七


「遥泉、てめえ、待ちやがれ」
 蓮見は、通路の向こうに消えようとしている遥泉の首ねっこを捕まえて、無理矢理ラウンジに引きこんだ。
 午後七時のラウンジは、調度夕食時のせいもあって閑散としている。
「なんなんですか、乱暴な」
 遥泉雅之。
 どんな時でも冷静なこの能面男は、面長の顔を迷惑そうにゆがめている。
「うるせぇ、てめぇ、知ってて妙な噂をばらまきやがったな、室長のチョコは、あれは国府田が買ったものらしいじゃないか」
 蓮見は噛み付くように言った。
「そうですよ、今ごろ気付いたんですか」
 遥泉は、動じる気配もなく、蓮見の手を振り解いた。
「あれだけ室長の傍にいて、迂闊にもほどがあります。あの人が死んだってそんな真似をするものですか」
 表情ひとつ変えずに、ぬけぬけとそんなことを言う。
―――こいつ、事件以来、性格まで変わりやがったな。
 蓮見は、殴ってやりたい衝動をぐっと堪えた。
「んなことはどうでもいい、俺が、桐谷のおっさんに、どれだけネチネチやられたと思ってんだ、オイ」
「それは災難でしたね。僕はただ、この殺伐とした艦内に、少しでも潤いをもたせようとしただけなのですが」
「うそつけ、お前がそんなタマかよ」
 遥泉は、平然と眼鏡を指で押し戻している。
 ホテル<GENESIS>の事件以来、いや、真宮楓の事件以来、この男は何かにつけて、ちくりちくりと、嫌味を言う。
 今回のことも、蓮見と右京の間を勘ぐった企みに違いないのだ。
「まぁ、いい、言っとくが、怒ってるのは俺だけじゃないんだからな」
 吐き捨てるように呟き、蓮見はそこで深呼吸した。
「じゃ、宇多田、後はよろしく頼む」
 そう――報復の手段は、きちんと考えてある。というか、考えられてある。
「……宇多田…さん?」
 案の定、自分の予想しない展開に、遥泉の眉がけげんそうに寄せられた。
「はーい、報道シックスの宇多田です。今夜は素敵な映像をお贈りしたいと思います。戦時下で、日本の上空を護っている若者たち――彼らもまた、一人の男であり、女です。戦場に咲いた小さな恋、今日のお別れの映像は、そんなロマンティックな二人を捕らえたものです」
 登場と同時にアナウンサー口調でまくしたてる宇多田。そして、彼女の背後には、テレビカメラのクルー。
「……は、はぁ?」
 戸惑う遥泉の前に、青いおさげを六つに編み分けた少女が現れる。
 少女はうつむき、丸い頬をぱっと赤く染めた。
「遥泉さん……ひなのの愛、受け取ってくださいっ」
 両手で差し出されるピンクの包み。
「…………」
 遥泉雅之。
 誰よりも冷静なはずだった男。
 その、眼鏡ごしに垣間見える眼が、凍りついている。
「いよっ、遥泉、おめでとう」
 届いた第一声は、昨夜からオデッセイに逗留している桐谷のものだった。凶悪な男の目に、残虐な悦びが滲んでいる。
 それが合図のように、通路の向こうに隠れていたクルーたちが姿をあらわした。
「遥泉さんも隅におけないですねぇ」
 拍手と歓声の中、感心したように言ったのは、ただ一人この騒動の裏を知らない真宮嵐だ。
「えへっ、ひなの、嬉しいですぅ」
 国府田は硬直したままの遥泉の手を取って、ぐるぐると振り回している。
「いやー、オデッセイ初のカップルの誕生だな、めでたい、めでたい」
 追い討ちをかけたのはまたもや桐谷で、ここまでやろうと言い出したのも、そもそもこの男だった。
「なかなかお似合いですよ、遥泉さん」
 鷹宮は腕を組み、済ました顔でにっこりと笑っている。
「まぁ、このへんにしといてやったらどうだ、おい」
 そう言ったのは椎名で、
「いやぁ、遥泉さんでも、あんな顔するんですねぇ」
 その隣りで、笑いながら手を叩いているのは――先ほど、シャトルで帰還したばかりの獅堂だった。


