(―――怖いのか。)
 その時聞いた柔らかな声は、まだ耳の奥に残っている。
(―――自分も初フライトはそうだった、大丈夫だ、楽しんでやれば、なんてことはない。)
 日差しが眩しくて、それが――あの人が差し出してくれた銀色の欠片を、きらきらと輝かせていたのを。
(―――やるよ、これ、留学時代に、どっかの売店で買った安物なんだけど。)
 自分は。
(―――俺のゲン担ぎだよ、これをつけてると、不思議に落ちる気がしないんだ、やるよ、お前に。)
 自分は―――今でも、
 今でも、本当によく覚えている。
 あの日のあなたを。
 あの日、二人で見た青空の記憶と共に。


                  一


「ちょ、ちょっと待ってください」
 獅堂藍は、殆ど鼻先まで寄せられた唇を、慌てて両手で押し戻した。
「じ、自分は、そんなつもりでは」
「ああ……すいません」
 キス――しようとしていたのだろうか、優しい目をした男は、少し照れたように傾けていた身体を起こす。
「あなたが……なんだかとても、可愛かったから」
「はっ?あ、あの」
 獅堂は思わず咳き込んでいた。
「職権乱用でしたね、謝ります」
 男は、すうっと水のように静かに笑う。
 額を覆う柔らかそうな髪、少し長めの髪型のせいか、それが白衣の男を実年齢よりさらに若く見せていた。
 佐々木智之。
 都内で子供歯科クリニックを営む開業歯科医。
「か、可愛いっていうのは、なんですか、自分の歯並びのことですか」
 どぎまぎしながら、診察台から身体を起こし、獅堂は、傍らのうがい用のカップを手に取った。
 男の横顔が苦笑している。
「確かに歯並びも魅力的ですけどね、なんでしたら、もう一度じっくり診てあげましょうか」
「いっ、いいです、遠慮します、はい」
 含んだ水にむせてしまいそうだった。
「何の問題もありませんよ、今までどおり、健康で綺麗な歯でした」
 男はそう言って背を向けた。診療室の隅にある手洗い所で、薄いゴム手袋を外して手を洗っている。
「パイロットは歯が命ですから」
 獅堂は真剣な顔で言った。
 飛行中に急激な気圧の変化に遭遇すると、ささいな虫歯の隙間に空気が入り、それが膨張して激痛を引き起こすこともある。歯牙のチェックはパイロットの常識なのだ。
 獅堂は、診察台から滑り降りながら、すっかり見慣れてしまった診察室の様子に視線を巡らせた。
 午後――まだ日は高いのに、治療に訪れているのは自分1人のようだった。
 白い壁面に、さまざまな医療関係のポスターと共に、つたないクレヨン画の絵が飾ってある。
 オトウサン。
 たどたどしい字に胸が痛くなって、そのまま獅堂はうつむいていた。
 この――佐々木歯科クリニックに、二ヶ月に一度通うようになってから――もう随分になる。
 歯医者に行くのが嫌で嫌で仕方なかった獅堂が、先輩パイロットの紹介で行くようになったのが、この子供用の歯科クリニックだった。
「あなたには……随分色々、話を聞いてもらいましたね」
 男の背中が呟いた。
 あれから随分痩せてしまった背中。
 男手ひとつで育てていた彼の一人娘は、去年起きた飛行機事故――中国軍用機の誤爆で亡くなった犠牲者の一人だった。
 離婚した元妻と共に韓国旅行に旅立った所を、戦火の犠牲になったのだ。
 それきり何も言わなくなった男が、そのまま窓辺に歩み寄っていったので、獅堂も、なんとなくその後を追った。
「あの場所で、……帰りの飛行機を待つのが、もう習慣のようになってしまいましてね」
 男の眼差しは、この診療所が入っているビルの真下を流れる河川――そこに掛かる、大きな橋に注がれている。
 獅堂は、ぐっと胸に込み上げるものを抑え、眩しいほどの青空に視線を転じた。
(―――お姉ちゃん、あの飛行機で、リナは戻って来るんだよ。)
 空を指さした小さな手のひら。
(――だからねぇ、パパに寂しがらないでって、そう言ってね、リナは絶対戻ってくるからね。)
 それは、事故が起こる数日前のことだった。治療が終った獅堂は、いつものように歯科医の娘をさそって河原に散歩に出かけた。
 すっかり顔なじみになって、おねぇちゃん、と慕ってくれる可愛い少女。彼女はまだ、この春小学生になったばかりだった。
 そして、いつものように、あの橋の上で空を見上げた。
 幼い少女には、空を矢のように飛んでいく機体が、まさか訓練中の要撃戦闘機だとは理解できなかったのだろう。
 ただ、数日後に飛行機に乗って外国旅行に行くことに――その同行者が、久しぶりに会う母親だということに、単純に喜んで、期待に胸を膨らませていたのだ。
「あの空を飛ぶのは、旅客機なんかじゃない、……戦争の道具だというのは、知っているんですがね」
 男は呟く。
 戦争の――道具。
 その響きに、獅堂は唇を噛み締めた。
 無力感が込み上げる。
 自分に何ができるだろうか。
 いや、この一年、自分は何をしてきたのだろうか。
 自分は――本当に、この手で誰かを救うことができるのだろうか。
「……佐々木、先生」
 獅堂は、少し逡巡してから口を開いた。
「自分も、あの航路で、月に一度、訓練フライトをします」
 男の優しげな横顔が、少し戸惑ったように振り返る。
「ああ、いや、別にあなたを責めているわけでは」
「そんなことを気にしてるんじゃないんです」
 そう言って、獅堂はゆっくりと顔をあげた。
「……自分は、戻ってきます、……戻りますから、必ず」
「…………」
