十ニ


「よっ、おはよう、真宮」
 午後のランチルームでその姿を見かけ、獅堂は嬉しくなって声を掛けた。
「おはようって時間かよ」
 サンドイッチを摘んでいた男は、そう言ってきれいな眉をすっと寄せる。
 正午を大きく過ぎていたせいか、ランチルームは閑散として人気が無かった。
 定食のたぐいは全て売り切れ、獅堂も仕方なく残り物のサンドイッチをトレーに載せて席につこうとしていたところだった。
「いやー、実は早朝のアラート待機だったんだよ。9時に開放されて、さっきまでずっと寝てたからさ」
「ふぅん」
 なんだ、素っ気無い奴だな。
 そう思いながら、自分のサンドイッチと真宮楓のトレーに載せられたそれを見比べる。
「あ、ツナサンド、くそー、最後の一個って、お前が取ってたのか」
「いや、やるから、こんなもんでいちいち騒ぐなよ」
「えっ、いいのか?動物タンパクは貴重だぞ」
 楓は無言で、自分のトレーを獅堂の方に押しやった。
「……じゃ、俺はこれで」
 そのまま椅子を引いて立とうとする。
「行くのか?いろよ、一人で食事するのも寂しいし」
「……あんたねぇ」
 楓は、はっと溜息をついた。
 その横顔があまりに冷たかったので、獅堂は少し驚いていた。
「昨日から今朝にかけての騒ぎ、もう忘れたわけじゃないんだろ、俺なんかと一緒にいたら、おかしな噂を肯定して回るようなもんだぜ」
「あはは、あれかぁ、結構楽しかったよな。室長と遥泉さんがいなかったから助かったけど」
「……能天気な女」
 呆れたように呟いて、そのまま楓は立ち上がった。
―――行くのか、
 と、少し寂しくなってその背中を見送ったものの、楓はサーバーからコーヒーを継ぎ沸け、それを手にして戻ってきた。
 一時獅堂は、そのすらりとした立ち姿に見惚れていた。
 この基地で、唯一私服を着ている男。
 オフホワイトの半そでシャツに、洗いざらしのジーンズ。
 多分、顔が小さくスタイルがいいせいだろう、何を着てもさまになっている。
 髪は、最初――一年前にオデッセイで会った時よりは、随分短くなっていた。あの時は病的なまでにやせていた男が、今は、肩にも腕にも、ほどよく筋肉を内包しているのがよく判る。
「右京さんは、何処行っちゃったわけ?」
 再び席につき、楓はコーヒーを口に運びながらそう言った。
「さぁ、自分もはっきりしたことは」
 獅堂は、かすかに眉を曇らせた。右京と遥泉、そして椎名は、昨夜からまだ戻らない。
 辺鄙な場所だから―― 一晩東京に留まることにしたのかもしれないが……。
「あーっ、噂の二人!」
 ふいに、甲高い声が、静かなランチルームに響き渡る。
「もう、獅堂さんったら隅に置けない人ですねぇ、一体どっちが本命なんですかぁ」
 缶ジュースを持って歩み寄って来たのは、国府田ひなのだった。
 獅堂が辟易して黙っていると、国府田はその隣の椅子を引いて、腰を降ろした。
「ひゃー、近くで見るとハンサムですねぇ、嵐君とは、ちょっとタイプが違って、大人っていうか」
「それはどうも」
 楓は冷たい口調でそう答える。話しかけ無用、と顔に書いてあるようなものだが、国府田がそれを気にしている気配は少しもなかった。
「そうそう、獅堂さん、ひなのねぇ、すごいもの見ちゃったんですよ」
「すごいもの?」
「部長ですよ、右京さん。昨日、蓮見さんが来てましたけど、会いました?」
「……いや、なんでも右京さんたちに同行して東京に戻ったとしか」
 ひなのは、そこで声をひそめた。
「あの二人ね、できてますよ」
「あの二人?」
「だから、右京さんと蓮見さんですよ、昨日よほど慌ててたのか、右京さんネクタイを締めながら出てこられたんですけど」
「うんうん」
「なんかその様子が普通じゃなかったっていうか、後から出てきた蓮見さんと、妙に眼をあわせないようにしてたというか」
