一
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真宮嵐は、横たわる人の傍らに膝をつき、額に落ちた髪をそっと指で払ってやった。
―――楓……。
透き通る肌に、色素の薄い髪が零れている。
「楓……、」
オデッセイの最上部にある医務室。
狭いながらも、最新鋭の施設が備え付けられている。
在駐勤務医一人と、地上から交代で来る看護士が三名。
深夜三時。勤務医は仮眠中で、室内には嵐一人が――眠り続ける男と取り残されていた。
昏睡のまま、意識を取り戻さない男――真宮、楓。
知らせを聞いた時は信じられなかった。
顔を見ても、まだ信じられなかった。
痩せた頬に睫の影が落ちている。険しく寄せられた眉。固く引き結ばれた唇。
まるで別人のように見えた。
別れてから――いや、死んだと聞かされてから、五年。
大学のテレビで、国際指名手配されたというニュースを見てから――もう数ヶ月が過ぎている。
指名写真の楓は美しかった。激しい衝撃と動揺で――同席していた滝沢豹に支えられながら――嵐はそれでもそう思った。君はいつだってきれいなんだな、楓。あれは――いつ撮られた写真だったのだろう。
そう、いつでも楓は美しかった。怒っている時でも不機嫌な時でも。寝ている時でも、無表情な時でも。
なのに。
今の楓は、――苦悶に満ちた顔で、ただ、死んだ人のように眠っている。
こんな寝顔を見たのは、初めてだ。
―――いや……そうじゃないか。
嵐はため息をついて立ち上がり、空調パネルの前に立つと、室内の温度を少しだけ上げてやった。
楓は寒いのが苦手だった。沖縄で育ったこの男にとって、冬の寒さというのは想像の範疇外の感覚だったらしい。
(――夏は脱げばいいだろう)
それが楓の口癖だった。
(だったら、冬は着ればいいじゃないか)
嵐がそう反論すると、
(着たって駄目だ、身体の芯から寒いものは変わらない。灰色の空といい、辛気臭い人の顔といい、冬は嫌いだ、うんざりする)
冷たい声で、妥協の余地のない答えが返ってくる。
一緒に暮らし始めて、すぐに冬がやってきた。
あの頃の楓は、よく寝ながらうなされていた。どんな悪夢に蝕まれていたのか、今のような、苦しげな表情で眠っていた。
楓は、借金苦で離散した家族の、ただ一人取り残された孤児だった。それを、どういう事情からか真宮の父が引き取った。
(―――以前、同じ会社で働いていたことがある、楓の両親に、私はとてもお世話になっていたんだよ)
(―――前も説明したね、嵐。楓はお前と同じベクターだ。今の日本で、ベクターの孤児を引き取るような里親はいない)
―――父さん……。
嵐は目を閉じた。
警察の地下で見た、動かない両親の亡骸。いなくなった楓。何が起きたのか、理解しろと言われる方が無理だった。
(―――楓はきっと、お前のいい友だちになる。お前たちの名前には、風という字が含まれているだろう?山と木が、それぞれ風に立ち向かっている。嵐、これからの世の中は、間違いなくベクターにとって住みにくいものになる。でもその逆風に、君と楓の二人なら立ち向かっていける、父さんはそう信じている。)
そして父は、最後にこう締めくくった。小学校二年の時に聞かされたその言葉を、嵐は今でも、一言一句忘れることなく記憶している。
(そして、お前たち自身が、――彼らを導く風になる。きっとそんな日が、いつか来る……)
―――父さん……。
嵐は、苦悩に眉をきつく寄せ、目を閉じた。
そんな日が来るのだろうか。いや、もう永遠に訪れはしない。
逆風――それは確かに来た。その名のとおり、嵐のような激しさで。
楓は、最早、日本では誰も顔を知らない者がいないほど有名人だ。
人殺し、裏切り者、非国民、反日分子。
悪魔の子。
悪魔のベクター。
呪詛と悪意に満ちた雑言が、連日のようにマスメディアで流され続けている。
(――嵐、俺がお前を守ってやる)
