「さぁさぁ、どんどんいっちゃってください、なにしろ今が旬の男、蓮見黎人、28歳。大手会社につとめるエリート商社マン、早いもん勝ちで、お持ち帰りオッケーだ。さぁさぁ、希望者は手をあげたあげた」
 きゃあ、私、私。
 むろん、水商売だからサービスだろうが、そんな黄色い歓声が一気にあがる。
「あ、あのう、俺、そろそろ」
 眩暈と頭痛をこらえつつ、蓮見はホステス二人を挟んで座っている桐谷徹に声をかけた。
「あん?」
 すっかり酔いの回っている大柄な防衛庁幹部職員は、じろり、とどすのきいた視線を投げてくる。
「なんだってぇ?商社マンの蓮見君、お得意先の課長の俺に恥をかかすつもりなのかぁ〜ああん?」
 こんな商社マンも、こんなやくざじみた得意先の課長も、絶対に存在しないと思う。
 が、それも水商売ではよくあることなのか、つっこむ女は誰もいなかった。
「まさか俺より先に帰るつもりじゃないだろうなぁ、蓮見君、今夜は俺に、とことんつきあう約束だよな、なにしろお前のおかげで、俺は十年来思い続けた相手に失恋したんだから」
「は……いえ、そんな」
「さぁさぁ、蓮見君お持ち帰り大会の始まり始まり〜、野球拳でもやってみようか、オイ」
「もぉ、古いわぁ、桐谷さん」
 蓮見はうんざりしながらうなだれた。―――サイアクだ。
 一体――どうしたら、最高になるはずの一日が、ここまでひどいものになるのだろうか。
「いやだわぁ、蓮見君ったら、真面目な顔して、こんなものまで用意してるのねぇ」
「……はっ?」
 蓮見は茫然と顔を上げた。
 カウンターの中にいる店主とおぼしきママさんが、嫣然と微笑みながら手にしているもの。
――――はい?
「きゃあっ、蓮見さんたらスケベっ」
「商社マンさんって、そんなもの持参でお仕事してるんですかぁ」
 誓ってそんなものをポケットに入れた覚えはない。
―――そりゃあ、用意すべきかな、とは思わないでもなかった。でも、いくらなんでも――。
「はっはー、蓮見君」
 どす――というより、すでに殺気のこもった声が頭上で響いた。
 何時の間に席を立ち、自分の背後に回ったのか、それは桐谷徹の声だった。
 ごつい手が、蓮見の両肩にずしっと置かれる。
「き、桐谷さん、これは何かのまちが、いで」
 ママさんのいたずらだ。それはすぐに判った。でも。
 相当酔いの回った男に、それを理解させるのはどうやら至難の業のようだ。
「さぁて、きっちりゲロしてもらおうか。貴様は今日、桜庭商社の右京社長を尋ねて行ったはずだよな」
 酔っているのか正気なのか、よくわからない隠語。
 どんな素性の者が混じっているか判らないこの店で、警視庁の刑事である蓮見と、防衛庁所属の桐谷が、職務に係わる言葉を不用意に使うことはできないのだ。
「は、はぁ」
「で、それと今のブツの関係なんだがよ、蓮見君、貴様は、……貴様はまさか、俺の奏ちゃんに」
「ちょ、ちょっとタンマっ、桐谷さんっ」
 首を掴まれて引き上げられる。
 喉を詰まらせて咳き込みながら、最悪だ――と、蓮見は思った。
 本当に今日は、最悪の一日だ。



                    一


「まぁ、この基地はそもそも空自の最新設備を装備した基地になる予定でして、今はその七割の兵力しか」
 遥泉雅之の講釈がろうろうと続く。
 三十分が経過したのを時計で確認して、――――こいつ、確信犯だな、と蓮見は肩を落としていた。
 今日は、千葉県沖にある航空自衛隊桜庭基地の開放日だった。
 開放―――とは言え、一般客に開放するのではない。
 あくまで、戦後、ずっと基地に逗留することを余儀なくされている隊員たちの家族のみ、慰安という目的で内部に入ることが許されているのである。
 さらに特例として婚約者、恋人、友人、―――人数は限定されるが、家族でなくても、事前の許可さえあれば、一応基地内に入ることが許可されていた。