「…………え?あまり、意味がよく判らないんだが」
「だからぁ、つまりですよ、その時間差が問題なわけで」
「時間差?」
「ああ、もう、あのですねぇ、男と女の」
 国府田が焦れたように言い募るのと、対面に座っている楓が吹き出したのが同時だった。
「な、何が可笑しいんだ、真宮」
「いや、別に」
 その笑顔が、ふと止まる。獅堂も、その視線を追って振り返っていた。
 ランチルームの入り口に、みかづきや黒鷲のパイロットたちの姿が見えた。
 彼らは、一様にいぶかしげな眼で、こちらに近づこうかどうか、それを逡巡しているかのように見えた。
 獅堂が再び視線を戻した時には、すでに楓は席を立っていた。
「あー、俺たち、そんなつもりじゃなかったんすけど……」
 相原の、申し訳なさそうな声がする。
「いや、お前らのせいじゃないよ」
 遠ざかっていく背中を見ながら、獅堂は嘆息して呟いた。


                 十三


―――どうしたら、こいつは心を開いてくれるのかな。
 眠っている横顔を見ながら、獅堂は所在無く頬杖をついた。 
 今日も朝から過ごしやすい気候だった。
 午後の陽射しは穏やかで、時折吹く風は心地よかった。
 楓は、まだ眠っている。木陰の下で、両腕を組んでそれを枕にして。
 少しだけ傾いた横顔に、木漏れ日が落ちていた。
―――眩しくないかな。
 それが少し気になって、獅堂は手をかざしてやった。
「また、来たんだ」
 動かなかった唇がふいにそう呟く。驚いて手を引いていた。
「な、なんだ、起きてたのか」
「神経質なんだ、人が傍にいると眠れない」
「そっか」
「……そっかじゃないだろ。直訳すればあんたが邪魔だって言ってんだけど」
「言われなくても、顔に書いてあるよ」
 獅堂は少し寂しくなって、両腕で膝を抱いた。
 あと少しで午後のブリーフィングが始まる。あまり余裕があるとは言えない昼休憩―― 一体何をしにここまで来るのかな、自分。―――といつも思う。
 真宮楓が迷惑しているのは明らかで、基地内で、二人に関して様々な噂が乱れ飛んでいるのもよく知っているのに。
「あ、そうだ、真宮、お前、ラーメンって好き?好きだよな、一応中華国民の一人だったわけだし」
「…………別に関係ないと思うけど」
「鷹宮さんからさぁ、ダンボールいっぱいのラーメンが送られてきたんだよ。よかったら少しわけてやろうか」
「……いらねーから、マジで」
 むっとした横顔。
 でも、書庫で会った時よりも、その表情が幾分和らいでいる――そう思うのはうぬぼれなのだろうか。
「好き嫌いはよくないな、自分は雑食でさ、世界中のどこに行っても生きていけるってよく言われるんだが」
「ふぅん」
 不機嫌そうな顔をして、迷惑そうな眼をして。
 それでも、自分の話をちゃんと聞いてくれている。
 そんな風に思えるのは、ただの――独りよがりなのだろうか。
「でも、たったひとつ食べれないものがあってさ、………そこでクイズなんだが」
「悪い……そんなくだらない話につきあうほど暇じゃないから」
 呆れたような声と共に、すっとしなやかな長身が立ち上がる。
「なんだよ、いつも暇そうにしてるくせに」
 ちょっとむくれてそう呟くと、
「ふぅん、じゃあ当ててやろうか」
 意地悪い声が返ってきた。
「その代わり当たったら、俺のいうことなんでも聞いてもらうからな。言っておくけど何でもだからな」
「公序良俗に反することは……」
「パセリだろ、ばーか、いっつもそれだけ残してるじゃないか。頭の体操にもなりゃしない」
 獅堂はぐっと言葉に詰まる。
「はい、正解、顔にそう書いてあります。で、俺の要求はコレ、もう二度と俺に個人的に話し掛けんな」
 とりつくしまのない言い方だった。
 楓は横顔を見せたまま、腰についた草を払った。
