一


「別に、何がどうってわけじゃないんだけど……」
 なんか、変じゃないですか、今日の獅堂さん。
 真宮嵐はそう言って肩をすくめた。
「そ、そうか?別に……気のせいだろ」
 台所で空になったグラスを洗っていた獅堂は、なにげなさを装ってそう答えた。が、言葉がすでにどもりがちになってしまっている。
「ふぅん」
 疑念たっぷりに呟いた嵐は、たった一枚の招待状を出すためにひっくり返したリュックの中身――ばらばらと部屋中に散らばっていた筆記用具やノート類のたぐいをまとめ、立ち上がった。
「あ、……もう、帰るのか」
 少しほっとしながら、獅堂は、台所の方まで転がってきたペンを拾い上げた。
 真宮嵐。
 この頭のいい男が、実は極端に整理が苦手で、部屋の中どころか鞄の中までぐちゃぐちゃなことを、獅堂はよく知っている。
 1DKの獅堂のアパート。
 休暇の日、こうやって連絡もなく嵐が訪れて来るのは、よくあることではないものの、初めてのことではない。いつもなら適当に無駄話をして、近くでメシくらい一緒に食べるのだが――。
 が、今日だけは、嵐には言えない予定があった。
 カンのいい嵐は、多分獅堂の態度から、それを察したに違いない。
「これ、お前のだろ」
 近寄ってペンを差し出すと、嵐は、照れたように破顔した。
「あ、すいません」
 見上げるほどの長身。顔立ちは甘くてどこか幼げなのに、嵐の体格にはいつも圧倒されてしまう。
 ただ、まぁ、嵐は嵐で――獅堂にとっては、オデッセイ時代からの弟みたいなものだ。大人の男というよりは、可愛いガキ、という印象がどうしても抜けない。
 こうして自分の部屋で男性と二人になることを――過去の経験から警戒しなければならないことだとは、理解しているものの、やはり嵐だけはそういう目で見ることができない。
「じゃ、僕もう帰ります。どうも女の人の部屋って緊張するんで」
 ひょい、とリュックを肩にかけ、嵐は気安げにそう言った。いつ来ても、特に緊張した風もなく、長話をしていくのに、こんな言い方をするのは、きっと獅堂の様子がいつもと違うのを察しているからなのだろう。
「……サンキュ、悪かったな、わざわざこんなとこまで尋ねてきてもらったのに」
 獅堂は、玄関まで見送りながら、ちょっと申し訳なさそうに言ってみた。
「気にしないでください。僕が獅堂さんに会いたかっただけだから」
「お、お互い忙しいよな、相変わらず」
「……え?はぁ」
 意味の通らない受け答えに嵐が戸惑っているのが判る。獅堂は自分が情けなくなった。
 どうも嘘をつくのが苦手な性質だ。相手が大好きな嵐なら、それはもうなおさらだ。
「あ、そうだ、旅行のお土産、ありがとうございました」
 靴を履いて立ち上がった嵐は、快活な笑みを浮かべてそう言った。
 笑うと整った歯がわずかに見える。
「あ、いやー、たいしたもの、じゃなくて」
「嬉しかったです。僕の好きな柄だったし……大切にしてますから」
「…………」
 買ったのはシャツだったが、選んだのは楓だと、それだけは言えなかった。
「……ドイツっていえば、楓は何してるんだろうなぁ」
 あっさりと名前を出され、獅堂はげほげほと咳き込んだ。
「ど、ドイツって……」
「値札ついてましたから、店の名前でわかりましたよ。あっちの空港でしょ」
「…………」
 まごつきながら顔をあげると、嵐の横顔がかすかに笑んだような気がした。
「……その癖、わかりやすいですよ、動揺した時の獅堂さんの癖」
「…………」
 嵐はそのまま背を向けた。広い背中。Tシャツに薄く汗が浮いている。
「獅堂さんが、僕の好みを知ってるとしたら嬉しかったけど、……そんなわけないしな」
 少し寂しげな口調だった。
 そうだった。獅堂は曖昧に誤魔化し続けていたことを後悔した。この――頭のいい男が、気がつかないはずがないのに。
 空港で、土産物を選んでいた時の、楓の楽しそうな横顔がふとよぎる。
 もしかして――あれは、楓から嵐への無言のメッセージだったのかもしれない。
「あ、あのさ、嵐、」
 その楓に、実は今から。
「楓に会ったんなら、……まだ連絡取れるんなら、伝えてもらえますか」
 けれど嵐は、それを遮るようにやんわりと言った。
「伝え……る?」
「もう安心しろって、それだけ」
「…………は?」
 嵐は本当に、それだけ言うと、扉を開けて出て行ってしまった。
 その楓に、実は今から会いに行くとはとても言えない。
 扉を閉めて、はぁっと、獅堂は溜息をついた。