中学の終り、二人がベクターだという噂が流れ始めた時、最初に音を上げて、部屋に閉じこもりがちになってしまったのは、嵐の方だった。
それを、楓が、強引に引きずり出した。
(――俺がお前を守ってやる、俺たちは魂の双子だ、嵐、何があっても、俺がお前の味方だってことを忘れるな)
楓は強かった。
不思議なくらい頼りなくて、脆いところはあったけれど、―――その反面、誰よりも強く、そして気高い精神を持っていた。
あの日、そうやって自分を立ち上がらせてくれた少年が、今――こんなにぼろぼろになって、目の前に横たわっている。
「……くそっ」
二日前――楓が運ばれて来た時の状況を思い出し、嵐は、思わず拳を震わせていた。
領空侵犯機として、オデッセイに緊急収容されたのは、漢−F1と呼ばれる、中国が独自に開発した支援型戦闘機だった。
銃を携帯したパイロットたちが、その機を取り囲んだ時、すでに機上の人は意識を喪失していたらしい。
嵐がそれを知らされたのは、機体から運び下された楓が、オデッセイの医務室に収容された後だった。
右京室長に呼ばれ、嵐が医務室に足を踏み入れた時、―――五年ぶりに再会した義兄は上半身裸の状態で、中央のベッドに仰臥していた。
痩せた――。
まず、第一にそう思った。
鎖骨が不自然なほどに浮き出して、胸から肋骨が透けて見える。
伸びた髪が、肩にわずかに掛かっている。
固く閉ざされた目も、唇も、ぴくりとも反応しない。
蒼すぎる顔色に、一瞬死んでいるのかとも思った。けれど、身体から伸びたチューブの先にある機械が、患者の心音が正常であることを告げている。
周辺で、看護婦たちが慌しく行き来している。
ベッドの傍らには、室長の右京奏と、そして遥泉雅之の姿があった。
「血中から、プラス反応が出ました、ある種の覚せい剤が投与されていた可能性がありますね」
その二人に、常駐の医師が、打ち出された紙面を見せながら説明している。
「それは――……という種類の麻薬じゃないか」
「調べてみましょう」
「投与の量と摂取時期も特定しろ、早急にだ」
―――覚……せい剤…?
耳に入ってきた言葉が信じられず、嵐は、強張った視線を楓の身体に向けた。
まず目に入ったのは、むき出しになった二の腕に染み込んだ皮下注射の跡だった。
青黒い染みが、白い肌にいくつもの残痕となって残っている。
そして。
首にも、胸にも、赤黒い染みが転々と残されている。
「……これは、……最近のもののようだな」
隣りに立つ右京の指が、その沁みを差している。
「そうですね、皮下出血の跡です。……まぁ、なんといいますか、微妙な所ですが、女性であれば、性的虐待の跡だと思っても構わないでしょう」
「他に虐待の痕跡はないのか」
「それは――」
「いい加減にしてくれっ!!」
嵐は、自分の顔が燃えるのが判った。
一緒に暮らしていた頃、楓の身に起きた様々なことから―――嵐は、よく知っていた。
この、美しい男が、いかに同性から好奇の視線で見られていたかということを。
「――楓は、どこにいたんですか」
嵐は、隣に立つ女に詰め寄った。自分を見失ってしまいそうだった。
「誰が、こんなことをした、誰が――楓を」
こんなに――無惨な姿に。
あの、誰よりも美しかった男を。
誰よりも気高かった男を。
「答えろ、誰が……、どうして!!」
「真宮君、」
伸ばしかけた腕は、遥泉副長に捕らえられる。
嵐ははっとした、――そうだ、右京奏はほんの先刻、シャトルで戻って来たばかりだった。その右腕は固く固定され、目の下には、薄い傷跡が残っている。
平素短いはずの髪が、襟足を覆い隠すほどに伸びている。
「すいま、せ……」
「嵐、ではこの男は、行方不明のお前の兄に間違いないんだな」
けれど、女指揮官の声は冷静なままだった。
腹の底まで見抜くような目で、右京はじっと――嵐を真正面から見詰めている。
「……間違いないっていうか」
「はっきり言え、間違いないのか、それとも自信が持てないのか」
切り口上の冷たい声。
嵐はその瞬間、ようやく悟った。
―――ああ、そうか……この人は、
