―――こいつ、返さなきゃな……
 手元で、所在無くノートをめくり、真宮楓は、重い溜息をついた。
 A4版の大学ノート。見るからに使い込まれ、殆んどのページが埋まっている。
 嵐が、獅堂の部屋に置き忘れていたものだ。それをおせっかいにも獅堂が自分に投げて寄越した。
「……ばーか、気づけよ、なくした場所くらい」
 こんなものを見れば、否が応でも思い出す。
 滑稽で懐かしい弟の筆跡。
 多分、誰にも理解できないだろう。これは――あいつの癖字で、一種の速記―――字というよりは記号に近い文字なのだ。
 色んな数式が並んでいる。大学の講義をメモしたものだろう。時々意味をなさない落書きがしてある。どうせ、講義中、別の論文のことを考えていたに違いない。
―――嵐……。
 ベッドに仰向けに倒れ、目を閉じる。
 嵐は――間違いなく、先月来からの騒ぎを知っているはずだし、記者会見だって見たはずだ。
―――お前は、どう思った。そして何を考えてるんだ。
 俺は嵐の大学を知っているし、嵐も、俺の職場を知っている――。
 なのに互いに、連絡さえ取っていない。
 きっと、嵐の身辺にもなんらかの影響があったに違いない。大学に記者が押しかけた可能性もあるだろうし――、それを思うと、たまらない気持ちになる。
「…………」
 郵送で送るか。
 大学当てに。
 あれこれ思い悩むのをやめて、楓は重たい体を起こした。
 こんなものを、いつまでも手元に置いておきたくない。それだけは確かだ。
 ベッドサイドテーブルに伏せて置いたそれを、再度手に取ってみた。ぱらり、とページが無作為に広がる。
「――――……?」
 楓は手を止めていた。
 最後のページ、まるで走り書きでもするように、人名がそこに記されている。
 喜屋武涼二
「……キャン……」
 東京ではめったにない名前だが、楓の生まれ故郷ではよくある名前。というより、楓にとっては、忘れたくても忘れられない名前だった。
「……涼二……?」
 下の名前には覚えがない。でも、どこかで聞いた名前だ……どこだったろう。
 その下に、英語で小さく何か記されている。
 楓は眼をすがめ、その意味する言葉を呟いた。
Human beings' hope
「……人類の、希望……?」
                                         

                                         ・

                  一
                                        
                                         ・


「そんなことも知らないんですか、獅堂さん」
 異動してきたばかりの中堅パイロット、大和閃は、そう言うと露骨にあきれた顔になった。
「しょうがないだろ、新聞とってないんだよ、うちは」
「でも、俺らのトップが代わったってのに……」
「へぇ」
 そう呟きながら、獅堂は手元のコーヒーカップを唇に当てた。
 壁に備えつけられた時計をちらりと見る。あと五分で待機時間は終わる。このまま何もなければ、ホットスクランブルにいたらないまま、午前のアラート待機任務は完了する。
 獅堂は鼻をつまみ、耳から空気が抜けるがどうか、再度試してみた。
 うん、大丈夫だろう。
 少し風邪気味のような気もしたが、結局は気のせいだった。先月以来、なんやかんやと忙しかったし、少し精神的に疲れた、というのもあったのかもしれない。
 午前10時少し前。
 スクランブル用の戦闘機が待機してある滑走路脇。そこに設けられたアラートハンガーで、獅堂と、そして大和は、五分待機任務についていた。
 少し離れたテーブルには、三十分待機組の二人が、早朝から二度目の待機らしく、腕を組んでうとうとと居眠りをしかけている。
 二機一組で発進するスクランブル任務。
 航空自衛隊各方面航空師団では、日本領空ぎりぎりの空域に、不明機が迷い込んできた場合、即座に戦闘機をスクランブル発進させることになっている。
 五分待機組とは、ベルが鳴って五分以内に戦闘機を発進させる組を言い――無論、そのためには、パイロットは常に滑走路脇に待機していなければならない。
 この待機は24時間休みなく続けられ、3時間置きに交代する。ベルが鳴らなければただ待つだけでその日が終わるが、最悪の日となると、ぶっつづけで三回も空に出なければならない時もある。
 新人なら、この待機時間は緊張しっぱなしで、水も口に出来ないらしいが、獅堂や大和のようなベテランになると、物も食えるし、ジョークも交わせる。
「見てくださいよ、新しい長官。京大理工学部卒の超エリートらしいですよ。飛び級で大学卒業後、アメリカのミネソタ大学理工学部の助教授として10年勤務。帰国後父の地盤を継いで――ほらほら、この写真、政治家よりは、俳優って感じかな、なかなかかっこいい人ですよ、ホラ」
 そう言って大和が目の前に差し出した新聞。
                                        
