に難しいのは人間関係ってやつかなぁ……。
 獅堂はうとうとしながらそう思った。
 あ、そっか……携帯、充電しとかなきゃ……。
 真宮から電話……あるわけ、ないか。
(――――獅堂さん!)
 記者会見の席で、怒ったような声を聞いたのが最後だった。
 自分はあの時、楓の顔を見ることができなかった。楓は――どう、思ったのだろう。
「…………」
 仰向けになったまま、獅堂は自分の目に手を当てた。
 何一つ連絡がないということ、多分、それが――。
 部屋の扉がノックされたのは、その時だった。
 眠気も吹っ飛んで、がば、と跳ね起きる。ありえないことだけど――こんな時間に尋ねてきてくれるのは。もしかして。
「悪いわねぇ、こんな時間に」
 違った…………。
 予想もしなかった禿頭。白いシャツに年代物のステテコ姿。
 このアパートの管理人のオヤジ――本名、相葉俊彦、トシちゃんという愛称で通っている男である。
「いや、なかなかあんた、掴まらないでしょ、アタシもこんな時間に、ほら、あんたと噂になっちゃまずいとは思ったんだけど」
「…………はぁ」 
 なるか!
 と思ったが、獅堂はがっくりして肩を落とした。
 甲高いキンキン声。少しオカマチックな男である。年齢は不詳だが、本人は相当若い気でいるらしく、二言目には、「あんたと噂になっちゃ困るから」などと真剣な目で言う。
 獅堂とは、古くからのつきあいで、偶然百里で再会したものの、元を正せば子ども時代からの知り合いだった。そういう縁もあって、このアパートを安く貸してもらえることになったのだが……。
 そのトシちゃんが、今日は少し困ったような目をしていた。
「いやね、実のところ、住人から苦情来ててねぇ……ホラ、一号室の桑田さん、こないだ引っ越して来た人だけど、なんでも親戚が海軍の人で、あの戦争で死んじゃったんだって」
「……それは、お気の毒でした」
 獅堂はさすがに姿勢を正した。
 海軍というのは、他国の名称で、日本では海自という。おそらく、海上自衛隊のことだろう。先の台湾有事で、自衛隊で唯一戦死者を出した部隊である。後方支援とは言え台湾海峡まで入り込んで米国艦隊を支援した。それを中国の航空部隊に叩かれたのだ。
 現場指揮官の判断ミスとも通信ミスとも言われた被弾戦艦の航路は、明らかに戦闘海域に踏み込んでおり――中国にしてみれば当然の反撃であり、致し方ないことだった。
 今となっては、誰も責める事などできない不幸な事故でもある。 
「それでさ、あんたの恋人……こないだテレビに映ってたけど、ほら、例の……ねぇ、なんとかカエデ君。色々恨み買ってる子でしょ。ああいう人間と付き合うような人が自衛隊にいるのかって、こないだうちに怒鳴り込んできちゃってさ」
「…………」
「ま、アタシはいいんだけど、桑田さんって偏屈な親父なのよ、ちょっとヤクザじみてるし、あんたに直接なんか言ってきたら、……あんたも一応女なんだし、気をつけた方がいいと思って」
「……それは、すいませんでした」
「今みたいに、無防備にドアなんかあけちゃダメよ、あんたは女の子なんだからね」
「…………はぁ」
 それはそうだ。
 獅堂は少し躊躇してから、背を向けかけたトシちゃんに声をかけた。
「あの、もしかして、苦情は他からも来ているんですか」
「んー……まぁ、ちょこちょこねー」
 そう言って、トシちゃんは肩をすくめた。
「とんだ有名人彼氏にしちゃったねぇ、あんたも。ま、あんたが自衛隊っつーのも問題だとは思うんだけど、立場的にどうよって感じじゃない」
「…………」
「さっさと隊をやめて、その人と結婚でもしちゃいなさいよ。あんたが民間人になれば、非難の声もなくなるんじゃないの」
 そうっすね。
 力なくそう答え、獅堂は扉を閉めなおした。
 自分が、楓とのことで重荷を背負わされているとは思ったことはない。
