十一
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「ふぅ……」
獅堂は机の上に置いた包みを見つめ、ため息をついた。
オデッセイのランチルーム。その奥にあるキッチン。
昨夜、国府田と二人でチョコを作った机の上である。
自室に戻ると、国府田からメールが届いており、そこにはこう記されていた。
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獅堂さんへ。
キッチンの冷蔵庫に、昨日二人で作ったチョコの残りが入ってます。
ひなのが、きれいにラッピングしてあげました。
もしあげたい人がいたら、あげてくださいねぇ。
生物なので、早く食べないと駄目ですよ(はぁと)
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仕方なくキッチンへ降りて冷蔵庫を開けると、案の定、華やかなピンクの包みが収められていた。
それを取り出し、机の上に置いたまま――獅堂は、しばらくぼうっとしていた。
もしあげたい人がいたら、あげてくださいねぇ。
そんな人は、いない。
まぁ――いたとしても、本当の意味でチョコを上げるなんて虫唾か走るような真似は、とても自分には出来そうもない。
普通に残り物として、誰かに引き取ってもらおうか――、とも思ったが、いざそうなると、なかなか人選が難しい。
小日向に渡せば相原がうるさいし、相原に渡せば小日向がすねる。
蓮見に渡せば「熱でもあるのか」と言われそうだし、遥泉に渡せば国府田の恨みを買うだろう。
鷹宮は――真面目に受け取られそうで、なんだか恐い。それに、死ぬまでからかわれそうだ。
「………」
椎名と、そして倖田の姿が、ふと蘇った。
二人は今ごろ何をしているのだろう。オデッセイが起動して以来、ずっと離れ離れだったから――きっと。
「何考えてんだ、自分は」
頭を振って、妄想を振り払った。
もう――関係ない。
もう――とっくに諦めた思いだから。
「あ、そっか、自分で食えばいいんだ」
獅堂は、びりびりと包みを破った。そう思うと気持が楽になってきた。そう、食べよう、夕食が早かったから、少し小腹もすいてきた頃だし。
出てきたハート型の板を見つめ、少し躊躇してから、半分に割って、口に運んだ。
「甘……」
室温で柔らかくなったチョコが指先にまとわりつく。もともと好き嫌いの余りない獅堂だが、菓子類を食べたのは、そういえば久しぶりのことだった。
背後でいきなり人の気配がしたのはその時だった。
「獅堂さん…?」
立っていたのは、鷹宮篤志だった。
照明の乏しいキッチンの入り口に、男の長身が立ちすくんでする。
獅堂もびっくりして、立ち上がっていた。
「…………何をしているかと思えば、女一人で、そんな虚しい」
鷹宮は大げさなため息をつき、獅堂の傍まで歩み寄ってきた。
「ほ、ほっといてください、ちょっと腹が減ってたから」
「もらい手のないチョコレートなら、私がもらってあげたのに」
「いいえ、結構です。鷹宮さんの場合、お返しの方が恐いですから!」
きっぱりと言った。
鷹宮はくすりと笑う。
「……歯医者の彼は、喜んでくれましたか」
「か、彼って、そんなじゃないですけど、」
まぁ、一応。
獅堂はしどろもどろでそう答える。
鷹宮と二人になると、獅堂はいつも、妙な緊張感を覚える。大勢でいると不思議なくらいぽんぽんものが言える人なのに――二人になると、気まずくなる。この感覚は昔からそうで。
そして、その理由はいまだによくわからない。
「……同情と、恋愛を、一緒にしない方がいいですよ」
鷹宮は静かな声でそう言い、獅堂が破り捨てたラッピングの紙を、まとめてダストボックスに投げ込んでくれた。
―――同情と……、恋愛……?
