四
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とにかく荷物は蔵書だらけだった。
その殆んどが洋書。もうタイトルからして理解不能。
楓はそれを、一番奥の部屋に運んでは、さっさと本棚に納めていく。
「あ、そっかー、本が多いから、この広さなんだな」
獅堂は納得しながら、その部屋に足を踏み入れた。
「うわっ、いい風が吹くなぁ、この部屋」
一番奥まった部屋だった、風が、開け放たれた窓から一気に吹き込んでくる。
大きな窓。それは出窓になっていて、窓枠部分の下が広めのカウンターになっている。
「ここに、鉢植えとか、そんなもの置いたら綺麗そうだな」
「そこ広いだろ、上でセックスしたら気分いいだろうな」
「…………」
「ぱーか、何期待してんだよ、どけ、邪魔だ」
ほんっとにむかつく男だと思った。
でもしょうがない。好きなんだ、多分。
今だって、きっと、赤くなったのを感づかれている。
こうやって同じ部屋にいて、彼の気配を感じているだけで、ものすごく幸せな気分になっている。
「嵐には………」
その時、突然楓が口を開いた。重たげな書物をひとつひとつ、機械的に書棚に納めながら。
「え?」
今朝会ったばかりの、嵐の笑顔が頭をよぎる。
「俺が帰国してること、嵐には、言ってないだろうな」
「……言ってないけど」
獅堂は言葉を濁らせた。
多分――多分、嵐は。
「あいつ、……気づいてると思うけど、お前と自分が連絡取り合ってること」
「だろうね」
「……嘘つくのが、ものすごく心苦しいんだが、どうして帰国したことまで黙ってなくちゃならないんだ」
「言う時が来たら、俺から連絡する。それまでは、黙っててくれ」
それは――約束した以上は、守る。でも。
「あ、そうだ」
獅堂は、素っ頓狂な声をあげた。
「嵐、そういえば、お前に伝言あるって言ってたよ、えーっと、なんだったっけ、えーと」
「…………なんだよ」
自分を見下ろす楓の眼が、少しだけ真剣になっていた。
この日本で再会して、初めて見るような熱のこもった眼差し。
「…………」
―――やはり、こいつにとっては、嵐は特別なんだな……。
子供じみた感情だと判っていても、ちょっぴり妬ましい。そして、寂しい。
「なんだよ、もったいぶるな、」
楓がそう言いかけた時だった。
いきなり部屋のチャイムが鳴って。
「はーい、楓君、引越しの手伝いにきたわよ」
「ハニー、会いたかったよ、レオだよ。まさかもう、愛する僕の声を忘れたわけじゃないだろうね」
ふたつの声が静かだった部屋に響き渡った。
・
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五
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―――ハニーって……。
獅堂は唖然としながら、ダンボールの上で長い脚を組んでいる金髪碧眼の美青年を見下ろした。
上質そうな白いシャツと、黒のパンツを穿いている。それだけのシンプルな姿なのに、まるでスポットライトを浴びているような華やかさのある男だ。
顔と名前は知っている。
レオナルド・ガウディ。全米ベクター地位向上協会の創設者で、世界一の資産家、ビックガウディの一人息子。
西側諸国に住むベクターの――実質上のリーダーだとも言われている。
実際、間近で見ると、眼が眩むほどのハンサムだった。さらさらの髪は肩まで伸びて、彫の深い顔から甘い碧眼が宝石のように輝いている。
美貌と知性とカリスマを兼ね備えた男――のはずが。
「ハニー、どうして僕のところを尋ねてきてくれなかったんだ。こんな所で住むより、僕がもっといいアパートメントを世話してあげるのに」
流暢な日本語で、結構間の抜けたことを言っている……??
「…………レオ、頼むから、その言い方はやめてくれ」
脱力したような楓の声にも一向にひるまず、ぺらぺらと喋り続ける。
「どれだけ、君に会いたかったと思ってる、マイスィートハニー、楓。僕の気持ちはあの頃と少しも変わっていないのに」
「………………」
何を言っても無駄だと思ったのか、楓はそのまま本を納める作業に没頭しはじめた。
でも、その横顔に――さきほどまでの、人を寄せ付けない厳しさはない。どこかくつろいで、リラックスしているのが良く判る。
間違いなく、楓はこの再会を喜んでいるのだ。
―――こ、この二人、本当にそういう……関係??