「あんたからみたら、俺って可哀相に見えるのかもしれないけど、それってあんたの一人よがり、そういう偽善で話し掛けられても超迷惑」
 獅堂は言葉を繋げられなかった。
「頼むからほっといてくれよ。ああ、そっか、こう言えばいいのかな」
 楓は視線を下げ、初めてうっすらと笑った。
「俺さ、女には興味ないんだ。知ってるだろ、マスコミでも散々騒がれてたから。で、今の俺は嵐ひとすじ―――てことであんたは俺の恋敵。顔を見るのも腹立たしい」
「ちょ、……なんだよ、それ」
「とにかく約束、もう俺には係わるな」
 それだけ言って、楓はさっさと背を向けた。
―――なんだよ、それ。
 あまりにも早口で、言われている意味が上手く理解できなかった。
 でも、これだけは判った。
 真宮楓は――もう、自分とは話をしたくないのだと。


                  十四


「なんでしょう、私に相談って」
 正面で、指を組み合わせて優しげな微笑を浮かべている男。
 いざ、鷹宮篤志と二人きりで向き合うと、やはり緊張して、獅堂はこの場に来た事を後悔していた。
 基地内にあるセルフの喫茶スペースで、夜間、二人きりで差し向かいに座っている。
「……えーと、ラーメンのお礼を言わなくちゃと思いまして」
「まさかそれだけの理由で、こんな時間に私を呼び出したんじゃないですよね」
「はぁ……」
 どうしよう。正直に言えば、一番弱味を見せたくない男。
 でも――こんなことを相談できるのは、やはり、その面で経験のある鷹宮しかいない……ような気がする。
「言いたくないなら、私が当ててあげましょうか」
 人差し指を立て、男はそれを自分の唇に当てた。
「例の歯医者さんを振って、真宮楓君とおつきあいしてるらしいですね。その楓君のことですか?」
 げほげほと咳き込んでいた。
「た、鷹宮さん、」
「獅堂さんもご盛んですねぇ、北海道から戻ってきて吃驚しましたよ。いろんな噂が急展開で」
「あ、あの……」
「で、私に何をお聞きになりたいのでしょう。言っておきますが、まだ彼には手を出していませんよ、確かに好みのタイプではありますが、嵐君のお兄さんだと思うとさすがに」
「―――――失礼します」
 やっぱり失敗だった。最初からやめておけばよかった。
 この人に本気で相談しようとした自分が莫迦だった――。
 いや、そもそも質問それ自体が莫迦なことだった。
 鷹宮の眼からみて、真宮は――真宮楓は、同性愛の対象なのか、それを聞いてみたかったのだ。
 けれど、なんのためにそれを聞きたいかといえば、それはいまひとつ判らない。
 ただ、むしょうにもやもやして、それを確かめずにはいられない――ここ数日の獅堂は、ずっとそんな感じだったのだ。
「おい、鷹宮、何やってんだ」
 席を立った獅堂の面前で、ふいに声がして、柱の影から声の主が現れた。
「………獅堂、」
「あ、こんばんわっす」
 立っていたのは椎名恭介だった。
 今夜のアラートにつく予定のせいか、すでにライフジャケットとサバイバルベストを身につけ、編み上げの分厚いブーツを履いている。
 獅堂は眼を逸らしていた。
 眼が合った瞬間に判った。――――多分、この人は怒っている。
 その厳しい眼差しに射すくめられて、うつむいたまま、獅堂は息を詰めていた。
「お前、明日は早いんだろう」
 厚い唇が、少し非難を含んだ声を出す。
「す、すいません、もう寝ます」
「いい加減な気持ちで空に出るな、ここ数日のお前はなんだ、小日向や相原にも簡単に裏を取られているそうじゃないか」
「…………」
 ドッグファイト――要撃戦闘機を使って行われる空中格闘戦。
 三次元の空で、背後を取られるという事は、実戦であれば間違いなく死を意味する。
「すいません」
