「知らなかった。パイロットって方向オンチでもなれるんだ」
 楓は皮肉な口調で言った。
「そういや、ドイツでも迷ってたよな。俺としたことが忘れてた。あれを教訓にすべきだった」
 獅堂には何も言い返せない。
 かれこれ三十分は歩いた――と思う。
 確かに、事前に、この辺りのレストランを調べたのは獅堂だったし――。
「お、お前だって、これからこの近所に住むんだから、事前に道くらい調べとけよ」
「まかせとけって、誰かさんが言うからさ」
「…………」
 まかせておけ、と言ったのも獅堂だった。
 初夏とは言え、熱波のような暑さである。
 ようやく目的の店を探し当て、席に案内される。獅堂も――そして楓も、テーブルについた途端、出された水を一気に飲み干した。
 そして、何もすることがなくなった。
 向かい合ったまま座っていることの気恥ずかしさ。異国では隣り合って、…どんなに顔を近づけても平気でいられたのに。
 日本の平凡な日常に、まだ楓の美貌が馴染んでいないからなのかもしれない。
 楓は、頬杖をついて外の風景に眼を移し、獅堂は、そんな横顔に時々見惚れた。
 骨格が透けて見えそうなほど薄い肌、鮮紅色の唇。柔らかく伸びた髪が、ほつれて額にかかっている。
―――きれいだな……。
 というか、綺麗すぎて、怖いような気もする。
「……なんで、帰んなかった?」
 その端麗な唇が、ふいに動いた。
「えっ?」
「いや、……わかんないなら、いい」 
 そのまま楓は、窓の外に向けた目を動かそうとしない。
「真宮……?」
 そう呼ぶと、冷たい横顔が、わずかに緩んだ気がした。
「まさか、天音が先に帰るとは思わなかったからさ」
「うん………?」
 それは――自分に先に帰って欲しかった、という意味なのだろうか。
 だとしたら、やっぱり宇多田さんを呼んだのは楓で。
 わざと――自分と会わせるように仕向けたのだろうか。
 獅堂は複雑な気持ちで黙り込んだ。
 なんだろう。
 さすがに少し腹立たしい。
 この男は―― 一体何を考えているのだろう。
 やがて食事が運ばれてきて、ようやく顔を上げた楓は、大して食欲もないらしく、出されたランチを不味そうにフォークで突付いている。
 会話を楽しむ――なんて、とてもそういう雰囲気ではない。
 もともと獅堂も口数の多い方ではない(と、自分で思っている)から、無理に話題を作ろうとして、すぐに疲れた。
 店を出た時、楓に背を向けたまま、深いため息をついていた。
 結局――自分は、この男に必要とされていないのだ。
 自分の空回り振りが情けない。いや、自分の鈍さに腹が立つ。
「おい、お前――獅堂か?」
 声を掛けられたのはその時だった。



                   


