九


―――サイアクだな、自分は。
 頭痛がする。自己嫌悪で頭がガンガンしている。
 一番卑怯で、そして汚い方法で、自分は―――自分の大切な人を汚してしまったのだ。
 基地内のどこかしこにも、にぎやかな笑い声と、子供の駆け回る足音が響き渡っている。
 その微笑ましい喧噪も、今の獅堂には、むしょうに胸苦しかった。
 部屋に戻ろう――。
 そう思って、階段を上がりかけた時、
「獅堂、そんなとこにいたんだ」
 柔らかい高音の声が、背後から聞こえてきた。
 その声だけで誰だか判る。
「倖田さん、」
 獅堂は驚いて振り返った。
 倖田理沙。航空自衛隊千歳基地で整備士をやっている女。
 元、要撃戦闘機パイロット候補生で――椎名恭介の婚約者。
 倖田は、綺麗な笑顔をくっきりとした口元に浮かべたまま、階段の下で微笑していた。
 薄桃色のニットに、ジーンズという姿が、彼女の肉感的な体格をさらに際立たせて見せている。
 倖田理沙が、今日椎名を訪ねてくることは知っていた。でも――。
「あれ、お一人ですか、椎名さんは」
 不思議に思いながら、それでも再会できた喜びを隠し切れずに、獅堂は急いで階段を降りる。
 実際、獅堂は、この二つ年上の先輩パイロットが、実は誰よりも好きだった。百里基地で一緒に過ごしたわずかな時間、どれだけ励まされ、助けられたか判らない。
 もし、椎名の選んだのがこの人でなかったら――こんな風に、自分の気持ちを抑えることができたか、実のところ自信がない。
「恭介ね、突然呼び出しくらって出てっちゃったのよ」
「……呼び出し、」
「そ、右京さんと遥泉さんと一緒にね、多分行き先は霞ヶ関の防衛庁だと思うけど」
「室長、あ、右京部長も、ですか」
 さすがに驚いて聞き返していた。
 何か――異変でも起きたのだろうか。
 今日は右京と妖しい……(さすがに恐くて誰も確認できないが)と噂されている、元ボディーガードの蓮見黎人も来ているはずなのに。
 もしかして……。
 獅堂は嫌な予感がして、そのまま眉をひそめていた。
 ずっと保留のままだった隊員たちの処分が――決まったのではないだろうか。
「ひどい話よね、わざわざ北海道くんだりから出てきたっていうのに。つまんないから、帰ろうかなぁって思ってたとこ」
 そう言って倖田は楽しげに笑った。
「でもよかった、獅堂に会えて。今日は彼氏と一緒だって聞いたから、会えないかな、とも思ったんだけど」
「……は、はぁ」
 その話には、今触れて欲しくない。
「やるじゃない、獅堂、相手は金持ちの歯科医なんだって?相原と小日向が泣いてたわよ。このぉっ、ちゃっかりいい男捕まえてるんだから」
 が、倖田の瞳は、すでに好奇心できらきらと輝いている。獅堂はますます胸苦しくなった。
「……自分とあの人は、住んでる世界が違いすぎて、その……別に、恋人とか、そういう感じでは」
 うつむいてそう言いかけた肩を、やさしくぽん、と叩かれた。
「たとえば、車が激しく行き交う国道沿いを歩いていて」
「…………え?」
「道路を挟んだ向こう側を歩いている人。眼が合うことも無く行き違ってしまうその人が、実は運命のひとだったりするんだよね」
 少し眼下から、見上げる眼差しは優しかった。
「獅堂は方向音痴だからね、その人の所に行き着けるかどうか心配だけど」
「倖田さん……」
 倖田の笑顔が、その美貌が、今の獅堂にはまぶしいほどだった。
「ま、いざとなったら飛行機でつっこんでいきなさい、あんたならそれができるんだから」
 彼女の声も、笑い方も、いつもと少し違って見えるのは――気のせいなのだろうか。
 思わずその笑顔に見惚れていると、倖田は恥かしそうに肩をすくめた。
「えへ、実は幸せなら、私も獅堂に負けてないんだ、じゃんっ」
 そう言って目の前にかざした左の手のひら。