防衛庁トップ、電撃交代・汚職疑惑の元長官、失意の辞任。                            
 まず飛び込んできたのは、でかでかと書きたてられた黒地に白抜きの文字だった。
「はぁ……世間は色々大変なんだなぁ」
 大見出しを見て、獅堂は思わず呟いていた。
「…………獅堂さん、世間じゃなくて身内、これは身内の話」
 大和は、さらに呆れたような声で言う。
 獅堂は小見出しを目で追った。
新長官に、新鋭・青桐要氏、五十歳。
異例の長官交代劇の裏側にあるものとは。

「裏に何かあるのか」
「ないない、あおってあるだけです。この青桐って人は、単にクリーンだったから選ばれただけみたいですよ」
 ホラ、今回の収賄疑惑で、えらい人が軒並みマスコミに氏名を公表されちゃってるから。
 大和は興奮気味にそう言い添えた。
 実際、興奮しているのはこの後輩パイロットだけではない。先月の終わり、突然のスクープ記事から始まった防衛庁幹部収賄疑惑は、たった二週間でトップ以下主要幹部の交代劇にまでドラマティックな展開を見せ始めている。基地全体に、どこか浮き足だったムードが漂っているのは当然と言えば当然だった。
「ふぅん……」
 が、獅堂にとっては、そんなことはどうでもよく、目下の気がかりは他にあった。
 が、その興味なさげな反応にも係わらず、大和はますます興奮気味に言い立てる。
「しかもそれが、内部リークが発端ときてますからねぇ。上も犯人探しに必死こいてるって話ですよ」
 内部リーク。
 嫌な気持ちがして、獅堂は眉をひそめていた。
「でも、獅堂さんにとっては、ラッキーでしたよね、はは、まさか、獅堂さんのスキャンダル潰しにタイミングを合わせてリークしたわけじゃないだろうけど」
「…………」
 それは大和の言う通りで、その意味では獅堂もこの件に無関係ではなかった。
 実際この騒動のおかげで、先月自分の周辺を賑わせた醜聞は煙のように霧散してしまったのだから、ありがたいタイミングで内部告発があったとしか言いようがない。
「今度事務次官になられた阿蘇さん、彼が実質、防衛庁の全てをしきってますでしょ、今回の騒動で一番得したって言われてますし、この青桐長官」
「…………」
「彼も結局は阿蘇さんのご推薦があったらしくて、……結局政治家なんて、官僚の思うままに動いてナンボ、みたいな人が出世していくんですかねぇ」
 獅堂は無言で、大和の指差す写真に目を移した。
 白黒の写真。
 綺麗な顔をした男だった。端正な面立ちで、雰囲気は柔和。それでいて知的な感じがする。確かにイメージアップにはもってこいの、主婦受けしそうな顔立ちだ。
「獅堂さんの好みじゃないですか?まぁ、あんな超美形の恋人がいるんじゃなー」
「……お前さ、さんとかはやめてくれよ、もう自分は飛行隊長でもなんでもないのに」
「いいえ」
 大和は、ふいに背筋を伸ばして敬礼した。
「自分にとっては獅堂さんは、いつまでたっても目標ですから。スティ、ウィズ、リーダー。空の果てまでだってついていきますよ」
「……ま、どうでもいいけどさ」
 さすがに少し照れくさくなり、獅堂はそのまま視線を逸らした。
 大和閃は、二年前、獅堂がこの基地に赴任して、最初に受け持ったフューチャー訓練生の一人だった。
 訓練課程で獅堂がマンツーマンで指導した一人でもある。年は同じだが、防大時代に学生結婚しており、おかっぱ頭の童顔のくせにすでに二人の子持ちだったりする。
 そして先月、獅堂の階級が減になり、二週間の謹慎処分が下されたと同時に――大和は、彼が所属していた小松基地から急遽百里基地に呼び戻されたのである。
 復職した獅堂は、すでに飛行隊長の職から外されていた。
 大和と臨時的にコンビを組み、こうして二〜三日に一度アラート待機任務につく。他の飛行隊の射撃訓練の囮飛行をする。それだけが獅堂の職務であり、大和はその補佐をするためだけに呼び戻されたのだ。
「……なんか、わりーな、自分と仲が良かったばかりに、へんなことに巻き込んじゃってさ」
 ちらっと時計を見ながら、獅堂は呟いた。
「何言ってるんですか、自分は嬉しいっすよ、こうしてまた、獅堂リーダーと編隊が組めて」
 即座に、心強い声が返ってくる。
 実際、大和が来てくれて、獅堂の心理的負担は随分減った。
 二年前、最初に顔をあわせた時は、露骨に「女か」という顔をしていた大和だが、今となっては彼ほどしっくりと意思疎通ができるパイロットはいない。
 stay with leader
 空の鉄則である。
 飛行中の編隊機は、何があっても編隊長と行動を共にし、その命令には一も二もなく、従わなければならない。そこに思考を挟むことさえ許されない。
 極端な話、空で国籍不明の領空侵犯機と対峙した場合、編隊長の命令があれば、僚機は攻撃を開始しなければならない。それが、編隊長の独断であったとしても、である。
