十


 天使が降臨した夜だった。
 非常警報が鳴り響き、緊迫した空気の中、隊員たちが慌しく行き交う足音が響く。
 怒声。コンピューターのノイズ。オペレーターの悲鳴にも似た叫び。
 あの夜、自分はまだ北京にいて、そして刻々と進行していく最悪のシナリオを見守っていたはずだったのに――。
 真宮楓は、何もできず、ただ廊下の片隅に立ったまま、目の前を通り過ぎていく人を眺めていた。
 フライトジャケットに身を包んだパイロットたちが、まるで楓の存在など眼中にないように、何事か言い交わしながら足早に通り過ぎていく。
 実際……自分の姿は、誰にも見えていないようだった。
 一際高い足音がした。ひどく規則的で、一糸乱れぬ揃った足音。
 獅堂だった。
 背後にチームのメンバー二人を引き連れ、左脇にヘルを抱え、足音を荒げてこちらに近づいてくる。
 少しうつむき加減の、その下げた視線は厳しい緊張に包まれている。
 形良い唇は固く引き結ばれ、額にかかる黒髪が揺れて波打つ。きれいなラインを描く肩と、細く締まったウエスト。その瞳に燃える闇の色。
 女の全身を覆う厳しさ、そしてぎりぎりまで研ぎ澄まされた孤独。それは他人を一切寄せ付けない冷たい光を放っていた。
 ただ空へ出ること、自分の使命を成し遂げる事、それだけしか眼中にない女の目。
 あっという間に楓の傍を通り過ぎ、髪の残り香だけ零して過ぎ去っていく。
「…………」
 寂しいというのでも、辛いというのでもない。
 ただ、恋しさで胸が詰まった。
 ああ、この女は――
 獅堂さんは。
 きっと誰のものでもない。
 この先も、何年経っても、絶対に――俺のものにはなってはくれない……。


「…………」
 目が覚めた後も、しばらく妙な息苦しさだけが残っていた。
 胸が詰まったような寂しさで、しばらく現実と夢の判断がつかなかった。
 真宮楓はベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井に映る暗い影を見つめていた。
「…………いて」
 頭が痛い。全身の関節がぎしぎしと痛んでいる。ここまでくると計らなくても判る。多分、相当の熱があるのだろう。
 重い身体をなんとか起こし、枕もとの薬を汲み置きの水で飲み干した。
 ようやく人心地がついてくる。コップを置き、汗で濡れた前髪を後ろに払った。
―――何故、あんな奇妙な夢を見てしまったのだろう。
 獅堂が遠くへ行ってしまう夢。一瞥もなく自分の傍をすり抜けていく女。空に魅入られてしまった女の眼――。
 ああ、そっか。
 楓は額を押さえて立ち上がった。
 窓辺に立ってカーテンを開ける。
(―――ここに、鉢植えとか置いたら綺麗だろうな。)
 あの日の――呑気な女の声を思い出して、苦笑が漏れた。
 一時花を飾ったものの、結局は本を積み上げている。
 楓は、ここで本を読むのが好きだった。ここで――海を擬した空の青さに抱かれながら。
 夜明けには、まだ間があった。街は静かな眠りに包まれている。
―――もう……。
 もう、獅堂とは別れることに決めたのだ。だから、あんな夢を見たのだろう。
 カーテンを締め、その布の厚みから手が離せないまま、楓は唇を噛んでいた。
 昨日、職場で、写真週刊誌を見せられた。
 その瞬間、決心していた。ずっと――心のどこかで迷いながら先延ばしにしていたことを。
「……ごめんな、獅堂さん」
 もっと早く決心しておけば、あんな記事を書かれることもなかったのに。
 俺なんかに、係わったばっかりに。
 皮肉なことに、プライバシー保護法で守られている自分のところには、所属先を通してしか取材の申し入れが来ないのに――獅堂のアパートの前には、記者が何人か張り付いているという。
 それは昨日、職場にかかってきた宇多田天音の電話で知らされた。
「とにかく記者会見するなら、きっぱり否定するか、堂々と交際宣言しちゃうか、どっちかしかないわね。中途ハンパに反論したり、友達ですって誤魔化しちゃうと、取材は加熱、騒動は泥沼になっちゃうから、それだけはやめときなさい」
 獅堂は――まだ、自宅には戻っていないのだろう。自宅の電話には出ないし、携帯は、あの女にはありがちなことなのだが、おそらく充電池が切れっぱなしになっている。
「携帯なんか持つな、……原始人」
 メールも苦手だというし、常にどこかに置きっぱなしにする電話に、楓からかけて繋がった事は一度もない。
 楓は溜息をついて、再びベッドに仰向けに倒れた。
 薬が効いてきたのか――目は冴えているのに、少し、眠い。
 昨日、無理して出勤したのがいけなかった。体調は今日がマックスで最悪だ。
―――今日は……休むか。
 職場の上司の意向も汲み、共同記者会見は明日に設定されていた。自分の口からこの騒動のけりをつけなければ、獅堂の周辺にたちこめた疑惑を拭ってやる事はできないだろう。
 記者会見という形でメディアに出ることを、天音は最後まで反対していたが、この決心だけは変えられない。
 まだ熱が高いせいか、閉じた眼の奥が熱かった。
 獅堂には……今日中に連絡し、そして伝えなければならない。
 もう二度と会わないということを。


