十


 室内では、先ほどのままの体勢で、右京が銃口を高見沢の額に突きつけている所だった。
「最後にひとつだけ、お前に聞きたい事がある」
 右京の声。
 高見沢は答えない、血走った目をぎらぎらさせて、自分の上に馬乗りになった女を睨みつけている。
「五年前、つくば市で、科学者の一家が殺された。犯人はお前が<竜頭>の流通経路として使っていた宗教団体、救世の家心理教の幹部たちだった」
 右京の背後で脚を止めた蓮見は、立ったまま、二人の姿を見下ろした。
 高見沢玲一。
 警視総監をも狙える立場にあった、警察庁のエリート官僚。
 すでに手配写真の知的な面影はどこにもない。
 逃亡生活に爛れた四十男の、野卑で、すえたような顔がそこにはあった。
 その皺がれた頬をゆがめ、高見沢は莫迦にしたような笑みを浮かべる。
「どうせ俺は殺されるんだ、そうだろう、右京」
「――お前はその事件に関与したはずだ、高見沢」
「お前が殺すのか、それとも遥泉にやらせるつもりか。いずれにしても、俺は口封じに殺されるんだ、てめぇの欲しがってる情報は俺が冥土へ持っていくよ」
 喉を鳴らして男は笑った。その目が、右京の肩を通り越して――蓮見の背後をじっと見ている。
 蓮見は思わず振り返った。
 背後に、いつの間に戻ってきたのか、遥泉が立っている。かすかにその眉根を寄せ、動きを止めた人形のような無表情さで。
 高見沢の声が続く。
「お前を俺のものにできなかったことだけが心残りだよ、右京。焔村だって最初は泣いて抵抗したんだ、それが薬一本で、すっかり別の女になっちまった」
 遥泉の眉は動かない。
 ただ、無言で立つその全身から、押さえ込んだ激しい感情が揺らぐように感じられた。
「莫迦な女だ。昇進を焦って、恋人の遥泉から俺の情報を聞き出したのが運のつきよ。右京、焔村がなんだって、そんなに焦ってたか教えてやろうか。何もかもお前のせいだよ、遥泉をパートナーにして、年下のお前がどんどん実績を上げていく、それが女性キャリアナンバー1と呼ばれていた焔村には我慢ならなかったのさ」
 蓮見は右京を見下ろした。
 真っ直ぐな女の背中は、身じろぎもしていない。
「お前の言うとおりだよ、焔村は俺なんか愛しちゃいない。俺に抱かれながら、あの女は遥泉の名前を呼んでたんだ……いじらしいじゃねぇか、ああ、そうだろう?」
 さすがに溜まりかねて蓮見が足を踏み出しかけた時。
 右京が無言で、男の口に拳銃を突き入れた。
 ごきっという音と共に、こじあけられた口中から赤い鮮血が溢れ出す。
 蓮見は、思わず自分の口元を押さえていた。銃口で歯をへし折ったのだとすぐに判る。
「高見沢、つくば市で起きた科学者一家殺人事件で、救世の家心理教に殺人と誘拐を依頼したのはお前だな」
「がっ、……がっ」
「お前に、その話を持ちかけた人間がいるはずだ。その人間の名前を言え」
 仰向けになった状態で、溢れた血が喉に流れ込んでいる――呼吸する術を失った高見沢の顔が赤黒くそまり、背中が苦しげに反り返る。
「言え、高見沢」
「よ、よせ、そんなんで喋れるわけがねぇだろう」
 蓮見は右京の肩を掴もうとした。背筋が寒かった。修羅場には慣れている――それでも、この情景には、吐き気をもよおすような物凄まじさがあった。
「私に触るな!」
 鋭い叱責が返ってくる。
 右京は、男の口から銃口を引き抜き、それを男の眉間に押し付けた。
「高見沢、お前の言うとおり、五年前、私は焔村警部を射殺した。言い訳はしない。それが私の任務だったからだ」
「恐ろしい女だよ」
 ひとしきり咳き込んだ男は、うめくように言った。