 豊かな、深い低音の声。胸が軋むほど懐かしい声。
 まさか。
 獅堂は、息を飲みながら振り返った。
―――嘘、だろ…………。
「やっぱり獅堂か。どうしたんだ、こんな所で」
 椎名恭介――その人が、すこし離れた駐車場の出入り口に立っている。
 紺のポロシャツにコットンパンツ。
 日焼けした顔が、少し――ぎこちなく、そして照れくさそうに笑っている。
「椎名リー……ど、どうして」
 背後にはシルバーの乗用車――中から軽く会釈する、華奢な面立ちの色白の女性。
 少しだけ倖田理沙に面影が似ている。
 倖田理沙、それは旧姓で、ここにいる椎名と結婚した今、彼女は椎名理沙になっているはずなのだが。
 獅堂は――とりあえず会釈し、途方に暮れた。
 オデッセイチーム解散後、一度も会っていない先輩パイロットの椎名。
 今朝、嵐が招待状を持ってきて、久しぶりに彼のことを思い出してしまったばかりだった。
 那覇基地に異動になった椎名がどうしてここ、茨城にいるのか――まず状況からして判らない。
 少しだけ痩せて、精悍さが増した椎名が、手を上げながら近づいて来た。
 獅堂の背後に立っていた楓が、すっと背を向け、立ち去っていく。それを感じながら、
「あ……お久しぶり、です」
 獅堂はぎこちなく敬礼した。
「うん、百里で相変わらず活躍してるらしいな、ご苦労さん、お前の噂は、那覇にまで聞こえてくるよ」
 優しい声。
 懐かしい声。
 視界に入ってくる、日焼けした無骨な手。
 獅堂が黙っていると、椎名はわずかに声をひそめ、言い憎そうに髪に指を差し入れた。
「――さっき、一緒にいた男……実は最初に気づいたのはそっちの方だったんだが、……もしかして、真宮の……?」
「え、……あーっ、と」
 振り返る。
 歩道には人影が行き来しているものの、楓の姿はどこにもない。
 帰ったのかな、と思った。そうかもしれない。
 あいつは――何を考えているかさっぱり理解不能の男だが、今日は、自分を傷つけるために呼んだのだ、そんな気がする。
「桜庭の時から妙な噂があったけど、あれから、ずっとそうなのか」
「へっ、いいえ、いやいや、そんな、全然」
 獅堂は慌てて手を振った。
 楓と一緒に食事にきたことを、隠す必要はない。が、今の楓と自分の関係を、正直どう説明していいのか判らない。
「まぁ、友達なんです、時々メシ食ったりしてる程度で」
「変わらないな、お前は」
「…………」
 その口調の暖かさに、どきんとする。
 椎名は、苦く笑って獅堂の肩を軽く叩いた。
「デートなのに、その格好か、少しは女らしい服を着てみたらどうだ」
「だ、だから、デートじゃないんですってば」
「お前は綺麗だから、……似合うよ、きっと」
「は…………」
「………中身は同じでも、なんだか感じが変わったよ、お前」
「…………」
 その眼差しに、その口調に、以前は期待して――胸をときめかしていた自分がいた。
 今は、どうだろう。すごく穏やかな気持ちで、すんなりと彼の言葉を受け入れる事ができている。
 ときめくとかじゃない、でも――単純に、嬉しい。
 椎名は、少し照れたように短い髪をかきあげた。
「今日は、倖田の実家に墓参りに来てて――ここらへんが実家でな、女房は昨日から里帰りしてるんだが」
「はぁ」
―――女房。
 その響きに、胸がきゅっとなっていた。
 なんだろう。羨ましい。別に――もう、椎名さんにどうこういった感情はないはずなのに。
 それでも、目茶苦茶羨ましいのは何故だろう。
「盆休みがとれそうもないからな、少し早い夏期休暇だ」
 そう言って、椎名は背後の車を振り返った。
「車にいるのは、理沙の妹だよ。東京で学生してるから、途中で拾ってやったんだ。あいつ送って……あと一時間もしたら時間がとれる。どこかで、ちょっと会えないか」 
「え……自分とですか」
 今度は、本当に驚いていた。
「うん……お前さえ、よければ」
 椎名は、やはりどこかぎこちない声で言う。
 なんだろう。
 うわ、少しどきどきしている。べ、別に――何の感情も、ない、はずだよな。
「あ、……えーと、でも、どこで……。自分は、実は、このへんの地理がよく判らなくて」
「えっ…そうなのか、実は俺も、何度来ても慣れなくて、あまりよく知らないんだ」
 思わず顔を見合わせていた。
 それから…どちらともなく苦笑した。
 不思議だった。たったこれだけの会話で、つかえていた胸の重みが、ふいになくなったような気がする。椎名の話がなんであれ、もう二人は元の椎名と獅堂だった。
「空と、陸って違いますよね」
 獅堂は笑いながら言った。
「そうだよな。空には渋滞も一通もないしな、地上はどうも面倒だよ」
 見つめ合う瞳に、かつて、共に空を駆けた、共通の記憶が蘇る。
 防府北基地での初めての出会い――、一緒に見上げた最初の空の澄み切った青さ。松島基地の訓練過程で、ふいに抱きしめられた夢のような記憶。オデッセイでの闘いの日々――培われた深い友情と信頼。
 椎名は、少し眩しそうに視線を逸らした。
「本当はな、ずっと、お前と話がしたかったんだ。………倖田とのことで…」
「椎名さん………」
「あの時の話の、続きをさせてくれないか」
―――あの時の。
 桜庭基地の開放日前夜。
 基地の廊下で呼び止められた、あの時の。
 その時、痩せた背中が、すっと獅堂の視界に割って入った。
「この女なら、今日は一日俺の所にいますから」
 楓だった。
「まっ……」
 どこにいたのだろう。
 もう、置いて帰られたとばかり思っていたのに。
 垣間見える横顔が、どう見ても思いっきり怒っている。
 楓は、唖然としている椎名にそっけなく一枚の紙切れを手渡した。
「場所はここ。用事があるなら来てもらってかまいませんので」
 険のある声で言い捨てて、楓はそのまま獅堂の手を掴み、引きずるようにして歩き出した。



