両手足が動かない。
 重い――吐き気がする。
 押さえつけられる身体。圧し掛かってくる重み。
 暴れる。多分――もがいている。
 苦しみと、そして絶望と――それから、それを跳ね返そうという希望にも似た不屈の闘志。
―――最高の見世物だな。
―――僕は気がすすみません、これは犯罪行為ですよ。
―――気にするな、相手はどうせ人間じゃないんだ。
 誰の声だ?
 誰の――声だ?
 やがて四肢から力が抜ける。
 意識が、闇に混濁していく。波音が耳に響く。体の中に満ちていく。
 唇が言葉を呟く、それは三文字の―――。
 警報がなる。
 けたたましいベルの音。
 誰か――誰か。



「………………っ」
 真宮嵐は、激しい動悸と共にベッドから跳ね起きた。
 なんだ?
 全身が、冷たい脂汗で濡れている。
 両手で頬を押さえ、額を押さえる。
 自分の身体。自分の体温。それを確認して安堵する。
 顔を上げて、視界に映るのは大学の傍に借りた一間きりのアパート。
 そして気づいた。ベッド脇、テーブルの上に投げてある携帯電話が鳴っている。豆電球だけの部屋に、そこだけ明るいライトが点滅している。
「…………夢……」
 ああ、そうだ。警報ベル。夢で聞いたサイレンのような音。
―――馬鹿馬鹿しい……。
 携帯電話の呼び出し音だ。
 嘆息しながら、乱暴に携帯電話を取り上げた。
 何時だろう。夜明けまで相当な間があるのは間違いない。こんな時間に、当たり前のようにベルを鳴らす輩は一人しかしない。
「悪いな、嵐、掛けといてなんだが、時差をすっかり忘れてた、そっちはまだ夜明け前だな」
 軽やかで流暢な日本語が小さな機械から流れ出す。けれど喋っている相手は、日本人ではなく生粋のアメリカ人。
 レオナルド・ガウディ。
 NAVI――全米ベクター地位向上協会の創設者で、日本の国家予算を上回るほどの資産を持つ――富豪の家に生まれた美貌の男。
「……いや、いいよ。調査を依頼したのは僕なんだし」
 自分の声が寝ぼけている。嵐は何度か咳払いを繰り返した。
 電話の向こうで、レオのからかうような声が響く。
「なんだ、嵐、テンション低いぞ、いつも元気な君らしくもない」
「……悪い、マジで寝起きなんだ」
「んー?それだけではないって感じだよ、嫌な夢でも見たのかい?ベイビー」
「…………」
 嫌な夢だった。
 夢だ。――そう、それは間違いない。
 でもなんの夢だったのだろう。
 意味不明な、全く理解できない感覚。
 少しだけ――二年前、つくば市の国立バイオセンターで人体実験を受けた時の感覚に似ている。
 人間扱いされない虚しさと憤り。その時感じた絶望感によく似ている。
 嵐が黙っていると、受話器の向こうからかすかな――笑うような嘆息が聞こえた。
 そしてレオは喋りだした。
「君が探し当てた男は、中学生の時、交換留学生試験にパスして、ミネソタ大にスキップ留学している。――卒業後、いったんは米国立衛生研究所に籍を置いているが、一年で退職だ。いや、正確には十ヶ月と12日」
「……で?」
「再就職先は、米国防総省所属とだけしか判らない。残念ながら、嵐、君の調べたとおり、彼はもう死んでいたんだ。……焼身自殺だ。今の時点で、僕が入手できるデータはそれだけだ」
 レオの声が、低くなる。
「嵐、しかし今度こそビンゴかもしれない。君のカンに乾杯だ。間違いない、そのキャ……とかいう奇妙な名前の人物は、確実に例のプロジェクトの関係者だよ。経歴からしてその匂いがプンプンしてる」
「……だとしても、亡くなった人に、話を聞くのは不可能だろ」
「とにかく、もう少し探ってみる。彼の周辺に、過去の研究デ―タが残っているかもしれない。なんにしろ、楓の家族と真宮博士が、ジェイテック社時代の知り合いだったかもしれないと思った君のカンが当たったわけだ」
「カンっていうか、……父さんが言ってたから。楓の両親とは、昔一緒に仕事をしていたことがあるって」
 嵐は眉をひそめながら言った。
 楓の両親――以前一緒に働いていたことがある……。
 幼い頃に聞いた父の言葉。けれど、楓の両親とは誰を指すのだろうか。何度も離婚と結婚、内縁婚を繰り替えしていたらしい楓の母親の相手。その経歴を手当たり次第に調べても、真宮伸二郎の職歴と被るものは誰一人いそうもなかった。
 けれど、手がかりはそれしかない。
 父がジェイテック社に勤めていたことだけは間違いないのだ。公式な記録は一切残されていなくても、確かに父は死の今際、そう言っていたのだから。
 だから、戸籍で確認でき得る限りの親族を全て調べ上げ、――結果、一人の注目すべき人物を――嵐は見つけた。死亡地米国、それが不信に思ったきっかけだった。
 その詳細を、レオナルド・ガウディに頼んで調査してもらったのだ。
「その――キ、キャンとかなんとか言う男は」
 レオが言い難そうに言葉を途切れさせる。そうだろう、いくら日本語に堪能なレオでも、さすがに読み難い名前には違いない。
 嵐はその読み方を噛んで含めるように教えてやり、そして続けた。
「楓の叔父に当たるんだろう。……実際、楓と血が繋がっているかどうかは知らないけどね」
「……このことは、楓には言わないほうがいいだろうな」
 レオの声が、わずかに曇る。
 嵐の眉も曇っていた。
「出来れば黙っててくれないか。楓は、自分の家族のことには、一切触れたがらないし……」
 いい思い出はないのだろう。そんな気がする。
「それに楓を、過去と向き合わせるような真似だけはしたくないんだ。……楓の記憶は、ところどころ不確かになってて」
 電話の向こうで、レオが押し黙っている。多分――憂鬱な顔になっている。喋っている嵐がそうであるように。
「知らない方が、忘れている方が幸せなこともある。この件は、僕ら2人だけで進めていこう」
 電話を切り、長い息を吐きながら、嵐は再び、狭いベッドに仰向けに倒れた。
 嫌な夢。
 興奮していたレオには悪いが、寝覚めに聞きたい電話ではなかった。
 精神状態は最悪だ。
 楓が日本に帰っている。
 そして、獅堂さんと一緒にいる。
 それが判っているから―――気持ちが、不安定になっているのかもしれない。


