十三


「まみ、や……」
 カーテンを閉めていても、薄明るい陽射しが部屋のあちこちに溢れている。
 その明るさが恥ずかしいのか、獅堂は最後まで視線を合わそうとしなかった。
 肩に額を預け、目を閉じている。その呼吸が元に戻るまで、楓は女の髪を手のひらで撫でてやっていた。
 そのままの姿勢で、獅堂が小さく呟いた。
「昨日……宇多田さんから、電話があった」
「…………」
 天音が。
 さすがに驚いて、思わず眉を寄せていた。
 昨日の電話では何も言っていなかったが、まさか、獅堂に取材の申し込みでもしたのだろうか。
「あいつ、なんて言ってたんだよ」
「……多分、お前に言ったのと、同じ忠告」
「…………」
 きっぱり否定するか、堂々と交際宣言するか。
「それから」
 女ははじめて肩から額を外して顔を上げた。
 真直ぐな眼が見上げている。夜を抱いた太陽の瞳。
「…………それから、お前が、今日」
「…………」
 初めて楓は理解した。
 この女が、ふいにここに訪れた理由を。
「獅堂さんには関係ないよ。天音の忠告に従うだけだ」
「でも」
「きっぱりばっさり否定してやるから心配すんな」
 獅堂を押しやり、仰向けになって天井を見上げる。
 戦後、うんざりするほどメディアに追いかけられたものの、公式に記者会見、という形でテレビカメラの前に立つのは初めてだった。
 畏怖の気持ちがないわけではない。自分の顔が公に出ることによって、不快な思いをする人は沢山いる。そう思うと――。
「自分を好きか?」
 ふいに影に覆われた。顔を上げると、獅堂がかぶさるようにして少し上から見つめている。
 髪が耳から零れ落ち、女を普段より少し優しげに見せていた。
「……これから別れるのに、好きも嫌いもないだろ」
「好きか?」
「……嫌いじゃないよ」
「…………」
「………………そこそこ好きだよ」
 手を伸ばす、頬を抱く。
―――だから、もう、会わないよ。
 その言葉は、口づけで誤魔化した。
 正直、自信がなくなりかけていた。この手を離した後、自分には――何が残るのだろうか。
 この先の、長い――闇のような人生に。

                  
                   十四


「ていうか」
 楓は、苛立ちながらネクタイを締めた。
「お前、何考えてんだ、昨日の内に帰れっつったろうが」
「だって、外に記者がいたらどうすんだ」
「だったら、朝っぱらから買い物なんかに行くな、つか、のこのこ帰ってくんな」
「…………お前の朝ごはん……」
 作りたかったんだ。
 そんなしおらしいことを言うから、どんなものがあるかと思えば。
 焼いたパンとバターだけ。
「……………………………………」
「す、すごい間だけど、なんだろう、……失敗?」
 テーブルの横で、困惑気味の眼を向けている獅堂。
 天然なのか、わざとやってといるのか。
「…………いや、食うから…………」
 眩暈をこらえて、食卓についた。そして再び立ち上がった。
「な、何?」
「コーヒー煎れるから、飲むだろお前も」
「うん……」
 朝の陽射しが、リビングの窓から差し込んでいる。
 白いシャツを着て所在無く立っている獅堂は、いつもよりさらに幼げに見えた。
 その獅堂が、キッチンに立つ楓の横に、ちょこちょこっと近づいてくる。
「し、新婚って感じだなー」
「言ってろ、お前、俺たちが今日で終わりだって自覚ないだろ」
「ネクタイのゆがみとか、直していいか」
「かえって歪む、つか、元々歪んでない」
 面白い女。
 楓は内心、吹き出しそうになっていた。
 こんな面白い女には、この先二度とめぐり合うことはないだろう。そんな気がする。
 どこか、現実味を欠いているが、これが――この朝が終わりなのだ。
「お前、今日仕事は?」
 パンにバターを塗りながら、楓は聞いた。
「有休、今週はずっと休んでいいんだってさ」
「…………ふぅん」
 その意味することを思い、楓は眉を曇らせていた。
 パンを口に運んでいる女の表情に、特段変わったところはない。けれど、その心中は決して穏やかではないはずだ。
 この人に、こんな思いをさせるのは――でも、今日で終わりだ。
「俺の記者会見が2時からだから、その時間なら、マンション前に記者がいることもないだろ。適当に出て、鍵は後で郵送で送ってくれ」
 あえて、何気ない口調で楓は言った。
「…………わかった」
 少しうつむいたものの、獅堂は顔を上げ、そう言って静かに微笑した。
 その笑顔に――楓はひっかかるものを感じて眼をすがめた。
 どこかで見た笑い方だ。でも、どこでだったろう。
 けれど、獅堂は、すぐに大げさに眉を上げた。
「うわ、このコーヒー、少し濃すぎるんじゃないか?お前、煎れ方間違ってないか?」
「………………じゃ、飲むなよ」