                   十一


 少し、うとうとしかけた時だった。
 不審な音で――それは、本能的に不審、と感じられる程度のものだったが、休憩室の簡易ベッドから、獅堂は跳ね起きていた。
 室内は闇に包まれていた。豆電球をつけていたはずなのに――それが消えた気配を察したから、咄嗟に意識のスイッチが入ったのかもしれない。
 さらに言えば、眠りに落ちる前に掛かってきた一本の電話。
 その内容がいつまでも胸にこびりついていて、いつになく眠りが浅かったのが幸いしたのかもしれない。
 けれど、跳ね起きた直後には、もう身体はベッドの上に押し付けられていた。
 暗闇の中、手足の自由が奪われる。
 のしかかる重み、真っ黒な影。
「なにすっ」
 口が塞がれる。大きな手のひら。
 簡易ベッドの鉄柱部分に、暴れたはずみで頭がぶつかった。
―――いてっ。
 結構痛かった。
 今の状況より、その方が頭にきたくらいだ。
 相手は一人ではない。それだけは判った。誰かが足を押さえようとしている。
 必死で暴れながら、獅堂は、肩をおしつけるようにして口を塞ぐ男の顔を見ようとした。
 その顔は――黒いマスクでも被っているのか、闇にまぎれて輪郭さえわからない。
 でも、この広い肩幅に厚みのある胸元。こんな特徴的な体格を持つ者は、多分、この基地に一人しかいない。
 ちょっと、やばいかな。
 さすがに、この状況を切り抜けるのは難しそうだった。
 自室のアパート前には記者がはりついているという。この――普段使われていない休憩室に泊まるよう、親切に勧めてくれたのは吉村だった。
 自分がここに、今夜一人で泊まっていることは、一部の幹部と当直の警備員しか知らないはずなのに――。
 口元を覆う手が、ふいに緩んだ。
「北條か、」
 獅堂は咄嗟に言っていた。
 その言葉に動揺したのか、男の胸が、少しだけ上にあがる。
 目の前に、男の喉が――むきだしになった喉仏があった。
 片腕をかろうじて引き抜いて、獅堂は肘で、男の喉を思い切り突いた。
 加減するゆとりはなかった。
 最初から――死ぬか生きるか、そのくらい必死だった。
 くぐもった声と共に、男の身体が、のけぞるように床に落ちる。
 さっと、周辺の者が、一瞬身を引く。苦しげな咳の音だけが響く。
 獅堂はその隙に起き上がり、ベッドの鉄柱に掛けておいた上着から――携帯用の拳銃を取り出した。
 指先でロックを外す。
 ロックは暗証bノなっていて、それは獅堂個人しか外せない。
 防衛庁幹部の一部のみが携帯することを許される、暗証コード付きの小型拳銃。
 それを獅堂が持っていることに驚いたのか、立ちすくむ影が、一様に息を引いたのが判った。
「死にたい者は前へ出ろ」
 獅堂は燃えるような怒りを込めて低く言った。
「貴様らが、誰なのか検討はついている。今日のことは忘れてやる、でもいいか」
 一歩前へ出ながら、安全装置をはずした。
 カチャリ、という音で、その場にいる者がさっと緊張するのが判る。
「女にとって、身体は命と同じくらい大切なものだ。それが欲しかったら命がけで来い、最初から死ぬ覚悟でかかってこい」
「そんなに安い命じゃないんでね」
 影のひとつから、少し掠れた――挑発的な声がした。
 北條だ。その体格だけで、もう疑う余地はなかった。
「あんた、とっととここをやめちまえよ、女一人で、男をひっぱっていこうなんて、しょせん無理があるんだよ」
「お前らを引っ張るつもりなんか、悪いが最初からさらさらない」
 獅堂は、その影を睨みながら言った。
「お前らがついて来るか来ないか、それだけのことだ。ついてこないならそれでいい、自分は、自分の信じた道を行くだけだ」
 しん、と静まり返った室内。
 どこかでベルが鳴っている。アラート警報だ。今夜のアラート待機パイロットが、今ごろ全力疾走で自機に飛び乗っているのだろう。
「自分たちは、列島防衛という使命を抱いてここにいる」
 獅堂は、冷静さを取り戻しつつあった。
「そこに余計な私情を差し挟む余地は1ミリもない。今夜の自分にとって、今の出来事は死ぬか生きるかだった。その現実が、数日後の貴様らにもやがて実感としてわかる時が来るだろう」
「……行こうぜ」
 北條の低い声がした。
 ばらばらと人影が去っていく。
「――――はぁ……」
 獅堂は深い息を吐き、そのままベッドに腰を下ろした。
 心臓が――今ごろになって爆音を立てている。
 二年前の自分であれぱ――例え拳銃を携帯していたとしても、あっさりやられていただろう。
 そう思うと、冗談ではすまされない、身の竦むような恐怖がよぎる。
―――鷹宮さんの……おかげってことか。
 苦すぎる過去を思い出し、獅堂は力なく額を押さえた。
 さすがに、精神状態は最悪だった。