                  一


「真宮博士」
 ふいに名前を呼ばれ、真宮楓はパソコン画面から顔を上げた。
 その呼ばれ方は好きじゃない。どうしても――忌わしい記憶にたどり着くから。
 振り返った顔に、多分そんな感情が露わになっていたのだろう。
 まだ大学院生で、週に二日程度手伝いに来る助手は、ひやっとでもしたように肩をすくめた。
「すいません、お仕事中、実はお客さまが見えてるんですが」
「俺にか」
「真宮さんは、仕事中は機嫌が悪いと言ったんですけど」
「…………」
 そういう風に見られていたのか。
 やや、愕然としながらも、かけていた眼鏡を外し、楓は椅子にかけてある白衣を取り上げた。
 一月も前にこじらせた風邪がまだ抜けない。悪寒と、そしてわずかな頭痛。
 こめかみを押さえた途端、眩暈でもするように足元が揺れた。
「大丈夫ですか、最近、おかしな咳をよくされてますけど」
 心配性のきらいのある青年は、そう言って気遣わしげな顔をする。
 気持ちはありがたい、しかし、少し気を許すとプライベートにまで首をつっこんできそうな―――この若い青年の好奇心に満ちた目が、楓はどうも苦手だった。
「平気だ、客はどこだ」
 わざと素っ気無く、その横を通り過ぎる。
「あ、研究室横の、応接室に」
「誰だ?」
「ええと、確か佐々木様と、……真宮博士の昔の知り合いと仰っておられましたが」
―――ササキ?
 聞き覚えのない名前に、不審に思いつつも、扉を開けて研究室を出た。
 ここ――茨城にある国立海洋学研究所。
 今年の初夏から、楓は博士としてこの研究所に籍を置き、与えられた研究テーマに取り組んでいる。それはドイツ留学時代に取得した博士号、そしていくつかの著作物が認められた結果――だった。
 帰国と、そして就職口の双方が、突然決まったことは驚きだったが、確かにもう日本では、三年前――憎悪と共に叫ばれていたベクターバッシングはなりをひそめ、人々の関心は別のことに移っているらしい。
 むろん、楓は通常のベクターとは違う。
 一時国際手配まで受け、そして戦争の末期には、人知を超えた何かに変化してしまった――言ってみれば、別種である。
 好奇の視線は――好奇というより畏怖の視線は、研究所内だけでなく、すれ違う人や同じマンションの住人からも向けられたことがあったが、それもせいぜい3か月程度のものだった。
 偏見の目が薄れていったのは、テレビや雑誌で、バイオ関係の専門家が、「真宮兄弟の遺伝子は通常のベクターと何ら変わらず、今後あのような姿になることはありえない」と何度も繰り返し説明してくれた功績もあるのかもしれない。
 それは日本政府が仕組んだ情報操作の一環だが、実際、事実にも違いなかった。
 あれは―――審判の日、自分の身に起きた出来事は、奇跡だったのだ。
 再現などできるはずもないし、やり方だって判らない。あの瞬間の記憶でさえ確かではない。
 何かの偶然が重なって引き起こされた奇跡だと――楓は、今でもそう思っている。
「お待たせしました」
 楓は丁寧にそう言って扉を開けた。
 二十畳程度の応接室。
 その窓辺に立ち、楓に背を向けて立っている長身の男。
 ライトグレーのスーツに、上質そうな革の靴。
 その――陽射しに薄く透ける、柔らかそうな髪が、ゆっくりと振り返った。
「はじめまして――では、ありませんね、真宮君」
「…………」
「いや、もう真宮博士ですか、……随分ご立派になられたものだ」
 記憶の隅にあったものが、瞬時に溢れて、楓は――そのまま立ちすくんでいた。わずかに眉をしかめたまま。
「桜庭基地でお会いして以来ですね」
 男は、すうっと静かな微笑を口元に浮かべた。
「あの時は名乗りもせずに失礼しました。佐々木と言います。以前――獅堂さんと、親しくお付き合いさせて頂いていました」


