十六
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「楓君、随分いい顔で笑ってましたね」
背後からふいに声を掛けられ、獅堂は思わず咳き込んでいた。
「そ、そそうですか、自分は別に」
「視線が向こうのテーブルに張り付いてましたけどね」
そう言って、獅堂が座っているテーブルの対面に腰掛けたのは、鷹宮篤志だった。
手にしているトレーには、遅い昼食なのか、コーヒーとサンドイッチが載せられている。
そして、美貌の男は楽しげに呟いた。
「春ですねぇ」
「秋です、鷹宮さん……」
翳った陽射しが、午後のランチルームを照らし出していた。さっき退室した嵐と楓が、最後の客で、残っているのは獅堂と鷹宮だけだった。
「嵐、少し感じが変わったな、と思って」
獅堂は言い訳がましくそう言っていたが、嵐―――楓の弟、真宮嵐に対して抱いた印象だけは嘘ではなかった。
嵐が、つくば市の研究施設から戻ってきてから今日で六日。
帰ってきた嵐がひどく痩せて、どこか表情が翳っていたのも気にはなったが、それよりも目を引くのは、兄の楓への執着ぶりだった。
24時間、片時も離れようとしない。まるで自分の腕で囲うように、決して他人に触れさせないように、傷つけないように――。
大切な宝物、まるで恋人でも護るような熱心さで、ずっと楓の傍についている。
先ほども、人気の絶えたランチルームの片隅で、入ってきた獅堂にも気づかない熱心さで語り合っていた二人は、声をたてて笑いあっていた。
その楓の―――安心しきった笑顔を見た刹那、何故か胸がちくりと痛んだ。
理由は――多分、判っている。
「やっぱ、楓には嵐が一番なんすね。長い間離れていたから……今が嬉しくて仕方ないのかな」
空になったコーヒーカップを所在なく弄びながら、獅堂は自分に言い聞かせるようにそう言った。
自分はあの笑顔が見たかった。
月と波の音が聞こえた夜、手を引いて一緒に走ったあの夜、刹那に見せてくれたあの男の笑顔が――あまりに綺麗だったから。
戦後、ずっと晴れなかったもやもやした胸苦しさが、その瞬間、吹き付ける風に洗われるように、すぅっと楽になったから。
もう一度あんな笑顔が見たくて、それで。
それで――あんなおせっかいな真似を繰り返していたのかもしれない。
「嬉しそうに見えますか」
コーヒーを唇に運びながら、鷹宮は含んだような口調でそう言った。
「え?」
「私には、むしろ痛々しく見えますけどね、……まるで終わりかけている恋人同士みたいに」
「な……」
その例えに、一瞬眉をひそめたものの、獅堂はがっくり肩を落としていた。
「何言ってんですか、真宮楓にその気がないって、そう言ってくれたのは鷹宮さんなのに」
「彼の方は違いますけどね」
「…………」
鷹宮はそこで口を閉ざす。
―――?
彼の方?
獅堂は意味が判らず、そのままコーヒーカップに添えた指を止めていた。
彼の方?……ってことは……?
「嵐君は何を焦っているのかな、楓君の処遇のことで、何か……内々で話でもあったのかもしれませんね」
鷹宮はそう呟き、きれいな所作でサンドイッチを口に運んだ。
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十七
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ぼんやりとそこに足を踏み入れた獅堂は、はっとして息を引いていた。
「……懲りない女だな」
呟いた男は、少し煩げに前髪を払う。
それでも、腰を降ろしたまま、その場を立ち去ろうとはしなかった。
「べ、べつに、お前に会いに来たわけじゃ、」
獅堂は戸惑って、その場に立ちすくんだまま、木陰で片膝を抱いている男を見下ろした。
珍しく眼鏡を掛けている真宮楓。本でも読んでいたのか、手元に分厚い本が数冊重ねて置いてある。
少し陽射しが曇っていた。夕方から――雨になるのかもしれない。
楓がいつも寝ていた場所、この場所で昼休憩を過ごす事が、なんとなく獅堂の日課になっていた。
嵐が戻った以上、楓がここに来る事はないし、実際この十日余り、獅堂は一人きりで、流れる雲と空の蒼を見つめていた。
