二



 結局楓は、獅堂の「傷心旅行」に同行することになった。
「痩せたな。真宮」
 一日目の夜、安ホテルのバーに並んで席を取り――ドイツ語が理解できない獅堂にメニューの説明をしていた時、突然その呟きが聞こえた。
「え?……俺?」
 その声の、思いもよらない優しい響きに、また少し動揺して眉をしかめていた。
「……辛いのか、今」
 振り返れば目と鼻がすぐにでも触れ合う距離。黒すぎる瞳が、じっと自分を見据えている。
 楓は黙って、獅堂の端整な顔を見返した。
 最後に会った時より随分長く伸びた髪。それが頬にかかり、きれいな曲線を描いて絡み合っている。引き締まった顔、襟元からのぞく形良い鎖骨。そして――闇よりも深い瞳。
―――男にしか見えなかった二年前とは違い、きめ細かな白い肌から、色味を帯びた唇から、匂うような女の色が滲み出ている。
「……別に」
 ふいにその顔が直視できなくなって、楓は眼を逸らしていた。今まで、この男女に対して、こんな感情を抱いたことは一度もない。
「食べ物が合ってないからだろ」
 そっけなく答える。 
 それはないだろ。獅堂は笑った。
「お前は繊細そうに見えて意外と雑食だからな」
「何であんたににそんなことが言える」
「実は食べ物の好き嫌いがないタイプ、でもブロッコリーだけがダメ」
「――」
 当っている………。
「嵐に聞いたよ、あ、なーんだ、けっこう自分と似てるじゃんって、嬉しくなったんだけど」
「俺は全然嬉しくない」
 嵐の名前が出たことで、複雑な感情が頭をもたげていた。
 そうだ――嵐だ。
 この女と嵐とのつながりを、迂闊にもすっかり忘れてしまっていた。
「……嵐は、元気なのか」
「元気だよ、大学もあと一年で卒業らしいし、けっこう莫迦やってるよ」
「そっか」
「お前が、日本を出てって……少し、荒れてたけど、まぁ、もともと前向きな奴だし、今は元の嵐に戻ってるよ」
「…………」
 獅堂が、何か聞きたげな眼をしている。
 多分――自分と嵐が、この二年、電話で話しさえしていないことについて、その理由を聞きたがっているのだろう。
「……お前さ、自分の居場所も嵐に知らせてないんだってな」
「筆不精で」
「……嵐、心配してたよ」
「…………」
 嵐と自分の間に流れる複雑な感情を、誰かに説明したり、理解してもらおうとは思わない。距離を空けたいと思ったのは楓の方だった。その方が――嵐のためだと思ったからだ。
「う、う、」
 けれど、隣に座る女は、奇妙なうめき声をふいに出した。
「――――う?」
「う、う、うた、ださんだけど」
「う、う、うただ……?天音のことか?」
「そ、そそう、そう、去年から……テレビでレポーターとか、やってる、から」
「……?それが?」
「それがって、」
 獅堂は、すこし赤らんだ顔をしている。
「お前、こっちで一緒に暮らしてたんだろ、なんで、彼女一人日本にって、思って」
「一緒にっていうか、まぁ、同じアパートに半年いたかな」
 楓は眼をすがめ、ほとんど忘れかけていた女の面影を思い浮かべた。
 忘れかけていた、というよりは、忘れたい女。
「な、なんか冷たくないか、まるで他人事みたいな」
「だって、他人だし」
「…………」
「……俺は忙しかったし、離れたいって言ったのはあいつの方だよ。まぁ、俺は、去るものは追わない主義だから」
「…………冷たいな、お前」
「だから、俺が振られたっつってんだろ」
「…………振られるように仕向けたんじゃないのか」
「…………」
 鈍いくせに、妙に鋭いことを言うな、と思っていた。
 傷つけられるより、傷つけた方が痛みが残る。もう、宇多田のことは忘れてしまいたい思い出だった。
「なんだよ、それがあんたに何か関係あるのかよ」
 グラスの水を飲み干し、楓は、少し意地悪く言った。
「ひょっとして嫉妬?桜庭基地の廊下で、あんたとすれ違った時、結構ショックって顔してたもんな」
 からかいに、返って来る返事はない。
 うつむいた獅堂は、手元のグラスに唇を寄せている。
「……あの時は、マジで誰でもよかったんだよ」
 楓は嘆息して、椅子に背を預けた。こんな言い訳をしている自分をバカバカしいと思いつつ。
「天音にも、それが判ったんだろ、……頭のいい女だから、切り替えも早かったよ」
「どうせ、自分は頭が悪い」
「どうしてそこであんたが出てくるんだ、酔ってんのか、おい」
「…………酔ってる」
「あのなぁ、あ、おい、ここで寝んな、莫迦」
「……誰でも、よかったのかぁ……」
「は?」
 テーブルの上に投げ出された腕の中に沈んでいく頭。
 ゆさぶっても反応はなかった。
「…………はぁ」
 楓は嘆息して額を抑えた。


