十九
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「どうして楓を護ってくれなかったんですか!」
ノックしようとした手が思わず止まってしまっていた。
右京奏の執務室。
中から聞こえてきた怒声は、信じられないことに嵐のものだった。
「嵐、留学のことは、楓が決めたことなんだ」
返って来る声は冷静だった。いつもの――右京奏の声。
「決めた?決めさせられたに決まってる。でなきゃどうして――― 今さら一人でドイツなんかに行ったりするんですか、せっかくアメリカ政府から正式に放免されたっていうのに!」
―――ドイツ?
扉の前で、獅堂は凍りついていた。
あいつが――ドイツに?
「嵐君、右京さんに、もう楓君の処遇をどうにかできる権限はないんだ、それは判っているだろう」
割り込んできた声は、遥泉雅之のものだった。
けれど、嵐の声はひるまなかった。
「これじゃあまるで、実質的な国外追放処分だ。僕はなんのためにおかしな実験を繰り返し受けさせられたんです?全部楓のためなのに、楓を自由にするためだと言われたから――僕は、」
歯軋りが聞こえてきそうな声だった。
「卑怯だ……、上の人たちは、みんな……卑怯だ」
その激しさに、その苦痛の声に、獅堂は言葉を失っていた。
「僕は、もう二度と軍には協力しませんよ、おかしな人体実験を受けるのもごめんです。もう、二度とあんたたちには係わらない!」
「嵐君!」
さらに激しい声がした。
それが、遥泉が発したものだと、咄嗟に獅堂には理解できなかった。
「君は何もわかっていない、なんのために右京さんが、FBIに出向することになったのか」
「よせ、遥泉」
―――FBI。
扉の影で、獅堂は息を詰めていた。
右京は――では、海外に出てしまうのだ。椎名や楓と同じように。
でも、その異動が何を意味するのか――栄転なのか左遷なのか、獅堂には判断できない。
「……嵐、遥泉の言う通り、もう私には、何もしてやることはできない」
溜息まじりの声がした。
右京の声。
「確かに真宮楓のドイツ留学は、防衛庁幹部のお膳立てだろう。何か裏があることは確かだが、今の時点で詳しいことは判らない。けれど最終的にそれを決めたのは楓自身だ」
「…………」
「それは、あの男自身が、この国を出る道を選択したということだと思う。今、世論は真宮楓を巡って肯定論、否定論の真っ二つに割れている。いまだ報道が過熱している中、彼がこの国に残る事が果たして――彼にとっての救いなのか、今の私にはわからない」
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二十
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確かにそうかもしれない。今、日本国中に広がっている真宮楓という青年へのバッシング。それと同じ数だけの擁護論。
処分保留を訴える声と、処分しないことへの批判がぶつかりあって激しい議論が巻き起こっている今、楓の処遇は、とりあえずそうするしかないのかもしれない。
でも―――。
それでは、余りにも残酷すぎる。寂しすぎる。
楓と嵐は、五年ぶりに再会し、ようやく心をひとつにしたばかりだったのに。
構内をあちこち駆け回り、そして最後に。
獅堂は、嵐と…そして真宮の部屋を、開けた。
開け放たれた部屋は――がらんとしていて、すでに人の住む気配はなかった。剥き出しになったベッド、空になったクローゼット。何も置かれていない机。
―――嘘、だろ……。
もう――出て行ったというのだろうか。
楓と、空を見上げながら話をしたのは、ほんの数時間前のことなのに。
「知らなかった?彼ら、少し前からここを出て行く用意をしていたのよ」
背後から声がして、獅堂は茫然と振り返っていた。
立っていたのは宇多田天音だった。
いつものように品のよいスーツをまとい、さらさらの髪を背中でひとくくりしている。
獅堂は今まで、この人に好意以外の感情を持った事は一度もない。なのに今の宇多田は――どこか挑発的な、まるで嫌いな相手でも見るような目で獅堂を見上げていた。
「楓君、ドイツに行くんですってね。そのことで嵐君と散々言い争ってたみたいだった。嵐君は自分もついていくって言い張ったらしいけど――楓君は、一人になりたいって」
一人になりたい。
何故だろう。嵐さえも、あの男は拒んだと言うのだろうか。
(――俺より今は、嵐の方が精神的に参ってるのかもしれない。もう、俺はあいつの傍にいてやれない。……あんたが嵐についててあげてよ)
あれは、どういう意味だったのだろう。
獅堂が何も言えないでいると、
「嵐君は諦めて大学への復学を決めたみたいだけど――私は、諦めないわよ」
宇多田は腕を組み、探るような目で獅堂を見上げた。
「会社には辞表を出すつもり、私、彼と一緒にドイツへ行くわ」
「…………」
「押しかけ女房兼密着ルポライター……彼の半生って、いい本になると思わない?」
「宇多田さん、」
思わず非難めいた声を出していた。そんなこと――あの男が喜ぶはずは、決してない。
「なんとでも言って、私、上昇思考の塊だから。自分がこんなに情熱的だったとは知らなかったけど」
そこまで言って、宇多田は初めて苦笑した。獅堂ではなく、自分自身を嘲うような笑い方だった。
「なんてね、結構マジで、あの子にまいってるのよ、私。彼のせいでキャリアも仕事も全部パァ、それでも彼を諦めきれないの」