 そして、隊に家族などいるはずのない蓮見を呼んでくれたのは。
「まぁ、せっかく貴重なお休みを利用して来てくださったんですから、ゆっくりしていってください、僕が基地内を案内してもいいのですが」
 対面のソファに座り、にっこり微笑している遥泉雅之だった。
 この好意を善意に解釈していいか、悪意に解釈すべきなのか、ずっと理解に苦しんでいた蓮見だったが、応接室に連れて行かれて三十分、延々と遥泉の饒舌を聞かされて、さすがにこれはからかわれたな……と思い始めていた。
 蓮見は右京に会いたかった。
 それはもう、切実に。
 だから、無理に休暇をとってこの千葉県までやってきたのだ。
 なのに、当の右京は、一度もその姿を見せてはくれない。
 一言――右京さんは、と聞けばいいだけのことだが、なんだかそれも、この遥泉が相手だと言い難い。
 遥泉も遥泉で、わかっているはずなのに、しれっとした顔で基地の説明に精を出している。
「どうでもいいけどよ」
 溜まりかねて、ようやく蓮見は口を挟んだ。
「お前ら、一体いつまでこんな辺鄙な基地に閉じ込められてんだ。所帯持ちの奴らはきついだろ」
「そうですねぇ……」
 遥泉は苦笑したが、その顔に初めて暗いものがよぎったような気がした。
「まぁ、いずれ、なるようになるでしょう。今は、結果待ちなんですよ」
「……結果?」
 蓮見が眉をしかめると、遥泉は黙って手元のコーヒーカップを前に寄せる。
「あなたもテレビくらいは見るでしょう、……嵐君と、楓君のことですよ。彼らの検査結果いかんで、我々の処分も決まってくるらしいんです」
「……よく、わかんねぇんだが」
「私もですよ。右京さんは必要最低限のことしか説明して下さらないから」
 いきなりさらりと名前を出されて、蓮見は思わず咳き込んでいた。
「う、右京……室長は、元気なのか、よ」
「それはもう、あの人は病気知らず、ストレス知らずの人ですから」
「どっか、……身体を悪くしてる、とか」
「……?いいえ、何故です?」
 遥泉は不審気に眉をひそめる。
――そっか。
 蓮見は無言で、視線を下げた。
 まだ新築らしく、室内には何かの薬品の匂いが淡くたちこめている。
 それが妙に鼻について、少し気分が悪かった。
「嵐と、……あいつの兄貴だっけ、テレビで見たよ、なんだか特撮映画みたいで――そこに映ってるのが知り合いの顔だってことが、どうにも信じられなかったんだが、」
 あの映像を見た時。
 空を矢のように駆ける、光り輝く巨大な翼を見た時。
 蓮見が思ったのは、右京奏のことだけだった。
 あの日、撃墜されたオデッセイから奇跡的に生還した時。
 海の中で、自分を包み込んだ光は――まさに、これと同じものだったのではないだろうか。赤い――北京上空に現れた光。真宮嵐のそれと同じ光。
 そして……。
 それが夢でなければ、妄想でなければ、光は、右京奏に姿を変えていったはずだ。
 右京を防衛庁まで送った蓮見は、庁舎内に入ることは許されなかった。
「また連絡する。色々面倒なことになると思うが」
 別れ際、まだ髪も乾ききらない女は、早口でこう言った。
「……お前が何を見たのかは知らない。が、撃墜直後のことは記憶にないと言いきった方がお前のためだ」
 意味が判らず、眉をひそめた蓮見を、女は少し厳しい眼で見上げた。
「この先一生、防衛庁につきまとわれたくなかったらそうしろ、私もしばらくは自由に動けなくなるだろう。落ち着いたら私の方から連絡する」
 それが最後の――互いの顔を見て交わした最後の会話だった。
 右京内閣崩壊による政権交代、官庁トップの総入れ替え、過熱するマスコミ対応。――防衛庁では戦後の大混乱がしばらく続き、その中枢に消えてしまった右京に連絡を取る事は、確かに実質不可能だった。
 本当に――焦れるような思いで待ち続け、ようやく連絡があったのが、もう初夏の頃。
