四


翌日。
 早朝に落ち合ったものの、楓にしても、どこかへ行く当てがあったわけではなく、結局、ミュンヘン近くまで戻って来てしまった。
 ミュンヘンが位置するバイエルン州は、ドイツの中でも最も人気のある観光地として知られている。一年を通して、美しい風景が楽しめる文化的情緒豊かな土地だ。
「へえー、景色がきれいだなぁ、風景全部が絵葉書みたいじゃないか」
 市電でも、徒歩でも、獅堂は能天気なまでに上機嫌で、日本女性よろしく、決して楓の前を歩こうとしなかった。
 それは単に道が判っていないだけなのだが、通り過ぎる米英の観光客の目には、なんて奥ゆかしい女性だ――と映っているらしく、獅堂はしきりにJapanese dollともてはやされていた。
 黒すぎる髪に、光彩の大きな瞳のせいだろう。確かに、―――黙っていればだが、伝統芸能によくある古の人形に似ていなくもない。
「……ノヴァシュタイン城って、あれか」
「ノイシュヴァンシュタイン城」
「…………」
 遠目から木々に囲まれた壮麗な建物を見つけた時、獅堂は少し嬉しそうだった。
 ノイシュヴァンシュタイン城。
 19世紀、バイエルン国王ルードヴィヒ2世が建立した城。
 切り立った崖の上にたつ白亜の城で、シンデレラ城のモデルにもなったと言われている。
 かつては、ひっきりなしの観光客で煩いほどだったというマリエン橋付近だが、今はほとんど人気がなく、壮大な光景に埋もれ、写真のように静まり返っている。
「ここだけ、パンフで見てきたんだ。でも、今は立ち入り禁止なんだろ」
「どっかの金持ちが買い取って私有地にしてるんだってさ、外見はそのまんまでも、城の中はもう、面影が残ってないらしい」
 ノイシュヴァンシュタイン城は、何年か前、州の赤字を清算するために、ロシアか何処かの貴族の末裔に売却されたという。
 張り巡らされた塀の外まで近づいて写真を撮ることはできるものの、もうその内部に入ることはできないと――楓は、留学先の学生に聞いて知っていた。
「あんな城が自分の家かぁ、すごいな、金持ちは」
 まばらながらも幾人かの観光客が、ノイシュヴァンシュタイン城を目指してマリエン橋を渡ろうとしている。
「…………」
 その光景を横目で見ながら、楓は、わずかな頭痛を感じ、指でこめかみを押さえていた。
 少しだけ息苦しい。何故だろう、日中こんな感じになったことは、今まで一度もなかったのに。
「どうした」
「……別に」
 少し下から、気遣わしげな目が見上げている。それが妙にうざったかった。
 一人になりたい。
「見たいんなら、一人で行って来い、橋渡ってる連中の後をついて行けば、迷う事はないだろ」
「……うん」
「俺は、少し休んでるから」
「……うん」
「そんな目で見るなって」
 楓は嘆息して、額に手を当てた。
 ああ、なんだって、こんな――迷い猫みたいな眼をして人を見るんだ、この女は。
「ここで絶対に待っててやるから、行って来いよ」
 判った。
 そう言った女が、少し笑った気がした。そのままきびすを返して、駆けて行く背中。
「…………」
―――なにやってんだか、俺。
 獅堂の背中を見送って、楓は、木陰を求め、すぐ傍の木立の下に腰を下ろした。
 気分が悪い。
 この不調は、絶対にやっかいな同伴者のせいだ――と思う。
―――どれだけ心を通わしても。
 見上げた空――確かに、絵葉書のように見事なコパルトブルーの蒼は、雲ひとつなく澄み渡っている。
「…………」
 仰向けに寝転び、楓は無言で眼を閉じた。
 どれだけ心を通わしても、どれだけ今が楽しくても、過ぎてしまえばそれまでのもので、この時間に何一つ意味はない。
 慣れ切った一人きりの生活を、こんな形で乱されてしまった。
 もう、誰かに干渉されるのはこりごりだったはずなのに、何故か断る事ができなかった。それが不思議だし、今でもよく理解できない。
 どうして、俺は――。
「真宮、」
 ふいに名前を呼ばれる。
 びっくりして跳ね起きた頬に、冷えた手が当てられた。
「…………なんの真似だよ」
 動悸がする。
 ふいうちは苦手だ。
 半身を起こした目の前に、獅堂が手を差し出している。逆光が眩しかった。女の顔が直視できない。
「冷たいだろ、橋の向こうの売店で、氷わけてもらったから」
「はぁ?」
 戸惑う楓の前に膝をついた獅堂は、そのまま冷えたタオルを差し出した。
「熱射病じゃないか?訓練中にはよくあるんだよ、こういうことが」
「氷って……言葉も喋れないのに、よく」
「カップの氷指差して、身振り手振りで。はは、通じるもんなんだなー、戦闘機が送るサインなんかもそうだけど、ジェスチャーってのは万国共通だよな」
「…………」
 多分、売店の人も困ったにちがいない。氷だけ分けてくれなんて、よくもまぁ。
 タオルを手渡した獅堂は、当然のような顔で、楓の隣に腰を下ろした。
「寝ろよ、自分もここにいるから」
「………いられても、気詰まりなんだけど」
「そうだったよな、人がいたら眠れないんだっけ、お前」
 それには答えず、再び仰向けになった楓は、冷たく濡れたタオルを目の上に当てた。
「それにしても、綺麗なとこだな、ここは」
 獅堂の声がする。
 それが――不思議に心地よかった。
「こんなに遠くまで来たのに、明後日には日本なんて信じられないな、飛行機って不思議だよな」
「……よく言うよ、パイロットが」
「うん……旅行なんて、初めてだからさ」
 その声を聞きながら、そうか、明後日に帰るのか――と不思議な感慨と共に、そんなことを考えていた。
 多分、別れたら、二度と会う事はないだろう。
 多分、二度と――こんな時間が、自分に訪れることはないだろう。