「てめぇは、自分の出世と引き換えに同僚を射殺したんだ。遥泉さえびびって出来なかったことを、平然と、顔色ひとつ変えずにやりやがった」
「………」
「焔村は哀願した、撃たないでくれと、お前に頼んだ。――でも、お前はそんな女を、容赦なく撃ち殺した。外道はどっちだ、心の底まで腐りきってるのはてめぇの方じゃねぇか、右京」
「否定しない、後悔もしていない」
 右京の声は冷静だった。
「唯一悔いを残しているとしたら、五年前、お前を射殺できなかったことだ。ずっと心残りだった、夢にまで見たほどだ」
 恐いほど静かな口調。
 その指が、拳銃の引き金に掛かった。
「右京さん!」
 遥泉が、たまりかねたような声を上げる。
「遥泉、」
 右京は呟いた。
「これで――悪夢は終りだ」


                十一


 銃声が炸裂する。
 それは、固く目を閉じた高見沢の頭上を超えて、部屋の床に突き刺さった。
「莫迦かっ……あんたは」
 女の腕を捕らえたまま、蓮見は肩で息をした。こいつは本気で撃つ――そう思ったのが、右京が引き金を弾く、一秒にも満たない直前だった。
 右京は、わずかに目をすがめて振り返る。
「何であんたが、引き金を弾かなきゃいけない、あんたに、そいつを殺したい理由が何かあるのかよ、おい」
「これは私の問題だ、放っておいてもらおう」
 しかめられた眉にこめられた拒絶の色。けれど蓮見はひるまなかった。
「上の命令で殺すのか、焔村って女の恥を外に広めたくないためか、んなことは、長七郎江戸日記かなんだか知らねぇが、そのおっさんにやらせりゃいいことじゃねぇか」
「お前には関係ない、ひっこんでろ、蓮見!」
 女の声に、はっきりとした怒りが滲む。
 蓮見はその腕をいっそう強く握り締めた。
「そんなもんで、あんたの悪夢は終るのか、あんたは何を悔いてたんだ、何をあんなにうなされてたんだ、こいつを殺せなかったことか?そうじゃないだろう、あんたは、……あんたは、焔村を撃ったことを、今でも後悔してるんじゃないのか」
「………」
 女の表情がふいに静かになる。眉をきつく寄せたまま、唇が動かなくなる。
「この男を殺してしまえば、その重みを、またあんた一人が背負うんだ、あんた一人が――また、それで苦しむんだ、それでいいのかよ、ええ、それで本当に、お前も遥泉も救われるのかよ!」
 激情のままに、肩を激しく揺さぶった。
「蓮見さん!室長は大怪我をしてるんですよ」
 悲鳴のような遥泉の声が、それを止める。
 右京は無抵抗のままだった。
 目がどこか空を見ている。
 その表情に、蓮見は思わず胸を衝かれた。今にも――それは、壊れそうなくらい儚く見えた。
「……室長、蓮見さんの言うとおりです。この男を断罪するのはあなたの仕事じゃない、ましてや」
 遥泉は、静かな所作で、高見沢の襟を掴んで引き上げた。
 頭上すれすれで発砲された恐怖からか、元警察官僚はものも言わず、開きっぱなしの口から、血を流すままになっている。
「私でもない。――そんなことまでして守られる名誉など、きっと焔村も望んではいないでしょう」
 柔らかな口調――けれど次の瞬間、蓮見でも息を引くほど、ひねりの効いた凄まじいパンチが、高見沢の頬を直撃していた。
 たまらず床に倒れ付した男を見て、遥泉は、初めて晴れ晴れとした顔になった。
「外の連中を呼びましょう、我々の仕事は終った。室長、あなたにも、早急な治療が必要です」
「そうだな……」
 右京は、壁に肩を預けている。
 その顔色が蒼白になりかけているのに――ようやく蓮見も気がついた。