鷹宮の言葉に、獅堂は眉をひそめていた。
「言ってる意味が、……分かりませんけど」
「無自覚だとは思ってましたけどね」
振り返って鷹宮は微笑する。
なんだか判らないけど、ひどく子供扱いされた気がしたし――同時に、その笑顔に、張り詰めたものが壊れそうな恐さを感じた。
獅堂は、慌てて眼を逸らした。
「戻りましょうか、上で今、桐谷一佐が遥泉さんを祝う会をやってますから」
「えっ、まだ、からかわれてるんですか、あの人」
―――気の毒に……。
「みんな、獅堂さんを待ってますよ」
「あ、はい」
鷹宮が先に立って歩きだしたので、獅堂も遅れながら、その後を追って歩いた。
どうして――なんのために、この人はこんな時間にここにきたのだろう。
ふとそんなことを考えていた。
「甘い匂いがしますねぇ。地上では、チョコをもらえない年はありませんでしたが、なんだか今年は寂しいものです」
「甘いだけで、大して美味しくなかったっすよ」
「食べてみたかったですよ、獅堂さんの手作りチョコ」
「なら、あげればよかったです。鷹宮さんが甘い物好きだとは知らなかったから」
「…………」
前を行く背中が止まった。
調度、キッチンを出て、薄暗い食堂を突っ切っている最中だった。
「……鷹宮さん…?」
振り向いた大きな身体が、覆い被さるように見つめている。
「あ……、」
そうか。
獅堂は初めて理解した。
「鷹宮さん……ひょっとして、今、自分をわざわざ向かえに来てくれたんじゃ」
「………」
「いや、おかしいとは思ったんです。鷹宮さんが台所に用があるはずはないし、……まいったな、なんでもお見通しってことですか」
少し赤くなって、獅堂は自分の頭を掻いた。
そう、鷹宮は知っているのだから、航空学生時代からずっと――密かに抱き続けている自分の想いを。
「そっか、……すいませんでした、心配かけて。しかも鷹宮さんがどうしてここに来てくれたかも判らなくて、鈍すぎましたね、自分は」
「……………」
鷹宮の眼は動かない。それが気のせいか、怒っているようにも見えた。
獅堂は少し不安になった。
「……?…あの……、自分、なんかへんなこと言いました……?」
「いいえ」
ふいに、男は溢れるような笑顔を見せた。
「は……?あの、なんで笑ってるんすか」
「いいえ、いいえ、もういいんです」
「いいって、おかしいですよ、鷹宮さん」
「本当にいいんです、いつか身体に教えることにしましたから」
「………はぁ?」
形良い背が出入り口の向こうに消えていく。獅堂は慌ててその後を追った。
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十二
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ほぼ元通りになった腕で、右京奏は差し出されたカップを取上げた。
鼻につく独特な香りに、その時ようやく気がついた。
「……これは」
カップの中では、透明なオレンジ色の液体が湯気を立てている。
「ああ、それ、今日、右京さんのご実家から届けられたんですよぉ」
即座にそう答えてくれたのは、そのハーブティを淹れてくれた国府田ひなのだった。
「………実家から」
「変わったお茶っ葉でしたけど、あれってなんですか?単純なローズティとも少し違うしぃ」
トレーをシンクに持っていきながら、国府田は続ける。
「右京家のブレンドティーなんだ」
右京は、かすかに笑ってそう言った。
「不思議な香りがしますねぇ」
シンクから声だけが返ってくる。
しばらくその香りに包まれていた右京は、国府田の背中に声をかけた。
「………国府田、例の件だが、首尾よくいっているか」
「はぁい、ばっちりです」
「データは、プリントアウトして、すぐに消去しておいてくれ」
「わかってまぁす」
口が軽そうに見えて、その実遥泉と同レベルで使える少女は、あっさりと答えてくれる。
右京は少し安堵して肘掛け椅子に背を預けた。
「ありがとう、もういい、少し電話したい所があるから、出て行ってくれ」
「はぁい」
「それから蓮見に伝えてくれ、午後から地上に降りる、煙草を買う小銭でも用意しておけと」
青い髪を六つに分けた髪型が、ぴょこぴょこ踊りながら扉の向こうに消えていく。
右京は、手元の通信機を電話回線に切り替え、自宅の番号をプッシュした。
わずかな呼び出し音の後、すぐに聞き覚えのある声が応答してくれる。
「ああ、私だ。……うん、ありがとう、今飲んでいる。まだ薔薇を育てていてくれたんだな……母さんの味と同じだよ。それで聞きたいんだが、背ばかり高い妙な男が、そっちを尋ねてこなかったか」
電話の相手は、長年実家で、父の身の回りの世話をしている老婦人だった。
彼女の答えを聞き、右京はわずかに苦笑した。
「ありがとう……素敵な誕生日プレゼントだと、そう父に伝えておいてくれ」
それだけ言って、右京は電話の回線を切った。
デスクの上の電子カレンダーに目をとめる。
三月十四日。
この日は、右京自身の誕生日でもあった。
「……偶然かな、……あの莫迦」
そして、少し驚いてもいた。
即座にあの男の顔と、今日の日付を連想したことに。
つまり、その程度に自分は意識していたことになる――のだろうか。
「…………」
わずかに逡巡し、そして、右京は、香りと共に、懐かしいハーブティを飲み干した。
午後から、防衛庁で査問委員会が開かれる。
先月――国際指名手配犯、真宮楓の引渡しを拒否した上、逃亡させた件――でだ。
艦を降ろされることはないだろう。けれど、相当面倒な答弁をしなければならないことだけは間違いなかった。
―――まぁ、なんとかなるか。
右京は思考を止めて目を閉じた。
今はただ、この香りと心地よい感情に、酔いしれていたかった。