一
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「おい」
背後からふいに呼び止められ、真宮楓は、眉をひそめて振り返った。
午後一時、暇つぶしに入った基地内の文書庫に、一人でいた時だった。
「自分を、覚えているか」
無造作にはだけられた隊服の上着、白いシャツ。黒目がちの、少し怒ったような瞳の色をもつ男。
―――いや、男じゃなかったっけ。
楓は無言で、自分よりわずかに目下の女を見下ろした。
顔だけは見たことがある。ある意味、この基地で誰よりも目立つ存在だったから――でも、名前までは正確に記憶していない。
「自分は、シドウという者だが」
楓が黙っていると、女は、やはり怒ったような口調でそう続けた。
―――シドウ……。
獅堂さん。
「ああ、」
楓はようやく頷いた。その名前には、鮮烈な記憶がある。そうか、この女がそうだったのか。
そして、途端に――むかむかとした不快感がこみあげてきた。
「あんたが獅堂さんだったんだ。嵐の女だろ、はじめまして、で、俺に何か用?」
「―――は、……?」
「悪いけど、帰国したばかりで、あまり人と話す気分じゃないんだけど」
獅堂と名乗った女は、不審気に眉を上げる。しかし、言われている意味が上手く咀嚼できないらしく、首をひねりながら言いにくそうに口を開いた。
「自分は……お前に銃を向けた」
「はぁ」
「……覚えてないか、オデッセイで」
ああ………。
ようやく、その場面を思い出していた。
そう言えば、あの時も、この男女には一度会っているのだ。
今から――もう、一年近く前になる。終戦間際に撃墜された天の要塞オデッセイで――自分が、室長右京奏を人質にして逃亡を図った時。
でも、それがなんだというのだろう――今さら。
女はさらに言いにくそうに視線を逸らしていたが、やがて、すっとその眼差しを真正面から向けてきた。今度は、逆に楓が戸惑う番だった。
綺麗な眼だな、と思っていた。
夜を閉じ込めたような漆黒の瞳に、凛とした輝きが宿っている。
他人に対して、こんな感慨を持ったことは、自慢ではないが一度もない。いや―― 正確には一度ある。たった一人の血の繋がらない大切な弟に初めて会った時。
今、楓はその時と同じ感情を、まるでデジャブのように再体験していた。それがひどく不思議だった。
「必要があればいつでも引き金を引いていた。言い訳はしない。それがあの時の自分の信念だったからだ」
女の声、少し低いけど、男性には決して出せない柔らかさがある。
「それだけだ」
「は…………?」
「自分はお前に助けられた。でも――まぁ、そういうことだ」
「―――――は?」
そのまま、女はすっと背を向ける。
助けられた?
一瞬なんのことか判らなかったが、背中を見ている内に思い出した。
そうか、あの日のことを言ってるのか。
銃を向けられたことも含め、女の存在など、殆んど意識していなかっただけに驚いた。そして、その一直線な真面目さにかすかな反発を感じてもいた。
「言っとくけど、あんたを助けたわけじゃないよ」
足を止めた女は振り返る。
「たまたまっつーか、偶然、ていうか、俺、あの時のこと殆んど覚えてないから」
あの時――審判の日に起きた奇跡のような出来事。
ただ、嵐を助けたかっただけなのに――。
核を止めようとか、この女を助けようとか、そんなことを思っていたわけじゃないのに。
あの日。
性能の差で、嵐の機体を追い抜いた楓は、そのまま――核弾道ミサイルの軌道上に向かう一機の戦闘機めがけて上昇を続けた。
間に合わない、ダメだ、後ろから嵐の機体が近づいてくる。
間に合わない、――――。
自我を保っていたのは、そこまでだった。
自分が―――ただのベクターでいられたのも、そこまでだった。
ただ、皮肉なことに、それが逆に、楓自身を救うことにもなった。救い――ここに残されたことが救いだとも思えないが、少なくとも嵐と一緒に過ごす事が許されている。
いずれ――正式に処分が決まり、離れ離れになる時が来るまでは。
「でも、結果的にはあんたを助けたってことになるのかな、だったら借りを返してもらうのも悪くないな」
楓はわざと、からかうような口調で言った。
嵐は、間違いなくこの妙な女に恋している。それが判るだけにいまいましかった。昔から女を見る眼がない嵐は、――いつもろくでもない女に掴まりかけては、ぎりぎりのところで自分が助けていたからだ。
そう、ベクターならまだしも、在来種は信用できない。
