四


「でねー、それで、おかしいんですよぉ」
 国府田ひなのの甲高い声で、獅堂藍は、はっとして顔を上げた。
「ちょっとぉ、獅堂さん、ちゃんとひなのの話、聞いてましたぁ?」
「ああ、悪い、……えーと」
 なんだっけ。
 所在なげに頭を掻く。
 基地の談話室で、差し向かいで座っている青い髪を六つに編み分けている少女。
 まだ十八になったばかりの国府田ひなのは、ぷぅっと頬をふくらませた。
「さっきから、へんですよ、獅堂さん、明日のことで気もそぞろってわけですか」
「………明日、」
「やだなぁ、来るんでしょ、獅堂さんの、こ、い、び、と」
「………恋人、」
 ぼんやりと呟くと、ひなのは眉をひそめながら、手のひらを獅堂の目の前でひらひらと振った。
「他のパイロットのみなさんが話してましたよぉ、獅堂さんの恋人がどんな人か、みんなで見てやろうって」
「まぁ、――普通の、ていうか、はっ??誰がそんな話を言いふらしたんだ」
「そんなの、相原さんと小日向さんに決まってるじゃないですか」
「…………」
 相原廉太郎と、小日向忍。
 みかづきのメンバー二人。自他ともに認める凸凹コンビ。
―――あいつら。
 そう言えば、佐々木智之――獅堂が通う歯科クリニックの医師。彼からかかってきた電話を取り次いでくれたのが相原だった。
 その時の会話を、そのままどこかで盗み聞きしていたのだろう。
―――あいつら、夜間演習でお仕置きだな。
 そんなことを思いながら、紙カップのコーヒーに唇を寄せた。
「なぁんか、明日はみぃんな、ラブラブなんですよねぇ、いいなぁ、ひなの、なんだか寂しいです」
 この桜庭基地で、唯一明るさを振りまいていた少女は、そう言って溜息をついた。
「椎名さんには婚約者が会いに来るし、家族持ちの人は奥さんが来るし、頼みの獅堂さんにも恋人かぁ」
―――頼み……?
 その意味を不審に思いつつ、
「お前だって、いつも遥泉さんとくっついてばかりいるじゃないか、何が不満なんだよ」
 そう言って、残りのコーヒーを口に含んだ時。
「だって遥泉さん、まだキスしかしてくれないんですよ??」
 思わず、コーヒーを吹き出していた。