それだけで――不思議と気持ちが静かになっていくのがわかった。
眼を閉じてじっとしていると、ほんのわずかだが波の音が聞こえてくる。
そのせいもあるのかもしれない。少しの間、まるで別の世界に一人で漂っているような、そんな不思議な開放感を感じることが出来る。
楓がそのまま動こうとしないので、獅堂は仕方なく少し離れた場所に座った。
二人になったら――色々、聞きたいことも話したいこともあったのに、不思議と言葉は何も出てこなかった。
かといって、沈黙にも耐えられない。
「ら、嵐は、一緒じゃないのか」
「嵐は外出中、もうすぐ戻ってくると思うけど」
落ち着き払った静かな声が返って来る。
結局は自分一人が緊張しているのかもしれない。獅堂は急に腹立たしくなった。
ここ数日、何故かこいつのことばかり考えてしまう自分。それに一番腹がたつ。宇多田さんのこととか、嵐のこととか。――――なんだかもう、どうでもよくなっていた。
「へぇ……それで寂しくなって、ここに来たのか。悪かったな、お前がいない間、ここは自分の指定席になったんだよ」
「知ってるよ」
「知ってんなら、来るなよ、お前はもう、」
言いかけて、言葉を失っていた。
今、何か、ひっかかることを言われたような気がする。
――――……知ってるなら、なんで来たんだ?こいつ。
「で、なに?」
そっけない声が思考を遮る。
「え?」
「俺がもう、何?」
「え、いや、あー、……なんだっけ」
本当に、何が言いたかったのか忘れていた。獅堂は所在無く天を仰いだ。
「……言っとくけど、こないだのは、誤解だからな」
黙っていると、意外にも口を開いてくれたのは楓の方だった。
今度は獅堂が戸惑って眉を寄せる。
「こないだ……?」
「別に――あんたが考えてるようなこと、してたわけじゃないから」
「自分が……考えるようなこと?」
言いかけて、あっと気づいた。もしかして――宇多田天音と、部屋から出てきたことを言っているのだろうか。
「な、なな、何もそんな言い訳しなくても、」
思わず赤くなっていた。あの時の二人の会話は、まだ耳朶にこびりついている。
「じょ、情熱的って言ってたし、そ、そんなの、子供だって判るじゃないか」
「だからまぁ、キスして、ちょこちょこっとだな」
「ちょこちょこっと……?」
「何も準備してないし、いくらなんでも嵐の部屋で、」
「…………準備?」
「―――――いや、もういい」
片手で額を押さえ、楓ははぁっと息を吐いた。
「あんたに説明しようと思った俺が莫迦だった。意味が分からないならそれでいい、とにかく――鷹宮さんあたりに妙な噂をばらまかれたらたまらないからな」
「自分は、そんなにおしゃべりじゃない」
さすがに少しむっとしていた。
「そうかな、鷹宮さんの誘導にかかったら、あんたなんか、簡単にあることないこと言いそうだけど」
「そ、そんなことは、ない」
少し自信がなくなりかけていた。確かにこの男の言う通りで、―――獅堂は何故か鷹宮には弱い。そして、それを――まだ話すようになって間もない男に見抜かれている。
それが少し不思議だった。
「まぁ、いいや、とにかく話はそれだけだよ」
それきり楓は口をつぐんだ。
え、じゃあ……。
獅堂は驚きを隠さずに隣に座る男を見上げた。
―――まさかと思うけど、ここで、自分を待っててくれたの、かな。
楓は何も言わない、無言のままで手元の本を取り上げる。
眼鏡が似合うなぁ、と思っていた。素顔の時よりは幾分か優しく見えるのは何故だろう。
少しだけ勇気を出して、その傍に膝を進めていた。
「それ、なんの本だよ」
「獅堂さんには、説明も理解もできない本」
「…………」
むぅっとして、重ねられた一冊を手に取ってみる。
―――タイトルからしてすでに英語。
厚い茶表紙に、見たこともない魚の写真が刻まれている。
「俺は沖縄で育ったから、」
眉を寄せてページをたぐっていると、静かな声が返ってきた。
「そのせいかな、海を見ると落ち着くんだ。許されるなら、そういう関係の仕事につきたいと思ってる」
―――海……。
獅堂は楓の横顔を見上げた。
「お前。前も言ってたよな、……ここで、海を見ていたって、あれってどういう意味なんだよ」
楓は無言で空を仰いだ。
―――空……?