最後の最後で――彼らはあっさりと裏切るからだ。
「嵐より、俺にしとかない?あんたがそんなに義理堅いなら、一晩俺と一緒にいてよ」
「一晩……」
女の目が、さらにいぶかしげにすがまった。
「それはまぁ、構わないが、一晩もお前と何をすればいいんだ」
「何って、はは、ふざけてんなよ」
楓は獅堂の傍に歩み寄り、両手で囲うようにして、壁際に押し付けた。
「な、な、なにすんだ」
「何って決まってるだろ、セックス以外にすることなんてないだろ」
「セッ…………」
「なんだ、あんた初めてなの?俺よりは年上みたいなのに、ガキなんだな」
「………………」
「ベクターとするのは怖いだろ、まかり間違って妊娠しちまえば、あんたもベクター生みの親だ。最後の土壇場で手を離すような、そんないい加減な気持ちで、嵐に近づいたら」
「…………」
「俺、あんたを許さないから」
女の目に、燃える様な色味が浮かぶ。
そのまま腕を壁から離し、楓はきびすを返していた。
「ふざけんな、真宮」
その背中に声が掛かる。
驚いて足を止めたのは、今度は楓の方だった。
「自分は嵐が好きだ、あいつがベクターだろうがなんだろうがそんなことは関係ない」
「へぇ、それはそれは」
自分の言葉のきつさも、表情の恐さも、十分に認識していたつもりだった。
だから、この場面で、相手の女に言い返されるとは思ってもみなかった。
楓は多少の腹立たしさを感じつつも、振り返って腕を組んだ。
「嵐は単細胞の莫迦な奴だから、そんなセリフ聞かされたら、素直にあんたにのめりこんじゃうだろうけど。悪いけど俺には信じられないね」
「嵐は莫迦じゃない、少なくともお前よりは」
女の目は、真剣だった。
「そんな寂しい考え方で、自分に檻を作っているお前の方が、自分に言わせればよっぽど莫迦だ」
「…………」
表情は動かさないまま、楓は言葉を無くしていた。
恥ずかしげもなく正論を吐く女。
こういうタイプは苦手だと思った。今、ここで話したことさえ後悔していた。もう二度と、この女には係わりたくない。
―――嵐と同じ眼差しで、同じ激しさで、同じことを言うこの女とは。
「い、言っとくが、そんな……恋愛とかじゃないからな、嵐のことは」
再び背を向けて歩き出した楓の耳に、焦ったような声が届いた。
「妙な誤解だけはやめてくれ、じ、自分には、約束した人がいるから――」
一瞬足を止めかけたが、楓はそのまま、振り返らずに歩き続けた。
約束って、何を約束したんだろう、子供の指きりじゃないだろうな。一晩の意味が分からずに、瞬きを繰り返していた程度の経験しかないのなら。
それが、妙におかしかった。そして、
―――嵐の奴、じゃあ、また失恋だな。
そんなことを考えていた。
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二
・
・
「向こうの生活はどうだった」
別に――、と楓はそっけなく答えた。
「大分、疲れているようだな」
目の前のデスクに座る女は、そう言ってノートパソコンを閉じると、すっくと席を立つ。
「あんたも変わった人だね」
そのまま無言で外の景色に視線を転じてしまった女に、楓は嘆息しながら声をかけた。
すらりとした長身にライトグレーの士官服。
短い髪は色素が薄いのか、陽射しを受けて半透明な色味を帯びている。
元オデッセイのオペレーションクルー室長、右京奏。
まだ塗布された薬品の匂いも新しい部長室で、女は珍しく休憩していたようだった。
室内に、濃いコーヒーの香りがたちこめている。
右京奏。
この美貌の女指揮官は、今、全ての役職と階級を剥奪され、この――地上に設けられた仮設基地――航空自衛隊桜庭基地の仮支部長の座に就いている。
米国と日本で取り調べを受けながら、両国を行き来している楓と同様、彼女もまた、上からの処分待ちという立場で――言ってみれば、この仮設基地に実質拘留されているも同然だった。
戦争――米中が台湾で激突した台湾有事。
両国の終戦宣言により、あわや全面核戦争に突入しかけた人類史上最悪の戦争が、政治上の終結を迎えてから約半年が過ぎていた。
しかし、この戦争でオデッセイが果たした役割については――国会でもマスコミでも賛否が激しく別れたまま、指揮官右京奏はじめ、おもだったクルー全員の人事異動は保留されたままになっているのだ。
千葉県の海沿いに航空自衛隊が新しく建設中だった桜庭基地。
まだ未完成の基地に、元オデッセイの乗組員は全員招集という名の足止めを受け、通常業務につきながら、上からの処分を待っている。