 実際獅堂は、自分が持つ編成隊員には、常に言っていた。
 国家の後ろ盾はないかもしれない、けれど、自分が攻撃命令を下せば、その時点で攻撃しろと。
 過去の苦い経験から、獅堂はよく知っていた。三次元の空で、戦闘機同士が戦闘ステージに突入した場合――――、規則どおり上の判断を待てば、間違いなく命取りになることを。
 むろん、攻撃した場合、国際問題になる可能性は大である。そして、専守防衛に反するおそれさえある。攻撃命令を下した獅堂はもちろん、実際に攻撃を加えた僚機パイロットも、処分なしに済まされることはないだろう。
 それでも、編隊長の命令には絶対に服従しなければならない。
 言い換えれば、このリーダーのためなら死ねる――そこまでの信頼関係がなければならない。
 それくらい強固な信頼関係がないと、編隊で攻撃することなどできない。
 編隊行動では、一機のわずかな逡巡、雑念が、全部隊の命取りになることさえあるのだ。
 大和が呼び戻されたのは、この――百里基地のパイロットで、獅堂を信頼し、このリーダーのためなら命さえいらない、という者が一人もいなくなったからだろう。
 謹慎から戻ってみれば、待っていたのは、嘲笑にも似た冷たい視線だけだった。
 露骨な無視、そして何かあれば、卑猥な冗談が返ってくる。
 そこに――あの記事だけが原因ではない、何かの意図を感じないでもなかったが、それは仕方のないことだと諦めた。
 こういった扱われ方は何もこれが初めてではないし、獅堂はいつも、実力で偏見の目を跳ね返してきた。そうできる自信は常にあるし、―――まぁ、こんなことでぐずぐず悩んでもしょうがないか、というさばさばした思いもある。
「なぁ、センちゃん」
「なんすか」
 大和は、残り時間が1分を切ったのを見て安堵したのか、コーヒーの紙コップを口に運んでいる。
「自分の写真でさ、……隊の奴らが、三回いったっていうんだけど、その意味判るか」
 ぶーっっ
 ものすごい音がして、獅堂はびっくりして顔をあげた。
「ち、ちょ、ちょ、獅堂さん、ん、んなこと、僕に聞かないでくださいよ」
 見れば、唇からだらしなくコーヒーを垂らしている大和が、目をひん剥いている。
「そ、そんなにおかしなことを聞いたか、自分は」
 言われ方が妙だったし、日本語にしてはおかしかったので、なんだかずっと気になっていた。
「おかしいも何も」
 げぼげほと大和は咳き込む。
「そ、想像させないでください、恐ろしい、僕には妻も子もいるのに」
「…………はぁ」
 どういう意味だろう。
「んなこたぁ、例のハンサムな彼氏にでも聞いてくださいよ、まったく……何を沈み込んでると思ったら、そんな莫迦なことを考えてたんですか」
「……それが、まぁ、あれ以来……連絡とってなくてさ」
 沈んでいる――という言葉は心外だったが、気がかりはそのことだった。
 楓は――あれから一度も連絡を寄越さない。
「ケンカっすか」
「そんなもんかな」
 違うような気もする。単に――拒否されているのだろう。そんな気がする。
「だったら、余計に聞いたらいいですよ、仲直りできること間違いないです」
 大和は、投げやりな口調でそう言った。
「ホントか」
「ええ、ええ、それはもう。怖いくらい仲直りできますから」
「……怖いくらい?」
 静かだったアラートハンガーに、サイレンとベルの音が鳴り響いたのはその時だった。
 頭上にある管理室の飛行管理員が電話を取る。
 獅堂と大和はすでに立ち上がっていた。
「スクランブル!」
 飛行管理員の大声が響く。
 その声を背に聞きながら、獅堂は自機に向かって全速力で駆けていた。
 コクピットに駆け上がり、ハーネスを締めてヘルメットを被る。酸素マスクを装着してチンストラップを締める。
 この間に、すでに戦闘機はエンジンをスタートさせている。みるみる内に回転が上がっていく。
「レッド・クレシェンド、スクランブル。ベクター750、エンジェル41、コンタクトチャンネル10」
 タワーからスクランブルオーダーが届く。
 Red crescent―――赤い三日月。
 それが、獅堂が持つ編成隊の名前だった。今は解散してしまったが、仮称として名前だけが使用されている。
「レッド・クレセント、スクランブル、OK」
 獅堂はリップマイク越しに返答する。
「レッド2.レディ?」
「OK、レッツ・ゴー」
 2番機から大和の声が聞こえてくる。
 機体を滑走路へ動かしながら、獅堂の胸から、もはや雑念は消えうせていた。
 晴れ渡った青空だけが――目の前にあった。
act5 「stay with leader」
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