十三



「随分いい顔で眠っておられましたね」
 女性看護士にそう声をかけられ、右京奏は、眉をひそめたまま顔を上げた。
「あ、ごめんなさい、何か気に障ることを言いました?」
 まだ若そうな看護士は、狼狽したように口ごもる。
「いや、」
 右京はかすかに笑うと、片手で器用にブラウスのボタンを止めた。
「人に寝顔を見られるというのは、なかなかない経験だと思ってな」
「あら、結婚でもなされば、毎日、嫌というほど見られますよ」
「結婚……ね」
「それだけ、お綺麗なんですもの、もういい方がおられるんでしょう?」
「私は望みが高すぎるのかな」
 立ち上がりながら、冗談めかしてそう言ってみた。看護士が、すぐに上着を肩にかけてくれる。
 「お迎えの人はそうじゃないんですか、ナースが騒いでましたよ。かっこいい人が来てるって」
「……かっこいい」
 右京はしばらく逡巡する。
「それはひょっとして、背ばかりが無駄に高くて、襟足のだらしない、目つきの悪い男のことだろうか」
「それ……誰のことっすか」
 背後から低い声がした。
 病室の入り口で、今形容したばかりの男が、眉を寄せながら腕を組んでいる。
「こんな感じの男だ」
 右京はそう言い、一瞬、息を呑んだ看護士は、次の瞬間吹き出していた。 


                    十四


「心配して損をした――という顔をしているな」
 会計で手続きを済ませた蓮見が戻ってきたので、右京は立ち上がりながらそう言った。
 ギプスで固定された腕が動かないのには、もう慣れた。
「そりゃ、そうでしょ、医者も吃驚してましたよ、あんたの人間離れした回復力には」
 蓮見はぼやきながら、右京の隣りに腰を下ろす。そして立ったままの右京をいぶかしげに見上げた。
「言っときますけど、まだ帰れませんよ、薬もらわなきゃ」
「そういうものか」
 右京も素直に腰を下ろす。
「そういうもの……?」
「薬は、会計を済ませた後にもらうものなんだな」
「…………は?」
「今まで病院には縁がなかったんだ。仕方ないだろう」
「いや………それにしても、」
 男は心から呆れ果てているようだった。
(―――リハビリは必要でしょうが、腕の機能自体は、ほぼ、元にもどるでしょう。驚きですよ、右京さん。)
 担当医師からそう告げられたのは、三日前のことだった。
 驚きはなかった。
 そう――昔から病院には縁がなかった。いく必要がなかったからだ。
 それに――。
 横顔に視線を感じ、右京はわずかに顔を上げた。
「なんだ、さっきから、妙な顔ばかりして」
「べ、別に」
 そう言うと、男は慌てて目を逸らす。
「……?」
 不審に思いつつ視線を戻し、そして、ああと気がついた。
「この服のせいか、スカートなんて女子高以来だからな」
「いや……それもあるけど、」
「……?」
「まぁ、なんつーか、全体の雰囲気だよ、感じが変わったというか、丸くなったというか」
「……太ったかな」
 そう呟きながら、随分いい顔で眠っておれましたね――つい三十分前、看護士から掛けられた言葉を思い出していた。
 そうかもしれない。
 飛び級で大学を卒業して、警視庁に入庁してから、もう8年近くたつ。
 こんなに長く――休息を取ったのは初めてだったし、こんなに長く安らいだ気持でいられたのも初めてだった。
 もう、目を閉じても聞こえない。
 自分を憎んで死んでいった、女の声は聞こえない――。
「………」
 右京は無言で蓮見を見上げた。
「な、なんすか、気持悪い」
―――実際、無謀な賭けだった。
 あの土壇場で――迷う間がなかったとは言え、どうして最後の命綱を、この男に託す気になったのだろう。
「いつか、お前の方から、地上に降りたいと――そう言ってくるものだとばかり思っていたがな」
 右京は低く呟いた。
「まぁ、上司の信頼が厚い部下ですから」
 咳払いして男が答える。右京は思わず苦笑していた。
 ふいに足首の辺りに柔らかなものが触れた。
 思わぬ感触に、少し驚いて視線を下げる。
「あ、すいません……」
 申し訳なさそうな声が、離れた場所から聞こえてきた。
「いいですよ」
 足元に転がってきたのはクリーム色の毛糸玉。
 それを、右京に代わって拾い上げてくれたのは蓮見だった。
 一つ離れた列のソファ。大きなお腹を抱えた女性が、立ち上がって、ぺこり、と頭を下げている。
 胸に抱えているのは、編みかけの―――靴下か何かだろうか。
 立ち上がった蓮見は女の方に歩み寄っていった。
「ありがとうございます」
 蓮見から手渡された毛糸玉を受け取りながら、女は柔和な目を右京に向ける。
「ひょっとして、おめでたですか」
「え……はっ」
 蓮見の背が硬直している。
「ごめんなさい、二人ともおきれいだから、すごく目立ってらしたでしょ。それに、とても仲がよろしくていらっしゃるし」
「は、はは、は」
 蓮見の乾いた笑いを聞きながら、右京は、上着で隠した右手の包帯を女に示した。
 女は、はっとした顔になり、すぐに赤くなって頭を下げる。
 女の連れらしい――おそらく夫なのだろう。優しげな男がその傍に歩み寄り、二人は、再度、右京と蓮見に頭を下げ、そして寄り添うようにして待合ロビーを出て行った。 
「す、すっげぇ誤解だな、オイ」
 夫婦の背を見送った後、額の汗を拭いながら蓮見が戻ってきた。
「まぁ、悪くはなかったな」
 右京は、彼らの消えた回転扉を見つめながら呟いた。
「えっ……」
 腰を下ろしかけた蓮見が絶句している。
「私には、生涯縁の無い状況だからな」
(―――奏………。)
「別に……そんなの、今から決め付けなくても」
(―――お前は、子供を産んではいけないよ……。)
 そうだ。
 着信音が腕につけた通信機から響く。
「私は子供が産めないんだ」
「え……」
 それだけ言って、右京は通信機を耳元に近づけた。気ぜわしい遥泉の声が、電波に乗って懐かしく響く。
「蓮見、行くぞ」
「え、でも、薬」
「そんなもの、輸送してもらえ」
 右京は厳しい目になって立ち上がった。
 ひとつの悪夢は終ったのかもしれない。束の間の安らぎだった。この数週間、何も考えずに、ただ眠り続けることができたのだから。
―――でも。
「オデッセイから連絡が入った、椎名機が捕らえた領空侵犯機が、亡命を求め、当艦に緊急着陸を要請しているらしい」
「え……?」
「搭乗者は、真宮楓と名乗ったそうだ」
―――まだ……。
 もっと大きな悪夢は、終ってはいない。











遺恨(終)
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