四



「じゃあ、……チョコっていうのは、国府田の買ったものだったのか」
 指先の甘い褐色を舐め取りながら、獅堂は呆れたように言った。
 オデッセイのランチルーム――その奥にあるキッチンの一角を特別に貸してもらっていた。
 獅堂は、国府田に借りたエプロンをつけ、慣れない作業に悪戦苦闘中だった。
 広いキッチンに、湯煎で溶かしたチョコレートの甘い匂いが立ち込めている。
「そうでーす、ひなのが右京さんにあげたんです」
 国府田ひなのは、ボールに入れたチョコに、上から生クリームを注ぎながら楽しげに言った。
「それを右京さんの机の上に、きれーな袋に入れて置いてたんです。ええと、三日前くらい。それを見た遥泉さんが、私に聞くじゃないですかー、室長の机の上にあるのは、何ですかって」
 だから、私、言ったんですよー。
 チョコよりも甘ったるい喋り方をする少女は、悪びれる風なく続けた。
「あれはね、室長に頼まれて私が買ったチョコレートなんですって、室長、誰かにチョコでもあげるつもりなのかしらーって」
「…………」
 三日前というと、右京が病院へ行くために地上に降りていた日に当たる。
「国府田、なんだってそんな嘘を」
 獅堂はため息をつきながら言った。
 話のついでにちらっと聞いた。先ほどラウンジで話題になっていたのも、右京室長が誰にチョコをあげるか――ということだったらしい。
 おかしいと思った。そんな女子高生みたいな真似を、どう考えてもあの――あの右京室長がするはずはない。
「遥泉さんの反応が知りたくてぇ」
 国府田は指をボールの中に突っ込み、掬い取ったチョコをぺろり、と舌先で舐めた。
「だって、右京さんと遥泉さんって、昔からずっと一緒だったんですよねー、恋人かなって思ったけど、そうでもないしぃ、なんか中途半端な関係っていうかぁ」
「うんうん、まぁ、そんなだよな」
「あ、獅堂さん、そろそろいいかも、型に移しちゃいましょうか」
 ひなのは獅堂の手からボールを取り、器用にそれを、ハート型の銀の容器に流しいれる。
「……娘が父親にあげるんだから、ハートってのもないんじゃないか?」
 獅堂がふと、気付いてそう聞くと、うつむいていた少女は、きゅっと笑んだ。
「……鈍いですねぇ」
「え?」
「いいええ、それにしても、獅堂さんまでそんな噂知ってるってことは、あれですよね、遥泉さんが、言いふらしたってことになりますよねぇ」
 手のひらくらいの大きさの型に、次々チョコを流しいれながら国府田は続けた。
「そういや、そうだな」
「おかしいと思いません?あの遥泉さんが、右京さんの秘密を口外するなんて、ありえないでしょ」
「……そういや、そうだな」
 確かにそうだ。
 遥泉雅之。
 忠臣蔵の大石蔵之助よろしく、ひたすら忠義に生きるあの男なら、上司の噂を軽はずみに広げるはずはない。
「多分ね、遥泉さんは、ひなのの嘘を見抜いてるんですよ」
 さっさと作業を終え、型をひとつひとつトレーに載せながら国府田は言った。
「見抜く……?」
「遥泉さんも、ひなのと同じですよ。ある人の反応を確かめようとしたんじゃないかなぁ」
「ある人」
「蓮見さんですよ、ほら、あの恐い顔したオジサン」
「…………」
 国府田に言わせれば、25歳以上はオジサンになるらしい。
 遥泉も、そういう意味ではオジサンなのだが、国府田の中では彼だけは別格――なのだろう。
「なぁんか、蓮見さんと室長の関係も、すっごく微妙なんですよね、そう思いません?室長があんなに容赦なく嫌味を言う男の人って、蓮見さんくらいでしょ」
「……それは、単に嫌ってるだけなんじゃ」
「ちっちっちっ」
 国府田は指先を唇の前で左右に振った。
「そこが、女心の妙ですよ、右京さんみたいな完璧な人は、むしろ蓮見さんみたいな頭の悪い人に惹かれやすいんです。護ってあげたいというか、放っておけないというか、ついつい絡んでしまいたくなる相手なんですよぉ」
「………お前、見かけによらずに、人を見てるんだなぁ」
 獅堂は感嘆しながら呟いた。