                   三


 風は冷たく、月の輝きだけが仄かなぬくもりにも似て、髪に、肌に光の欠片を零していた。 
「不思議だな……」
 背中に抱いた人が、小さく囁く。
「なにが?」
 前を向いたままで楓は言った。
「お前はこんなに細いのに、結構力持ちなんだ」
「ベクターだからな」
「……はは、その言葉、もう差別用語なんだってさ、使ったらNAVIからものすごい抗議が来るらしい」
「呼び方なんて、どうでもいいことなのにな」
 戦後、様々な法整備が整えられた。でも、人々の心に根付いたものは変わってはいない。むしろ、陰湿になっただけだと楓は思う。
 それでも、この国はまだ日本よりはマシだ。
 好奇の目で見られたのは最初だけで、今は、道であっても振り返る人は誰もいない。
「日本に帰って来いよ、もう、お前らのことを、そんなに悪く言う人はいないよ」
 首に、女の吐息が掛かる。
 それが妙にくすぐったかった。
「……こっちこそ不思議だな」
 真面目な感情と向き合うのが怖い。楓は冗談めかして背中に抱えた女に言った。
「普通、ここまで身体を密着させたら感じるものなんだが、何も感じない」
「…………何を」
「胸」
「……………………」
 ばしん、と頭を叩かれ、もがいた身体が、背中から降りようとしている。
「なんだよ、元気なら歩けよ」
「歩くっ、莫迦、スケベ」
「……へぇ、じゃあ、ここで別れよっか、俺もその方がせいせいするから」
 言いながら、思わず笑いがこみあげた。
「どうせ道判んないんだろ、いいよ、ホテルまで送ってやるよ」
「………」
 今夜獅堂は、楓の宿泊先から僅かに離れた場所にあるホテルに、一夜の宿をとっている。
「……歩く……マジで、大丈夫だから」
 すこし頼りなげな声がした。
「いいよ」
 楓は腰をかがめる。首から手が離れ、背中から――ぬくもりがふいに消える。その刹那に感じたものを、どう表していいか判らなかった。
 獅堂は、少しおぼつかない足取りで立ち、周辺を見回して、――――それから、戸惑ったような眼で振り返った。
「……おい」
「なに?」
「立ってないで、前行けよ。前」
「獅堂さん、先歩いてよ」
「い、いいか、パイロットてのはな。人に背中見せちゃダメなんだよ。だ、だからだな」
「へぇ」
 楓は、ただ笑う。
「……その笑い方、好きじゃない」
「はは、別に獅堂さんに好かれようとは思ってないから」
 少し離れて歩く二人を、風が繋いでいるような気がした。
 どうしてこんなに安らいだ気持ちでいられるのだろう。
 歩きながら、満ちていく感情に楓は戸惑っていた。
 どうしてこんなに――、一緒にいることが、楽しいと思えるのだろう。
 あの戦いの終結直後。
 まだ自分が処分待ちで、桜庭基地に拘束されていた頃からそうだった。 獅堂だけは、どこか他の人と違っていた。
(―――おい)
 あの日――背後からふいに呼び止められた時。
(―――自分を、覚えているか)
 黒目がちの、少し怒ったような瞳の色をもつ女。
 顔だけは知っていたが、当時は名前と一致していなかった。
(―――必要があればいつでも引き金を引いていた。言い訳はしない。それがあの時の自分の信念だったからだ)
 気にも留めてはいなかっただけに、驚いた。そして、その一直線な真面目さに反発を感じもした。
 怒りながら、背を向けた女の後姿。それがひどくきれいに見えたのが、今でも印象に残っている。
 獅堂藍という存在を認識した最初の日――以来、心のどこかでいつも意識していたように思う。
 不思議だった。いかにもプライドが強そうで、クールで、人を容易に寄せ付けない厳しさを秘めた眼をしているのに…そのくせ誰からも愛されている。
 最初はおせっかいな偽善者だと思った。でも、時折見せる不器用な優しさ。意外に隙だらけで――繊細な心。
 何気ない話をする度に、何気なく視線があう度に、少しずつ何かが変わっていくような気がした。だから桜庭基地での最後の日。
「風が冷たいな」
 少し遅れて歩いていた獅堂が、ふいにそう言った。
 楓は回想を遮断されて、思わず女を振り返っていた。
 天を仰ぐ、月明かりに映える横顔。零れる髪の一滴を、形良い指がそっと払う。
 その指も髪も、二年前には知らなかったものを確かに知っている。
 今の獅堂は、基地にいた頃の……まだどこか幼くて無防備だった獅堂ではない。
 どんな風にその髪を愛され、その指で愛したのだろうか。
「…………」
 莫迦なことを考えている自分に気づき、楓は眉をひそめて視線を逸らしていた。
「寒くないか?」
 近寄ってきた女が、ひょい、と顔をのぞきこんでくる。楓は驚いて脚を止めた。
「なんだよ、びっくりさせんな」
「だって、お前、半袖一枚だし」
「ベクターだから平気なんだよ」
 見上げてくる瞳、綺麗な唇。
「嘘言うな。唇が」
 無造作に寄せられる指。
 冷たい………。
「こんなに、」
 その指を、自分の手で包んでいた。
 少し驚いた眼が見上げている。
 揺れている黒い瞳。
 それは、顔を寄せても、逃げようとはしなかった。
 ほとんど鼻先まで近づいた互いの顔。
「………」
「………」
 けれど直前、ふっと唇を逸らし、楓は苦笑を浮かべた。
 何をやってんだ、俺は。
「……ホントに寒いな、早く帰ろう」
 何を考えているのか、獅堂は、無言で頷いただけだった。判りやすい女だったはずなのに、その影になった表情から、感情を読み取る事は出来なかった。
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