「まぁまぁ、椎名さん、獅堂さんだって女の子なんですから、たまには悩んだりすることもありますよ」
 たまりかねたように、背後にいた鷹宮が口を挟む。
「そんなことが何かの言い訳になるのか、チームのリーダー機が実戦で背中をとられてみろ、仲間は全滅だ、その意味を考えたことがあるのか」
「椎名さん」
 鷹宮の口調に、わずかに苛立ちが滲んでいる。
「い、いいんです、鷹宮さん、椎名リーダーの、言うとおりですから」
 獅堂は慌てて言葉を挟んだ。
「すいません、明日から気をつけます」
「もういい、……さっさと寝ろ」
「…………」
 獅堂は一礼し、逃げ出すように喫茶スペースを後にした。
 右京と共に椎名が基地を一晩留守にして――戻ってきてから一週間。
椎名と獅堂、二人の間にはどこかきまずい空気が漂っていた。
 それが、自分の態度のせいだと、獅堂はよく知っていた。だから椎名は怒っているのだし、それがフライトに影響しているならなおさらだ。
 判っていた。
 あの日、椎名は自分の口から結婚の報告をするつもりで――たまたま、不幸な偶然が重なって、それをああいう形で倖田から聞かされることになっただけなのだと。
 倖田と椎名を恨んだり、ねたんだり――そんな感情を抱いているわけではない。
 二人とも大好きな人たちだし、幸せになって欲しいと思うのも、本心には違いない。
 でも。
―――でも、
 獅堂は心のどこかで、うぬぼれていた自分に気づいた。
 椎名は恋の相手として、倖田を選ぶかもしれない。
 でも――恋とか愛を超えたところでは、自分が彼の一番なのだと。そんな風に――思って、それが自分を支えだったことに気がついたのだ。
 でも、そうではなく、鷹宮でさえ事前に知っていた結婚話を――自分には教えてもらえなかった。それが悔しいし、どうしようもなく虚しい。
「獅堂さん、」
 背後から、鷹宮が追いかけてくる気配がする。
 今は、その優しさがいっそう辛かった。
「椎名さんは、あなたが可愛いから心配しているだけなんですよ、それはあなたも知っているでしょう」
 追いついた長身の男は、高い目線から嘆息まじりにそう言った。
 獅堂はその眼を見れなかった。
 見たら――頼ってしまいそうで。
「……知ってます、自分の問題ですから。それは、自己解決します」
「私は必要ありませんか。あなたらしい答えですけど」
「失礼します、今日はすいませんでした」
 そのまま背を向けようとした時、
「楓君は、違うと思いますよ」
 からかうような声がした。
 いきなり真宮楓の名前を出されて、獅堂は面食らって顔を上げた。
「それが聞きたかったんじゃないですか?彼はね、典型的な攻めのタイプで……ああ、こういう言葉を使ってもあなたには意味が通じないかな。まぁ、僕の見る限り、極めてノーマルな人間です。過去に何があったのかは知りませんが、彼の本意ではなかったんじゃないかと、僕はそう分析してますけど」
「…………」
「例えば、僕が強引に彼を押し倒したとして――そうですね、まず、次の瞬間、間違いなくぶんなぐられてます」
「あの……、それは男とか女に関係なく、当たり前の反応なんじゃ……」
「違います、違います」
 鷹宮は手を振って、楽しそうに笑った。
「生理的な嫌悪というやつですよ。相手を落とす時、僕にはそれなりの自信があります。例えばあなたを押し倒したとしても、あなたは抵抗できませんよ」
「ばっ、ばかばかしい」
 おかしな例えを出されて、獅堂は耳まで赤くなった。
「そういうものです。でも、本質的にセックスに嫌悪を抱いている相手は別ですから。そして僕がみたところ、楓君はその方にまるで興味がないタイプです」
―――いやぁ、いい素材なんですがね。
「も、もう、いいです、おやすみなさいっ」
 これ以上聞いているのが気恥ずかしくなって、獅堂はそのままきびすを返していた。