                 二


「どうした?」
「え?」
 顔をあげた真宮楓の――その指から、銀製のフォークが滑り落ちる。
 獅堂藍は、眉をひそめながら、床に落ちたフォークを拾い上げた。
「さっきからへんだぞ、お前、……何考えてるんだよ」
 食欲がいまひとつなのは、いつものことだが、今日の楓は――二週間ぶりに会った恋人は、どうも様子がなんだかおかしい。
「考えてるけど、少なくとも獅堂さんのことじゃない」
 くらい言い返しそうなものだが、フォークが落ちても無反応にテーブルの一点を見詰めたまま、その表情が固まっている。
「……真宮……?」
「ああ、ごめん」
 謝る!
 それだけで、獅堂は吃驚してしまった。
 この二つ年下の生意気な恋人が、例え百パーセント自分が悪かったとしても、謝ることなんて滅多にないからだ。
 フォークの落ちた音に気づいたのか、制服姿のウェイターが、急ぎ足で駆け寄ってくる。
 市内の――割と有名なイタリア料理店。
 食欲の落ちている楓のために、わざわざガイドブックで獅堂が探した店である。
 新しいフォークを置きながら、ウェイターが、楓と獅堂、向かい合って座る二人を、何気なく交互に見比べている。
―――またかぁ。
 と、獅堂は内心わずかな、嘆息を漏らした。
 どういう事情か知らないが、この男――真宮楓と外出すると、やたら他人に振り返られるのである。
 まぁ、色んな事情もあるし、それは仕方ないとは思う。しかし――。
 楓が見られるならともかく、何故自分にまで注目が集まるのか、それがどうも理解できない。
 で、楓にそれをちらっと漏らすと。
「―――あんた、莫迦なんじゃないか?一体、どっちが目立つと思ってんだ」
 と、怒りも露わに言い返されて、それきりである。
 この服のせいかなぁ、と獅堂は思う。
 Tシャツに、上着代わりのシャツと、ジーンズ。
 男にしか見えない短い髪と、凛々しいと誉められる形のいい眉毛。
 男同士のカップルに見えるんだろうか、だとしたら――楓には、ちょっと迷惑だよな。
 ボーナスが出たらスカートでも買おうかなぁと、本気で考えている獅堂なのだった。
「……獅堂さん」
 楓の声がする。
 獅堂は、口に放り込みかけていたトマトの欠片から唇を離した。
「ちょっと、聞いてみるんだけど」
 真直ぐに見下ろしている男の目。
 ああ、かっこいいなぁ、とちょっぴり見惚れてしまう。
 綺麗な眼に、すうっと伸びた形良い眉。
 左右対称の目鼻立ちに、珊瑚のように淡い色味を帯びた薄い唇。透き通ったきめ細かな肌。
 冷たい目も、少し傲慢な喋り方も、実は結構好きだったりする。
 今日の楓は、仕事帰りなのか、珍しくスーツにタイを締めていて、ちょっとドキドキするくらいかっこいい。
 その楓の静かだった眼差しに、ふいに冷たいものが光った……ような気がした。
「……あんたが、昔付き合ってた恋人だけど」
「…………えっ」
「最近会った?」
 今度は獅堂の指からフォークが落ちた。