「自分は、なんていうか、まぁ、室長には桐谷さんがお似合いだろう、という程度にしか」
「駄目です、それはありえないですね」
 国府田の返答は即座だった。
「桐谷さんは、女を包むタイプの男の人でしょ〜。女性としてはすっごく頼りがいがあって、抱かれると安心するタイプ。でも、右京さんの性格からして、そういう相手を受け入れることはできないと思うんですよね」
「……どうして」
「自分が駄目になるからじゃないですか。右京さんは、ぎりぎりの所まで自分を追い詰めて戦ってるでしょ。誰かに庇護されるような恋愛は、あの人向きじゃないですよ」
「……スゴイ、お前、見直したよ、よくもまぁそこまで分析できるもんだ」
「獅堂さんが鈍すぎるんです」
 女子高生はさらりと言うと、チョコを入れた冷蔵庫をぱたん、と閉めた。


                  五


「まずい」
 唇を離し、右京奏は即座にそう呟いた。――ように、蓮見には見えた。
 わずかに眉を寄せ、テーブルの上に置いたコーヒーカップを、そのままぐっと左手で隅の方へ押しのける。
「蓮見、下げてくれ」
 と、言われる前に、つかつかとその前に歩み寄った蓮見は、まだ熱いカップを取上げた。
 右京は何も言わず、目の前の書類に眼を落としている。
 その右肩から肘まで、白い包帯が覆っている。が、肘を複雑骨折した女が臥せっていたのは、実際入院していた時くらいだった。
 もともと左利きだったのか、右手が使えないことは、女にとってなんの妨げにもなっていないらしい。
「コーヒーのひとつも満足に淹れられないのか、お前は」
 その右京が、視線を下げたままで呟いた。
「……すいませんね、こういう仕事は初めてなもので」
 蓮見はむかつきをかみ殺しながらそう答える。
 利き腕を骨折した右京の身の回りの世話は、基本的に国府田がやっている。しかし、国府田とて暇ではない――時がある。
 そういう時、必然的に蓮見が呼ばれることになるのである。
 真宮楓の騒動が終り、通常業務に戻ったせいか、謹慎が解けて以来、蓮見は頻繁に右京に呼ばれるようになった。
「蓮見、そこの書類を取ってくれ」
「ああ、違う、もういい、本当にお前は使えない男だな」
「いい、そこで黙って、もう何もしないでくれ、かえって仕事が増えるだけだ」
 そんな苛立った声を先ほどまでさんざん聞かされて――挙句、仕方なく淹れてやったコーヒーにまでけちをつけられた。
 もう、いい。
 と、蓮見は思った。いつものことだが、もう俺はこりごりだ、これで首を切られるなら、願ったり叶ったりだ――と思った。
 毎日、そんなことを思いながら、それでもこの女の傍にいる自分がいる。
 それが自分でも不思議だし、なんだか腹立たしくて仕方が無い。
「悪いな、本当はコーヒーは好きじゃないんだ」
 室長室の隅に設けられた流し――そこにコーヒーサーバーやカップなどが備え付けられているのだが、シンクの中に残った液体をぶちまけた時、背後からそんな声がした。
「好きじゃないって、あんた、いつも飲んでるんでしょうが」
(―――三時にはコーヒーを淹れて上げてくださいねぇー。)
 嬉しげな声でそう教えてくれたのは国府田ひなのだ。
「……口寂しいから、なんとなくな。お茶よりはマシだろう」
 その口調が、何故か寂しげに聞こえたので、蓮見は思わず振り返っていた。けれど右京は、書類に眼を落としたまま、蓮見の方を見てもいない。
「……じゃあ、何が飲みたいんですか、言ってくれりゃ、なんでも用意しますから」
 ため息をついて、少し投げやりな気持で言っていた。
 今日は二月十四日。
 昨夜、パイロット連中にあんな風にからかわれて――挙句桐谷に煙草まで奪われたのだから、今朝一番に室長室に呼ばれた時は、まさかと思いながら、入室した。
 案の定、右京の態度は普段とまったく変わりがない。というより、普段より機嫌が悪そうにさえ見える。
「何でも、か」
 右京は初めて顔を上げた。
 蓮見は少し、ドキっとしていた。