もう一度楓を見て、そして遥泉の顔を見た。
「……もうちょっと……とにかく、目を覚まして、声を聞かないと……」
うつむいて言いよどむ。
「……ずっと、会ってなかったし、……似てるといえば、似てますけど……」
「そうか」
右京は短く言うと、再び、ベッドに横たわる者に向き直った。
「では、治療を続けてくれ、体力が戻り次第、私が直に尋問を行う、下に知らせるのはその後でいいだろう」
「室長、」
それまで無言だった遥泉副室長が、その時初めて口を挟んだ。
「隠し通すのは……不可能です。すでに、本庁から問い合わせが来ています」
「隠す?何をだ」
女室長は眉ひとつ動かさなかった。
「オデッセイが確保した領空侵犯機の処置は、私に一任されている。彼は、国籍不明機のパイロットだ。内規通り、その身元を確認した上、本庁へ引き渡す。それだけのことだ」
その時の右京の言葉を、嵐は、引き裂かれるような胸の痛みと共に思い出していた。
―――室長は、きっと、僕のために……。
時間を作ってくれたのだろう。
楓が――国際指名手配されている真宮楓と認定されれば、身柄は即日米国防総省に引き渡される。そうなれば、兄弟が再会することはできなくなるだろう。おそらく――二度と。
嵐は、苦い思いで、あの日から二日間――目覚めることなく昏々と眠り続ける男を見下ろした。
―――楓……、君は、目覚めてしまえば。
「……どうしてなんだ……」
力なく垂れている手を掴み、その指を自分の頬に持っていった。
真宮家を襲ったのは、「救世の国心理教」というカルト集団だった。テレビや講演会で、ことさらにベクター擁護を謳っていた真宮慎一郎が許せなかった。それが彼らの動機だと、後になってから聞かされた。
ベクターである子供は、DNAを残さぬよう、絞殺の上、海中に投げ捨てた。
そんな供述があったとも聞かされた。
でも、嵐には信じられなかった。
おぼろげな記憶がある。
意識を失っていた刹那、確かに聞こえた声がある。
警察にも世間にも失望したまま、自分一人の胸に隠し続けていたキーワードがある。
「どうしてなんだ、楓、楓―――」
激しい憤りで涙がこぼれそうだった。
楓は、中国共和党の科学者になっていた。
それが何を意味するのか、嵐には漠然と予想できる。なのに――それでも楓は、彼らに協力し続けていたというのだろうか。
それとも、薬で強制的に。
「くそ、くそっ、くそっ、くそぅっ」
いずれにしても、その検証をするのは嵐の仕事ではない。
断罪するのも、嵐の仕事ではない。
「何故なんだ、何故、君が、………どうしてこんなことに―――」
(嵐、いつまで黙ってるつもりだよ)
(楓のバカ、どうせ、もてもてのお前には、僕の気持なんてわかんねーよ)
(待てってば、バカ、判ってないのはお前の方だ)
二人で過ごした日々が、懐かしく、胸を衝くように蘇ってくる。
―――楓……。
あの日は二度と帰らない。
この国で、いやこの世界で、もう楓の未来はない。居場所もない。
この戦争が――いや、戦争を通じて浮き彫りになったベクターと在来種の間の緊張が、全て奇跡的に氷解し、平和的に解決する日が来るまでは―――でも。
そんな日は、もう来ない。
全てを和解という形で解決するには、あまりに沢山の血が流れすぎた。
半年に及ぶ台湾有事で、米中双方の死傷者は民間人を含め、五千人をくだらない。
報復には報復を。
尽きることの無い負の連鎖が、あらたな悲劇を生み、それが果てしなく繰り返されている。
そして、その首謀者として、ベクターである中国共和党の科学者集団が槍玉に挙げられているのだ。
―――いっそのこと、
冷たい指を握り締めながら、嵐の心に冷たいものがこみあげてきた。
―――僕が、楓を連れて、
楓を連れて――この世界を。
「嵐、ここにいたのか」
背後から声がして、嵐は弾かれたように顔を上げた。
「驚いた、……お前でも、そんな恐い顔ができるんだな」
立っていたのは、要撃戦闘チーム<みかづき>のリーダー、獅堂 藍だった。