                 二


 茨城県、百里基地の傍に借りている1DKの賃貸アパート。
 相当なボロで、築すら正確には判らない。安さと管理人の人柄で決めた部屋。
 ほぼ一年半ぶりにこの部屋で生活するようになって――今年でもう二年になる。
 殆ど基地で過ごしているため、がらんとしてろくに家具もない殺風景な部屋。ため息をついて仰向けに寝転ぶと、沁みだらけの天井が目に入ってきた。
―――あの莫迦、まだ嵐と連絡取っていないのか。
 獅堂は、楓――真宮楓、血の繋がらない嵐の兄のことを考えていた。
 楓は、数日前から密かに帰国しているのだ。でもそれを、獅堂の口から嵐に伝えるわけにはいかない。
 絶対に嵐には言うな。
 そう――楓から口止めされているからだ。
 楓と嵐。
 二人の心の底に流れるものがなんとなく判るだけに、この件に関しては、どこか複雑な獅堂なのだった。
 そして、憂鬱なことはもうひとつあった。
 嵐が今日、ふいに訪ねてきた本当の理由。それは一通の招待状を手渡すためだった。
―――結婚式ねぇ……、何も今さらしなくても。
 はたして椎名さんは喜ぶだろうか。
 あの、派手なことを死ぬほど嫌う椎名さんが。
 元オデッセイの要撃戦闘機チーム<黒鷲>。そのリーダー椎名恭介は、テキサスの米空軍基地での任務を終え、この春から、那覇基地で要撃部隊の編成隊長の任についている。
 椎名が帰国したことは知っていたが、茨城と沖縄、そうそう会えるものでもなく、ただ名簿に名前を見つけて単純に懐かしさに浸っていたのだが――。
「実は、椎名さんの結婚式を、元オデッセイのみんなでやろうって話になってるんですよ。ほら、同窓会っていうか、そんな感じで。まぁ、言ってみれば椎名さんはダシなんですけど」
 久しぶりに訪ねてきた嵐は、そう言ってリュックサックをひっくり返した。
 楓がドイツに旅立って以来、別人のようにふさぎこんで、連絡ひとつ寄こさない嵐だったが、立ち直りも目を剥くくらい早かった。
 この二年の間、嵐と獅堂は何度か顔をあわせている。飲みに行ったり、ドライブに行ったり、嵐の大学の友達も交えて、なんとなく気楽につきあっている間柄だ。
 嵐はいつも快活で、前向きで、世間の好奇の目もさほど気にせずに、いつも堂々と振舞っていた。正式にNAVIのメンバーになり、レオナルド・ガウディと共にベクターの地位向上のために、積極的に活動しているとも聞いている。
 ただ――やはり、以前の嵐とはどこか違うな、と獅堂は思った。
 眼差しに、喋り方に、少し影のある横顔に、どこか暗いものを感じずにはいられない。
 そんな嵐が、今日だけは底なしに明るく見えた。
「一応、全員に手紙出したんですけど、軍関係の人はまとまって休みとれないみたいで。遥泉さんと蓮見さんは、大丈夫かな。あ、あと発起人の桐谷さんはもちろん出席で」
―――やはり、あの人が考えたことか……。
 三年近く前、オデッセイで遥泉を生贄に盛り上がったあの莫迦騒ぎ。
 あれも桐谷徹――現航空自衛隊航空幕僚長補佐――すでに階級は大佐にまでなっているらしいが、あのやくざじみた強面の男が企画したものだ。
「桐谷大佐は、多分、それを口実に右京さんを呼び戻したいんじゃないかなぁ。向こうで体調を崩されたきり、お父さんの葬儀の時にも……帰国できなかったくらいですからね、右京さんは」
「室長は――来られるのか」
 昔の癖で、つい室長と呼んでしまう。獅堂にとって、室長といえば右京で、右京といえば室長なのだ。
「どうでしょう、一応、遥泉さんが連絡を取ってみると言われたけど」
 多分、無理っぽいって言ってましたよ。
 少し暗い口調でそう付け加え、嵐は、思いついたように顔を上げた。
「ああ、あと鷹宮さんは、東京在住だし、ま、大丈夫だと思うんですけどね」
 その言葉で、獅堂は凍りついていた。
 そうか。
 当然そうなる。鷹宮と――再会することになるの、だ。
 これは――困った。
 もう二度と会わないと宣言してから、早くも二年がたってしまった。なのに――あの夜の思い出は、まだ色鮮やかに、脳裏の隅々にまで残っている。
 それから、椎名だ。
―――椎名さん………。
 とっくの昔にふっきったはずの想い。それはもういい。
 二年前、結局獅堂は、一度も椎名と話すことなく別れてしまった。
 どこかきまずい関係のまま、あれだけ世話になって、あれだけ大好きだった人と――あまりにも失礼な別れ方をしてしまった。
 それが、今でも、どうしようもなく悔やまれる。
 呆れてるだろうな、椎名さん。
「―――ええい、くそっ」
 獅堂は首を振って立ち上がった。
 とにかく――今は、こんなことで、頭を悩ましている暇はない。
 時計を見ると、もう10時を回っていた。少し慌てて棚の上のキーを掴む。
 休みは今日一日だけで、明日にはまた、過酷なアラート待機任務が控えている。
――今日は、帰国した真宮楓の、引越しの手伝いにいかなければならないのだ。