英語に鈍い自分でも判る。ハニーというのは、恋人を呼ぶ時の。
獅堂は、混乱しながら、そんな楓とレオの顔を交互に見比べた。
「やぁ……シドウさん?来る途中にアマネに聞きました。楓の友人だそうですね」
レオは、獅堂の視線を受けると、片手をあげてにっこりと微笑した。
友人――まぁ、それが一応、的確な表現だろう、と思う。
少なくとも恋人ではないのだから。
「可愛いな、まるで日本人形みたいなお嬢さんですね。うん、僕の好みです、軍の人というのが気に入らないけど」
「は、はぁ……」
「君は誰かに似てるなぁ……うーん、思い出せない、天才のこの僕が……」
「レオ、くだらない話してる間があったら、少しくらい手伝え」
楓の苛立った声が会話を遮る。レオはおどけた仕草で肩をそびやかした。
「おぅ、ハニー、僕に肉体労働をしろと?それは夜だけで勘弁してもらえないかな」
「…………お前、一体、何をしに来たんだ」
「ははっ、それはもう、君と愛しあうためにだよ」
肩をそびやかして笑ったレオが、ふいに真剣な目になった。
「……楓、一体僕らが、何年ぶりに再会したと思ってるんだ、軍に制限されて、今日の今日まで待たされたっていうのに」
面差しに、知的なものが凛と満ちる。その唐突な変容に、獅堂はびっくりして息を飲んでいた。
「君と嵐の処遇はひどすぎる。僕はよほど国際人権連盟に訴えようと思ったくらいだ、君が――それを止めたりしなければ」
「仕方ないだろ、国際犯罪者だから、俺は」
楓の声は冷めたままだ。
「でも、君らがいなければ、この世界はとっくに終焉を迎えてた。君らは言わば救世主だ、僕に言わせれば、その力は人類の宝だぞ」
「……諸刃の剣さ」
その低い呟きに込められた暗さが気になった。思わず楓を振り返ったとき、
「楓君、買ってきたわよ」
玄関から、華やかな声が響く。
開け放たれた扉から入ってきたのは、宇多田天音。
宇多田は、最初にレオとやってきたものの、楓と何か話して――それからすぐに出て行ったのだ。
彼女との再会も、獅堂には二年ぶりだった。テレビで時々顔を見るものの、実際の宇多田は――ちょっとどきまぎするほど綺麗になっていた。
髪形も雰囲気も昔と変わらないのに、内面から何か――フェロモン?のようなものが滲み出ているような感じだ。
その彼女の手には、今、大きな紙袋が抱えられている。
出てきたのは、若草色のカーテンと、そしてレースのそれだった。
「悪いな、カーテンがないと落ち着かなくて」
楓は、横目でそれを確認し、少し優しい口調で言う。
「私の趣味で選んじゃったけど、いいの」
宇多田は――多分、自分を見ている。
その挑発的な眼差しに、獅堂はいたたまれなくなってうつむいた。
「いいよ、お前の趣味ならまだマシだから。悪いけど、つけといて」
「オッケー」
―――まだマシだから。
その言葉に、獅堂は手を止めてしまっていた。
それ、もしかして、比べられているのだろうか――自分と。
さすがに少し、考え込んでしまう。
まぁ――よく判らない。
楓と宇多田。別れてもなお笑顔で会話する二人。その感情の底に流れるものは、正直獅堂には理解不能だ。
だったら、気にするのはよそう。
獅堂は開き直って顔を上げた。
この切り替えの早さが、良しも悪しも自分なのだろう。
「あ、手伝いますよ、自分」
自分より背の低い宇多田に、カーテンの取り付けは難しそうだった。垂れ下がった裾を持ち上げながらそう言うと、宇多田は露骨に剣のある顔になった。
「いいわよ、獅堂さんは他のことやったらどう?」
「え、……はぁ」
ぐいっとカーテンを引っ張られる。
「離して、私が頼まれたことだから」
「そうすか?……じゃあ、」
その剣幕に戸惑って、ぱっと手を離した途端――。
「きやっっ」
宇多田がどすん、と腰から崩れた。
「うわっ、すいません」
別に強く掴んでいたわけではない。ではない――が、自慢ではないが、自分の握力は、並の男性よりは遥かにある。
「ちょっと、何するのよ。大人しい顔して嫌がらせのつもり?」