                  十五


 ネクタイを締めた直後に、玄関のチャイムが鳴った。
―――こんなものかな。
 獅堂は、鏡に映る自分の顔を改めて見て、まぁ、こんなものだな、と思った。
 あれからすぐに楓の部屋を出て、車で自宅にたどり着いたのが昼前になる。少し不安だったものの、楓のマンションにも、自分のアパート周辺にも、記者の姿はないようだった。
 記者会見があるから、もう自宅前に張り付く必要はないと思われたのかもしれないし――。
 あるいは。
 もう一度チャイムが鳴る。
「あっ、はい、はい」
 慌てて扉を開けながら、もしかして取材?と、思ったものの、気づいた時には、すでに開けてしまった後だった。
 そして、開けて――表情を止めた。
「――――ああ、すいません、おでかけでしたか」
 穏やかで優しい声。
 ライトグレーのスーツ姿で、そこに立っていたのは、佐々木智之だった。
「……あ、ああ、こんにちは、えっと」
 戸惑いながら、言いよどむ。
 平日に、東京のいるはずのこの人が、何故、今?という疑問より、獅堂が感じたのは、佐々木に迷惑が掛かるかもしれない、という危惧だった。
「すいません、少しお話がしたくて……お時間は取らせませんが」
 佐々木は柔らかな口調で言う。
「話、ですか」
 獅堂は、咄嗟に佐々木の背後を見ていた。階下には植え込みがあるが、そこにも、道路にも、記者の姿はないようだ。
「ええ、話です。真宮楓君のことについて」
「…………」
「何か、人目を気にされているようですね。よければ、中でお話してもよろしいですか」
 それだけ言うと、佐々木はさっさと扉の内側に身体を割り込ませてくる。
 躊躇する間もなかった。
 確かに玄関で長話をするよりはマシだけど。
―――楓の、話……?
 獅堂はけげんに思いながらも、扉を閉めた。