                   


「―――なんだって、お前は、あんな態度をとったんだ」
 部屋に戻っても、獅堂はまだ、先ほどの腹立たしさが消化しきれないでいた。
 空になったダンボールを乱暴に折り曲げ、たたんでいくことで、かろうじて怒りを紛らわす。
「別に」
 楓は冷たい横顔で、パソコン関係の機器を整理していた。
 椎名と別れてから部屋に帰るまで――むっつりと押し黙ったままの男は、一言も口を聞こうとしなかった。
「別に、じゃないだろ。せっかく、久しぶりに会えた仲間に対して、だな」
 と、堪りかねた獅堂が言い募ると、
「うるさいな。方向音痴のパイロット二人に場所を提供してやったんだ。感謝くらいしろ」
 逆に怒りも露に言い返される。
 初めて獅堂は、頭に血が上るのを感じた。
 立ち上がり、楓の傍に近づくと、こちらを見るきつい眼差しを無視して、その腕を掴んだ。
「いいかげんにしろよ」
「なにがだよ」
 楓は不快そうに顔をしかめ――それでも、まっすぐに獅堂を見下ろす。
「お前の態度だよ。何か言いたいならはっきり言えばいいだろ。昨日から――妙につんけんしやがって」
「…………」
「自分が邪魔なら出て行くよ。たった一度関係を持っただけで、しつこく言い寄るほど弱い女のつもりじゃない。必要ないって思われてるなら、二度と会わない」
「…………」
 楓の腕に力がこもり、獅堂の手は振り解かれた。
「じゃ、出て行けよ」
「ああ、出て行くよ」
「どうせ友達だしな、時々メシ食うくらいのつきあいだしな」
「どうせ趣味悪いしな、宇多田さんみたいに、綺麗なカーテン選べないしな」
「…………」
「…………」
―――莫迦楓。
 もう、大嫌いだ。
「…………日本に帰れてよかったな」
 自分がどんな気持ちで――。
「じゃあな」
 背を向けようとした時、腕を、背後から掴まれていた。
 驚いて顔を上げる。
 黙ったままの楓に、引き寄せられて肩を抱かれる。胸元に抱き寄せられる。
―――あ……れ?
「…………」
 獅堂は楓の首筋に頬を寄せた。冷たく乾いた肌。かすかに感じる胸の鼓動。
「莫迦女……」
「…………」
 始めから、無理な言葉で取り繕わず、こうやって抱きあえばよかったのかもしれない。
「真宮……」
「黙ってろ」
 薄く開いた唇が、そっと重なってくる。
 ドキドキする。
 甘い――頭の芯まで痺れるような陶酔。唇の温もりだけで、何もかも真っ白になる。
 しかし、その夢は唐突に打ち破られた。
「おい――獅堂?――いないのか?」
 椎名の声。
 二人は、ぎょっとして身体を離した。

●次へ
○前へ
●目次へ
○ホームへ
クリックしてエンターを押すだけです。よろしければ……