                   五


 最後の夜、獅堂に誘われるままに、彼女が宿泊するホテルのレストランで、夕食を共にすることになった。
 礼がしたい――というのを断る理由もなかったし、どこかで――まだ、この時間を楽しみたいという、未練のような思いがあったのかもしれない。
 実際、一緒にいた三日間、1日目より2日目が、2日目より3日目が、少しずつ距離が縮み、交わす会話がなめらかになっている。昔からの友人のように、砕けた会話を――楽しむ、というか。
「でさー、コクピットの中にカエルが紛れ込んでたんだよ、普通、ありえないだろ、そんなこと」
「……………………」
 獅堂のくだらない話を一方的に聞かされることの方が多いのだが。
「おい、聞いてんのか」
「……………………聞いてるから」
「そのカエルが、またすばしっこいヤツでさ、キャノピーの上をぴょんこぴょんこ」
「………………」
 最悪の休暇になった。
 それだけは間違いない。
 けれど、獅堂が口にする言葉。笑い声。…それを聞いているのが、不思議に心地よいのは何故だろう。くだらなすぎて腹立たしいほどなのに。
「……あまり、食べないんだな」
 その女の声がふいに翳った。メインディッシュが運ばれてきた後だった。
「動物タンパクは貴重なんだろ、やるよ」
 メインの皿を、女の前に押しやる。
 その濃厚な匂いだけで、実は吐き気を催しかけていた。
「どっか、……悪くしてんのか」
「だから、食べ物があってないって言ったろ」
「本当に痩せたよ、お前、……最初から気にはなってたけど」
「ダイエットに成功したんだよ」
 フォークを手にした女の、気遣わしそうな視線を感じる。
「獅堂さんは、どうなのさ」
 話題を変えたくて適当に言葉を繋いだ。
「どうって……?」
「自衛隊のえらい人になったんだろ。獅堂さんみたいに若くて女で、」
―――しかも、間が抜けている人に。
「そんな大変な役目が務まるのかな、と思ってさ」
「……まぁ、適当にやってるよ」
 その表情に、少しだけ大人の影が落ちた。
「空のことで、誰かに負けるとは思ってない、自分にも自分のプライドがある」
 再会して初めて聞くような、力のこもった言葉だった。
 ああ、そっか。
 楓はあらためて――この女との距離を感じた。
 こんなに気安げに見えても、頼りなげに見えても、この女は軍人なのだ。
 しかも、日本でトップクラスの――優秀なエリートパイロット。
 戦闘機を中心に、従来のジェットエンジンが続々フューチャー搭載機に切り替わっている。その過渡期、フューチャー機を乗りこなせるパイロットは、おそらく獅堂他数名しかいないはずだ。
 これだけ綺麗で、しかもパイロットには珍しい女性で――獅堂の存在が、目立たないはずがない。
 目立つ分、反発もやっかみも多いだろう。
 そんなことが妙に気になる。
 男だらけの自衛隊で、大丈夫なのだろうか――こんな無防備な女一人で。
「ちょっと、意外だったな」
 その獅堂が、少しはにかんだような口調になった。
「何が?」
「いや……だってさ、自分のことなんか、忘れてると思ってたのに」
「…………?」
「結構、色々、覚えててくれてたから」
「………………」
 切り返す言葉が出てこないまま、楓は頬杖をついて視線を逸らした。
 そう言えば――覚えているし、知っている。
 何故だろう。
 そのまま獅堂は黙ってしまい、楓も言葉を繋げなかった。
 沈黙――なのに、不思議と気まずくはない。
 むしろ、この沈黙の理由を、知りたいとさえ思っている自分がいる。
「……日本には、いつ頃帰れるんだ?」
 ようやく獅堂が口を開いたのは、食後のコーヒーを飲んでいた時だった。
「さぁね……ここを出るとか出ないとか、俺の自由に決められないから」
 口にしてから、余計なことを言ったと気づく。
 けれど獅堂は、特に気にとめるでもなく、ふぅんと言ったきりだった。
「不自由なもんだな。天才は」
「まぁな」
 曖昧に誤魔化した。
「日本に帰れたら、…連絡、しろよな」
「気が向いたらな」
「約束だぞ」
「しつこいな。年上の女が迫るようなことかよ、みっともない」
「………」
―――明日別れたら、もう、二度と会う機会はないだろうな。
 楓が思っていることを、無言で空になったカップを見つめているこの女もまた―――同じように感じているのだろう。
 そもそもこの異国で、再会できたこと自体が奇跡だった。
 いや、そもそも――。
 この世界で、めぐり合えたこと自体が。
「桜庭、基地で………」
 獅堂が、ふいに声を低くして呟いた。
「なんで、自分に、あんなこと…」
「あんなこと?」
「…………」
 女は黙る。楓も無言で空になったカップを見つめた。
 本当は、再会してすぐに思い出していたのにな、と苦い気持ちで考えていた。
 ただ、聞かれても、理由を上手く説明できる自信はないし、あの時も、そして今でも、抱き寄せた刹那に感じた感情の昂ぶりは説明できない。
「………いや、いいよ」
 獅堂は微かな笑いを見せて顔を上げると、出ようか、と言った。
「悪かったな、休暇……つぶしたみたいで」
「みたいじゃなくて、潰したんだよ、思いっきり」
「わ、……悪かったよ」
「いいよ、今月の運勢最悪だったから、これで帳消しになるだろ」
「…………口の減らないやつ」
 部屋に戻れば、明日には別々の人生が待っている。
 それでいいんだ。楓は立ち上がりながらそう思った。
 嵐と決別することを決めた時から。
 この異国の地に赴くことを決めた時から――もう、日本で培った過去は、全て忘れようと心に決めたのだから。
「お前、帰国しても、連絡しないつもりだろ」
「……さぁね」
「携帯の番号、聞いてもいいか」
「……聞いてどうすんの」
「…………」
 例えば万が一、帰国できるとして。
 獅堂と、この心地よい関係を続けたければ、どうしても過去の自分に、嵐という存在に立ち向かっていかなければならない。
 そんな気力は、今の自分には――到底持てそうもないと思った。


