十一


「今、引越しラッシュなのかな。マンションの入り口開きっぱなしでさ、そのまま中に入れたから」
 缶コーヒーを二人分、馬鹿丁寧にテーブルに置いて、部屋を出ていった楓。
 その後ろ姿を横目で見ながら、椎名は低い声で囁いた。
「もしかして………お邪魔だったか?ひょっとして」
「いいええ、全然」
 獅堂は作り笑いで首を振る。
「そうか?……なんか、すごく冷たい怒りのオーラを感じるんだが……」
「気のせいですよ、気のせい。自分は引越しの手伝いに来てるだけですから」
 隣の部屋から、がんっと、何か鉄製の物を、乱暴に置く音が響く。
 うわ、と、獅堂は肩をすくめた。
「ま、その話には――触れないでおくよ」
 椎名は意味有り気に微笑した。
 久しぶりに間近で見る。凛々しくて――なのに穏やかで、優しい瞳。昔とひとつも変わらないまなざし。
 それだけで、獅堂の胸はいっぱいになる。
「チームが解散してしまうと………どうしても、疎遠になってしまうな」
 椎名は、そう言って、缶コーヒーに口をつけると、ふいにそのまま動かなくなった。
「椎名さん………?」
 まさか――毒??
 真宮ならやりかねない。そう思った刹那、椎名は嘆息しながら、口を開いた。
「倖田とのこと、な………」
「………」
「――本当は、一番にお前に、聞いてもらうつもりだった」
 静かな口調だった。
「桜庭基地で別れてから………お前のことがずっと気がかりだった。あれからずっと、俺を避けていたようにも見えたし」
 獅堂は黙る。
 桜庭基地を椎名が去って行った日。獅堂は前日から別基地の演習に参加していたため、椎名の出発を見送る事が出来なかった。
 ずっと一緒に戦ってきて――いつも、その手が自分を一番に支えてくれるような気がしていた。航空学校からずっと憧れて、目標で、――誰よりも大好きで尊敬していた男。
 でも、何一つ言葉を交わせないまま、互いが抱いた誤解をとくこともできないまま、椎名は去り、そして獅堂は取り残された。
 その虚脱感を、―――この上なく暴力的な方法で癒してくれたのが、鷹宮篤志だったのだが。
 あの夜の出来事だけは、さすがに死んでも楓には言えないし、もちろん椎名にも言えない。
 鷹宮にも――あれ以来会っていない。
「お前の気持ちに、俺は、どこかで気付いていたのかもしれない」
 椎名の声に、獅堂は、はっとして顔を上げた。
 椎名はうつむいたままで、続ける。
「松島で――お前がまだ、訓練生だった頃、俺は一度、お前を抱いた」
「だっ……?」
 その言葉の響きに、瞬間耳まで赤くなっていた。
 ここで椎名が言う「抱いた」というのは、単なる抱擁のことなのだが、本人の口を通してストレートに言われると、――なんだか妙に生々しい。
「あ、あれは……、咄嗟のことだったと…」
 言葉がもつれて、上手く喋れない。
 獅堂がまだ航空学生として松島基地にいた頃、教官だった椎名にしつこく言い寄る訓練生(男)がいた。
 椎名はそれを回避するために、傍にいた獅堂を咄嗟に抱きしめたのである。
 あの時感じた胸の厚み、腕の温もり、弾けるような鼓動……。今でも、昨日のことのように思い出せる。
 これで全て報われたと思った。そもそも最初から、打ち明けるつもりも成就させるつもりもない恋だった。椎名は――決して恋人を裏切るような男ではない。
 あの時、ああいう形で抱かれたこと自体が奇跡だった。獅堂は今でもそう思っている。
「俺は、ずっと考えていた。あれは………」
 思いつめた目は、下を向いたまま動こうとしない。
「あれは、本当に咄嗟の機転だったんだろうか、と」
―――え………?
 思わず椎名を見上げていた。
 引き締まった顔は、うつむいていて、獅堂にはその表情が読めない。
「俺の心に………わずかでも、お前を抱きたいと思ったことは、なかったんだろうかと」
「……………」
「正直に言えば、あったんだと思う」
「…椎名……さん」
「お前は、いつだって俺には特別だった。最初から、ずっとな」
――自衛隊の入隊試験での、初めてのフライト。教官として、隣に座っていた精悍な横顔。
 あの時、一緒に見た空が――。
 あの時手渡された銀色の欠片が――。
「獅堂、俺も、あの空が忘れられない」
――ずっと、自分の宝物だった………。