「あ、いえ、そんなつもりでは、決して」
背後にいたレオが溜まりかねたように吹き出したのは、その時だった。
「あっははは、これは、面白い見世物だ。……なるほど、こんな強い日本人形なら、楓にはお似合いかもしれないな」
「…………は?」
獅堂は戸惑って顔を上げる。
「なにそれ、なんだかむかつくんだけど」
かみつくように立ち上がったのは、宇多田だった。レオはひょいと肩をすくめ、わざとらしいウインクを浮かべた。
「楓、君は一体誰を選ぶつもりなんだい?君を誰よりも愛するこの僕か、やり手のアナウンサー嬢か、それともパワフルな日本人形か」
「……暑いな」
楓は額を指先で拭いながらそう言った。
「獅堂さん、天音、悪いけど、しばらく出てってくれ。この莫迦と話つけて、さっさと帰さなきゃ仕事にならない」
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六
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「……言っとくけど、別に彼と寄りを戻したいとか、そんなじゃないからね」
肩を並べて歩く宇多田は、どこか棘のある口調で言った。
「いや、別に、……そんな」
獅堂は言葉を途切らせる。
自分に――それについて、何かを言える資格はない。
七月の初旬とは言え、外は、肌が焼かれるほどの熱気だった。
「見たかったの、彼が、どんな顔してあなたと一緒にいるのか」
宇多田は自動販売機の前で足を止めた。
バックから財布を取り出し、缶ジュースを二本、立て続けにボタンを押すと、一本を獅堂に投げてくれる。
「あ……すいません」
「百五十円、奢りじゃないから」
「…………すいません」
小銭を取り出しながら、宇多田さんは――どうして楓の引越しを知っていたのだろうか、と思っていた。自分と同じように、楓から連絡を受けたのだろうか。
だとしたら、ここ数日間の自分の有頂天ぶりが、急に恥ずかしくなってくる。
「……彼ね、きっとあなたのこと、本気で好きにならないと思うわよ」
木陰のベンチに腰を下ろし、缶に唇をつけながら、宇多田は抑揚のない声で言った。
「あの人には好きな人がいてね、他に誰が現れようと、その人を忘れる事だけは絶対にないの。判る?獅堂さん。あなた――もう、楓と寝た?」
獅堂の返事を待たずに、多分顔の変化だけでそれを察したのか、宇多田はかすかに眉をしかめた。
「……彼は、いつも代役を求めているのよ。彼が抱いたのは、あなたじゃないわ。私はそれが判ったから――そんな関係が、もう耐えられなくなったのよ」
獅堂は何も言えなかった。
その人の名前が、喉元まで出かけていた。
それは――決して結ばれない相手で。
でも、楓にとっては、世界で一番大切な存在で。
「それにね、楓の抱えている重いものは――想像以上よ」
宇多田は初めて苦しげに溜息をついた。
「彼はドイツにいる間、毎晩のようにうなされてたわ。ものもろくに食べられなくて、気の毒なくらい痩せていった。……私は、彼の癒しにはなれなかった。むしろ、苦しめるだけだった。彼が待っているのは一人きりだし、彼を助けられるのもその一人しかいない。それが判るから別れたの。あなたに、そんな彼を支えていく自信があるの?獅堂さん」
「あります」
獅堂は即答した。
他の何も自信はなくても、それだけはあった。
「……自分は、真宮の傍にいたいと思う。それを、真宮が望んでくれるなら」
「…………」
「自分から手を離すことは、絶対にしない」
宇多田の目は動かない。
きれいなアーモンド型の瞳、形良い眉。それがふいに柔らかく崩れた。
「……私、あなたの顔も、スタイルも、少しも羨ましいと思ったことはないけれど」
「…………」
「今だけ、ものすごく嫉妬してるわ。あなたは似てるんですもの。楓君が、誰よりも愛している人に」
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七
