七


 シャワーを浴びて浴室を出た楓は、タオルを腰に引っ掛けたまま、深い溜息と共にソファに身体を埋めた。
「おい……服、着てくれ」
「うるせーな、さっさと寝ろ」
 ベッドの上で、殆んど顔まで毛布を被り、目だけでこちらを伺っている女。
「眠れない……」
「あっそう」
「お前、いつもそんな格好で寝てるのか、夜は寒いし、いくらなんでも」
「じゃあ、見てんなよ、一間しかないんだ、見られちゃ着替えもできないだろうが」
 獅堂が、頭まですっぽり毛布を被る。
 楓は嘆息して立ち上がった。簡単に衣服を身に付け、再度ソファに身体を預ける。
 どうしてこんなに苛々するのか、コントロールできない自分の感情が不思議だった。
「……寝たのか……?」
 静まりかえった部屋に頼りなげな声が響く。
「寝たよ」
「ちょっと……話しても、いいか」
「やだね」
「宇多田さんのことなんだが」
「やだっつってんだろ、寝ろ、莫迦女」
「…………」
 言い過ぎたかな、と思った。
 そして、こんなことを思う自分に、またしても苛立っている。
「……なんで、宇多田さんと……別れたんだよ」
 けれど女は、わずかな沈黙の後に性懲りもなく繰り返す。
 楓は、わざと意地悪く切り返した。
「じゃあ、お前はなんで、前の男と別れたんだよ」
「…………自分?」
「傷心旅行って、要は男と別れたって意味なんだろ、人に聞く前に自分のこと話せよ」
「……わ、別れたっていうか、……別に、」
 毛布の中から、泡を食ったような声だけが返って来る。
「別に、つきあってたわけじゃなくて、まぁ、なんていうか、なんとなく」
「お前はなんとなく、男に抱かれんのか」
「ち、ちがっ、……て、抵抗したんだが、なんていうか、その」
「………………」
 言い過ぎたことに気づいたのか、しどろもどろの呟きが聞こえた。
 そして最後に。
「…………寝るかな」
 誤魔化すような声。
――――殺してやろうか、あのおっさん。
 楓の脳裏に浮かんだのは、長身で怜悧な目をした一人の男の面影だった。
 まるで包み込むような目をして、この女を見つめていた男の眼差しだけだった。
 眼の眩むような情景が脳裏に浮かぶ。
 なんなんだ、この感情は。
 嫉妬?まさか。ありえない。
 楓は立ち上がって、部屋の照明を切った。毛布につつまれた人型が、わずかに肩を動かすのが判る。
「…………傷心旅行って、そういう意味じゃない」
 くぐもった声がした。
「うん……?」
「振られたんだ、自分は」
「…………」
「ふ。振られたって気づいたのは、結構あとになってからで、その時は、自分がそいつのこと、好きとかどうとか、そんなこと思いもしなかったから」
「…………なんの話だよ」
「で、でも……さ、最近気づいて、そいで、どうしても……確かめたくなって、そいつ、今、ドイツにいるって、いうから――で、テキトーにうろうろしてれば、あ、会えるかなって思ったんだ、け、ど」
 動かない毛布。
 楓もまた、動けなかった。
「………会えたんだ、それで」
「うん……会えた」
「………すごい偶然、……東京に住む相手を訪ねに大阪に行くようなもんだけど」
「…………」
 楓は笑うことで自分の感情を誤魔化そうとしたが、上手くいかなかった。
 この状況で、こんな告白をすることが何を意味するのか、さすがにそれが判らないわけではないだろう。
 多分、このまま抱いても、
 でも。
「悪いけど、俺は、お前のこと好きじゃないよ」
 驚く程冷淡な言葉が出た。それが強がりなのか本音なのか、自分でもよく判らなかった。
「……うん、知ってる……」
「………」
 今、獅堂を抱いてしまったら、もう二度と自分の孤独に向き合えなくなる。その手を離せなくなってしまいそうな気がする。
「三日間楽しかったよ、でも、もう、会うつもりはないから」
「………」
 そして、航空自衛隊のエリートパイロットの獅堂にとって、自分の存在は重荷以外のなんでもないことを、楓はよく知っている。
 それに嵐だ。
 嵐は――嵐を、傷つけることだけは。
 それでも楓は、ベッドに腰を降ろしていた。
 動かない人型から、毛布を剥がしてしまっていた。
 膝を抱いて、亀のように丸まっている女。思わず失笑が漏れていた。
「……ばーか、子供じゃないんだ」
「ほっといてくれ」
「構うつもりはないよ」
 そう言いながら、髪に指を絡めてしまっている。
 少し驚いた眼で、獅堂が顔を上げる。
 泣いているかと思えば、そんなでもなかった。凛とした眼差しは、わずかな濁りも浮かべてはいない。
 うん。
 と楓は思った。この女らしい、この目は、割と――好きだ。
「今、俺、あんたを抱きたいと思ってるけど」
 初めて素直な言葉が口から漏れた。
「それが恋愛感情って言い切れるかどうか、正直俺には自信がない……俺は誰かを本気で好きになったり出来なくて、天音が俺から去ったのも、それが本当の理由だから」