                   五


「そ、そそ、そうか」
 他に言うべき言葉を思いつかず、獅堂は何度も咳払いを繰り返した。
―――あの生真面目な遥泉さんが――、この、十も年下の少女と。
 国府田が一方的につきまとっているだけかもしれないとも思ったが、――――まさか、そんな進展があったなんて、想像の範疇外だった。
「そうなんですよー、どう思います?ひなのに魅力がないんでしょうか?」
「いやー、どうだろう、うん、まぁ、あるからできたんじゃないか、そのぅ」
「キスですか?」
 獅堂は再び咳き込んだ。
 どうも、知人どうしの話となると、リアルで聞いていられない。
「やだなぁ、獅堂さん、何大げさなリアクションしてんですか、獅堂さんだって、彼とそれくらいしてるんでしょ?」
「それくらいって、べ、べべ、べつに、」
 そう言えば、一度だけ交わしたキス。
 確かにそうだ、国府田のことで仰天する前に――まず、自分だ。
 先ほどまでのもやもやとした懊悩を思い出し、獅堂は、自然と眉をひそめていた。
「なぁ、……国府田」
 明日――人生最初の口づけを交わした男、佐々木智之と再会する。
 東京都内で歯科医を営む三十歳の男。
「キスってさ、どんな感じだ?」
「まったまたぁ、もうっ、とぼけちゃって」
 そう言いながらも、国府田は両手を頬に当てた。
「もう、何て言うんですかぁ?頭の中で、星がきらきら輝いて、頭の芯が雑巾みたいにぎゅうっとしぼられた感じでぇ」
「…………悪い、さっぱり判らない表現なんだが」
 星と雑巾?
「だって、他に言いようがないんですもん、じゃあ、獅堂さんはどうだったんです?」
「……自分は、」
 結構冷静で。
 手足だけが緊張でぎくしゃくしてて。
 後は――。
 たまらない、罪悪感と――。
「…………あまりよく覚えてないよ」
 これ以上この話を続けるのが苦痛になって、そのまま立ち上がりかけていた。
 その時。
 どやどやという人の気配が、静かだった談話室に聞こえてくる。
「ああ、獅堂さんでしたか」
 先頭にいたのは、鷹宮篤志だった。
 柔和な笑みを湛えた美貌の男は、珍しくダークグレーのスーツを身につけている。
 そんな鷹宮の姿を見たのは初めてだったので、獅堂は、しばらく声をなくして長身の男を見上げていた。
「実は今夜から二日ほど休暇をとりまして、実家に帰る予定なんです」
 そう言った鷹宮の背後には、彼のチーム<雷神>のメンバーや、<黒鷲>のメンバーの姿が見える。
「この不摂生男も、たまには親孝行したいんだとさ」
 肩をすくめながらそう言い添えてくれたのは、鷹宮の隣に立っていた椎名恭介だった。すらりとした長身の鷹宮と、彼の耳までしか背はないが、がっしりとした逞しい体躯の椎名。
 入隊当初から縁続きだったこの二人のパイロットは、今でも確かな信頼で結ばれているのか、互いを認め合っているのが傍から見てもよく判る。
「そうなんすか、鷹宮さんのご実家って」
 気を取り直した獅堂がそう言うと、鷹宮はにっこりと微笑した。
「北海道です。お土産は何がいいですか」
「あ、じゃあ……知床ラーメンかなんかを」
 その笑顔があまりに優しげだったので、ついつられてそう答えていた。
 途端に、談話室に爆笑が響きわたる。
「獅堂、お前、女ならもっと、違うものを頼んだらどうだ」
 呆れたようにそう言ったのは椎名で。
「冬の恋人とか、ラベンダーの香水とかぁ、獅堂さん、色気なさすぎです」
 腹を押さえながらそう続けたのは国府田だった。
「いや、自分は、別に」
 お土産と言われたから、好きなものを頼んだだけで――。
「まぁまぁ、そこが獅堂さんの可愛いところですよ」
 鷹宮は、自分もくっくっと笑いながら、周囲の喧噪を手で制する。
「こんなに可愛い獅堂さんが、他の男のものになると思うと断腸の思いです。僕は明日、この基地にいなくてよかったと、心から思いますよ」
 さらに、持っていって欲しくない方向に転がっていく会話。
 獅堂は慌てて立ち上がった。
「えーと、自分は、そろそろ」
「大丈夫です、鷹宮リーダー、自分たちがばっちり、チェック入れときますから!」
「ソウデス。つまらナイ男だったら、F200に載せてタイキケンガイに飛ばしてヤリマスヨ」
 雷神のメンバーたちが、次々と口を挟む。
「いいんですよ、どんな男でも」
 背を向けて、そそくさと退室しかけた獅堂の耳に、鷹宮の声が響いてきた。
「獅堂さんが幸せなら、私はそれでいいんです」
「…………」
 何故か振り向く事ができなくて、獅堂はそのまま、談話室を後にした。