 右京が桜庭基地に移されてからだった。
「悪いな、どうもまだ自由に動けそうもない。また連絡する」
 しかも留守番電話にそれだけのメッセージ。
 がっくりきた。
 こっちは――夜も悶々と眠れないほど心配していたというのに――である。
―――結局、あれはなんだったんだ。
 海岸で、濡れたまま交わしたキス。
 愛していると――そんな、ありえないお言葉まで頂戴したのに、このそっけなさはなんだろう。
―――俺なんて……もう、存在さえ忘れられてるってことかよ。
 別に右京のせいではないが、一年以上禁欲して、自慢ではないが、地上におりても、いまだに我慢し続けている。
 この半年、昔の恋人に復縁を迫られたり、美人警官に告白されたりと、そういう機会はいくらでもあったのに、涙を呑んで健気にスルーしてきたのである。
「蓮見さん、どうしました、浮かない顔をして」
「……いや……」
 なんだかふいに、全てが莫迦莫迦しく思えてきた。
 休日に、こんな――カップルや家族連れがわいわい騒ぐ基地までやってきた自分が、どうしようもなく愚かに思える。
「悪かった、待たせたな」
 いきなりそんな声と共に、背後の扉が開いたのはその時だった。


                   二


「いえ、私が退屈させないよう、色々話をしていましたから」
 どう考えても退屈な話ばかりしていた遥泉は、即座にそう言って立ち上がる。
 蓮見は、強張った首を無理に動かして振り返った。
 扉の前に立っている女。
 オフホワイトの士官服にネクタイ、そして帽子まで被っている。両手には白い手袋。まさに現役軍人――といった感じだ。
 女は帽子を取り、そして、かすかに口元を緩めた――ような気がした。
「久しぶりだな、蓮見」
 うわ、と思った。
 なんだかこの声が――この生意気な声が、ものすごく可愛く聞こえるのは、これは一体なんの魔法なのだろうか。
 右京奏は、ゆっくりと歩み寄ってきて、蓮見の対面のソファに腰を降ろした。
 蓮見は――かつての上司の前で、立つことさえ、挨拶をすることさえ忘れていた。
「コーヒーを持ってきましょうか」
 遥泉が声をかける。
 右京は静かに首を振った。
「いい、上で父と飲んできたばかりだ、たった今お帰りになられた。後はよろしく頼む」
「わかりました」
 遠ざかっていく足音と、そして扉が閉まる音。
 さんざん待たされた後の再会は、こんな風に、実にあっけないものだった。
「お……右京総理が、来られていたんですか」
 何をどう切り出していいか判らず、蓮見は視線を合わせないままにそう言った。
「もう総理ではない。相変わらずニュースを見ない男だな」
 冷めた声が返ってくる。
「いや、知ってますけど、……まぁ、呼び方が、そっちの方がしっくりきてて、つい」
「在任期間が長かったからな」
 そこで、もう会話が消える。
―――な、なんだかな……。
 蓮見は所在無く自分の髪に指を絡めた。
 こういうのを、機を逸したとでも言うのだろうか。
 あの時――半年前、あの海の続きだったら。
 キスして、抱き締めて、言葉なんてなくても、十分判り合えていたはずだったのに。
「基地を案内しようか、あまり興味はないと思うが」
「……あ、そ、そうっすね」
 いや、全く興味はない。
 まぁ、ここで気詰まりな思いをするよりはな――そう思って立ち上がろうとしたが、右京はそのまま、何故か動かないままだった。
 冷たい眼差し。蓮見を見ているのではない、ここにはない何かをじっと見つめている。そんな感じだ。
 少し痩せたかな、と初めて蓮見は気がついた。頬と顎が、ひどく鋭角になっている。スーツと手袋からのぞく手首も、折れそうなほどに透き通って細い。
「お互い、……生延びたが、」
 その唇がふいに呟いた。
「生きるということは、色んな業を背負うということだ。……どうも、私はやっかいな生き方しかできない運命らしい」