そして、真宮楓の身柄もまた桜庭基地預かりということになっていた。
防衛庁、警察庁、そして米国防総省――各機関から呼び出しがあれば、護送車に乗せられ犯罪者のように取り調べ室へ連れて行かれる。拘束はそれぞれ一月以上に及び、トイレに立つにも監視がつく。
なのに、この桜庭基地内での楓の処遇は、他の隊員と何一つ変わらないものだった。自由にどこへでも行き来できるし、敷地内を散歩することも許されている。
そして、それが――右京奏、この表情の掴み難い女の指示であることを、楓はよく知っていた。
今も――狭い室内で二人きり。つい半年前まで国際指名手配を受けていた自分の前で、女は無防備に背を向けている。
楓はソファに背をあずけ、所在なげに溜息をついた。
「俺は人殺しの犯罪者なのに、こんなに自由にさせといていいわけ?言っとくけど、この程度の基地なら簡単にシステムに侵入できるよ」
「でも、お前はそうはしないだろう」
振り返った女は無表情だった。
取り付くしまのない美人とは、こんな顔をした女のことをいうのだろう。
自分も表情がないとはよく言われるが、自分と同類項の存在――しかも女に会ったのは初めてだ。
同類嫌悪かもしれない。初めて会った時から、楓はこの女は苦手だな、と思っていた。
女は静かな声で続けた。
「お前が問題行動を起こせば、それはただちに嵐の責任になる。お前が米国に期限付きで拘束されると同様に、嵐の身柄も拘束される可能性がでてくる」
「わかってるよ」
嵐、嵐、嵐。
楓はうつむいて、唇をわずかにゆがめた。
どれだけその名を引き合いに出されただろう。彼らは切り札のようにその名を繰り返す。もう――何かを隠す気も逆らう気も――罪から逃げるつもりもないというのに。
「姜劉青は結局行方不明のままらしいな」
胃の底が冷えるようなその名前に、楓は一瞬体を強張らせた。
「そのことについて、随分厳しく追及されただろう」
「あいつは、もう―― 核攻撃の一ヶ月も前から、人前に姿を見せなくなってたから」
このことも、日米両国の取調べで、もう何度も繰り返し供述した。
中国政府は、姜劉青を筆頭とするベクター科学者集団全員の身柄を、戦争責任者として米国防総省に引き渡した。
彼らは米国で拘留され、いずれは裁判を受けることになっている。
その捕縛を逃れたのは、楓と、そして姜劉青の二人だけだった。
米国政府は、姜劉青の身柄を中国側が故意に隠蔽しているとみて、現在も必死の捜索を続けている。確かに右京の言う通りで、その点に関しての取調べは過酷で苛烈なものだった。
「今考えると、戦後のことを考えていたのかもしれない――よく判らない、あいつは、誰にも本心を見せない男だったし」
―――他人を信じない男だった……。
楓はわずかに眼をすがめた。
劉青は判っていたのかもしれない、いずれベクター科学者集団が、あっさり切り捨てられる日が来る事を。
「お前たちの家族を殺した男は――」
「……俺の記憶では、劉青がその現場にいたことは間違いない。父は、……」
楓は言葉を途切れさせた。
(――ジェイテック社で昔一緒だった男だ。)
死の直前、父は確かにそう言ったはずだ。
「劉青が、ジェイテック社にいたという事実はないんだろ。それは俺も聞かされたよ。聞き間違いだったのかもしれない。でも――奴は、きっと俺たちのいずれかを奪う目的で両親を襲ったんだと思う」
そう――知っていたのだ。あの男は。
審判の日。自分が変化したものの正体を。
今思えば、あの男から受けた仕打ちの意味が良く判る。
彼は――様々な方法で、変化させようと試みていたのだ。自分を。
右京が黙っているので、楓は、自嘲気味に苦笑した。
この女もしょせんは同じだ――上の奴らと。
「父は、ジェイテック会社で何かのバイオ実験をして、その結果出来たのが俺と嵐みたいな化け物だったのか?なんにせよ、俺に詳しい情報をくれる奴は誰もいない。さんざん身体を調べられても、その結果は教えてはもらえないからな」
聞くだけ聞いて、何も答えてはくれようとしない。
「いずれお前のことは、全て嵐に任せている」
女が答えたのはそれだけだった。
その意味が判らず、楓はわずかに眼をすがめる。
「明日は、この基地の開放日だ。――――といっても事前に許可を受けた者が入れるだけで、一般開放されるわけではないが」
「…………それが、なにか」
「隊員の家族も訪れて、少しは基地内も賑やかなる。お前も、1日くらいは楽しんで過ごしたらどうだ」
「はっ……」
笑っていいのか、呆れていいのか判らなかった。