「おい、……あんた、どうしたんだよ」
 かがみこんで、顔を見ようとした途端、遥泉の身体が割り込んできた。
「蓮見さん、室長は覚せい剤を打たれている。すぐに救急車を呼んでください」
「お、おう」
 では――さっきの頼りなげな表情は、薬のせいで意識が朦朧としていたせいなのかと――そう思いながら携帯電話に手を伸ばしかけた時。
「連絡なら……今、ひなのが」
 ようやく気力を取り戻したのか、そう言って国府田ひなのが、ふらふらしながら入ってきた。
「遥泉……まずい」
 右京の声がした。
 遥泉に抱き支えられながら、女はうつろな目で空を見ている。
「どうしました」
 ふぅっと上向いた女の目が、立っている蓮見に向けられる。それが何か言いた気に見えた。
「な、……なんだよ」
 蓮見は少し戸惑って、右京を見下ろす。
 けれど右京は、そのまま力なく目を閉じて、そして呟いた。
「なんだか、……蓮見が、男前に見える……」
「幻覚症状かもしれませんね」
 遥泉は眉を寄せ、真面目な口調でそう言った。


                十二
 


「だからぁー、ひなの、本当に大変だったんですよぉー」
 オデッセイのラウンジ。
 穏やかな午後だった。
 休憩時間なのか、国府田ひなのが、戻ってきたばかりのパイロットたちと輪になって、楽しげな雑談に興じている。
 話題は、一週間前に起きたばかりの、例の事件のことらしかった。
―――こりねぇ女だよ。
 窓際で煙草を吸っていた蓮見は、苦笑して目を逸らした。
 あれから一週間。
 警察病院に入院したままの右京は、かろうじて腕の切断だけは免れた。けれど。
 居合わせた蓮見に、担当医は険しい顔でこう言った。
(―――残念ですが、元通りになるということは、ないでしょうね。)
「………」
 頬骨を陥没骨折。
 犬歯が折れて、目の下を二針も縫ったという。
―――すげぇ女だよ。
 蓮見は、内心舌を巻いていた。
 完敗だと思っていた、何を勝負していたわけではないが、あれだけの怪我を負い、それでも一歩もひるまずに絶望的な場面を切り開こうとしていた。
 並の女に出来ることではない。
 いや、男の自分にも出来るかどうか自信がない。
(―――奏はいつも闘っている、誰でもない、自分自身と。)
 右京総理大臣の言葉が、ふと、脳裏に蘇った。
「闘っている……か」
 あの土壇場で、ヘリの使用を即決で許可してくれた男は、この事件の顛末をどう思ったのだろうか……。
「でね、ひなのにとってはぁ〜、二十五以上の人っておじさんなんです。でも普通そうですよね」
 甘ったるい声がラウンジに響き渡っている。
「蓮見さん」
 ぽん、と背中を叩かれたのはその時だった。
「……遥泉じゃねぇか」
 蓮見は、驚きの声を上げた。
 遥泉雅之。
 この男もまた、無傷ではなかったのだ。
 平然としているようで、その実胸骨を骨折していた。おそらく、最初の襲撃時にやられたのだろう。
 だからこの男も、右京と同じ病院にずっと入院していたはずだった。
「お前……もういいのか、まだ休んでりゃいいものを」
「室長が入院していると言うのに、私がいつまでもぐすぐずしてはいられないでしょう」
 男はすっきりとした顔でそう言った。
 入院生活のせいだろうか。多少痩せたようにも見える。
 なのに、その目には、不思議な生気が宿っている。気のせいだろうか、能面のような顔に、前にはなかった様々な感情が透けて見えるような気がするのは。
「高見沢、自殺だってな」
 蓮見は視線を、窓の外の雲塊に向けながら呟いた。
「らしいですね。……まぁ、そんなことになるだろうとは思ってましたが」
