十三
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玄関の扉は開いていた。
新築のマンションで、椎名も言っていたが、きっと引越しラッシュのせいなのだろう。マンションの階下は無防備に開け放たれていて、こんな時間なのに、頻繁に人が出入りしている。
七階。楓のいる階は、ひっそりと静まり返っていた。
「……真宮……?」
扉を引くと、中は全くの闇だった。
電気がついてない――というか。
―――そっか、まだ照明器具とか買ってないんだ、あいつ。
まだ楓は、国内で運転免許を取得していない。今日は、自分が電器量販店まで連れて行ってやるつもりだったのに――。
なのに、午前中は上の空で、昼食は迷いに迷い、午後は椎名と話し込んだりして。
「…………」
獅堂は急に恥ずかしくなった。
一方的に真宮を責めてしまったが、けっこう、自分も――身勝手なことをしてしまったのではないだろうか。
「……う……っあ……っ」
かすかな声が、闇の奥から響いてきたのはその時だった。
―――はっ??
その時の声だと思った獅堂は、咄嗟に凍りついていた。
でも。
「……っ、うっ……あ、ああっ、……いや……、いや、だ、リュウ……」
「……………」
喉から絞り出すような、胸が締め付けられるくらい辛そうな声。
「……っ……嵐、た……たすけてくれ……嵐っ、――嵐っ」
「―――真宮!」
靴も脱がずに、玄関から駆け上がった。
まだ闇に目が慣れない。
ダンボールに膝をぶつけたが、その痛さも気にならなかった。
声は、一番奥の――多分、楓の書斎になる部屋から聞こえてくる。
部屋に足を踏み入れると、窓が開け放たれているのか、すぐに生暖かい風が、正面から吹き付けてきた。
「真宮、」
彼は、床に倒れているようだった。
一人きりだ。まさかとは思ったが、部屋の中には他に誰もいない。
楓は――横臥して、両拳を胸のあたりできつく握り締めている。
「……っ、くぅ、……うっ、ううっ」
暗くて、その表情までよく見えない。でも肩も、腕も、指先までも痙攣している。抱き上げた体は冷えていた。触れた首筋に、冷たい汗が浮いている。
「しっかりしろ、真宮」
「嵐、」
「―――っ」
ものすごい力で抱き締められる。そのまま背中から倒れこみ、頭が壁にぶつかった。密着した胸から、激しい鼓動が伝わってくる。がくがくと震える身体は一向に収まらない。
本当に――真宮なのか。
ここにいるのは、まるで、小さな子どものように震えているのは、本当に、あの――クソ生意気な。
「……嵐、助けてくれ、嵐、嵐」
―――真宮……。
「俺を一人にしないでくれ、置いていかないでくれ……恐いんだ、…………恐いんだ……」
「置いていかないよ」
獅堂は、その身体を抱き締めた。
「……嵐…………」
多分、うわ言だ。うなされていて――夢と現実の区別がついていないのだ。
「自分が傍にいる。お前の傍に、ずっといるから」
「………………」
愛しかった。
苦しいくらい、愛しい気持ちで胸の中が一杯になる。
この男が抱えているものの重さは、多分、獅堂にもなんとなく判る。判るだけに――決して彼が救われないことも知っている。
何も出来ない。
自分には――何もしてやることはできないけれど。
「……楓……」
獅堂は、初めて彼の名前を呼んだ。その髪に指をからめて、額を寄せた。
「大好きだからな……」