「知ってるだろ、俺を尋ねてくるような身内は誰もいないよ」
マスコミなら大挙して押し寄せてくるかもしれないけど。
その皮肉は喉元で押さえ込んだ。
すでに真宮一家のプライバシーは徹底的に暴かれ尽くし、自分の過去の行状や、姜劉青との関係、かつてレオナルド・ガウディと過ごした一夏のことまで、面白おかしく書きたてられていることを、楓はよく知っている。
「真宮、そういった輩は、なにもお前一人じゃない」
返って来た声は、意外にも冷たかった。
「嵐が帰ってくるまで、少しの間がある。他の隊員たちとも、交流してみてはどうかと思ってな」
「そいつはどうも、気を使っていただきまして」
楓は、投げやりにそう言って立ち上がった。
そうか、それで今日は――どことなく、基地の雰囲気が浮ついていたのか、そんなことを思いながら。
「真宮、楓」
その背中に声がかかった。
「お前は、もう一度――あの生命体に変化できると思うか、自分の意思で」
楓は足を止めた。
「何度も同じことを聞かれたし、同じことを答えるようだけど」
そして、嘆息しながら振り返った。
「二度とできないね。どうやってああなったのか、はっきり言って全く覚えてないくらいだ。どっかの宗教団体が言ってたろ、奇跡なんだよ、天使が俺と嵐の中に降りてきたんだ、俺にはそれしか言えないね」
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・
三
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・
「はーい、楓君、探したわよ」
―――また、こいつか。
そのまま、無視して通り過ぎようとした腕を掴まれる。
「ちょっとちょっと、無視はないでしょ、こっちはクビをかけてあなたを守ってあげたって言うのに」
「誰がそんな余計なことをしろと頼んだ」
楓は自分の腕を掴む小柄な女を見下ろした。
宇多田天音。
元TCCテレビの看板アナウンサー。
肩までのさらりと伸びた髪から、淡いフローラルの香りが漂ってくる。
きりっとしたアーモンド型の瞳。少し――東洋的な顔立ちをしている。美人の部類に入るのだろうが、楓の基準でいえば、そこそこ止まりだ。
女の手を振り解きながら、楓は、再び歩き出した。
「それに、実際クビが飛んだんじゃ笑い話にもならない。せいぜい自分のおせっかいを恨むんだな」
「相変わらず口が悪いのねぇ。いいのよ、私の偉業は死後に評価されるんだから」
軽快な口調でそう切り返してくる女。
日米両政府から放送自粛の要請があったその瞬間の映像を、ケーブルテレビを使ってゲリラ的に放送してしまった女。
その反響は凄まじかった。堰を切ったように、各国のテレビ局が、自らが撮影していたその映像を流し始め――結果、世界中が知ることになる。
あの審判の日に起きた奇跡を。
二人の日本の少年が、未知なる光の集合体に変化し、再び元の肉体に戻っていく姿を。
人類が滅亡の深遠から、髪の毛一筋の差で助かったということを。
真宮楓のそれは、蒼い光となって獅堂藍が操縦していた戦闘機を庇い――そして対馬海岸沖に落下。
真宮嵐のそれは、赤い光となって、北京上空でホノルルから発射された核弾頭ミサイルを吸収した。
それは――奇跡、としか言いようのない映像だった。
嵐は今、つくば市にある科学研究施設で検査を受けている。あの日から、何度も何度も――繰り返し呼び出され、拒否することも許されないまま、自らの肉体を検査という名の人体実験に捧げ続けている。
楓にしてもそれは同じで、二度に渡るアメリカ政府の呼び出しで行われたのは、取り調べという名目の検査、実験、様々な薬品を皮下注射され、身体中に電極をつながれ――気が滅入るような――。
けれどもう、世界中の何処へ逃げても、自分の顔を知らない者はいない。
「お前のせいで、俺の人生設計は目茶苦茶だ、どう責任取ってくれる」
「あら、だから、私と付き合いましょうよ」
女はけろりとした顔で言った。
「………………」
「前からそれ、言ってるじゃないの。私が一生面倒みてあげるわよ。実は他局に再就職が決まったの。講演依頼は殺到してるし、本の執筆依頼もあるし、君一人くらいなら、楽々養ってあげられるから」
「……じゃ、そういうことで」
「こらこら、ちょっと」
再び背後から追いすがってくる足音。
このジャーナリストは、右京奏と懇意なのか、基地内にフリーで出入りしている民間人の一人だ。
そして、初対面の最初から、妙に馴れ馴れしい女だった。