                    三


「……ま、真宮」
「何」
「そ、そんなに食べて、大丈夫なのか」
「お前が、もっと食えって言ってんじゃん」
 いきなり――別人のように、目の前に並んだ皿に手をつけはじめた楓を見ながら、獅堂の方が、今度は水も喉を通らなくなっていた。
「そりゃ……まぁ、痩せすぎだし、帰国してからあんまり、肉もついてないし」
「それで?」
「それでって」
「食わないならもらうよ、動物タンパクは貴重だから」
「…………」
 もう何を言っても無駄だ。
 獅堂ははぁっと溜息をついて頬杖をついた。
 目の前――白いテーブルクロスの上に、銀色に光る鎖が照明を受けて煌いている。
 獅堂はそれを指先ですくいあげた。
―――懐かしい。
 椎名さんに――椎名恭介に、初めて出会った日、お守り代わりにもらったペンダント。
 随分長い間、それが獅堂の宝物だった。
 三年前――戦いの終盤、それを他の男に預けた時、獅堂は思った。二度とこれを、自分が首にかけることはないだろうと。
 なのに。
「……佐々木先生、返してくれたのか」
 自分の甘さから傷つけてしまった、かつての――恋人、と言っていいのだろうか。獅堂にとっては初めてキスを交わした相手。
「ものすごく、感慨にひたってるとこ悪いんだけど」
 皮肉としか言いようがない言葉が頭上から浴びせられた。
「俺、給料日前で金ないから、ここの払い任せるよ。すいません、オーダー」
「……お、おい……」
 すぐに駆けつけてきたウェイターに、楓はすらすらと――多分、ものすごく高そうな飲み物を頼んでいる。
「金ないって、お前……特許成金のくせに、自分よりはよっぽど稼いでるだろ」
 さすがに辟易して、唇を尖らせながら獅堂は呟いた。
 楓は、ドイツ留学時代、いくつかの特許を取得している。その他に著作物の印税、それから雑誌の連載なども持っているため、正確なところは判らないが、おそらく獅堂の倍近い収入があるはずだ。
「右から左だよ、研究費が嵩んでるんだ」
 楓はそっけなく言うと、所在なげに頬杖をついた。
「……で?」
 その冷たい目が、じっと獅堂を見下ろしている。
 冷たい目も――好きだったはずなのに。獅堂は額に汗が滲むのを感じた。
「で、とは?」
「不思議だよな、どうして今さら、二年もたって、ペンダントだけ返すんだろうな」
「……言っとくが、さ、佐々木先生とは、お前と再会する大分前に、だな」
「不思議だよな、別れた男が、なんでいつまでも、あんたの部屋の鍵とペンダント、後生大事に持ってたんだろうな」
 ダメだ。
 完璧に怒っている。
「…………律儀な人だから」
「言っとくけど、鍵はまだ、あのおっさんが持ってるから」
「……………」
「お前、……部屋の鍵、変えたりとかした?」
「………………いや…………」
 はぁっ。
 楓は今度は、本気で呆れた溜息を吐いた。獅堂は慌てて言葉を繋ぐ。
「で、でも……不思議だな、佐々木先生、どうしてお前に会いに行ったんだろ。たいしたもんじゃないし、自分に渡してくれればいいのに」
 たいしたもんじゃないし。
 を、強調して言ったつもりだった。
 けれど、楓は、今度こそ――多分、呆れを通り越して、憤りさえ感じられる顔で、かみつくように言った。
「教えてやろうか?どっかの誰かさんが、今、私はこういう男と付き合っています、その人は、真宮楓という人で、平日朝9時から夕方6時まで、国立海洋学研究所に勤務していますって、わざわざ教えに行ったからだろうが」
 獅堂は、……目をぱちぱちさせた。
「いや……自分は、勤務時間までは」
「もう帰るよ」
 楓は立ちあがり、うやうやしくボトルを下げて歩み寄ってきたウェイターの傍をさっさと通り過ぎて行ってしまった。

act4 天使降臨
地上に堕ちた天使は、どうなってしまうんでしょうね――。
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