                  十二


 ずっと、認めるのが怖かった。
 椎名はそう言って、初めて獅堂を見て笑った。
「でも、認めることにした。……それが、良しも悪しも、ありのままの自分だ」
「椎名さん」
「ただな、獅堂。…俺は、倖田を愛している、……あいつが足をダメにして、俺はそれをはっきりと知った。その時点で、お前への未練は断ち切ったつもりだ」
「……椎名さん」
「ただ、……それまでは迷っていた。事故がなければ」
「…………」
 椎名は、それ以上何も言わなかった。獅堂も何も言えなかった。
「なければ、どうなっていたかな。……判らない。それが、嘘偽りのない正直な気持ちだ」
―――椎名さん……。
 獅堂は、胸がいっぱいになるのを感じた。
 届いていたのだ。自分の思いは――。
 絶対に届かないと、気づかれることさえないと――そう思っていたのに。
「………俺は、いい加減な男かな」
「違います。椎名さん、……多分、椎名さんの自分への気持ちは、恋愛とは違うから」
 こみあげる感情を振り切って、獅堂は言った。
 自分が――結局はそうであったように。
 獅堂は椎名に向かって居住まいを正して頭を下げた。
「椎名さん。ありがとう。自分にそう打ち明けてくれた。その気持ちだけで、自分は嬉しい」
「お前らしい反応だよ」
 椎名の眼が、苦笑している。目を合わせ、二人は自然に微笑した。
 長年の――全てのわだかまりが溶けて、そして流れて行く。
「幸せですか、椎名さん」
「まぁ、人並みにはな」
「倖田さんは気が強いから、椎名さんが振りまわされてそうで心配ですよ」
 椎名はごほんごほんと咳払いをする。
 そっか、これはもともと椎名が動揺した時の癖だった。何時の間にか、自分にも、それが移っていたのかもしれないな。
「ま、お前もいい相手を見つけたようで安心したよ」
「えっ…?」
「真宮の兄だよ。あんな眼で俺を見るなんて、あいつ、相当お前に惚れてるんだな」
 今度は、獅堂がげほげほする番だった。
「だ、だからですね、あいつと――自分は」
――…………。
 なんなのだろう。
 さっきのキスとかって……そう言えば、なんの意味があったのだろう。
 獅堂が黙ってしまうと、椎名はわずかに苦笑しながら口を開いた。
「……本当はな、……言ってもいいかな、少し意外な気がしたんだ」
 それはそうだろう。少しどころか思い切り意外な組み合わせだと思う。
「……お前は、俺を見ているようで、実は他の男を見ているような気がしたからな。お前自身は何も考えていないようだったが」
「…………え?」
「お前が一緒にいるとすれば、」
 ばん、と、背後でドアが開いたのはその時だった。
 見下ろしている冷たい瞳。椎名の言いぐさではないが、確かに感じる、怒りのオーラ。
「……ま、真宮…?」
 獅堂は思わず後ずさった。
「出てってくれ」
 静かに――その指が玄関を指している。
「ま、真宮君、俺たちの話は終わったから」
 椎名が慌てて立ちあがる。
「二人とも、出てってくれ。俺は今、最高に疲れて苛々してるんだ。痴話話しなら、よそで二人きりでやってくれ」
 ちわ?
―――痴話?
「痴話って……」
「あんたが、そんなに経験豊富な人とは知らなかったよ、さようなら獅堂さん」
 経験豊富?
 獅堂は息を呑む。そして一時考えていた。
――確かに、口に出して喋った言葉だけを拾うと………。
 ちょっと待て。
 自分が一度は、椎名と関係を持ったように解釈できないこともない。
「待て。待て待て、真宮、これはすごい誤解なんだ」
「もういいよ」
「違うって、いいか、あのな」
「いいから、出て行け。もう二度と来るな」
「話せば判る。自分と――椎名さんは、別に何も」
「もう、うんざりだ。あんたと会うのも、これっきりだ。頼むから俺の前から消えてくれ」
 背中を押し出され、振り向いた鼻先で鉄扉が閉められた。
「真宮――」
 鍵のかかる、冷たい音。
 なんなんだ。
 獅堂は茫然として立ち尽くした。
 ここまで――怒るものだろうか、普通。
「………いやぁ、悪かったな」
 椎名が申し訳なさそうに呟いた。
「獅堂、あんな気の強そうな男と、――これからお前、大丈夫なのか?」


                   十三


 車を運転して百里に戻り、自室のアパートの扉を開けると、出たときのままの状態で、室内は取り散らかっていた。
―――人の部屋のことより、自分だよな。
 嘆息しながら、脱いだままの衣服や食器の後片付けをし始めた。
 結局、これから、どうしたらいいのだろう。
 もう、真宮から二度と連絡はないような気がしたし、自分からしても、電話に出てもらえないような――そんな気がした。
 短気な男だよな。
 怒りっぽいし、性格歪んでるし、……冷たいし。
 多分。
 そんなに――自分のことを、好きでいてくれるわけでもないし。
 あらかた片付け終わって、さて――メシ食いに基地にでも行こうかな、と思った時には、もう窓の外は薄闇に包まれていた。
 真宮は、どうしているだろう。
 もしかして、また宇多田さんでも呼んでいるのだろうか――。
 嘆息して視線を下げると、ベッドの下に、見慣れない大学ノートが転がっているのが目に入った。
「…………?」
 拾い上げ、手にとって、ぱらり、と開く。
―――うわ、きったない字。
 嵐の字だと、すぐに判る。
 何かの暗号めいた記号が、ぎっしりと、罫線いっぱいまで書き込まれている。
 もう一度表紙を見る。
 みみずの這ったような字で、RAN MAMIYA
「忘れ物か……」
 思わず苦笑を浮かべていた。
 嵐は――誰よりも頭がよくて、結構顔もよくて、割かし大人びたことを言うあの男は、そういえばまだ東京大学の学生なのだ。
 整理が下手で、物忘れがひどくて。
 字を見れば、小学生のまま進歩がないのが良く判る。
 冷静な理論家で、ベクターバッシングもさらりとやりすごすほど大人だと思えば、兄のこととなると、別人のように我儘になる。
―――子ども、なんだ。
 獅堂だって、子どもだ。自分でもそう思う。でも――嵐は。
 嵐と、そして楓は。
 その自分より、二歳も年が若いのだ。
「…………」
 我儘で。
 けっこう、自分勝手で。
 優しいと思ったら、急に冷たくなったり。
 やきもち、妬いたり。
「………………」
 ノートを机の上に伏せて置いて、獅堂は車のキーを掴んで玄関を飛び出した。
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