「…………」
 その薬指に煌くリングを見て、獅堂は言葉をなくしていた。
―――ああ、そっか。
 別に驚く事じゃない。二人は――実質婚約しているも同然の仲だし。
「婚約、指輪ですか」
「それが違うの」
 倖田は、さらに自慢げにその手のひらをひらめかした。
「結婚指輪、籍を入れたのは少し前なんだけど、やっと今日もらっちゃった」
「…………え、」
「どう?吃驚したでしょ、恭介は秘密主義だから、多分誰にも話してないと思うけど。私たち、結婚したの」
「あ……じゃあ」
 その後に、自分が何を言ったのか、獅堂にはよく判っていなかった。
―――じゃあ、もう倖田さんって呼んじゃいけませんよね、
 とか。
―――椎名さんも水くさいなぁ、
 とか。
 そんなことを――笑顔で話したような気がしていた。


                 十


―――星ってこんなに綺麗だったっけ……。
 仰向けになって天を仰ぐと、そのまま夜空が落ちてきそうなほど間近に感じられた。
 昼間――佐々木と別れた場所だった。
 ベンチ裏の芝生。多分――真宮楓が寝ていた場所。
 初めて知ったが、確かに人目を避けて寝そべるには最適の場所だった。
 空に魅せられてパイロットになった獅堂が、唯一余り好きでないのが夜間フライトだった。
 底なしの闇に打ち上げられていく感覚が、何度体験しても好きになれない。
 闇に吸い込まれ、そのまま二度と――地上に戻れないような不安を感じる。
―――でも……。
 知らなかったな、夜空ってのは、地上から見たほうが綺麗なんだ……。
 基地から漏れた明かりだけが、暗い敷地内をほんのりと照らし出している。
 午後8時少し前――多分、8時には家族用の送迎バスが出るから――。
「はぁ……」
 獅堂は溜息をついて、眼を閉じた。
 自分が――こんなに弱い人間だとは知らなかった。
 でも、今は、―――今夜だけは、仲間と騒ぐより一人きりでいたかった。
 食事の席で、一本だけ振舞われた缶ビールの酔いが、まだ頭をぼうっとさせている。
 何に傷ついて、何がこんなに虚しいんだろう。
 わかっていたことなのに、何も――期待していなかったはずなのに。
―――違う。
 獅堂は、手のひらで目蓋を覆った。
 違う、違うんだ――自分は。
 自分は、心のどこかで……。
「襲ってくれってばかりの無防備さだな」
 いきなり掛けられたその声に、獅堂は吃驚して跳ね起きた。
「驚いたのはこっちだよ、なんであんたがそこにいるんだ」
 少し離れた茂みの傍に立ちすくみ、呆れた口調でそう言ったのは、真宮楓だった。
 獅堂は唖然としてその怜悧な顔を見返して――。
 昨日から、妙にこの男とは縁があるな、と思いつつ、
「なんでって、いいだろ、別に」
 何故か投げやりな気持ちになって、再び寝そべって天を仰いでいた。
「ここはお前の専用場所ってわけじゃないし」
「昨日まではそうだったんですけど」
「今夜は先客があるんだよ」
 眼を閉じて――そして、気がついた。
 昨日までは、とこの男は言った。ということは――いつも、こいつはここで。
「みっともないもんだな、いい年した女の酔っ払いは」
 掠れた声が近くなり、自分の傍に、男が腰を降ろすのが判った。
 不思議に違和感はしなかった。
 風が心地よくて、そして星空があんまり綺麗だから――。
 それから、少しだけ酔っているから。
 だから、今だけ、いつもの自分と違っているのかもしれない。
「言っとくが、まだ、自分は……そんなに年とってないからな」
「そうそう、まるで子供だよな。鍵まで渡した男とキスするのを嫌がってるなんて」
 からかうような声が返ってくる。
「……あのなぁ」
 触れられたくない話題のはずなのに、何故か腹は立たなかった。