                   六


「獅堂、」
 まさか、その声が追いかけてくるとは思ってもみなかった。
 獅堂は、少し驚いて足を止めた。
 談話室の扉を後ろ手に閉め、そこに立っているのは椎名恭介だった。
「な……なん、すか」
 照明の落ちた、薄暗い廊下。
 ゆっくりと歩み寄ってくる男は、獅堂の少し手前で足を止めた。
 淡い照明が丁度男の顔に影を落とし、その表情を隠している。
 がっしりした肩に、隊服からのぞく無骨な手の甲。
 息苦しくなって、獅堂はそのままうつむいていた。
「お前に……話しておきたいことが、あってな」
「はぁ、」
 なんだろう。
 ドキドキする。
 その声も、表情も、いつもの椎名のものではないような気がするのは――気のせいだろうか。
「明日、……な、」
 それきり、椎名は言葉を途切らせる。
 獅堂は、胸の高鳴りを押さえながら――顔を上げた。
 正面で合わさった双方の視線。
――――ダメだ、
 どうしても、思い出す。
 たった一度、それはただの偶然で――恋愛とは無関係のことだと判っているのに。
 たった一度、この人に抱き締められた日の記憶を。
「最近、……ペンダントを、外してるんだな」
「…………あ、あれ、は」
 言葉が、それ以上出てこない。
 自分がつけていたそれのことを――、そして、終戦間際に外してしまったそれのことを――まさか、椎名が気づいていたとは思ってもみなかった。
「言っとくが、別に嫌味で言ってるんじゃないぞ」
 獅堂が黙っていると、笑いを含んだ声が頭上でした。
 いつもの――椎名の声だった。
「それは、お前が自分の信じるものを見つけたことだと、俺は思った。いつまでも訓練生時代のお守りにすがってるようじゃ本当の意味で一人立ちできたとは言えない――俺はそう思っていたからな」
「…………」
 そこまで言って、椎名は少し眉を上げた。
 彼の視線が、獅堂の背後に一瞬向けられ、そして戻される。
「話は、明日にしよう、その方がいいかもしれない」
 談話室から、一際賑やかな笑い声が響いてくる。
「じゃあな」
 椎名はそう言って、獅堂に背を向けてその談話室の方に戻っていった。
――――椎名さん……。
 なんだろう、話って。
 どうしてあんな――思わせぶりなことを言うんだろう。
 あんな眼で見られたら。
 抑えていた気持ちが―――。
 ガコン、と背後で音がした。
 我に返った獅堂は、はっとして振り返った。
 廊下の隅に設置してある自動販売機の前。
 そこだけ照明が輝く中、長身の男が、背を向けて去っていくところだった。
―――あいつ、
 獅堂は、初めて、椎名が自分の背後を見て眉を上げた理由を知った。
 再び、談話室から笑い声が響いてくる。
―――ああ、そうか、嵐はまだ……。
 すぐに見えなくなる背中から、不思議と眼が離せなかった。
 その後ろ姿は、真宮楓のものだった。
―――あいつ、いつからここにいたのかな……。
 賑やかな談笑を聞きながら、獅堂はかすかな胸の痛みを感じていた。