                  三



「何、考えてんだ」
 真宮楓のかすれ声が、静かな部屋にふいに響いた。
 低音の声に、押さえた怒りが滲んでいる。
「えっ?なんだ?」
 獅堂は、はっとして我に返った。
「………」
 無言で伸ばされた腕が、獅堂の手からダンボールを奪い、びりびりとガムテープをはがし始める。
「どうしていったん開けた箱を、片端から梱包してんだ。それって新しい冗談なのかよ」
「えっ、あっ――本当に、自分がそんなことを?」
「邪魔するなら、帰ってくれ」
 にべもない冷たい横顔。
「………わ、悪い…」 
 確かに、悪い。
 まだ頭の中には、鷹宮や椎名と再会することや、嵐を騙し続けていることや――色んな懊悩が――もやもやとわだかまっている。でも、
「……そういう言い方って、ちょっと、その、ひどいんじゃないか?」
 真宮楓が、ドイツでの留学を終えて帰ってくる――その知らせに、ここ何日か、空にいても気持ちが散漫するくらい、浮き足立っていた獅堂なのである。
 しかも、信じられないことに、獅堂が住む場所から、電車二駅の距離にあるマンションを購入しているという。
 意外にリッチなんだな、と吃驚したものの、それは嬉しすぎる誤算だった。
 そもそも――連絡があるかどうかさえ判らなかった。
 別れ際、空港で携帯の番号だけは交換したものの、楓から掛かってきたことは一度もない。そう、先週、全く唐突に「来週から日本で仕事するから」その電話があったのが初めてだ。
 いつかはそうなるとは思っていたが、意外に早い展開に、獅堂は単純に喜んでいた。
 黒の森で再会してから、三ヶ月が経とうとしていた。
 会うのはそれ以来、初めてになる。
 けれど、昨夜、ようやく仮住まいのホテルで会えた楓は――淡々と向こうの生活、そしてこちらでの新生活の話をし、「じゃ、明日は早いから」と、さっさと部屋の扉を閉めてしまった。
 別に、なにかを期待して行ったわけではない。
 が、――もう少し、せめて自分の半分程度は喜んで欲しかった…ように思う。
 後悔してるの……かな。
 あんな風に関係を持ってしまったことを。
 日本で再会したことを。
 でも、それなら何故、わざわざ自分に帰国の日程を知らせてくれたのか――。
 楓は、黙々と作業を続けている。痩せた腕が、薄いTシャツからきれいなラインを描いて伸びている。立ちあがって、荷物を運ぶ細い腰。汗を拭う指先。首筋、鎖骨。
――きれいだな。
 ふいに顔をあげた楓と眼があって、獅堂は慌てて眼を逸らした。今考えてることが判ったら、今度こそ本気で追い出されてしまいそうだ。