「鍵に関しては、深いわけがあるんだ、聞いてくれるか」
「いや、そんなに暇じゃないし」
「聞けよ、実は、異臭騒ぎが起きてさ」
「…………は?」
「それが、どうも自分の部屋が発生源らしくって、それで大家のおっさんが泡くって電話してきてさ」
「………あんた、一体どういう生活してたんだ」
「だから最後まで聞けって、でもそんなに急には帰れないだろ、当時は自由に外に出ることもできなかったし。で、佐々木先生に」
「おい、ちょっと待て、じゃああんた、その異臭が漂う部屋に自分の恋人を」
「異臭っていっても、まぁ、あれだ。正体は迷い込んできたネコがベランダで」
「…………」
 頭上で、深いため息が聞こえた。
「あのなぁ……、そこまでさせた男を拒むなんて、あんたもちょっとひどすぎんじゃないのか」
「仕方ないだろ、他に……頼めるような相手もいなかったし」
 不思議なくらい、ぽんぽん言葉が口から溢れ出てくる。
 まるで、昔からの友達のように。
 そんな自分に戸惑って、獅堂は再び眼を閉じた。書庫で、ほとんどけんか腰で話をしたのは、つい昨日のことなのに。
「あんたの家族とかは、いないのか」
 こいつの声は、独特だな。
 かすれてて、低くて、でも――耳さわりがよくて。
 なんだか、眠くなってくる。
「……自分は孤児なんだ、航空学校に入るまで、ずっと施設で育ったから」
「ふぅん……」
「……はは、でもお前よりは幸せだよな、最初からいないから……失う悲しみを、知らないしな」
 返って来る返事はなかった。
 獅堂はそのまま、泥のような心地よい眠気に身を任せた。


                 十一


 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 獅堂はまどろみの中、ゆっくりと薄目を開けた。
 風がくすぐるように髪を弄る。とぎれとぎれの記憶。真宮楓がふいに現れて、話している内に、なんだか眠くなってきて――。
―――マジで寝てたのか………。
 眠りに落ちる前より、随分頭の中がすっきりしている。
 深まっている夜の闇。基地の灯りさえまばらになっている。消灯時間……やばいな。
 そんなことを思いながら空を仰ぐ、どこからか…幻聴のように、波の音が聞こえてくるような気がした。
「眼、覚めたか」
 闇よりも波よりも、静かな声。
「真宮……?」
―――……ずっとそこに――?
 真宮楓は片膝を抱いたまま、風に髪を躍らせて、ただ、まっすぐに夜の一点を見つめていた。
 月の明かりを背負い、闇に浮き出したシルエット。
「あんたのためにいたんじゃないよ」
 その横顔は無表情なままだった。
「海が、見たかったからな」
―――海……?
 獅堂は半身を起こし、腰の痛みに眉をしかめた。確かに桜庭基地は海に近い。でも、この場所からは海を見渡すことはできないはずだ。
 楓は、それ以上何も喋ろうとはしない。身じろぎもせず、ただ、遠い眼で何かを追い続けている。
 獅堂はふいに胸苦しさを覚えた。
 実際、間近で見る真宮楓の美貌は、それ自体が奇跡のように完璧だった。
 透き通った肌。長い睫の下に揺れる深海を湛えた瞳。珊瑚を思わす鮮紅色の薄い唇。何故、こんなに綺麗に生まれつく必要があったのだろう。
 そんな風にさえ思えるほどに。
「何?」
その薄い唇がふいに動く。
「え?」
「さっきから、俺ばかり見てるけど」
「ああ……」
 不思議なくらい素直な気持ちだった。その感情のままに獅堂は口を開いた。
「お前って……綺麗だな」
 ゆっくりと、楓が振り向く。
 黒目がちの二重の瞳が、不思議そうに見開かれている。
 見つめられると、焦る。獅堂は戸惑い、目を逸らした。
「綺麗すぎて、なんだか……」
「………」
「なんだか、可哀相っていうか」
――――何言ってんだ、自分は?