                  八


「ひっさしぶりー、誰かと思ったら獅堂じゃないの」
 その声で、室長室に戻りかけていた蓮見は、足を止めた。
 広い通路脇に備え付けている休憩スペース――別名、喫煙室から、その声は響いてくるようだった。
「わ、倖田さんじゃないっすか、まだ残っておられたんですか」 
 驚いたような声は――獅堂藍のものだ。
 なんとなく気を引かれ、蓮見は休憩室の方に視線を向けた。
 倖田――という名前が、椎名リーダーの恋人の名前だということは、蓮見にも判っていた。
 来客リストで氏名も所属も確認している。
 倖田理沙。
 現在、航空自衛隊千歳基地で、要撃戦闘機の整備士をやっている女性。
 獅堂とは正反対の大柄で肉感的な女で、――そして、顔立ちのくっきりした明るい容姿の美人だった。
「身内の特権ってやつ?今夜は、このままオデッセイに泊まっていいんですって」
 倖田理沙は、テレビ向けなのか、淡いブルーのワンピースを身につけ、化粧をした顔で嫣然と笑う。
 休暇中のせいか、シャツにジーンズ姿の獅堂とは、ひどく対象的だった。
「そうなんすか、元気でしたか、千歳に行かれて以来、随分ご無沙汰してて」
「そうそう、獅堂はメールひとつくれないからね」
「いやー、自分は、ああいうちまちました機械が苦手で」
「莫迦ねぇ、もっと高度なコクピットの操縦は簡単にやっちゃうくせに」
 二人は、ソファに腰掛けて、肩を寄せるようにして話している。
 双方の表情から伺えるのは、単純な――再会の喜びだけだ。
「それより、ニュース見ましたよ、もう、やられたなー、あんな顔した椎名さん初めて見たから」
「あはは、あれは相当怒ってたのよ、自分だけああいう特別扱いされるの、何よりも嫌う奴でしょ、恭介は」
「照れてるだけですよ、実際かなり喜んでるの、傍で見ててもすぐ判りましたから」
 獅堂の口調はごくごく普通で、そこに暗い影は何一つない。
 皮肉を言っているのでも、すねているのとも違う。
 本当にあっさりしている。
「悪趣味ですよ、蓮見さん」
 囁きと共に、肩をぽんと叩かれて、びくっとして振り返っていた。背後に立っていたのは、少しいたずらめいた顔をした鷹宮篤志だった。
「まぁ、…なんとなくだよ、たまたま通りかかったから」
 蓮見は肩をすくめて、歩き出した。
「おい、あいつらエライ仲がいいけど、知り合いなのか」
「百里でね、少しの間一緒だったんですよ。……獅堂さんは、入隊当時は、仲間から相当浮いてたんですが」
 その後をついてきながら鷹宮は続けた。
「唯一の友達が倖田さんじゃなかったかな。彼女、ああ見えても男以上にさっぱりした人ですからね。いじめられる獅堂さんを何かと庇ったのも、彼女だって聞いてますよ」
 足を止めて、蓮見は鷹宮を振り返った。
「いじめって……獅堂が、か」
 信じられない。誰よりも――人気者で、みんなに可愛がられ、慕われているあの女が。
「自衛隊は、なんだかんだ言っても男社会ですからね」
 鷹宮は淡々と続けた。
「男を追い抜くほど目立つ女性は、叩かれます。獅堂さんも、ああ見えて相当ひどい目にあってますよ。女性っていうのは不思議な生き物でね。男性と違って、同性にも足をひっぱられがちなんです」
―――陰湿なんだな…。
 そう言いかけて、蓮見は口ごもった。
 それは、警察という組織も全く同じだったことに気付いたからだ。
 右京奏がそうだった。
 ここに着任する前に――蓮見が聞いた彼女の噂は、どれもひどいものばかりだった。
 お気に入りの男をいつも連れ回し、執務室でよろしくやっている。
 週に一度は、上の連中のベッドの相手をさせられている。
 遥泉の恋人を故意に射殺した。
 さらにひどいものになると、身体の特徴、ベッドでの様子まで事細かに書かれた怪文書が出回ったこともあった。
 男性からは煙たがられ、女性からは敬遠されていた。
 それが――警察庁での、右京奏という存在だった。
「室長と獅堂さんは、似てると思いますよ、実際」
 まるで、蓮見が考えていることを見抜くように、鷹宮は呟いた。
「え、え、別に、あれだよ、誰も室長のことなんか」
 思わずしどろもどろになった蓮見を見て、美貌の男は可笑しそうに笑う。
「……でも、どちらが弱いかといえば、室長の方だと思いますけどね。あの人は、…本当は、実際、とても寂しい人ですから」
「………」
 どういう意味だろう。
 蓮見は戸惑いながら、殆ど目線の変わらない男を見つめる。
 表情の読めない、端整な顔だち。
 何故――この男が、普段余り口を聞くこともない右京のことを、こんなに知っているような口ぶりで話すのだろう。
「……私の父が、もともと右京さんの父と懇意でしたから」
 その疑念を察したのか、鷹宮は薄く笑んでこう言った。
「その関係でね、私は子供時代の室長のことを、なんとなくですが、知っているので――まぁ、向こうは私のことなどご記憶ではないでしょうが」
 右京の父――右京総理大臣のこと――だろうか。
 その右京の父と懇意だったという――鷹宮の父とは。
「寂しいって……なんなんだよ」
 蓮見は戸惑いながら反論した。
 なんだか、このまま納得してしまうのが、妙に癪に障るような気がしていた。
 あの自身満々の女の――どこが寂しいって?
「俺にしてみりゃ理解できねぇな、そりゃ、友達はいなさそうだけど、立派な親父がいて、家は金持ちで、お庭で薔薇を育てる優雅なお母様がいて」
「じゃあ、今夜はここに泊まってくのか」
 通路の向こうから、低い声が聞こえたのはその時だった。