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十四
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「わっ、狭……」
楓の呟きを聞き流し、獅堂は、玄関の扉を後ろ手に閉めた。
「仕方ないだろ、貧乏公務員の一人暮らしなんだから」
「ここって……なんか、女の人が住んでる気配がしないんだけど」
「めったに帰らないからな。ま、適当に座れよ」
「いや、そういう問題じゃ……」
不満気な顔をしながらも、楓は靴を脱いで室内に上がる。
自分の部屋とはいえ、女性らしいものは、確かに何もない部屋だった。
パイプベットと座卓、クローゼットに冷蔵庫――それくらいしか家具らしい家具はない。
「もしかして、獅堂さん、テレビとか、見ない人?」
部屋を見回した楓は、さらに呆れた声で呟く。
「いや、基地で見てるよ。ほら、受信料払うのももったいないし」
「……………」
「ラジオでもつけようか、何かあっちゃいけないから、いつもつけっぱなしにしてるんだ」
「…………だったら、買えよ、テレビ」
その皮肉を聞き流し、クローゼットを開け、白のTシャツと、膝までのパンツを取り出した。
サイズは、多分一回り小さいけど、楓は痩せているから着られない事もないだろう。
「これに着替えろよ。シャワー、先に使っていいから」
「サンキュ」
楓は微かに笑って、それを受け取る。
獅堂は、まじまじと、その整いすぎた顔を改めて見上げた。
「……何?」
「いや……」
もう、普段とおりの真宮楓だ。
あれからしばらく――暗闇の中で抱き合っていて、どのくらいたったのだろう。震えも収まり、呼吸も穏やかになっていたから、多分、楓は再び眠りに落ちていたのだろう。
獅堂はずっと、その身体を膝に抱いたまま、髪をなでてやっていた。
(………獅堂さん……?)
そして――楓がようやく睫を動かした。見上げる眼に、少し、疑わしそうな色を宿している。
(……俺、寝てたのか……、ていうか、いつの間に戻ってきたんだよ、獅堂さん)
ものうげに髪を払う男は、すでにいつもの皮肉な口調に戻っていた。
そして驚いた事に、あれだけうなされていたのに――その夢の内容を、少しも覚えていないようだった。
(……ああ、うなされてたんだ?よくあることだし、気にしないでくれ)
さらっとした口調でそう言っただけだった。
それでも、目覚めた楓は、昼間よりは随分穏やかな顔になっていて――。
電気ないから、今夜はうちに来るか、という獅堂の言葉に、素直にうなずいて、ついてきてくれたのだ。
そして楓は、今はまったく普段とおりの――少し冷めた、意地悪な眼差しで、目下の獅堂を見下ろしている。
「なんだよ、俺の顔ばかり見てるけど、……する?」
「ばっ……、何言ってる。この部屋じゃ絶対にしないって言ったろ」
「声、我慢したらいいだけじゃん」
「知るか、さっさとシャワー浴びに行けよ」
「はいはい」
不思議だった。
昼間、あれだけ険悪だったのに――あんなに怒っていたのに――。
まるで何事もなかったように笑っている――楓。
「……真宮、」
獅堂は、浴室に消えた男に声をかけた。
「なんだよ」
「今日、宇多田さん、……お前が呼んだのか」
「……だったら?」
「自分は、邪魔か」
「…………だったら?」
「…………」
だったら?