 でも―――。
 むしろ自分の方が、楓の重荷なのかもしれない。
 獅堂は唇を軽く噛んだ。
 倒れたいほど疲労していたはずなのに、もう、少しも眠くはなかった。



                   三


「獅堂一尉」
 名前を呼ばれ、獅堂ははっとして我に返った。
「どうしたんです、ブリーフィング中ですよ」
 珍しく非難めいた声でそう言ったのは、獅堂に代わって第101飛行隊長の任についた吉村三佐だった。
 第505飛行部隊飛行隊長と兼務である。
「……すいません」
 獅堂は即座に謝って姿勢を正した。
―――まずいな。
 と、思っていた。確かに心ここにあらずだった。今日の演習は、新人パイロットのための射撃訓練で、ある意味どんなアクシデントが伴うか判らない危険をはらんでいる。
 事前のブリーフィングからして、気を抜く事は許されない。
 ごぼん、と同席していた後藤田航空団長が咳払いをする。苦い目で獅堂を見下ろすこの男は、あの事件以来明らかに一線を引いて、一階級減になった部下と接している。
 長机を二つ並べた協議机で、対面に座るのは、今日の演習の主役でもある新人――といってもあくまでフューチャー機の新人であるのだが、北條累だった。
 椅子に腰掛けてもなお大柄な北條は、鼻で笑うようにして、獅堂を見下ろしている。
「どうしたんすか、夕べ、まさか彼とけんかでもしたんじゃ……」
 隣に座っていた大和が、囁くように声をかけてくれる。
「莫迦、そんなんじゃない」
 気を紛らわせるために言ってくれた言葉だろうが、獅堂は笑うことができなかった。
 今朝、部屋を出る時に気がついた。
 部屋の扉に張り紙がしてあったのだ。いつの間にこんなものが貼り付けられたのだろう、獅堂はびっくりして――その内容を目にして凍りついていた。
 血税を無駄に使う非国民は日本を出ていけ。
 反日分子と乳繰り合う淫乱女。
 眉をひそめたまま、それを剥がそうとして気がついた。
 塗料のはげかけた扉には、もう――何度も何かを貼り付けて、それを剥がしたような跡がこびりついている。
 トシちゃんだ。
 すぐに判った。こんな張り紙は、多分これが初めてではないのだろう。自分が気づかない内に――トシちゃんが剥がしておいてくれたのだ。
 一昨日も、あんな時間まで起きてくれていて、そしてわざわざ忠告に来てくれたのに――。
 たまらなくなった。自分のことで、こんなにも誰かに迷惑を掛けている。
 それがどうしようもなく、申し訳なかった。
―――あそこ、出て行くかな。
 獅堂はぼんやりと考えた。
 官舎に入ればいいのだ。ただこれも――官舎暮らしをあえて避けている理由なのだが、官舎というのは、隊内の人間関係がそのまま凝縮されたようなもので、どうしても気が抜けないところがある。
 昔、一度官舎に入ったものの、そこで同室の女性に、隊内の者と不倫している――と、言いふらされて、面倒になって一人暮らしを始めた経緯もある。
「今日の相手は、吉村三佐かぁ、燃えますねぇ、徹底的にトラップかけて、翻弄しちゃいましょうか」
 ブリーフィングルームを出ると、そう言って大和がガッツポーズをしてみせた。
 今日行われるのは、二機編隊対二機編隊の要撃戦闘訓練。
 吉村と北條が戦闘機編隊で、獅堂と大和がターゲット機編隊だった。
「莫迦、今日は新人がいるんだ、一番ぬるいパターンでいくからな」
 獅堂はそっけなくそう言った。
「新人って、あのクソ生意気な北條って奴のことでしょう?」
 普段あまり人のことを悪く言わない大和が、珍しく嫌な顔になった。
「あいつ、頭っから獅堂さんのこと莫迦にしてますよ、つか、舐めきってます。ここらで実力を見せてやらなきゃ、ダメっすよ」
「……今日の主役はその北條なんだ、自分じゃない」
 一緒に飛ぶのが吉村、というのも多少の気がかりではあった。