 悔しいが、綺麗だと思う。切れ長の涼しげな瞳に、透き通るような白い肌。
 化粧はしていないはずなのに、唇は自然の赤みで、時々くらっとするほど色気を滲ませているときがある。
「私の家に、小さい庭があってな」
 左手を顎に当て、右京は何かを思い出すような顔になった。
「……そこで、家の者が、特別に配合した薔薇を育てているんだ。少し青みがかった白薔薇だ。その花びらを乾燥させたものを他の香草と混ぜて、昔はよくハーブティを作ってくれた。それを頼んでもいいか」
「……あんたの家って、確か、」
「首相官邸だ、お前も場所くらいは知ってるだろう」
「そんなとこ、俺がのこのこ行けるわけないじゃないっすか!自分の家なら、あんたが頼めばいいでしょう!」
 さすがに唖然として言い返した。
 右京奏の父親は、現職総理大臣の右京潤一郎である。
 長身なのは血筋なのか、十年以上内閣を存続させている凄腕の政治家も、また、ひどく長身の男だった。
「冗談だ、本気にするな」
 右京は顔色一つ変えずにそう言うと、再び書類に視線を落とした。
―――ったく……。
 振り回されてばかりだ。
 冗談じゃない、こんな――いくら頭がいいとはいえ、所詮は年下の女一人に。
「蓮見、遥泉には伝えてあるが、今日の午後、テレビの取材を受けることになっている」
「えっ」
「何かと物騒な話題が続いたからな、上もイメージアップに必死なんだろう。今日がバレンタインデーだということは知っているか」
「え、……あ、……あー、そうですね」
「なんだ、奇妙な顔をして」
 右京はいぶかしげに眉を寄せて立ち上がった。
「戦場のバレンタインという企画らしい。クルーの妻子が何人か、プレゼントを持って慰安に来る。該当するクルーには直前まで伏せていてくれという依頼だ」
「はぁ……」
 右京は、テーブルの上に置かれた書面を持ち上げて差し出した。
「ここに書かれたクルーたちに、午後二時にオペレーションクルー室に集合するように伝えてくれ、お前にはテレビ局の対応を任せる。担当は宇多田天音さんらしい。お前と気が合いそうな女性だったじゃないか」
「あのねぇ」
 宇多田天音。
 お嫁さんにしたいナンバー1の人気女子アナだが、性格はそうとうきつい。
 どこが俺と気が合うんだよ、と思いながら、その書面を受け取って眼を落とした。
 そして、少し驚いていた。
 筆頭が――椎名恭介となっている。
「室長、椎名リーダーは、」
―――確か、未婚のはずでは。
「千歳基地に婚約者がいるんだ、まぁ、防衛庁としては、引き離された恋人同士として世論の同情を誘いたいネタなんだろう。粋な計らいのつもりだろうが、椎名の性格から言って、喜ばれそうもないがな」
「……………」
 獅堂藍は、確か、今日一日休暇をとって地上に降りている。
 それが――救いだな、と蓮見は思った。


                  六



「車で送りますよ」
 そう言ってくれた男を、獅堂藍は手を振って遮った。
「この辺でタクシー拾いますから、いいです、マジで」
 夕闇が落ちかけている。
 早めの夕食を取ったせいか、胃が少し重たかった。
 レストランを出ると、街中には仕事帰りなのか、たくさんの人が溢れていた。
 中国の軍用機が民間旅客機を撃墜してから、否応なしに日中の緊張は高まっている。先月も、新たな部隊が海自から台湾海峡に派遣されたばかりだ。
 新聞やテレビの二ュースは、連日台湾の戦況を告げ、識者や軍事評論家が、したり顔で日本の武装化の必要性を説く。もう、そんな時代になっていた。
 それなのに、獅堂の目の前に広がる光景は――戦争前と少しも変わってはいない。
 無気力な顔をした若者たち、公然と抱き合う恋人たち、飲みでも行くのか、賑やかな笑い声をあげてすれ違っていくサラリーマンの一団。
「……歯がゆいですか」
 隣りに立つ男が、ふいに言った。
 道路脇でタクシーを待っていた獅堂は、驚いて顔を上げた。
「いや、あなたのような軍の人から見たら、地上の光景はどう映るのかな、と思って」