                   七


「完全に一般開放されてるわけじゃないんで、あまり――案内するところはないんですが」
「いや、基地なんて、僕には初めての場所ですから」
 長身の男は、そう言って静かに微笑した。
 柔らかな髪に、黒目勝ちのきれいな相貌。
 実年齢さえ知らなければ、二十代半ばにしか見えないのは、その――少し女性的な顔立ちのせいだろう。
 佐々木智之。
 東京都内で、小児歯科クリニックを開業している歯科医。
 約一年半前、彼の一人娘は中国軍用機の誤爆により死亡した。
 あまりにも不条理な理由で最愛の娘を失ったこの男の――― 空を見上げるその背中を。
 獅堂には、そのままにしておくことはできなかった。
 桜庭基地ができて初めての開放日。
 秋晴れの一日で、郊外から遠く離れた基地の構内は、全ての業務を停止しているせいか、いつにもまして静かだった。
 獅堂は佐々木を案内して、敷地内の庭園あたりをうろうろしていた。
「実は、あまり基地内を歩き回ったことがないんですよ。えーと、次は何処へ行けばいいのかな」
 見慣れない景色に戸惑ってパンフレットに眼を落とすと、並び立つ男は楽しそうに笑った。
「そう言えば、獅堂さんは、折り紙つきの方向音痴でしたね。うちの病院に来る時も、何度も迷ってましたから」
「どうも、足で歩く――感覚というのが苦手で」
 獅堂は照れ隠しに頭を掻いた。
 今日、隊員は休暇扱いで――私服を着ても一向に構わないのだが、やはり、隊服を着てしまっていた。そのせいだろうか、逆に佐々木が戸惑っているのがなんとなく判る。
「僕の知人に話したら、呆れてましたよ。パイロットは方向音痴でもなれるものなのか、と」
 けれど、こうして二人で基地内を歩き回って――約一時間、ようやく佐々木の緊張もほぐれてきたようだった。
「実は、適正試験で、落ちる寸前だったって後で聞きました」
「あはは、それでも受かったんだから、よほど見込みがあったんでしょうね」 
「どうでしょう、でも、自分には他に取り得がないから」
 目の前の植え込みに、ベンチがある。
 座りませんか、と佐々木が言うので、獅堂は素直にそれに従った。
 日が昇りきっていた。
 朝から蒸し暑い陽気だったが、今は風が――心地いい。
 広い敷地内を、家族連れの隊員が笑いながら歩いているのが視界に入ってきた。
―――平和、か……。
 獅堂は胸の内で呟いた。
 表だっての戦争は終わった。
 政治レベルでは、まだ、完全な終結とは言えなくても――ひとまず、誰の顔にも笑顔が戻ってきたのだから。
 何故だろう、なのに、心だけが晴れなかった。
―――何故だろう……。
「獅堂さん」
「え、あ、はい」
 隣に座る男の存在を、すっかり忘れてしまっていた。
 獅堂は慌てて、顔を上げた。
「……パイロットには、定年はないのですか」
「いや……どうだろう、適正試験は毎年あって、それをクリアできなければ、その時点でパイロットは廃業ですけど」
 顎に指を当て、少し考える。
「でも、中には90歳になっても輸送機のパイロットをやってる強者もいますからね、自分もそういうのが理想ですよ」
「結婚して、子供が出来たらどうしますか?」
「そうですねぇ、そういう前例がないから、なんとも。でも自分には縁のないことですから」
 そこまで言って、自分の失言に気がついた。
「獅堂さんなら、子連れでも空に飛び出していきそうですけどね」
 けれど、男の声は静かなままだった。
「はは……」
 笑うに笑えず、獅堂はそのままうつむいていた。
 何かが――上手く繋がらない。
 多分その違和感は、自分だけでなく隣に座る男も感じている。
 それは、この環境と、そして自分がかたくなに身にまとっている隊服のせいなのかもしれない――。
「鍵、お返ししましょうか」
 男がふいにそう言った。
「管理人から預かりましたよ。どうも――僕のことを、あなたの身内だと勘違いされたようで」
「あ、ああ、えーと、すいませんでした、へんなこと頼んじゃって、先生のご実家が、百里の近くだと聞いて、つい」
「いいですよ、一人暮らしの女性の部屋なんて初めてだから――少し期待しましたけどね」
 男は楽しそうにくすくすと笑った。
 その笑顔に救われた気になって、獅堂も笑顔になっていた。
「よく、人の住む部屋じゃないと言われるんです、余計なものは買わない主義なんで」
「いや、正直びっくりしました。まぁ、あなたらしいと言えば、その通りだったんですが」
 ポケットから鍵を取り出した、佐々木の指が綺麗だった。
 獅堂が、百里基地にいた頃に住んでいたアパート。
 新しい借り手がつくまでの約束で、今もただ同然で借り続けている。
 さすがに留守にして一年以上が経ち――アパートの管理人から、一度様子を見てくれと苦情の電話が入ったのが先月のことだった。
「いつまで、あそこを借りておくつもりですか」
 やはり静かな声のままで、男は言った。
 渡す――と言ったはずの鍵を、まだ指先で弄んでいる。
「百里は住み慣れた街だし、また――戻ることになると聞いていましたから、ここから先、自分がどこに飛ばされるかは判りませんけど」
 獅堂は言葉を途切れさせた。
「…………」
 少なくとも、移動先が百里基地でなければ、あのアパートは解約しなければならないな。
 そんなことを考えながら、二度目のキスを受けていた。
 唇を離し、男はこつん、と額を合わせてきた。
「……何を、考えていましたか」
「……何って、」
「僕は、あなたを悩ませているようですね」
「…………」
「僕を好きですか」
「…………」
 好きです、そう言おうと思うのに、唇が強張って動かない。
 二度目のキスは、一度目のそれとは少し感じが違っていた。
 自分の中の――大切な何かが壊れてしまいそうな、そんな予感がするキスだった。
 何をやってるんだろう。
 獅堂は、莫迦なことをしている自分を、初めてはっきり自覚していた。
―――同情と恋愛を一緒にしない方がいい。
 あれは、鷹宮に言われた言葉だった。あの時は意味が判らなかった、でも今なら判る。
 同情ではない。でも――恋でもない。
 もう一度被さってくる唇を、逃げることができないままに――。
「あのさ、いい加減にしてくれないかな」
 獅堂ははっとして顔を上げた。