 フャーチャーで飛行訓練をする時、新人と組む編隊長はいつも獅堂が勤めることになっていた。
 こういう状況で、人手も足りないからやむをえないのだろうが、―――吉村さんで大丈夫かな、という危惧もわずかにある。
 確かにイーグルやファントム、ミグなどの従来機では、そのフライト時間は獅堂など遠く及ばないベテランパイロットだが、ことフューチャーとなると、経験者の自分の目から見て、一抹の不安がないともいえない。
 が、すでに獅堂にとって上官となった吉村に対し、口が裂けてもそんな忠言をすることはできなかった。
 大和が、手洗いに行くために脇に逸れたので、獅堂が一人で歩いていると、背後から――どこか挑発的な北條の声がした。
「どうしたんすか、恋人とセックスしすぎて、疲れたって腰してますけど」
「…………」
 溜息と共にかすめた怒りを吐き出して、獅堂は振り向かずに歩き続けた。
 どうして男は――こんなくだらない話題を基地内に持ち込むのだろう。もういい加減にして欲しい。
「それとも、今のお相手は大和さんっすか、もう基地中の噂ですよ。昔の部下とあんたがやりまくってるって」
「…………」
 それも、漠然とではあるが聞いてはいた。
 大和の性格からして、気にせずにやりすごしているのだろうが、家族は面白くないだろう。基地の噂は、即日官舎にいる家族たちにも伝わってくる。官舎には大和の奥さんがいて――獅堂は面識がないが、不愉快な思いをしていることは予想できる。
 官舎に入りたくない理由のひとつには、それがあるからだ。
 さすがに、反論しようとして――ふと、足を止めていた。
「……北條、お前、少し声がおかしくないか」
「は?」
 同じように足を止めた北條は、妙な顔をして眉を上げた。
「風邪気味なんじゃないのか、あれやってみろ、バルサバル」
「…………」
「やれ、こいつは命令だ」
 北條はあきらかにむっとしたまま、片手で自分の鼻をつまみ、ぐっとその眉宇に力をこめた。
 バルサバル法とは、鼻をつまんで空気を耳から抜く方法である。
 抜ければOK、抜けなければフライトは中止になる。
 獅堂には医学的な理由までよく判らないが、鼻が詰まったり耳が詰まったりすると、戦闘機で激しい上下を繰り返すたびに、鼓膜が圧力で張り出して、それが痛みとなって知覚される。まともな精神状態でフライトできないのはもちろん、ひどくなると鼓膜を痛めてしまうこともある。
「抜けますよ、問題ないです」
 すぐに鼻から手を離し、北條は面倒そうに口を開いた。
 そうだろうか。一抹の不安を消しきれず、獅堂はさらに言い募った。
「熱はどうなんだ、便の調子はどうだった」
「べ、……な、何いってんすか、あんた」
 初めて男は、動揺を露わにして口調を荒げた。
「あきれたな、それでも女かよ。普通聞かないっしょ、そんなことまで」
「男とか女とか、今それが何か関係あることなのか」
 獅堂も眉根を寄せていた。
 北條は、明らかにむっとした顔になる。
「自分の健康状態なら、きちんと吉村編隊長に報告してますから」
 そう言うと、男はおおげさに肩をそびやかした。
「しっかりケツ振って逃げてくださいよ、獅堂さん、俺がばっちりヒットさせてやりますから」
 大きな背中が廊下の向こうに消えていく。
 獅堂は溜息をついて額にこぼれる髪を払った。
―――さっさと隊をやめて、その人と結婚でもしちゃいなさいよ。あんたが民間人になれば、非難の声もなくなるんじゃないの。
 よく結婚に逃げる女――――というのを聞いたことがあるが、今の自分がひょっとしてそうなのかな、とも思っていた。
 自分はなんのためにここにいるのか、その刹那、獅堂には判らなくなっていた。


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