                  六


 店のウェイターに呼び止められ、ニ三言、料金のことで話している間に、獅堂は先に店を出てしまったようだった。
 扉を押して、庭が見える広いホテルのホールに出ると、その隅の壁に背を預けるようにして、獅堂が、三人の男たちに囲まれているのが見えた。
 強い地方訛りのドイツ語で、まだ若そうな男たちは、獅堂に熱心に語りかけている。衣服からして、このホテルの従業員らしい。
 安ホテルで、どことなく店員の態度の不遜さが気にはなっていた。ヨーロッパでは、まだまだ黄色人種に対する差別は根強いものがある。
 獅堂は、曖昧な笑みを浮かべながら、とにかく目を泳がせているようだった。
―――あの莫迦。
 溜息をついて、その傍に歩み寄る。
 男たちが不審気に振り返る。獅堂が、ほっとしたような顔を上げる。
 身体を割り込ませ、獅堂の肩を抱き寄せながら、楓はドイツ語で言った。
「俺の妻に何か」
 男たちはしらけたように顔を見合わせ、ひゅっと口笛を吹きながら、肩をそびやかして去っていった。
「今、……なんていったんだ、お前」
「こいつは男ですって言ったんだよ、莫迦、一人でうろうろすんな、方向音痴の癖に」
 今夜、獅堂は一人でこのホテルに泊まる。
 楓は、少し離れた場所にある、自分のアパートに帰る予定になっていた。
 それが妙に気に掛かる。先ほどのレストランで呼び止められたのも、言いがかりに近いゆすりだった。こんな所で、女を一人で泊めることに、たまらない不安を感じる。
「莫迦女」
「いっ、な、何怒ってんだよ」
「言葉も喋れないくせに、うかうか一人で海外なんかに出てくんな。俺と会えなかったらどうするつもりだったんだ」
「…………会えると思ったんだ」
「…………」
 どういう意味だろう。
 不審に思って足を止めかけていた。獅堂は、その視線を避けるようにわずかにうつむく。
「真宮、……肩、」
「……ああ」
 抱いたままになっていた肩、楓は多少の狼狽を感じつつ、慌ててその手を離していた。
 そして――心の底から嘆息した。
 なんてやっかいな女なんだ、こいつは!
「おい、お前の部屋どこだ」
「は?」
「荷物があるなら、取りに行ってやる。今夜、ここはキャンセルしろ、他の宿を探してやるから」
「…………は、でも、シーズンだから、ここしか取れなくて」
「空き部屋がなきゃ、俺のアパートに連れてってやる。安心しろ、お前みたいな男女に、間違っても手は出さないから」
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