「ここで空見てて気がついた。空ってさ、海に似てる、当たり前だよな、海は空の色を映してるんだから」
「えっ、あ、そうなのか、だから海は青いのか」
「……………………帰ってくれ、頼むから」
憎まれ口を利くものの、楓の眼は怒ってはいないようだった。
楓がそのまま空を仰いでいるので、獅堂も同じように視線を上げた。
うん、いい空だ。一雨来る前の柔らかな蒼。突き抜ける晴天の蒼より、獅堂は今の色の方が好きだった。
「空が曇れば、海も曇って」
楓の低い声がする。
うん……こいつの声は結構好きだ。
声だけ聞けば、すごく優しい奴のように……思える。
「空が晴れれば、海も鮮やかな青になる。ここに来るまで、そんな当たり前のことに気がつかなかった……不思議だよな」
横顔。きれいな唇、あ、八重歯発見。ふーん、歯並びは完璧ってわけじゃないのか。
そんな莫迦なことを考えていた。そして何故か――いつまでも動きたくなくて、始業開始のベルが鳴っても、獅堂はしばらく、そのままの姿勢でいた。
「……獅堂さん、嵐をよろしくな」
やがてふいに楓が呟いた。
彼もまた、その場から動こうとはしなかった。
「……え?」
獅堂は戸惑って楓を見上げる。
「俺より今は、嵐の方が精神的に参ってるのかもしれない。もう、俺はあいつの傍にいてやれない。……あんたが嵐についててあげてよ」
サイレンが――。
全隊員を招集する緊急サイレンが鳴ったのはその時だった。
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十八
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「突然だが、」
一階正面の広いホールに整列したのは、この航空自衛隊桜庭基地に所属する全隊員―――その七割がオデッセイ時代からの同僚たちなのだが、要撃、哨戒、支援、偵察、輸送、救難――地上勤務事務職、整備士を含む全ての者達だった。
列に対峙する形で正面に立っているのはこの桜庭基地の責任者、右京奏。
いつものようにライトグレーの士官服をすきなく着こなし、人形のような怜悧な顔で立っている。
彼女の左右に立っているのは警察時代から彼女の補佐を勤めてきた遥泉雅之。
そして、要撃戦闘機パイロットの編成隊長を務める椎名恭介。
二人とも、グレーのスーツを着て、ネクタイを締めている。
椎名のそんな姿を見たのは初めてだったので、列の先頭に立っていた獅堂は、しばらく言葉を失っていた。
その右京が、よく通る声で最初に口を開いた。
「突然だが、本日づけを持って、私は警察庁に戻ることになった」
―――え、
驚いたのは、むろん獅堂だけではない。それは、いずれはそうなると思っていた。でも――。
「今朝、正式に決定した。本日中に荷物をまとめ、私はここを出なければならない」
感情のこもらない声が、淡々と続く。
「ここにいる遥泉君も、私と同じく本日付をもって警視庁捜査一課への復職扱いとなった。それから、椎名三佐だが、彼は、テキサスの米空軍基地に指導員として召集されることが決定した。椎名君は、今週中に日本を立つことになる」
―――椎名さん。
獅堂は顔を上げていた。
はっと、胸が詰まるような思いだった。
椎名は、まっすぐに自分を見つめていた。
ようやく――獅堂は理解した。彼が突然結婚を決めた理由も。基地の解放日、右京と出て行った理由も。
「少し前から内々に話はあった、しかし、私が口止めをしていた。まだ、我々の処分についてはその時点で未知数だったからだ」
それから。
女指揮官は、平素と変わらない口調で静かに続けた。
「真宮嵐、国府田ひなの」
獅堂の殆んど隣に並びあって立っていた二人が、一瞬背筋を伸ばすのがわかる。
「長い間、軍への協力、ご苦労だった。今月いっぱいで、君たちは退庁扱いになる。元に生活に戻って、学業に専念してほしい」
二人の顔色は複雑だった。
ひなのは明らかに不安気だったが、嵐は無言で、うつむいたままだった。
「獅堂一等空尉」
そして、いきなり自分の名前が呼ばれる。
「君には、来月一日付けで百里基地要撃部隊編成隊長として異動命令が出ている。その時点で、三等空佐に昇格するだろう。おめでとう、獅堂」
―――え……。
「すげ……、獅堂さんの若さで、普通ありえないだろ」
「さすがだよな」
さすがに囁きがあちこちで漏れる。
獅堂はただ、混乱していた。編成隊長とは、実質基地にいる全ての要撃パイロットたちの頂点――彼らのリーダーになることを意味する。
そんな――そんな役目が、自分に務まるのだろうか。
「鷹宮一等空尉」
次に呼ばれたのは鷹宮篤志だった。
「はい」
優雅な声が静かに響く。
「君も来月一日付けを持って異動だ。本庁の情報通信本部所属になる。これからは地上職になるな」
さすがの鷹宮も、驚いているのが気配で判った。
―――情報通信本部とは、かつて右京が部長職をつとめていた部署だ。霞ヶ関の防衛庁に位置し、わが国の国防機密の全てを掌握している部署。
普通に考えれば、パイロットである鷹宮が異動するような部署ではない。
それから、次々に名前が呼ばれ、新しい所属と階級が告げられた。
あまり階級や所属の位置付けが判らない獅堂にも理解できた。
異動は、ほとんどが栄転、いわゆる出世コースに隊員たちが戻れたことを意味していた。つまり――上は、オデッセイのクルーたちを処罰するのではなく、評価する道を選択したのだと。
でも――。
「米中両首脳が共同で終戦宣言をしてから、もう半年が過ぎている。しかし、君たちも知ってのとおり、いまだ世界情勢は安定しているとは言い難い。これからも、列島防衛の最先峰として、しっかり隊務に励んで欲しい」
この――冷静な声を聞くのも、これで最後になるのだろうか。
獅堂は胸が痛くなった。
嵐やひなの、そして椎名などの一部をのぞき、誰の顔も明るかった。
その中にあって、今日の今日、まるで――追い出されでもするかのように、ここを出て行くことになった右京は、その扱いは、どう理解したらいいのだろうか。
「長い間ありがとう、いたらない私を皆が支えてくれた、感謝している」
誰からともなく拍手が起こる。
同じように拍手を送りながら、獅堂は眉をひそめていた。
右京はどこへ異動になったのだろう。
そして、―――真宮楓は。