                 八


 薄闇に包まれた部屋を、月明かりだけが照らし出している。 
「み、みみ、見ないでくれ」
 それまで無言だった女が、初めて慌てたような声を上げた。
「……なんで、見ないとつまんないだろ」
「だっ、だって、小っちゃいだろ、その……」
 楓は笑って、胸元を覆う手首を、両手で掴んで押し開いた。
「やっ、だ」
「そんなこと……………………いや、マジで小さいな」
「ばっ、莫迦っ、離せっ」
「悪い、フォローのしようがなかった」
 笑いを噛み殺し、そのまま胸元に唇を寄せた。
 女が、少し身体を硬くするのが判る。
 そして、掠れたような、不安気な声が聞こえた。
「ま、真宮……」
「何?」
「謝らないと、いけない、ことがある」
「……だから、何?」
 楓は顔を上げ、女の顔を見下ろした。
 じっと見上げている瞳。こうやって仰臥した顔を間近で見るのは、初めてだった。
 なんだかそれがすごく新鮮で、無防備な額に、思わず唇を寄せていた。
「じ、自分は……初めてじゃ、ないんだ」
「…………」
「その……色々あって、お前のこと、好きって気、気づく前に、その」
「いいよ、頼むから最初から嫉妬させんなよ」
「…………ごめん」
「いいって、そんなこと言われたら、優しくできなくなるだろ」
 いいんだ。
 抱き寄せた時、そんな囁きが聞こえたような気がした。
「…………ひどくして、いいんだ」
「…………」
 その言葉の意味が理解できないまま、楓は、抱き合うぬくもりと心地よさに溺れていった。


                  ※


 月が隠れる。
 カーテン越しの夜に、獅堂は夢の中の景色を見るような思いで目を向けた。
 闇が、互いの表情を、心ごと隠してくれているような気がした。
「何処、見てる」
「……っ…あっ…」
 楓の膝に抱かれたまま、獅堂は背中を反らせて痛みに耐えた。剥き出しになった首筋に、熱をもった唇が触れている。
「……や…もう…」
 半開きになった唇に、楓の指が差し込まれた。
「獅堂さん……」
 耳元で響く掠れた声。息遣い。律動する肩。滑らかな肌に光る汗。
 髪が揺れ、こぼれ落ちる香りに包まれる。
「真宮……」
「俺のこと、好き?」
「ん………」
「最初の男より好き?」
「………だから、来た」
「嵐、怒るかな」
「………嵐が好きなのは、自分じゃない」
 闇の中で、静かな眼だけが合わさった。
「嵐が、好きなのは……」
 言葉はそれ以上続かなかった。
 怒りのような男の激情に飲み込まれ、獅堂はそのまま、全ての葛藤と懊悩を忘れていた。
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