                 十二


 どのくらい眠ったろう。
 暖かな気配を感じ、楓はまどろみから覚醒した。
 カーテン越しに溢れる陽射し。何時の間にか朝になっていたらしい。
 昨夜より頭がすっきりしている。額――に手をあて、少し驚いた。
 ずるり、と滑ってくるもの、温くなった濡れタオル。
「…………」
 がば、と跳ね起きた。
 濡れタオルを額に乗せた覚えはない。
 そして、施錠したはずのこの部屋に、無断で入って来る人間は一人しかいない。でも――まさか。
 タオルを片手に掴んだまま、扉を開けて――足早に駆け込んだリビングを見渡す。
「…………嘘だろ、オイ」
 獅堂だった。
 リビングのソファに半身を預けるようにして、腕を枕代わりにして寝入っている。
 基地から戻ってきたばかりなのか、ヘンリーシャツにジーパン姿。肩にはフライトジャケットが引っかかったままで、そして大きめの荷物が、足元に投げ出されている。
「な、何やってんだ、この莫迦……」
 衝撃で言葉がとぎれ、しばらく何も考えられなかった。
 その場に座り込んでしまいたかった。
 いくらなんでも無用心すぎる、不用意すぎる。ここに入る時、写真を撮られでもしたらどうするつもりだったのだろう。あれはたまたまです、間違いです。そんな言い訳さえ出来なくなる。
「おい、コラ、起きろ」
 ほとんど眩暈を感じながら、楓はその傍に歩み寄った。
「莫迦女……」
 影を落とす長い睫。赤みの強い唇から、規則的に零れる吐息。
 場違いなほど健やかに寝入っている横顔。
「…………」
 見ているだけで、見つめるだけで、胸の底に温かなものが溢れてくる。自分の頑なな唇が、笑みを刻んでいくのが判る。
 楓は、獅堂を起こさないよう、そっとその傍に腰を降ろし、額に零れる髪を払ってやった。
―――まいったな。
 指先に触れる体温が愛しい。
 この人が目覚めれば、別れの言葉を言わなければならないのに。
「……真宮……」
 獅堂がわずかに眼を開く。眠たそうに、まぶしそうに見上げる目。
 その額に唇を寄せたい衝動を堪え、楓は静かに立ち上がった。
 昨日、あの記事を読んでから自分が感じていることを、この女も同じように感じているはずだった。
 多分――今が、潮時なのだ。お互いにとって。
 が、
「あ〜あ、よく寝た」
 大あくびをしながら、獅堂は呑気に立ち上がった。
 身構えていた楓は、不覚にもがくっとなってしまっていた。
「悪いなー、ちょっと基地でトラブっちゃって、アパートにも帰りづらくてさ。つい、こっちに来ちまった」
 髪をうるさげにかきあげながら、自分の前を通り過ぎていく女。
「獅堂さん、アパートには記者がいるんだろ」
 それは帰りづらいだろう。しかし、そう言った楓の声は届かないのか、獅堂は台所で、勝手に冷蔵庫を開けている。