「獅堂さん、嵐君、あと二三日で戻ってきますよ」
「…………」
 背後から掛けられた優しい声に、そのまま足を止めていた。
「楓君に伝えてあげるといい、きっと喜ぶと思いますから」
―――鷹宮さん、
 しばらく間をおいて、振り返る。
 鷹宮の長身は、もうその場にはいなかった。


              十五


―――別に……明日でも、いいんだよな。
 そんなことを思いながら、ほんの数歩先にある―――真宮楓と嵐の部屋の扉を見つめ、獅堂は何度目かの溜息をついた。
―――明日は色々予定がつまってるしなー、もう二度と話し掛けんなって言われて、のこのこ会いにいくのもしゃくに障るし。
 背後の階段に、人の気配を感じるたびにドキっとする。
 この階は、男性隊員の宿舎になっていて、いつ椎名と鷹宮が戻ってくるかもしれない。
 こんなところでうろうろしている自分の姿を見られたら、今度こそ本気で呆れられるだろう。
「やっぱ、出直そう」
 こんなことでぐずぐずしている自分が、なんだか本気で情けなくなった。
 一体――最近の自分はどうしたというのだろう。
 気がつけば、ついこの間まで、全く無関係だった相手のことばかり考えてしまっている。
 同情でも偽善でもない、でも――それがなんだと言われれば、いまひとつよく判らない。
 ほんの少し前まで、自分の頭の中は椎名と空のことでいっぱいで――悩みといえば、それくらいしか思いつかないくらいだったのに。
 ガチャと、扉の開く音がしたのはその時だった。
 飛び上がるほど驚いた獅堂は、咄嗟に壁の影に身体を隠していた。
「やぁねぇ、そんなに乱暴にしないでよ」
「うるさいな、こんなとこを見られたら、嵐に迷惑が掛かるだろう」
 楓の声だ。人目を気にして低く抑えているのがよく判る。そして――もう一人の声は。
「でも、うれしかったな、君が私を受け入れてくれて」
「勝手に言ってろ」
「なによ、結構情熱的だったくせに」
「だから、声、出すなって」
 近づいてくる声で判った。―――宇多田天音だ。彼女が――こんな時間まで基地にいたこと自体驚きだったが、それより。
 なんだろう、今の会話は。
 胸が――へんな風にどきどきしている。
 二人の影が足元まで近づいてきて、ここから立ち去らなきゃ、そう思うのに、足が上手く動いてくれない。
「あら、……獅堂さんじゃない」
 先に気づいたのは、少し前を歩いていた宇多田の方だった。
「あ、……こ、こんぱんは」
 なんとリアクションしていいか判らず、獅堂はとりあえずそう言った。
 宇多田の背後で、楓が足を止めるのが判る。
 どことなく妙な緊張感が、一時三人を包み込んだ。
「わー、しまったな、ね、このこと右京さんには黙っててくれる?」
 その気まずさを、明るい声で救ったのは宇多田だった。
「は、はぁ」
「私もここ出入り禁止になっちゃうし、楓君も立場が悪くなっちゃうから、ね、お願いね、獅堂さん」
「それは、まぁ、はい」
 間の抜けた答え方だと思いつつ、獅堂は楓の顔を見ないままに、そう言って頷いていた。
 よく――判らない。
 なんだ?
 なんだろう――この、気持ちは。
 この、説明できない胸苦しさと、喪失感は。
「じゃあね、いこ、楓君」
 何ひとつ口を開かない楓が、そのまま歩き出すのが判る。
 通り過ぎる際、彼が自分を一瞥するのがわかる――多分、なにやってんだ、この女。そんな風に思っているのだろう。
 嵐のこと……。
 言わなきゃ、そう思うのに、遠ざかっていく足音を聞きながら、唇は少しも動いてはくれなかった。
すいません、月変わりでリセットされるので、一度投票いただいた方も、再投票していただけるとありがたいです
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