 抑揚のない――ないというか、それを敢えて抑えたような声だった。
「お前があの日のことを忘れているならそれでいいんだが、……この先、私に係わらない方が、お前のためのような気がする」
 そこで大きく嘆息し、右京はようやく立ち上がった。
「行こうか、他のクルーも会いたがっているだろう」
「それは、」
 蓮見も続いて立ち上がっていた。
 テーブルをはさみ、半年ぶりに対峙する女。真直ぐな瞳、引き結ばれた唇。
 ようやく込み上げた憤りで――指がふいに震えだしたほどだった。
 いい加減にしろ、と殴りたい衝動。―――相手が男だったなら。蓮見はそれをぐっと堪えた。
「それは、もう、俺のことを、なんとも思ってないってことですか」
「……いや、」
「俺は――あんたのこと、」
「蓮見、」
「あんたのことばかり考えてて、もう、どれだけ心配して、会いたかったか」
「私も会いたかったんだ」
「なのに、あんたは、――え?」
「…………」
 テーブル越しに手が伸ばされる。白い手袋。
 蓮見は咄嗟にそれを握り締めて、引き寄せた。
 互いに手をつき、身体を支えて、テーブルを挟んで唇を重ねる。
 少しもどかしいキスだった。
 それでも、蓮見が求めるものに、右京は応じて――それが、信じられなかった。
 確かに半年ぶりに会った恋人たちにふさわしい口づけを存分に交わし、重たいテーブルを押しのけて、蓮見は右京を抱き締めた。
 柔らかい――そして、髪から、耳から、この女の香りが漂ってくる。
 キスを続けながら、その手を覆う手袋を脱がせた。触れたかった。肌に、直に。
 さすがにこの場所で、それ以上の行為を求めるつもりはなかったが、せめてその手に、指先に触れたかった。
 それから。
「……ネクタイ、ほどいてもいいすか」
「それはいいが……場所、判ってるのか」
 戸惑う顔に、ぐっと胸がしめつけられる。
―――お、抑える自信、なくなってきたな。
 そう思いながらも、指は勝手に、女のネクタイを解いていた。
 右京は、緊張しているのか、少し身体を硬くしているのがよく判る。
「蓮見……、本当に、場所、」
 はだけた襟元に、その白い首筋に唇を当てた。
「ん……」
「右京……」
「あ、痕……は、絶対に、つけるなよ」
 その声も、かすかな赤みが差した頬も、何もかも愛しくて可愛い、やばい、こんなのは初めてで――自分がもう、止まらなくなりそうだ。
「あ、蓮見、だっ、」
「右京、」
 背後で激しく扉がノックされたのはその時だった。
「なんだ」
 その瞬間、何事もなかった顔で、すっくと背筋を伸ばす右京。
 がくっと、蓮見は自分の中の何かが壊れるのを感じた。
―――お、おい。
「右京さん、今、防衛庁の阿蘇本部長から緊急コールが」
 扉の向こうから、少し緊張した遥泉の声が響く。
「そうか、わかった。すぐ戻ると伝えてくれ」
 女の手は、すでに解けたネクタイを締めなおしていた。
「悪いな、蓮見、少し、やっかいなことになってるんだ。もしかしたら、今日はもう時間が取れないかもしれない」
「いや……いいっすけど」
 仕事が入るのは仕方がない。怖いのは、この女の変わり身の早さだ。
「お前も基地内を少し歩いてみたらどうだ、仲のよかったクルーにも会いたいだろう」
「はぁ、……あの、まぁ後で、ハイ」
「……?ではな」
 慌しく、その背中が扉の向こうに消えていく。
 蓮見は自分の情熱を持て余しながらソファに背を預けた。
 そして思った。
―――ああ、普通の恋愛がしたい……。

                  
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もう会わないでは、抱き合わないでは取り戻せないものを――。

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