 楓は何も言わない、無言で立ち上がり、荷物を棚の上に載せはじめる。
 まるで獅堂の存在など、意に関していないように見えた。
「…………」
 三ヶ月前に初めて身体を合わせてから今日まで、待つには長すぎる時間だった。
 あの夜の唇の温度も、掠れた声も、何もかも昨日のことのように思い出せる。
 なのに―――今、目の前で、淡々と作業に没頭している男の横顔は、そんな過去を一切拒んでいるかのように、平然と日常を刻んでいる。
「広い部屋だな」
 獅堂は思考を切り替えようと立ちあがった。
「3LDK?広すぎるんじゃないのか?一人で住むのはもったいないよな」
 あ、いや別に一緒に住みたいって言ってる訳じゃなくて――無言でこちらを見る冷たい一瞥に、そんな言い訳めいたことを言ってしまっていた。
 獅堂はため息をつく――何か、上手く噛み合っていない。何が気に入らないのか知らないが、話題を繋ごうとすればするほど、楓はますます不機嫌になっていく。
 はぁ――わかんない男だな。
 異国の楓は、口は悪かったが優しかった。
 あの夜は、たった一度抱き合って眠ったあの夜は、―――思い出すと恥ずかしいくらい情熱的で、色んな言葉を囁いてくれたのに。
―――宇多田さんも、こういうところがついていけなくて。
 獅堂は、ふと、この男のかつての恋人のことを思い出していた。
 それで、……別れることにしたのかな。
 

 
 鷹宮篤志


?


  どの顔も笑っている。
  女の人。子ども。父親、母親、赤ん坊。
  笑顔と、そして賑やかな子どもの声。客室乗務員のアナウンス。
  空、―――雲ひとつない青空。
  ごうっと轟音が包み込む。
  嵐のような激しさで、一瞬で劫火に包まれる笑顔。声、悲鳴、絶叫、呪詛――。
 「あっ……―――は、あっ」
  肩で荒く息を吐き、真宮楓は唐突に覚醒した。
  まだ、手足が、指が、細かい痙攣を続けている。
 「はぁっ……はぁっ」
  前髪に指を差し入れて――身体を折り曲げて、苦悩に耐える。
  冷たい汗が、指を伝って膝に落ちた。絶望的な孤独と不安。
  久々にこの夢を見た。多分――何年かぶりに日本の地を踏んだせいだろう。
  胃の痛みと嘔吐感がおさまった後、楓はうつろな目で窓の外を見た。
  明ける前の夜の薄闇。まだ――夜明けはこない。きっといつまでも、永遠に。
  犯してしまった罪は消えない。
  何があっても、時代がどう変わろうとも。
  永遠に――許されない。
act3   「sweetheart」
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