                   八


 一瞬その言葉を、目の前の男が言ったのだと思っていた。
 けれど違った。獅堂と同じで、顔を上げた男もまた、驚いたような瞬きを繰り返している。
「言っとくけど、のぞいてたわけじゃないから」
 背後の茂みの中から、そう言って物憂げに身体を起こした男。
―――嘘だろ、
 獅堂は耳まで赤くなった。
 男は乱れた髪を払い、両手をポケットに突っ込んだ。
「俺、ここで昼寝するのが日課だから、邪魔しに来たのは、あんたらだからな」
 すっと素っ気無く背を向ける、すらりとした背中。
「……彼は、」
 佐々木がそう呟くまで、獅堂は、呆けたようにその後姿を見送っていた。
「あ、ああ、すいません、ええと」
 言いかけて言葉を失った。
 佐々木が真宮を――真宮楓の顔を知らないはずがない。
 楓は当時、中国共和党の党員で、中国軍用機の誤爆事件が起きた直後に――まるで、彼かそれを企んだかのようなタイミングで、顔写真が公開されたのだから。
「彼は……ここにいたのですか」
 佐々木は静かな声でそう呟いた。
「あの、佐々木先生」
 バッドタイミングで、最悪に生意気な態度だった――でも、これだけは言っておかなければならない。
「真宮は、……真宮楓は、彼が飛行機の爆破を企んでいたわけでも、事前に知っていたわけでもなくて」
 上手く言葉がつなげない。くそ、と獅堂は思った。自分が――右京や嵐みたいに頭がよければ。
「彼自身も、……大きな流れの中では被害者なわけで、まだ十代で、色んなことに多感な時期で、ええと、頭がいいから利用されて、でも、利用されてることにも気づいてなくて、あれ?」
「頭がいいのに、利用されていることに気づけなかったのですか、彼は」
「ええと――だから、…………あれ」
 自分の言っていることが、言おうとしていることが判らない。
 でも、これだけは伝えたかった。
「あいつは、悪い人間じゃないです。今、一人で傷ついて苦しんでいるのが――自分には、よく判るから」
「傷つこうが、苦しもうが、死んだ者は帰ってきませんけどね」
 佐々木は静かな口調のままで立ち上がった。
「判っていますよ、彼一人の責任でも罪でもない。戦争という大きな流れを引き起こしたのは、結局は私たち一人一人なんだということはね」
 初めて見るような、とりつくしまのない横顔だった。
「でも僕は、彼に一生苦しんで欲しいと思います、それはある意味、死ぬよりも辛いことだから」
「…………」
 先生、
 声は言葉にならなかった。
「今日は帰ります、また会っていただけますか」
 どこか暗い眼差しが見下ろしている。
「先生、」
 獅堂は、強張った唇を動かした。
 これ以上嘘を重ねる事は、この男にだけでなく、死んだ男の娘への冒涜になるような気がした。
「先生………、やっぱり、自分は」
 指先に絡んだ鍵を、男は陽に煌かせて、そして自分のポケットに滑らせた。
「また、ご連絡します」
 そのまま去っていく後ろ姿を、獅堂にはただ、見守る事しかできなかった。

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