「そんな寂しい目をしないでください」
 薄い眼鏡越しに見下ろしている眼差し。
 白衣の袖からのぞく、白くて、そして長い指。医者の指とは、こんなにきれいなものなのだろうか――。
 藍の脳裏に浮かんだのは、日焼けして、ふしくれだった男の指の残像だった。
 出会った初めから約束した人を持つ、決して――好きになってはいけない男の指のことだけだった。
 たった一度――偶然のように抱き締められた夢のような記憶。
 初めて、他の男の唇を受け入れながら、獅堂の頭に浮かんだのは、あの夜の思い出だけだった。
「ええと、……自分はそろそろ、帰らないと、」
 うちの室長、鬼より恐い人ですから。
 照れ隠しにそう言って、獅堂は男から顔をそむけた。
 照れ隠し――というより、それはある種の罪悪感でもあった。今、キスを交わした時に抱いた感情。その残酷な身勝手さを、さすがに自覚しないではいられなかったから――。
「結婚してもらえませんか」
 ふいに背中から声が掛かった。
「…………は、」
 固まったまま動けなかった。
 それは――いくらなんでも予想の範疇外の、
「あ、あの……?」
 獅堂にとって今のは、正真正銘のファーストキス。
 それだけで、正直、脚がふらふらするほど動転しているのに――。
 結婚??
「突然なのは判っています、でも……あなたに言われるまでもなく」
 白衣が眩しかった。男の綺麗な心も指も、人の痛みを救うためだけに存在する。軍人のように、人の命を奪うことなど――決してない。
「私は、あの場所で、いつか、あなたの姿を待つようになっていたのかもしれません。あなたが――空を駆けていく姿を」
「佐々木先生、」
 獅堂は、戸惑いながらも顔を上げた。どう――何を言っていいか判らなかった。でも。
「……すいません、…お断りします」
 小さな、けれど、きっぱりとした口調で言った。
 結婚はできない、それだけは確かだ。
「えっと、あ、いや……佐々木先生のことは好きです。今だって、好きだから…ああいうことができたわけで」
 えへん、とそこで咳払いをした。
「ただ、今、日本は大変な時なんです。仲間が命がけで戦っている、自分もそうです。恋愛や結婚のことを考えている余裕は、今の自分にはありません」
 じっと見下ろしている寂しげな――そして、危ういものでも見守るような眼。
 獅堂は、無言で、首の後ろに手をまわし、胸にかかっているシルバーのペンダントを取り外した。
 薄い四角形の板状の飾りが、銀の鎖に引っかかって煌いている。
「これ、預かっててもらえますか」
「………」
「自分の……宝物……でした、今は、持ってて欲しいんです。佐々木先生に」
 指先に絡んだ冷たい鎖。その冷ややかな感触が、ゆっくりと指から離れていく。
 忘れよう。
 獅堂は思った。
 このペンダントを手放したこの瞬間に、もう――あの人のことは。
 鷲という、彼のチーム名の由来にふさわしい――雄雄しい翼を持つあの人のことは。
「自分は、……あなたの娘さんの代わりにはなれないし、その……結婚のお約束もできないのですが」
「獅堂さん」
「それでも自分は、絶対に帰って来ますから!」
 そして、ようやく自分らしい笑みを浮かべ、目の前の男を真っ直ぐに見上げた。
「その時は、また歯のチェックをお願いします」
 しばらく目をしばたかせていた男は、そこで初めて、彼らしい、優しげな苦笑を浮かべた。
「わかりました……僕は待ちますよ、諦めずにね」
「いや、…まぁ、それは」
 諦めずに、という所が、少し強調されている、背を向けて歩きかけていた獅堂は、どきっとして足を止めた。
 けれど振り返って仰ぎ見た男の顔は――ひどく、沈んで、寂しげだった。
「僕には到底理解できない、……あなたみたいな子供が行く戦争って……どんなものなんでしょうね」
「自分はもう、二十三です……もっと子供も、この戦争には参加している」
 獅堂は、苦く眉根を寄せて呟いた。
 真宮嵐と、そして楓。
 ようやく二十歳になったばかりの若者たちが背負う宿命は――余りにも、重い。
 腕に装着していた携帯式の特殊通信機が、緊急呼び出しの警報を鳴らしたのは、その時だった。
「あ、すいません、こればかりは電源が切れなくて」
 獅堂は慌てて、通信機を耳元に寄せる。
 聞こえてきたのは、右京室長の声だった。
『――獅堂、至急艦に戻れ、北アメリカ航空宇宙コマンドのデータが弾き出した。中国政府がオデッセイに向けてミサイル発射準備をしている』
 それが何を意味するか。
 旅客機誤爆事故以来、ぎりぎりまで高まっている日中間の緊張関係――。
それをよく知っていた獅堂には、一瞬で理解できた。
「やっぱり、鬼室長に怒られました」
 背筋に駆け抜けた緊張を悟られないようにして、何気なく回線を切る。
「行きます、佐々木先生、どうやら正念場みたいです、この戦いの」
「待ってますよ……僕は」
 獅堂は頷き、そして綺麗な所作で敬礼した。
「自分が必ず護ります、あなたを、そして、あなたの大切な場所を」



 床面を蹴って駆けていく背中に―――。
 一瞬、佐々木は見惚れていた。
 その伸びやかな背に、まるで、透明な翼でもあるような気がした。
「……天使……か…」
 閉ざされた扉の向こうの残像を追いながら、佐々木は、低く呟いていた。
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第六章 約束の空