                   十六


「真宮に、会ったんですね」
 獅堂は、目の前に座る男に、そう言ってコーヒーカップを差し出した。
「彼が言いましたか」
 キッチンと、そして寝食共用の一間しかない部屋。
 佐々木は、その寝食共用の部屋、小さな折りたたみテーブルの前で、折り目正しく正座していた。
 そして、ゆっくりと、テーブルを隔てて座る獅堂を見下ろす。
「いえ……あいつは、そういうことは言わない奴なんで」
 獅堂は頭を掻いた。久々に着た隊服が、なんとも窮屈で息が詰まる。
 佐々木と――テーブルを挟んで対峙しながら、獅堂は締めすぎたネクタイを少し緩めた。
 いずれ会うと約束していたものの、まさか今日、この時間に佐々木が尋ねてくるとは夢にも思っていなかった。
 時計を見る、午後一時。楓の記者会見は、彼の勤務先である国立海洋研究所の一室を借りて行われる。それが2時からだ。
 もう、余り時間がない。
 獅堂は、わずかに焦燥して、目の前に座る男を見上げた。
 佐々木は―― 一体、何をしにきたのだろう。
 あの記事のことは、さすがに佐々木も知っているはずだ。
 だとすれば、渦中の人物の部屋を尋ねる事が、どういう誤解を招くのか――予測できないわけはないだろうに。
「真宮君が何も言わないのに」
 佐々木は静かに口を開いた。
「どうして、僕と会ったことが判ったんですか?」
「どうしてって……」
 獅堂はわずかに眉をひそめた。
 どうして佐々木が、真宮が、言った、言わないにこだわるのか不思議だった。
「えーと、……真宮の部屋に薬がありましたから。……先生の病院の近くの薬局で……だから、きっと先生が処方して下さったんだと思いまして」
 記憶を手繰りながらそこまで言うと、初めて佐々木は薄く笑った。
 彼独特の、水を張ったようなすうっとした笑い方。けれど今日のそれは、どこか冷めて、意地悪気な笑みでもあった。
「彼は君に……まだ、心を割ってはいないのかな。それとも一人で何もかも背負う性格なのかな」
「…………」
 どういう意味だろう。
「……彼は、精神を少し病んでいるようですね」
 佐々木はまた笑う。でもその口調は穏やかなままだ。
 その眼も、髪型も、二年前とわずかも変わってはいない。洗練された衣服、優しげな面立ち。若く見える。とても、妻帯して子どもがいたようには――見えない。
 そう、何もかも同じなのに――その笑い方だけが、どこか違う。他人のような冷たさがある。
「過去の経験かな………とにかく、そのトラウマからぬけ切れていないんでしょう。僕が見た感じでは、軽度の摂食障害と、……睡眠障害、それから、多少のパニック障害を持っているような気がしました」
「…………そうですか」
「専門外の意見ですから、精神科医に行くことを勧めますけどね」
 佐々木の表情を不審に思いつつ、それでも獅堂は、楓のことを考えていた。
 摂食障害、睡眠障害。そして、パニック障害……?
 詳しいことは判らないが、食べ物が受け付けられないのと、夜あまり眠れていないのは確かなようだった。
 帰国しても、一向に元に戻らない痩せた身体。
 どうしたら、彼の救いになれるのだろう。傷ついた心を癒してやることが出来るのだろう――。
「私の病院で」
 佐々木は穏やかな口調のままで、じっと獅堂を見つめていた。
「彼は一度、パニック障害の発作を起こし、……多分、高熱と睡眠不足で神経が衰弱していたんでしょう、それもあって意識を喪失してしまいました。何故そんなことになったか、あなたに判りますか」
「何故……とは?」
「僕と二人きりの診療室で、僕らの間に何があったのか、お聞きになりたくはないですか?」
「…………」
「彼は美しい人ですね。なまじの女性よりはよほど綺麗だ、僕はその手の経験はありませんが、彼の容姿には正直、心引かれるものを感じましたよ」
「…………」
 獅堂は佐々木を見つめた。
 自分が逃げ続けてきた罪と、まっすぐに対峙した。
 男の手が、テーブルを押しのける。
「僕は、言葉で彼を追い詰め、そして身体で彼を壊すつもりでした」
「先生には出来ません」
「彼を傷つける事が、娘の供養になると思いました」
「……先生には、できなかったはずです」
 小さなテーブルが倒れる、コーヒーが、蒼い絨毯に染みていく。
「どうしてそう言えますか」
 組敷かれても、獅堂は怯まない眼で男を見上げた。
「先生は、いい人だからです」
「娘を殺されて」
 ネクタイを掴まれる。その強い力に、一瞬息を呑んでいた。
「それでいい人でいられる親はいません、彼は、娘の名前さえ覚えていなかった、生延びて、地位も名誉も掴み、高級マンションに住み、あなたのような恋人も手に入れた」