「獅堂さん、」
「ミネラルウォーター、もらってもいいか」
「いいけど、……あのさ」
「なんか蒸すな、今朝は。あ、シャワー借りてもいいか」
「そりゃ……いいけど、おい、ちょっと待て」
 またこの女のペースに巻き込まれそうになっている。
 楓は慌てて、自分も台所に入ろうとした。しかし獅堂はペットボトルに口をつけながら、その横を再びさっさと通り過ぎる。
「あのな、獅堂さん」
「あ、そうだ、お前風邪だったのか。枕もとに薬があったから驚いたよ」
 そして、あっさりと話題を変える。
「最近、妙な咳してたもんな。いやー、正直移されたらやだなーって。お前の風邪ならもらってやりたいとこだけど、フライトに影響でるし、今はとにかく人手不足でさ」
「……ていうか、俺の話を聞けよ」
「?聞いてるじゃないか」
「それ、あんたが一方的に喋ってるっていうんだよ、いいか、あのな」
 が、獅堂は、さっさと浴室へ行ってしまう。
 楓は仕方なく後を追った。
「獅堂さん、」
「なんだよ、着替えが見たいのか」
「…………見たいか、そんなド貧乳」
 さすがに苛立った声が出た。いい加減にしろ。
 すでに熱など跡形もなく吹っ飛んでしまっている。
 シャツを脱ぎだす獅堂に背を向け、舌打ちしようとして、楓は気づいた。
 ああ、そうか。
「……お前、わざと言ってるだろ」
「何をだよ」
「判ってんだろ、俺が言いたいこと」
「…………」
「別れるよ、今度はマジ。まぁ、そもそも別れるっていうような関係だったかどうかも微妙なとこだけど」
「………」
「じゃあな、話はそれだけ、シャワー浴びたら帰れよ」
 そこまで言った時、背中から、不意に腕が回された。
 腰のところで、緩やかに結ばれる手。
 楓は本気で驚いていた。
「…………ごめん」
 かすれたような声がした。初めてこの女を抱いた時と、同じ声が。
 密着した背中と胸から、互いの体温が交じり合う。
「なんで獅堂さんが謝るんだよ」
 胸苦しさをもてあまし、楓はそっけない口調で言った。
「…………見られたから、お前以外に」
「…………」
 そんなことで……。
 莫迦莫迦しくて緊張が解ける。
 思わず苦笑し、女の手に、自然に自分の手のひらを重ねていた。
「あそこまで大々的に見られたら、むしろ腹もたたねーよ」
「…………」
「ていうか、誰も喜ばないだろ、逆に憐れを誘われたよ」
「…………真宮」
「………………」
 腕を引いて、そのまま唇を重ねていた。
 ここまで理性のコントロールが出来ないことにあきれ果てながら、きっとこのキスが最後になると、そう自分に言い聞かせていた。
「……真宮、シャワー……」
「いいよ、後で一緒に浴びよう」
「…………ん……」


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