 独房で首をつっていたのを発見されたのが、三日前のことだったらしい。
「焔村長七郎は、自らの娘ですら、切り捨てた男です。……高見沢を許すはずがない」
「………」
 蓮見は黙って目をすがめた。
 誰に説明されたわけでもない。未だに、全ては想像の域を出ない。
 つまり、こういうことなのだろう、と思っていた。
 焔村警部は、いつしか高見沢に取り込まれ、彼と共に、麻薬の密売に手を染めるようになっていたのだろう。
 それが薬物依存症のせいなのか、真実高見沢を愛するようになったためなのか――本当の理由は判らない。 
 そして、上は――それが、当時の警視総監、焔村長七郎なのか、他の誰かなのかは定かではないが、警察庁最大の醜聞を最小限に押さえるため、現場で、焔村警部と高見沢の射殺を命じていたのだろう。
「……あなたに、ひとつ言っておきたくて」
 しばらく黙ったままだった遥泉は、やがて低く呟いた。
「命令を受けたのは、私だけで、あの人ではなかったのです」
「………」
「私は撃てなかった、哀願する彼女を手にかけることができなかった。けれど、次の刹那、引き金を弾いたのは――彼女の方でした」
「……彼女?」
 蓮見の問いに、遥泉は無言で空を見上げた。
「それは、私の肩を貫き、背後にいた新人刑事の胸を貫いた。室長が発砲したのは、その後です」
「………」
 遥泉が何を言いたいか、ようやく蓮見は理解した。
「蓮見さん、彼女は高見沢を愛していたのだと思います。……あの時の彼女は、ただ、男を逃がしたいばかりだった。私にはそう見えた」
 情けない男だと思うでしょうが。
 遥泉はそう言って苦笑した。
「それだけが、私の救いでした……この、五年間の」
「思わねぇ、よ」
 蓮見はぶっきらぼうに呟いた。
 隣に立つ男は、もう何も言わなかった。
 背後のテーブルから、賑やかな笑い声が響いている。
「室長の身体には、覚せい剤は効かないそうです」
「え……?」
 遥泉は楽しげに呟いた。
「特殊な体質だろうと、医師も首をひねってました。じゃあ、あれは彼女の本音だったんでしょうか、蓮見さん」
「………?なんの話しだよ」
「いいえ、でも、僕はそれなりに、あなたに嫉妬してるんです。僕自身も初めて気付いたことですが」
「は………?」
 蓮見がいぶかしげに眉を寄せた時。
「でもぉー、今回の事件で、私真面目にしびれちゃったんです、おじさんだからって、対象外だと思ってたのが後悔ですよぉー、もうっ、めちゃめちゃかっこよかったんです、あの時のぉー」
 国府田の甲高い声が、二人の会話を遮って響く。
「あなたのことじゃないですか、蓮見さん」
 遥泉に、肩をポン、と叩かれる。
 それに被さるように、甘い声が響き渡った。
「あの時の、遥泉さんっ」
―――え?
―――は?
 蓮見と遥泉が、同時に動きを止めたのと、国府田の目が、こっちに向けられたのが同時だった。
「あっ、やだぁー、ひなのったら、こんな所でコクっちゃったぁー」
 両手を頬に添え、嬉しそうに首を振っている。
「……オイ、なんだか知らねぇが、お前のことらしいぞ、遥泉」
 蓮見は眩暈を感じながら言った。
 遥泉は完全に凍り付いている。
「だって、遥泉さんってば、縛られてる間、ずぅーっとひなのの手を握っててくれたんですよぉ。もぉっ、ひなの、遥泉さんにメロメロですぅ」
「す、隅に置けないな、お前も……」
 ようやく顎を震わせはじめた生真面目な男に、蓮見は慰めるような声をかけた。
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