 初めて聞くような、感情を露わにした声だった。
 獅堂は黙っていた。
 ネクタイを解かれて、乱暴に胸元を開かれても、ただ、信じて待っていた。
 ここで佐々木を信じることができなければ、自分の中の――何か大切なものが壊れてしまう、そんな気がした。
 嵐――お前の言う通りだよな。
 信じなきゃ、許さなきゃ、何も――始まらないんだ。
「……抵抗、しませんか」
「………………」
 獅堂は、視線だけで言葉を繋いだ。自分に出来る事はこれだけだった。
 自分は――信じていると。
 やがて男は動きを止めた。苦しげな、懊悩に満ちた眼差しが伏せられる。
 そして、静かに身体を起こすと、少し頼りなげな背中を向けた。
「……君と真宮君のことを、匿名でリークしたのは僕です。それでもあなたは、僕をいい人だと言えますか」
「言えます」
 咄嗟に振り向いた男の顔に、零れた水のような驚きの色が広がっていく。
「…………ご存知でしたか」
「そうかもしれないという程度には、でもそれで、何がどうなったわけでもありませんから」
「…………」
 獅堂は自分も身体を起こした。
「真宮は、気の毒なくらい頭のいいヤツなんです。一度覚えた顔も名前も、真宮は決して忘れません。あの誤爆事故で亡くなられた乗員乗客全ての名前を――あいつは、フルネームで記憶しているはずです……というより、忘れられないんです」
「…………」
 佐々木の眉が、かすかに歪むのが判る。
 辛い話題なのだ。触れて欲しくはないのだ。
 知っている、この理知的な人は、決して全ての責任が真宮楓にあると――妄信的に信じているわけではない。むしろ、冷静に、そうではないことを理解している。
 だからこそ、怒りのもって行き場が――悲しみの癒される場が――なかったのだろう。この二年間。
 それでも獅堂は言葉を繋いだ。
 楓が、死んでも口にしないであろう真実を、どれだけ恨まれ、罵倒されてもいいから、伝えてやりたかった。
「……自分も、最初のニュースで、サクラリナという名前の少女が、まさか……先生のリナちゃんだったとは判らなかった。多分、真宮は、……乗客名簿の――別れた奥さんの姓で登録されていた名前を記憶していたんじゃないかと思います」
「…………」
「自分が真宮を庇うのは不愉快でしょうか?……あのマンションは、日本政府の指定で決まったんです。真宮を受け入れてくれる所は少なくて――選択肢は、あいつにあったんじゃないんです」
「……それは、真宮君から聞いたのですか」
「違います、……あいつ、金回りはいいはずなのに、えらいケチくさいから」
 わずかな逡巡を振り切って、獅堂は続けた。
「……悪いと思ったけど、調べました。あいつが得た収入は、七割近く、事故の――誤爆事故の、被害者支援組織に寄付されているんです。むろん、匿名です。誰も、寄付金の送り手が真宮楓だってことは、―――誰一人知らないんです」
「そんなことで……」
「許されないです。それは真宮自身が一番よく知っていると思います。……だから、ヤツは、……苦しんでるんでしょう。残念だけど、自分には、それを救ってやることは出来ないから……」
 佐々木はもう何も言わなかった。黙ってうなだれたまま、床の一点を見つめているようだった。
「先生、自分はもう、行かなければなりません」
 獅堂は居住まいを正し、正座して佐々木と向き合った。
 佐々木が見下ろしている。
 どこへ――と、その眼が一瞬問うて、そして、獅堂の着ている衣服を見て、納得したように苦笑する。
 ようやく戻ってきた時間と空気に、静かな喜びを噛み締めながら、獅堂はきっぱりと頷いた。
「自分の人生で、正直、こんなに迷ったのは初めてです。でももう決めました、迷いません」
「賢明な選択とは言えませんね」
 男は初めて、彼らしい笑みを浮かべた。
 彼らしい―――心の柔らかさが滲むような笑みだった。
「信じた道は、いつだって賢明です、先生」
「獅堂さんらしい答えです」
 佐々木は微笑して立ち上がった。
「情報のリークは僕です。ただし、あなたの――隊内での経歴や写真は、記者の取材に応じたある隊員が発信元だそうです、僕はその男の名前を調べましたが、……お聞きになりたいですか」
「いえ、自分には必要ありません」
 獅堂は自分も立ち上がって、はっきりと言い切った。
 佐々木が、少し心配げに見下ろしている。
 その顔を見上げ、獅堂は憂いのない笑みを浮かべた。
「部屋を一緒に出て、先生に妙な噂が立ってもいけない。自分が先に出ます。先生、鍵はもう――捨ててください、長い間、預かって頂いて、どうもありがとうございました」
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