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部屋に戻ると、玄関には、高級そうな靴が一揃い置かれたままになっていた。
まだ――レオがいるのだ、とすぐに判る。
どうしようか、と躊躇した時だった。
「なんでそんな莫迦な真似をした、すぐにやめるんだ、レオ」
楓の声だ。珍しく――激昂している。
獅堂は、どきっとして足を止めていた。
「今にそれが必要になる時がくる、それが僕と嵐の共通の認識だからさ」
冷め切った声は、レオのものだ。
「その力を巡って水面下で争いが起きているのは知ってるだろう?自己防衛だよ、楓、僕は君らの力になりたいだけなんだ」
「レオ……」
「僕は知ってるよ、ドイツで君が何をされたか、……いや、ペンタゴンは、そもそも生体解剖を本気で計画していたんだぞ」
レオの声に、強い苛立ちが滲み出た。
「日本政府にごり押しして、それは通る寸前だったんだ。一体どういう事情で、ペンタゴンが諦めたのかは知らないが、奴らは、君たちを単なる実験体としか見ていない、もう、軍に縛られるのはやめろ、楓、日本なんか出て僕のところへ来いよ」
「そうもいかない」
「どうして」
「嵐がいる。俺が勝手に動けば、嵐に迷惑がかかる」
「………君はいつも、嵐だな」
「弟だからな」
沈黙。そして足音が近づいて来た。
獅堂は、どうしようもなく、その場で立ちすくんでいた。
廊下からリビングに抜ける扉が開き、現れたのはレオナルド・ガウディだった。
先ほどとは別人のような――険しい目で、きつく唇を引き結んでいる。
「……ああ」
レオは、獅堂の顔を見て足をとめる。その目が――宝石のように綺麗な眼が、少しずつすがめられる。
「ああ、そうか、そういうことか」
―――そういうこと……?
「were you the substitute actor?」
「え……?」
早口の英語。さっぱり意味が――。
レオの背後から、楓がやってくるのが見える。肩越しに――それが、ふいに消えて。
目の前の大きな身体に抱き締められて、そのまま唇が塞がれる。
「―――???」
「レオ!」
すぐに身体を覆う圧力が消える。獅堂はわけがわからなかった。この男に、初めて会ったばかりの美貌のアメリカ人に、唇を――奪われたと気づくまで、数秒を要していた。
「ちょっ、なっ、なな、なにすんすん」
意味不明な言語が飛び出してしまっていた。
そりゃあ、もったいぷるようなものでもない。が、あんまりひどすぎるのではないだろうか。
けれど、抗議の声は、見上げた楓の表情を見て、途切れていた。
楓は、レオの襟首を背後から掴んでいる。
その、初めて見るような怒った顔。
「ふざけるのもいい加減にしろ、一体何の真似なんだ」
楓より上背のある美貌の男は、どこか意地悪気な笑みを浮かべて振り返った。
「Probably you are having a sex with her in stead of RAN」
どういう意味だろう。ラン――嵐。
聞き取れたのはそれだけだった。そう言われた楓の眉が、不快気に歪むのが判る。
そして、楓はやはり早口でこう言った。
「She is an irreplaceable sweetheart」
一瞬間があって、ひゅっとレオは肩をすくめた。
「ごめんなさい、シドウさん」
そして、丁寧な所作で、獅堂に向かって一礼した。
「僕は軍の人を、悪いが、これっぽっちも信じていません。……楓をよろしく。君が軍人なのが、多少の気がかりではあるけどね」
そして男は、さっさと靴を履いて玄関から去っていく。
背後で、重い溜息が聞こえた。
溜息の主――振り返って見上げた楓は、すでに何事もなかったような顔をしている。
そして、首筋の汗を拭いながら言った。
「腹減った……メシでも食いにいくか」
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