 後悔しつつ自問するが、言葉は、自然に口から零れていく。
 まだ、酔いが抜け切れていないのかもしれない。
「綺麗すぎるってのは、いいことばかりじゃなくてさ、色んな意味で、嫌な思いを………お前は、きっと、いっぱいしてるんじゃないかって、そう思って」
 まだ……夢を見ているのかもしれない。
 まるで、月明かりに魔法でも掛けられたように、言葉だけが、自分の意思と無関係に溢れ出ている。
「………」
 楓は何も言わない。唯一二人を照らしていた月が雲間に消え、闇がその顔を曇らせて行く。
「悪い。馬鹿なこと言ってるな。自分は」
 微かに空気を震わせて、楓が笑う気配がした。
「あんたさ……。もっと、自分のこと心配してなよ」
「え?」
「鈍すぎるっていうか、……俺に言わせれば、あんたなんて隙だらけだ」
 儚さから一転した嘲笑するような声音。獅堂は少し驚いて、それからさすがにむっとした。
「自分の何が隙だらけだって?仮にも軍人で、言っとくけどそれなりの訓練は受けてるんだぞ」
 むきになって言い返すと、楓はまた、声も無く笑った。
「あんた、……自分の仲間が、あんたのこと、どういう目で見てるか知ってんの?」
「なんだと……?」
「まあ、人の恋路の邪魔はしたくないから、これ以上は言わないけど」
 むかついて……この男が年下じゃなかったら、襟首くらい掴んでいたかもしれない。その怒りを精一杯抑えて、冷静に言った。
「何が言いたいか知らないけどな。自分は仲間を疑ったりはしない」
「言っとくけど、これは忠告。何かあってからじゃ遅いからな」
「何が言いたい?そこまで言うなら、最後まで言えよ」
 軽く鼻先で笑う気配がした。
「仮にも訓練を受けた軍人だろ、それくらい自分で考えれば?」
 こいつ………。
―――寂しそうに見えた横顔。儚そうに見えたシルエット。
 冗談じゃない。もう二度と………あんな甘い感傷を言葉にしたりするものか。
 獅堂は顔を背けて口を閉じた。
 基地内の――照明が、ふいに一斉に灯ったのはその時だった。
「えっ、」
「しまった」
 同時に声を上げていた。
 獅堂は慌てて時計を見る。外出が許されるのは午後10時まで、もう、その時間を三十分も過ぎていた。
 いや、自分が部屋にいないことより、今問題なのは。
「……お前、逃亡したと思われたんじゃ」
「かもね」
「かもねって、落ち着いてる場合じゃないだろ、早く戻らないと、すごい騒ぎに」
 咄嗟に隣の男の手を掴んで立ち上がっていた。
「戻ろう、真宮、自分がお前を誘った事にするから」
「それって、あんたの立場的にまずくない?」
「そんなもの、どうにでもなる。行こう」
 二人は同時に駆け出した。
 海の香りを含んだ風が、正面から二人を包み込む。
「ていうか、……俺的にも、かなり嬉しくない誤解なんだけど」
「言ってる場合か、遅いぞ、真宮」
「……嵐に何て言えば」
「―――は?」
「ま、いっか」
 ふいに、隣に並ぶ男の走る速度が増した。
 獅堂は、咄嗟にその横顔を見上げていた。
―――へぇ……。
 彼は、確かに笑っていた。
 こいつでも、こんな顔して笑うんだな。
 それが、不思議と嬉しくて、獅堂も思わず微笑していた。
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