                  九



 薄暗い通路を、二つの人影が寄り添うようにして歩いていた。
「まいったなぁ、俺の部屋は一人部屋だし」
 そう言って髪に手を差し込んでいるのは、椎名恭介。
 いつものように、きちっと隊服を身につけ、背筋を真っすぐ伸ばして歩いている。
 彼の傍らにいるのは、先ほど休憩スペースにいた女――倖田理沙だった。
 二人は、顔を寄せ合うようにして、語らいながらこちらに歩み寄ってくる。
「いやぁねぇ、ちゃんと右京室長が、別に部屋を用意してくれてるわよ。何考えてるのよ、エッチ」
 蓮見は思わず目を見開いていた。
 軽快に歩いているようで、倖田の歩き方には、少し独特な癖がある。――右足を……わずかだが、ひきずったような歩き方。
「ば、ばかなことを言うな、自分はただ、」
「はいはい、判ってるって恭介の性格は、冗談よ、冗談」
 女はあっさりそう言って、そのまま椎名の腕を取った。
「……でも、少しは二人になりたいな」
「判ってるよ」
 椎名の腕が、女の肩に回される。
 その表情まで、蓮見の位置からは判らなかった。
「チョコ、食べてくれる?」
「もう食った」
「ホント?パイロットは歯が命だっていつも言ってるくせに」
「本当だよ、ついさっき」
「じゃあ、確認させて」
「………」
 さすがにそれ以上聞き耳を立てるのがはばかられ、慌てて眼を逸らした蓮見の肩を、鷹宮がぽん、と叩いた。
「……蓮見さん、ひとつ教えてあげますけど、右京室長にはお母さんはおられませんよ」
―――え……?
「彼女が高校生の時に、お亡くなりになってるんです。私も人のことは言えない、ついさっきまで、妙な誤解をしていたのですから」
―――なんの…話だ……?
「……私自身のことです。まぁ、獅堂さんは、優しい人だということですよ」
 それだけ言うと、鷹宮は優雅に一礼してきびすを返した。


                 十


「今日は、ラウンジが随分賑やかだったようだな」
 ようやくパソコンの電源を切った女は、そう言って顔を上げた。
「ああ、……えっと、国府田のことで、ちょっと」
 書棚に書類を戻しながら、蓮見は言葉を濁していた。
 あの莫迦騒ぎをこの冷徹な女室長が知ったら、どんな叱責が落ちてくるかわかったものではない。
「遥泉は……先ほどから姿が見えないようだが」
「あ、頭痛がするって、早々に部屋に」
「ふぅん……」
 少し不信気な顔をした右京は、そのまま立ち上がり、肩に羽織っていた上着を脱ごうとした。
 それが、滑って床に落ちる。
「ああ、いいっすよ、俺が拾いますから」
 右腕を固定されている状態では、かがみこむのは辛そうだった。
「いい」
 しかし右京は眉をひそめ、そのまま左腕で上着を掴み上げる。
 蓮見は歩み寄ろうとしていた足を止め、肩をすくめた。
(―――お前が、必ず来てくれると思ったからな。)
 真宮楓の事件では――あんなしおらしいことを言ったくせに。
 翌日には、もう平然として、何もなかった顔で執務室に座っている。
 取り澄ました横顔で。
 他人を拒否する横顔で。
 どこか――寂しげな。
「………」
―――なんだ、俺は。
 蓮見は慌てて目を逸らした。
 さきほど鷹宮におかしなことを吹き込まれたから―――だから、少し感情的になっている、それだけだ。
「じゃあ、用がないなら、俺はもう下がりますから、国府田でも呼んできましょうか」
「そうだな……ああ、そうだ」
 右京は立ったまま、机の引き出しをすっと開けた。
「お前、チョコレートは、食うか」
「……………は」
「国府田で思い出した、先日彼女にもらったんだが、私は甘いものが食べられない。持ってってくれ」
「………………」
「なんだ、奇妙な顔をして、そんなにおかしなことを言ったか、私は」
「……あの………いや」
 なんと言っていいかわからず、かろうじてこれだけ言った。
「このこと、死んでも桐谷一佐にだけは、言わないんで欲しいんっす……けど」
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