(うわー、君が楓君かぁ、写真で見るよりよっぽど男らしいのねぇ、二の腕なんて、けっこう逞しく筋肉ついてるし)
と、いきなり腕や腰を触られたので、目が点になるほど驚いたのをよく記憶している。
「米国防総省は、あの日の事実を伏せたまま、あなたを犯罪者として拘束しようとしていたのよ。私、それだけは許せなかったから」
背中から、そんな声が聞こえてくる。
それは――楓もよく知っていた。
この女の義憤と正義感が、人気テレビ局の看板アナウンサーという立場を棄てるのを覚悟の上で――あんな暴挙を行わせたのだと。
結果、真宮楓をターゲットにしたベクターバッシングは一転して同情論、擁護論に変わっていった。世論の高まりが政府を動かし、日本政府は、真宮楓の身柄引渡しを留保。
現在にいたるまで、起訴も逮捕もされないまま、処分待ちの状態が続いているのはそのせいだ。
「もともとおかしいのよ。戦争に加担した科学者だけが罰されるなんて聞いたことがないわ。共和党の幹部連中は何ひとつ責任を取らずに、ぬくぬくとしてるっていうのに。あなたがベクターで、日本人だから、責任を被らされてるだけなのよ」
「それともうひとつ、戦争をそそのかした姜劉青の恋人だったからだろ」
「…………そこ、理解できないのよねぇ」
「お前にしてもらおうとは思わないよ」
この女だけではない。誰にも――誰にも理解されたいとは思わない。嵐、嵐だけが判っていてくれるなら――それで。
憂鬱だった。
灰色の壁、味気なく磨きぬかれた廊下。
何もかもが無機質で、意味をなさない風景。
ここには、今、嵐がいない――。
「参るよなぁ、なんだって、戦争終わって半年もたつのに、新しい赴任先が決まらないんだよ、俺たち」
廊下の向こうから、足音と共にそんな声が聞こえてきたのはその時だった。
「ま、しょうがないだろ。室長と真宮兄弟の処遇をめぐって、上はもめにもめてるらしいぜ」
会話しながら近づいて来たのは、二人の男だった。
一人は、ひょろりと背が高く、わりに整った顔をしている。
もう一人は、固太りの体格で、愛嬌のある優しげな目をしていた。
宇多田が、彼らに向かって歩みだそうする。楓はその手を引いていた。
「何しろ室長は、土壇場で全クルーを避難させたんだからな。防衛庁幹部の思惑は、総勢百名のクルー全員の殉職だって噂、―――結構マジだったんじゃないのか?」
「まさか、それはないだろ」
「そう信じたいとこだけどさ」
二人ともまだ若く、隊服の肩に三日月をかたどった記章をつけている。ついさっき書庫で会った女の肩にも、そんなマークがついていたことを、楓は漠然と思い出していた。
「それにしても、室長は何考えてるんだろう、いくら嵐の兄貴でもちょっと怖いよな、こないだまで敵だった男が、ここを自由にうろうろしてんだぜ」
「何か起きたらあの人のクビが飛ぶだけじゃ済まないだろ、俺たちも全員減給か減俸か……なんにしろ、出世コースからはフライバイだよ」
「空自を代表してオデッセイに抜擢された時は、これで一気に上に行けると思ってたけどさ、実はとんだ貧乏くじだったわけだ」
楓と宇多田の存在に気づかないまま、二人の男は、すぐに会話を楽しげなものに転じ、笑顔でその傍らをすり抜けていった。
「彼らのことは良く知ってるけど……」
隣に立つ女が、少し言い訳がましく口を開いた。
「別に悪い子たちじゃないわよ、あなた個人に悪感情があって言った言葉じゃないと思うけど」
「知ってるよ」
楓はそっけなくそう言って、女の手を振り解いた。
本当に悪い人間など何処にもいない。
それでも、人は簡単に誰かを傷つけることができる。無意識であっても誰かを苦しめない人生など存在しない。
そんな――罪深いものが、人という存在なら。
「楓君、」
背後から声がする。楓は足を止めなかった。
「楓君、私、明日も来るからね」
「…………」
「明日だけは、恋人どうしって顔で、思いっきりいちゃいちゃしましょうよ。楽しみに待っててね」
それには答えず、楓はただ、足を速めた。
どうして――あの時、終わらす事ができなかったのだろう。
この終わりの無い悪夢から――悪夢という名のこの世界から。
誰か。
誰か――俺を、連れ出してくれ。
たとえば、車が激しく行き交う国道沿いを歩いていて。
道路を挟んだ向こう側を歩いている人。
眼が合うことも無く行き違ってしまうその人が、実は運命のひとだったりするんだよね。
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