獅堂は自分に自問した。自分は――どうするだろう。どうしたいのだろう。
「……あいつは、レオを取材してたから、その関係で知っただけだろ」
けれど、次の瞬間、そっけない声が浴室から返ってきた。
「……昨日から、獅堂さんがしれっとした顔してるからさ……俺一人緊張してるみたいで、ちょっとむかついてた。ごめんな、少し、意地悪だったな、俺」
―――え…………。
な、なんだろう。今、ものすごく、らしくないことを言われたような気がしたんだが――。
獅堂は声をかけようとした。けれど、それを遮るように、シャワーの音が、狭い部屋に響き渡った。
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十五
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「嵐……この部屋によく来るのか」
獅堂が洗面を終えて部屋にもどると、ベットの上に腰掛けていた楓が、一冊のノートを投げてよこした。
「え、……あっ」
受け取ってから、慌てた。
A4サイズの大学ノート――嵐の忘れ物。
ものすごくうかつだった。
楓の顔がどこか怖い――ような気がする。
まるで子どものように無防備な嵐の筆跡。
それを見ながら、獅堂は零れる髪をかきあげて腹を決めた。
嵐は大好きな友達だ。別に、やましいことがあるわけではない。――うん。
「……実を言うと、今朝来た。鞄の中身を全部出してたから…その時忘れたんだろう」
そう言って楓の顔を伺い見る。
嵐が今朝までいた部屋で……こうして今、自分といる。そのことをどう感じ、どんな顔をしているんだろうかと思っていた。
楓は何も答えなかった。
無表情なその横顔からは、何の感情も読みとれない。
一瞬躊躇して――獅堂は、ノートを、再び楓へ投げ返した。
「お前、持ってろよ」
「え、」
顔を上げた楓の、一瞬みせた戸惑いが可愛かった。
「いつか、ちゃんと嵐に会って話すんだろ。その時まで、お前が預かってろよ」
楓と嵐には、いつか、きちんとした形でその関係を確認して欲しい。
曖昧のままでは、少なくとも、自分には辛すぎるだけだ。
少し――黙って、楓はかすかに苦笑した。
「話すって、何を」
「何をって」
「もう、獅堂さんは俺のもんだって――そう言ってもいい?」
驚いて眼を見開く獅堂に、
「冗談だよ」
楓は、いたずらっぽい眼で、きれいな八重歯を見せて笑った。
―――冗談って、お前……。
鼓動が高鳴り、乱れている。
それを誤魔化すように、肩をすくめて男から背を向けた。
「もう、寝よう。明日は早朝出だし、結構今日は疲れたから」
ベッドには楓を寝かせて、自分は床に寝るつもりだった。普通は逆だろうが、なんとなく自分たちにはそれが相応しいような気がする。
電燈を消そうと伸ばした腕を――背中から捕らえられ。
体温をいきなり感じて、びっくりして振り返っていた。
「な、なんだよ」
「何って、決まってるじゃん」
「まさかと思うけど、灯り点けてないと眠れないタイプなんじゃ……」
もちろん、そんなギャグで引いてくれるような相手ではない。
「ばーか」
被さってきた男の影で、視界がふいに暗くなる。
「だ、だめだって、この部屋……隣の声とか、筒抜けで」
「口塞いでやるよ」
「やっ……いやだって、真宮っ」
と、言いつつも、たいした抵抗もしないままに、唇が重なる。
「あ、そうだ、……嵐の」
唇の隙間から、かろうじて獅堂は、声を繋いだ。
唐突に思い出していた。嵐の――最後に残した言葉。
「嵐の、伝言、」
「もういいよ」
「でも」
「―――もう、いいんだ」
会話はそこまでで、獅堂の手は電気のスイッチには届かなかった。
もしかして。
甘い陶酔に落ちていきながら、獅堂は、うなされていた楓のことを思い出していた。
楓は――知っていたのかもしれない。
あの時、抱き締めた相手が、嵐ではなく自分だったことを。
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十六
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――ラジオから、どこか明るい歌謡曲が流れている。
なんの曲だろう。
結構――ムード的にはあってないよな。まぁ、こいつも自分も、そんなことには無頓着な性質だから仕方ないけど。
あなた、私のスイートハート。
誰よりも大切な宝物。
―――スイートハート……。
「……真宮」
「何?」
「スイートハートって、どういう意味なんだ?」
「………………は?」
「あの……レオっていう人と、お前そんな会話してなかったっけ、確か、シーイズ、アン……なんとかスイートハート」
「……………………」
「ひょっとして、自分のことかな、とも思ったんだが、ええと……甘い、心」
「…………辞書引けよ、莫迦」
「うちにないんだよ、英語なんてフライト用語以外」
「だったら死ぬまで考えてろ!」
?
?
あなた、私のスイートハート。
誰よりも大切な宝物。
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