 男――佐々木智之。
 東京都内で歯科医を営む三十歳の男は、そう言ってすうっと笑った。
 黒目部分が大きい綺麗な目と、柔らかな髪型のせいで、実年齢よりは数段若くみえる――いわんや、四歳の娘がいるようにはとても見えない。
「いや、いいものだと思いますよ」
 獅堂は素直にそう言った。
「自分たちは、この光景を護るために戦っているんですから。国民が何も知らなくていいってわけじゃないですけど、……まぁ、平和なのはいいことです」
 そして、少し眉を曇らせた。
 歯がゆく思っているのは――多分、自分ではなく佐々木の方だろう。そう感じたからだ。
「……今日は、本当に失礼しました、おせっかいだろうとは……思ったんですが、これもリナちゃんとの約束でしたから」
 真っ直ぐに佐々木を見上げ、そう言って頭を下げる。
 佐々木は戸惑ったように、わずかに苦笑した。
「いや、嬉しかったです。……天国のリナが、贈り物をしてくれたのだと思いましたから」
 その笑顔に胸苦しさを感じ、獅堂はこみあげるものを誤魔化すように視線を下げた。
 佐々木の娘は、すでにこの世の人ではない。
 彼の娘リナは、中国軍用機が旅客機を誤爆した事故での――犠牲者の一人だった。
 子煩悩なこの医師に、ようやく普段の笑顔が戻ってきたのは、本当にごく――最近のことだ。
「先生にそう言っていただけると自分もほっとします。まぁ、チョコっていっても、殆ど人に作ってもらったようなもんですが」
 こちらに進行してくる空タクシーが見える。獅堂は手を上げようとした。
「本当は、獅堂さん個人から頂きたかったんですが」
 背後から声がする。
「また、ご冗談を」
「本当ですよ。本当はね、僕がリナに頼んだんです。獅堂さんにチョコをもらいたいんだけどなって」
 目の前をタクシーが速度を緩めながら通り過ぎていく。
 獅堂は唖然として振り返った。
 何か――引っかかるようなことを言われたような気がするが、言葉の意味が判らない。
「……あれは、あなたが乗艦している艦ではないですか」
 その佐々木の視線が、獅堂の頭上を通り越し、どこか遠くに向けられている。
 獅堂は、けげんに思いながらも振り返った。
 道路の向こう側に、大きなビルがある。その上部に、巨大な画面――街頭テレビが備え付けられていた。
「あれ、宇多田さんだ」
 獅堂は、画面に映る――その見慣れた顔に眉を上げた。
 宇多田天音。
 六時のニュース、報道シックスの女性キャスター。
 東洋風美人の女は、何かと口実をつけては、ちょこちょことオデッセイの取材にやってくる。すでに獅堂をはじめ、各パイロットたちとは馴染みの間柄になっていた。
『空で日本を護っている彼らにも、地上には大切な恋人や家族がいます。今日はセントバレンタインデー、戦士にとっても束の間の休息になるでしょうね』
 にこやかな顔でそう語る宇多田の背後は――オデッセイのオペレータークルー室だ。
 獅堂もよく知っている、<黒鷲>の明神や真田の妻たちの姿が見える。
 そして。
『ではここで、オデッセイのクルー室長、右京さんにお話を伺ってみたいと思います』
「今度、また会ってもらえますか」
 画面が切り替わるのと、佐々木の声がしたのが同時だった。
「え、は、はぁ、それはもう、別にいつでも」
 獅堂は、少し慌てて、佐々木の方に視線を戻した。
「ええと、来月は、確か予約もいれてますし、また病院の方にお伺いしますから」
「そういう意味じゃないんです」
 男は、柔らかそうな眼に、困ったような笑みを浮かべる。
「僕はあなたが好きです、獅堂さん。今だって、あなたを抱き締めてキスしたいと思ってるくらいです、こう言えばわかってもらえますか」
「は…………」
 呆然と目の前の男を見上げながら――獅堂の頭に浮かぶのは別の映像だった。
 画面が切り替わる最後に垣間見えた――見つめ合う男女の残像だった。

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