獅堂は何も言えなかった。
「獅堂さん、あなた最年少三等空佐ですってね。空自のエリート街道まっしぐらってとこかしら。あなたは死んだって、私みたいな莫迦な真似は出来ないでしょうね」
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二十一
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「くそっ……」
獅堂の唇から舌打が漏れた。
会って、それでどうしたいわけでもない。ただ、このまま別れてしまうのでは寂しすぎる。
胸に何か、わだかまりのようなものが残っている。伝えたいことが残っている。
人事異動が発表された翌日だった。
いつものように、午前の演習から帰投して自機を降りると、エプロンで整備士たちの交わす会話が飛び込んできた。
嵐と楓が――午前中に、すでに基地を出て行ったと。
ヘルメットを投げ捨てて、まだベストもブーツも脱がないままに、獅堂は館内に掛け戻った。
行き交う隊員たちが、驚いて振り返る。それにも構わず、獅堂はまっすぐに嵐と楓の私室へ向かった。
扉を開ける。―――昨日と同じで、人の住む気配のしない部屋……。
「なんか、用」
ふいに背後で落ち着き払った声がした。
獅堂は弾かれたように振り返った。
大きなリュックサックを肩にひっかけ、濃いベージュのロングコートをラフに着こんだ真宮が、すぐ背後に立っていた。
「真宮……」
獅堂は、ほっと息をついた――ものの、次に続けるべき言葉が出てこない。
真宮楓は黙って、どこか不思議そうな表情で獅堂を見つめている。
「お前…、ドイツに移るって………」
ようやく、それだけ言えていた。
そうじゃない、言いたいことは、そんな日常会話じゃないのに。
「ああ、向こうの大学に、国費でね。優雅なもんだろ」
真宮はあっさり答えた。獅堂の横をすっとすりぬけ、開け放たれたドアから部屋へ入る。
「ちょうどいいから、あっちで就職して、そのまま永住しようかと思ってる。ここにいるよりは静かに暮らせそうだから」
「け、結婚とかも、すんのか」
「結婚?なんで」
「……いや」
―――宇多田さんと一緒に行くのか。
そう聞きたいのに、何故かそれが言葉にならない。
「じゃ、な。獅堂さん、もう会う事もないと思うけど」
笑ってはいない。でも、どこか暖かな表情だった。こんな優しげな顔をした楓を見たのは、獅堂には初めてだった。
彼が自分自身で決めたことだ――。
右京の言葉が胸に響く。
この基地で、いつもどこか寂しげだった楓。今彼は、異国へ旅立つと決めたことで――心の区切りをつけようとしているのかもしれない。
「真宮……自分は、」
獅堂は、胸がいっぱいになるのを感じた。
「も、もっと…」
「もっと?」
「…………」
何を言い出すつもりなのか、自分でもよく判らない。
あの夜から。
月の光りと波の音が見せた幻想の夜、なんとなくこいつのことが気になり始めて、そう――まだ、あの時かかった魔法が解けていないのかもしれない。
「もっと、お前のこと、理解したかった」
少し、驚いたような、戸惑った表情が自分を見返している。
「……なんで…?」
聞かれても、理由など判らない。
しばらくの沈黙があった。やがて、静かに楓は、獅堂に向かって歩み寄った。
「俺はあんたのこと、嫌いだったよ」
「そ、そんなこと、いちいち言われなくても」
「話してると苛々した、あんたに同情されるのも、可哀相だって言う目で見られるのも、たまらなく嫌だった」
かっと、頬が熱くなる。
「俺と話してると優越感感じるだろ、なんとかしてやりたいって、助けてやりたいって、俺ってそんなに可哀相な奴?」
「そんな、そんなつもりじゃない」
「じゃあどういうつもりなんだよ!」
初めて聞くような、感情を露わにした声。ほとんど間近に立つ楓と、顔を上げた獅堂の視線が真正面からぶつかった。
「なんだっていちいちいちいち俺に絡んで来るんだよ、迷惑なんだよ、苛々すんだよ!」
「…………」
「あんたと俺は、全然別の次元で生きてんだよ、これからどんどん出世していくエリートのあんたが、俺なんかに構う理由なんてないだろ」
「う、宇多田さんなら同じで、どうして自分が違うんだ」
「そこでどうしてあいつが出てくるんだ」
「だって、」
「……なんで、」
楓は初めて眼を逸らした。
その目が何故か、苦しげに見えて、獅堂は少し驚いていた。
目を逸らしたまま、楓は低く呟いた。
「……なんでそんな目で俺を見るんだよ」
「そんな、目……?」
意味が判らずそう呟くのと、肩を強く抱かれるのが同時だった。
―――え?
唇が、柔らかく塞がれる。
―――ええ?
冷たい口づけ。
思わず逃げた肩が、壁にぶつかる。
怜悧な外見からは想像できない激しさで、奪うようなキスが続く。
「ま、……」
頭――の中で。
国府田はなんて言ってたっけ。
頭の中で―――星が。
心臓がぎゅっとなる。心ごと強く絞られる感じ。
苦しい――息ができない、こんなの――初めてで。
嫌なのに――すごく、心地よくて。
「…………」
唇が離れた後、獅堂はずるずると腰を落とした。
―――星と雑巾。
やっと、その意味が判っていた。
判った相手が、でも、でも――よりによって。
「……もう二度と会わない、さよなら、獅堂さん」
横顔を見せた楓は、それだけ低く呟いた。
それが、別れの言葉だった。